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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
いちねんめ
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閑話その28〜寵姫は月を掴み取る〜


さて、皆様。最初に申し上げておきます。

これ、あくまでも『友情』ですからね!


 ――時間は、『星見の宴』開始直前まで、遡る。


 王が、側室たちを労うため、開かれる宴。

 そのある種特異な場で、何も起こらないと楽観視できるほど、残念ながらシェイラのこれまでは平穏ではなかった。今のところ、『紅薔薇派』からも『牡丹派』からも嫌がらせらしい嫌がらせは受けず、実に順調に宴の準備を進めることができたが、それは『紅薔薇様』の睨みがあってのこと。側室全員と王が集まる、現後宮始まって初めての機会に何か企む輩がいるだろうことは、シェイラとて予想できる。


「シェイラ、お願い。私を信じて。――宴で出される食事には、絶対に、何があっても、手をつけないで」


 ……だからといって、命まで狙われる事態になっているとは、さすがに予測できなかった。


 末端の側室として、リディルとナーシャと共に早い段階で中庭を訪れ、二人と談笑していたシェイラは、次々と姿を見せる側室たちの中に、見知った顔を見つけた。自分とそれほど付き合いのある人ではないが、リディルとは仲が良かったはず。

 年始からの『紅薔薇過激派』とのあれこれで、シェイラの立場は現在、非常に微妙なものになっている。多くの『紅薔薇派』の内心は、「イジメ良くない、けど正妃に相応しいのは紅薔薇様だっていうソフィア様の主張そのものは分かる」というもので。同情はすれども、紅薔薇様(ディアナ)の障害となりかねないシェイラに対し、距離を置く者がほとんどだった。そんな中、周囲の空気を敢えて読まず、いつも一緒にいてくれるのが、リディルとナーシャの二人なのだ。

 二人の気持ちは、とても嬉しい。どこまでも甘えてしまいたくなるときもある。

 けれど、後宮という閉ざされた女ばかりの空間で、人付き合いを疎かにしては、最低限の情報すら回って来なくなるかもしれない。それは巡り巡って、大切な友人たちの不利になる。


「リディル様、ナーシャ様。少し髪飾りがずれてしまったようなので、直して参りますわ」


 だからシェイラは、わざと二人の側を離れた。社交的なリディルや、人情家のナーシャを慕う側室は少なくない。シェイラさえ側にいなければ、彼女たちの方から、話し掛けてくれると考えて。

 人気のない、物陰に隠れ。そっと息を吐いた、そのとき。


 ――誰よりも信頼する、逢いたくてたまらなかったひとの声を、聞いた。


 雪の中佇んでいたシェイラを案じ、ディーが来てくれたあの日から、二人は会っていない。とある『確信』を抱いたシェイラは敢えて、ディーに逢いたいと願う気持ちを押し殺してきた。

 次に、逢うのは。『顔』を合わせるのは。

『星見の宴』にすると、そう決めて。


 逢いたいと、『星見の宴』で逢おうと、決めてはいた。が、それは、こんな切羽詰まった、殺伐とした忠告を受けるためではなかったはずだ。

 時間がないのだろう。言葉を投げるだけ投げて、シェイラの返事を待つ余裕もなく、衣擦れの音が遠ざかっていく。追いかけたい衝動を、シェイラはぐっと堪えた。


(だめ。そんなに長くは、中座できないんだから)


 それにしても。『宴で出される食事には、何があっても手を出すな』とは。


(食べたら危ない、ってことよね……毒、かしら)


 そうでなければ、この慌ただしいときに、ディー自らが忠告に動くことはないだろう。直接的に命が脅かされているからこそ、ディーの声にはあれほどの緊迫感があったのだ。

 食わず飲まずは、シェイラにとって別に苦行ではない。ディーが食べるなと言うなら食べない、それだけだ。


(『私を信じて』なんて、わざわざ言わなくても。ディーの言葉を私が信じないなんてこと、あるわけがないのに)


 悲壮感すら漂わせていた親友の言葉に、シェイラはこんな場合だというのに、笑みが抑えきれなかった。

 ――聡明な、彼女のことだ。シェイラが『感づいた』ことを、おそらく彼女も感じ取っている。『正体』が知られたら信じてもらえなくなると、一抹の不安があったのかもしれないけれど。


(……あなたは、本当に。自分のことを分かっていないわ)


 どんな『姿』をしていようと。どんな『声』であったとしても。

 その心は、誤魔化せない。


 優しく、誇り高く。どんなときも、凛と前を向いて。

 他者をどこまでも愛せるのに、自分のことにはどこか臆病な、脆さを内在しているひと。


 最初に逢ったときからずっと、ディーは変わらない。

 シェイラの大好きな、心から大切に想う、親友。


(あなたが『誰』であったとしても。そんなことくらいじゃ、この気持ちは揺るがないのよ)


 命を狙われているというのに、何故か晴れ晴れとした気持ちで、シェイラは宴の席へと戻った。


「シェイラ様、遅かったですね」

「大丈夫ですか?」

「ご心配をお掛けしました。大丈夫です」


 心配そうなリディルとナーシャに、微笑みを返して。

 三人仲良く席に着き、上座の方々の到着を待つ。

 既に菫様――キール伯爵令嬢、レティシアの姿は見えた。それほど待つこともなく、鈴蘭様と睡蓮様――ヨランダ・ユーストルとライア・ストレシアが連れ立って現れる。その二人から少し間を開けて、牡丹様――リリアーヌ・ランドローズが優雅に姿を見せた。


(ああして見ると、悪いお方には見えないのだけれど)


 背も低く、顔立ちも愛らしいリリアーヌは、どちらかといえば庇護欲をそそられる、儚げな風情のご令嬢だ。そんな彼女が王宮で男と逢い引きしていたなんて、普通の人は信じないだろう。

 そんなどうでもよいことを徒然考えていた、シェイラの耳に。


「紅薔薇様、お越しでございます」


 女官長、マグノム夫人の、静かなのに群衆を負かす、不思議な口上が届いた。

 皆が静まる中、口元に笑みを浮かべた紅薔薇様――ディアナ・クレスターが、女王の如き品格を纏って、上座に腰を下ろすのが分かった。両隣から、ほぅ……と感嘆のため息が聞こえる。


「相変わらず、お美しい……」

「まるで、(くれない)に星の煌めきをまぶしたような、幻想的なお召し物ですわ」


 ディアナの衣装は、この場の誰よりも目立ち、かつ『星見の宴』の趣旨にもそぐい、更に本人にもよく似合う、素晴らしいものだった。いつもの赤に銀が合わさることで、衣装全体がきらきら光り……纏う本人の『悪人面』が強調されている件に関しては、良いか悪いか判断の分かれるところではあるが。

 少なくとも美しいことは疑いようがなかったので、シェイラもしみじみ頷いた。


「本当に。神々しいほどのお美しさです」

「あの布、どこの発案かしら。紅薔薇様が贔屓にしていらっしゃる商会について、機会があればお話ししてみたいわ」

「ナーシャ様のところのものではないの?」

「あんな技術は当家にはなかったと……我が家はあくまでも、良質なものを量産することに主眼を置いているから」


 基本的に、リディルもナーシャも『紅薔薇様』に好意的だ。シェイラを思うあまり、時折『紅薔薇様』を悪く言ってしまうレイとマリカとは、どこか違う。だからこそ、シェイラも二人の前では心おきなくディアナ様賛美に走ることができた。


「布もそうですが、あれほどのものを着こなせるのは、やはり紅薔薇様だからこそですわ」

「それは、確かにね」

「あのお衣装は、紅薔薇様でなければ着こなせません」


 そこに再びマグノム夫人の声で、王の訪れが告げられる。側室が一斉に起立し、頭を垂れ、王の声を待った。

 しばしの間の後、彼の声で、着席が促される。――顔を上げた先に、ずいぶん久しぶりに見る、ジュークの姿があった。


「常日頃からの、そなたたちの献身に、私は深く感謝している。今宵は短い時間だが、皆が楽しめるよう、宴の席を用意した。――身分の上下に囚われず、側室同士も親しく語らってもらいたい」


 よく通る、彼の声。『王』として必死に立とうとする彼は、シェイラのいるこの場からは、やはり遠く。


(……けれど、陛下。私は、決めたのですよ)


 次に彼と、話すとき。自分の気持ちを全て、正直に伝えると。

 受け入れてくれるかは、もう分からないけれど。ジュークのことも、『ディー』のことも、シェイラは決めた。


 ――迷いのなくなった今の彼女が、恐れるものはもう、何もない。



  ***************



 運ばれてきた膳に、シェイラは忠告通り、一切手を触れなかった。幸いこの宴は無礼講、食事をするのも席を離れるのも自由だ。シェイラを心配する友人二人は気を張っていたが、ずっとそれでは宴を楽しめない。大丈夫だから楽にして欲しいと何度も頼んで、宴も終盤に近付いた頃、ようやく二人はそれぞれ、親交のある側室たちのところへ挨拶に出向いた。リディルには誘われたが、シェイラは断る。


(間違って、誰かがこの膳を食べることがないように見とかなきゃ)


 王の心尽くしとされるこの宴、出される食事も当然、その一部だ。ひっくり返すなりして食べられないようにすれば話は早いが、それをすれば当然、非難の的になる。後宮内でイジメられることくらい、ここまで来てしまえばどうということもないけれど、大切な人の負担になる行為はできるなら避けたい。


(……そういえば、毒を入れたのって誰なのかしら?)


『牡丹派』か、『紅薔薇派』か。

 シェイラが生きているのを邪魔に思う人間は、それこそ山ほどいるだろうけれど。

 ……もしも、願いが叶うなら。


(『彼女』が苦しむ人が、犯人でないと良い)


 ――薄々、叶わない願いだと、分かっていたけれど。


「ごきげんよう。シェイラ様」


 前に立った、複数の人の影が、シェイラに落ちる。

 残酷な現実を前に、暗くなる思考を振り払い、シェイラはぐっと顔を上げた。


「――ご機嫌麗しゅう。ソフィア様、皆様」


 そう。シェイラの前に、立ったのは。

『紅薔薇派』の中でもディアナに近いとされている、ソフィア・タンドール伯爵令嬢と、その友人たちだった。

 何故膳を食べないのかと、ちくちく責めてくる彼女たちを見ながら、シェイラの心に哀しみと――それ以上の怒りが、こみ上げてくる。


(……どうして)


 何故、このようなことができる。


 ディアナに守られた、『紅薔薇派』の彼女たちが。

 後宮の平穏を、この国の平和を望む、ディアナの心を。

 何故、理解することができないのだ。

 たとえ、もし本当に、ディアナが正妃を望んでいるとしても。

 こんなやり方でのし上がることを、彼女は決して選ばない。


 ――誰よりも、命を尊ぶ、あの優しいひとは。誰かの『死』を踏み台になど、絶対にしない!


 押しつけられていたスープカップを前に、シェイラは気付けば、首を横に振っていた。


「お気遣い、ありがとうございます。……ですが、ソフィア様。私には、皆様よりも、信じるひとがいるのです」

「な……?」

「ソフィア様。ソフィア様には、いらっしゃいますか? 姿は知らず、声だけで、けれど無条件に信じられる。信じて、その結果どうなろうとも、後悔なんてしない。――そうまで思えるほど、大切なひとが」


 そうだ。いつだってあの声が、言葉が、――心が。シェイラの道標(みちしるべ)だった。

 自らの望みに、気がついて。目指す場所の果てしなさに目眩がした、あのときでさえ。

 そこに凛と立つ彼女が、シェイラの心を照らしてくれた。


 彼女を、信じている。何があろうとも、その約束を違えたりはしない。

 信じて、強くあることが。きっと、彼女を助け、守ることにも、繋がっている。


 そうだ。――守りたいのだ、シェイラは。


「ソフィア様。今ならまだ、間に合います。こうして話していても、ただの雑談で終わらせることができます。どうか、あなたが命を賭ける方を――ディアナ様を悲しませるようなことは、おやめください」


 シェイラを死なせないための、『食事に手をつけるな』というディーの忠告の裏側を、受けた本人は正しく読み取っていた。

 王が開いた、この宴で。『毒殺騒ぎ』など、あってはならない。

 そんなことも理解できない、目の前の令嬢たちに、滅多にない苛立ちすら湧いてくる。


「――っ、ディアナ様を悲しませているのは、あなたの方でしょう!」

「仮にそうであったとしても、こんなことをディアナ様が望んでいないことくらい、あのひとを見ていれば分かります!!」


 もう、怯まない。迷わない。躊躇わない。

 信じると決めた。守ると、決めた。

 限りなく弱い力でも、己の持てる全てを尽くして。

 大切なひとを、大好きなひとを、守り抜くと決意した――。


 大きく顔を歪めた、ソフィアの腕が伸びてくる。……力づくでも、飲ませるつもりか。

 そうはさせないと、ぐっと喉に力を込めた――そのとき、だった。


「――ソフィア様。それは何の遊びです?」


 背筋が凍るような、声が聞こえたのは。

 いつの間に、そこにいたのだろう。慌てて上座に目をやっても、当たり前だがそこに、彼女の姿はない。

 赤銀のドレスを纏った、この場の誰よりも美しい、側室筆頭『紅薔薇』は。

 今、この瞬間。シェイラたちのすぐ側に、いるのだから。


 静かに、遠回しに、ソフィアたちの行動を責め、留まらせようとするディアナ。届けと、必死に願っている気持ちが、海のような蒼の瞳から伝わってくる。

 ――なのに。


「紅薔薇様! こちらの、シェイラ様は、畏れ多くも陛下から頂いた膳に、手をつけようとしないのです! それは不敬に当たると、私たちはお伝えしようとしただけで」


 よりにもよって、ちょうど舞台が終わった、心地よい静寂を狙ったかのように。

 ソフィアは、その言葉を、大声で言い放った。


(どう、しよう――)


 ソフィアは、シェイラだけを責めたつもりだろう。それを指摘すれば、『王』と仲睦まじいとされている『紅薔薇』が、シェイラを咎めないのは却って不自然だ。

 しかし、シェイラは。そして、『紅薔薇』は。

 シェイラの膳が『凶器』だと、知っている。


 数拍の、沈黙を経て。

 海の瞳に、強固な決意が閃く。


「あら……本当ね。シェイラ様、食欲がおありでないの?」


 張り上げてはいないのに、よく響く声。


「わたくしの敬愛する、国王陛下からのお食事を、理由はどうあれ食べられないなんて」


 数多の星が煌めく夜空を背景に笑う彼女は。


「とても、かなしいわ」


 ……哀しいほどに、美しかった。


 ゆっくりと、ディアナはシェイラに近付いてくる。周囲の誰もが動けない中、シェイラは久しぶりに間近で見る彼女を、どこか懐かしく眺めていた。ドレスも綺麗だけど、やっぱり顔もきれい……なんて、見当違いの賞賛すら抱いて。

 ……不意に、彼女の髪の間で揺れる、繊細な銀細工に目が止まる。


 弧を描いた三日月に、積もる雪。

 規則的なのに不規則な、雪の結晶。

 それらが合わさり、しゃらりしゃらりと揺れるさま――。


(あぁ……)


 シェイラが、決めていたように。

 彼女も、決めてくれていた。


 ――次に逢うときは、素顔で、と。


 ディーに贈った、『雪の月』の簪。

 それを挿して現れたのは、後宮の頂点に君臨する、そのひと。


 側室筆頭『紅薔薇』、ディアナ・クレスター伯爵令嬢。


(やはり……あなただったのね)


 正直なところ、正体が知りたくて、これまでのあれこれをかき集めて推理すれば、この結論にはもっと早く辿り着けただろうと思う。


 シェイラに顔を見られることを、極端に恐れていたディー。

 末端の側室の割には、紅薔薇様とシェイラとのあれこれに、妙に詳しかった。

 紅薔薇様が忙しそうなとき、彼女も同じく忙しそうで。

 降臨祭で紅薔薇様が王に同行し、礼拝に出かけていたときは、『会うことができない』と書き置きがあった。


 ここまで分かり易い要素が揃っていて、シェイラが気付かなかったのは、無意識のうちにディーの正体を探ることを、自分に禁じていたからだ。素顔を知られたくない彼女の素性を無理に暴けば、その時点で友情が途切れてしまうかもしれない。それだけは、何があっても嫌だったから。

 それなのに、シェイラは感づいてしまった。ソフィアたちに囲まれたところをジュークに見られ、彼が暴走しそうになった、あのとき。駆けつけてくれたディアナを見て。


『ディー?』


 何の疑問も、違和感もなく。当たり前に彼女に呼び掛けそうになった。


 声も違う。顔だって、ある意味見慣れた『紅薔薇様』だ。強いて言うならドレスが地味だが、彼女自身から発される迫力を前には些末なこと。

 どこから見ても、シェイラがイメージしていた『ディー』にはかすらないはずの彼女なのに。

 理屈ではなく、直感で。シェイラは分かってしまったのだ。――この人が、『ディー』だと。


 気付いてからは、正直、混乱の嵐だった。既にジュークへの恋心を自覚し、半ば覚悟を固めていたシェイラにとって、『もしかしたら陛下に恋をしているかもしれない紅薔薇』イコール『ディー』の図式は、悪夢にしかならない。勝手に板挟みになって、ディーに疎まれたらどうしようと恐怖していたが……雪の日に来てくれた彼女の言葉で、それも杞憂だと分かった。仮に『紅薔薇』が『ディー』だという直感がシェイラの勘違いでも、この際ディーがジュークを好きでないと断言してくれただけで、シェイラの心は軽くなる。


 そうして、思ったのだ。伝えたい、と。

 もし、嫌われてしまったとしても。きちんと、顔を見て。


 正体が分かっても、あなたを好きだと思う気持ちは、何も変わらない。

 叶うなら、これからも友だちでいたい。一番の親友でいて欲しい。


 そう言いたいと思ったからこそ、次に『ディー』と逢うのは宴のときだと、シェイラは己を戒めたのだ。


(……なのに)


 現実は、厳しい。


 シェイラの目の前で、シェイラの膳が空を飛ぶ。わざと身体のバランスを崩し、身体を傾げながら、ディアナがシェイラの膳をひっくり返したのだ。地面に落ちた食べものたちは、当然ながら元の様相を留めてはおらず、これを食べろと言う鬼畜はさすがにいないだろうと思われた。

 その状態を確認し、ほっとしたように笑ったディアナに、シェイラは溢れる心を抑えきれない。


(また、あなたは――)


 いちばん、辛い部分を、引き受けようとする。

 あなたを守ろうとして、結局また、守られた。


「申し訳ありません、シェイラ様。あなた様のお料理を、台無しにしてしまいましたわ」

「い、え。あの、ディアナ、さま――」

「ですけれど、構いませんわよね? もともと、食べるつもりのなかったお膳なのですから」


 高飛車な台詞すら、今となっては、全てを守るあなたの布石だと分かるのに。

 そんな風に辛そうに、笑わないで――!


『紅薔薇過激派』を促し、席に戻ろうとするディアナに掛ける言葉を、シェイラは持てない。

 対外的にはおそらく、『紅薔薇にいびられた』としか見られないシェイラがディアナに感謝するのは、とてつもなく不自然だ。

 彼女はいつもそうやって、感謝の言葉すら、言わせなくしてしまう。


(ディーの、ばか)


 俯いた、シェイラの瞳に。

 きらりと光る、銀が映る。

 無意識に屈み、拾ったそれは。細長い棒に、繊細な飾りがついた。


(雪の、月――)


 転んだ拍子に、ディアナの髪から抜けたのだろう。

 細長い、異国の簪は、挿しただけでは固定するのは難しい。あげたシェイラが言うのも変だが、これでどうやって髪を纏めるのか、さっぱり分からないのだ。

 使い勝手の悪い簪を、それでも挿してくれた親友の心を思うほどに、シェイラの胸は切なくなる。


「きゃあああぁ!!」


 ――尋常でない悲鳴が上がったのは、そのときだった。

 唖然となるシェイラの前で、事態はあっという間に、最悪へと転がっていく。

 

 池に浮かぶ、死んだ魚。

 シェイラの膳に毒が入っていたのではと騒ぎ出す、側室たち。

 その犯人まで、口の端に上りだした、ところで。


「……あら、あら」


 全身が震えるような、側室筆頭の声がする。

 彼女の顔を見た瞬間、何故かシェイラは、全てを悟った。


(ダメ――!)


 誰が、そこまで、望むのだ。

 命すら投げ出せと、誰が彼女に強いるのだ。


 自分を、大切にするという、あの約束は。

 一方通行では、ないはずだ。


(ディー!!)


 シェイラの膳に入っていた食事を、ディアナが食べ。王に促されて退出したその後のことを、シェイラはほとんど覚えていない。……ただ、ディアナが守ったものを壊さないよう、取り乱さないことしか、考えられなくて。

 気付けば、慣れた部屋の中。就寝の挨拶を侍女たちから受けていた。

 一人きりになった部屋で、眠ることなどできるはずもなく、うろうろと動き回る。全身が冷え切っていることに気がついて、手近にあった、借り物のショールを羽織った。


(ディー……お願い、生きていて。死なないで……!)


 まだ、伝えていない。言いたい言葉を何一つ、シェイラは伝えることができていない。

 渡したはずの簪ですら、シェイラの手元に戻ってきてしまった。

 このまま、二人の絆が途切れるような、そんなことになってしまったら――。


(いや。そんな未来は、認めない)


 できるはずだ。シェイラにも、できることはあるはず。

 考えろ。今、この状況で、シェイラができることは何なのか。

 何か、何か――!


「――失礼いたします。シェイラ・カレルド様」


 突如、扉の向こうから、静かな声が聞こえてきた。聞き覚えのない声に、シェイラは少し呼吸して、平静を装う。


「……誰かしら?」

「夜分に恐れ入ります。わたくし、タンドール伯爵令嬢様付きの侍女、ベルと申します」


 このタイミングで、先ほど派手にぶつかった相手の遣い。警戒するなという方が、無理な話だ。

 いつも柔和なシェイラの表情が、厳しいものになる。


「そう。何のご用?」

「僭越かつ、図々しいお願いであることは、百も承知でお頼み申し上げます。どうか、主を訪ね、話を聞いてはもらえませんか」

「……本当に、図々しいお願いね」

「申し訳ございません」


 扉の向こうで、ベルの声が苦しそうなものになる。


「シェイラ様にこのようなこと、お願いできる道理ではないと、わたくしどもも分かってはいるのです。……本日の宴で、ソフィア様に迫られてもお食事を召し上がらなかったというシェイラ様なら、お気付きのことと思いますが」

「それ以上、ここで話をすることは許しません」


 いくら真夜中とはいえ、誰が聞いているかも分からない場所で、この侍女は何を言おうとしているのか。

 遮ったシェイラに、むしろほっとしたように、ベルは息を吐く。


「……ソフィア様は、お持ちなのです。『全てをなかったことにする』お薬を」


 シェイラの目が、開かれた。解毒薬を、ソフィアは持っているのか。

 思わず、シェイラは扉を叩く。


「ならば、何故! それを紅薔薇様に、お届けしないのです!」

「申し訳ございません! 我々も、そうすべきだと再三申し上げたのですが。『紅薔薇様の信用を失ってしまった。こんな私の言葉など、誰も信じてはくれない』と泣き崩れられて、とても言葉が届く状態ではないのです。……シェイラ様からお口添えして頂ければあるいはと、我ら、藁にも縋る思いで」


 焦っているらしく支離滅裂な言葉ではあったが、ベルの言いたいことは理解できた。当初の目的であったシェイラから、「あなたを信じる」と言われれば、錯乱しているソフィアも正気に戻るかもしれないと、一縷の望みを託しているのだろう。

 シェイラは、少し考えた。ベルのことをシェイラは知らないが、言葉を聞く限り、本当に主のことを考えているようだ。

 そして、何より。解毒薬があるならば、早くディアナに届ける必要がある。錯乱するソフィアを宥めるのに、確かにシェイラは役に立つかもしれない。いるはずがない、来るはずのない人間を間近で見れば、人間一周回って冷静になるものだ。

 ここで、ソフィアと敵対以外の関係性を見いだすことができるなら。ディアナにとっても、有利に働くはず。

 諸々を考え、シェイラは頷いた。


 ――いつものシェイラなら、このような結論に至ることはなかっただろう。彼女は侍女が絶対的に信頼できる存在でないことを実地で理解していたし、毒を呷った人間を前に解毒薬なんて都合の良い存在がぽっと出て来たら、『罠だ』と考える程度には頭も良い。そもそもソフィアが解毒薬を持っていたなら、錯乱しながらも『紅薔薇の間』に直行したはずである。ソフィアとはその行動理念が相容れなかったが、『紅薔薇賛美』という一点において、奇妙な共感を抱いていた。紅薔薇様のためなら死んでも構わない彼女が、紅薔薇様の命の危機に自らの信用云々を考えて、紅薔薇様を救う機会をドブに捨てるわけがない。

 けれど、今のシェイラは冷静ではなかった。どれだけ自分に冷静であれと言い聞かせても、自分を守るため、大切なひとが敢えて毒を飲んだ現実を前に、冷静でいられる方がおかしい。通常ならばすぐに思い至るようなことも、もっともらしい言葉と態度で煙に巻かれれば、そういうものかと思ってしまう。

 ディアナを助けたい。シェイラの中にあったその強い気持ちを、『敵』は利用したのだ。


 ドレスの袂に『雪の月』の簪をしまい、シェイラはベルに案内される形で後宮を歩いた。人目に付かないようにと遠回りする、ベルの後ろ姿を追いかけながら、段々とシェイラの中に、疑念が膨らんでいく。


(ソフィア様の部屋は、どの辺りだったかしら。どの辺りだったとしても、こんな、外宮に近い塀の側を、通る必要がある……?)


 まさか、と気がついた。

 ――そのときには、遅かった。


「逃げられませんよ、シェイラ様」


 冷たく、色のない、別人のようなベルの声。

 踵を返し、逃げ出そうとしたシェイラは、背後から何者かに羽交い締めにされる。

 口元に奇妙な臭いのする布を押し当てられ、シェイラの意識は遠のいていった――。






これ書き終わった後に、何気なく番外編を見返して、すごく思いました。「IFシェイラは時代を先取りしていたのだ……」と。

女の子同士の友情って、難しい分美しいですよね?(投げやり)


次回は主人公視点に戻ります。


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