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月狼伯爵は赤毛の羊を逃さない  作者: 小湊世月
第2章 アーサー編

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11 密会の攻防

 じりっとハイヒールがテラスの床を滑る。彼女の背中は石の手摺りに着いて、それ以上後ろに退がることはできない。横に逃げたくても、俺が両手で手摺りを掴んでいるので動けない。獣人の耳には、ひゅっと息を呑んだ彼女の呼吸音がよく聞こえた。(もっと)も、怯えた表情を見せたのは数秒のことで、すぐに濃い色のアイラインを引いた(まなじり)を吊り上げて高慢な態度に変わる。

 ――やはり君は、()()でなければ。


「手を、退かしてくださらない?」

「……」

「ちょっと距離が近いのではありませんか?」

「……」

「わ、私たちはもうこんな距離が許される間柄ではない、と思いますっ!」


 俺が真顔で何も答えないからか、アビゲイルの声は僅かに震えている。散々撫で回して、何度も抱きしめて、『うちのこにならない?』なんて言ってた君が、今更怯えているなんて笑えるな。内心に反して俺の表情筋は愛想笑いさえ作ろうとしないが。


「貴方のお邪魔をするつもりはありませんので、そんなに睨まないでくださいませ。すぐに出て行きますから、手を……」

「邪魔? ……ああ、気にしなくていい」

「貴方はそうかもしれませんが、私は……」


 どうやらアビゲイルは、俺が誰かと密会をするつもりでここに来たと勘違いをしているようだ。心外にも程がある。北国シュセイルは白夜の季節で、二十一時を過ぎてもまだ明るい。君が愛した男は、誰に見られるかもわからないこんな場所で君以外の誰かを相手に盛るような男だったか? と問い詰めてやろうかと、口を開きかけてはたと気づく。こういう場所がどう使われるか知っていて、君はここにいたのか、と。


「……俺の方こそ、お邪魔だったか?」


 知らず力が入って、掴んだ手摺りが柔らかなプディングのように抉れた。既に狭い距離を更に詰めて、彼女の膝の間に自分の足を割り入れる。びくりと肩を揺らした初心な反応にほっとしつつも、それで見逃してやる気はない。


「待ち合わせ相手にすっぽかされたのか?」


 誰を待っていた?

 誰と会うつもりだった?

 そいつに、どこまで許した?


 沸々と、胸と胃の間で何かどす黒いものが煮えたぎっている。熱くて堪らない。君の愛が、関心が、他の誰かに注がれたと思うだけで気が狂いそうだ。

 これからここに君の求める男が来るのなら、その男の前で手酷く抱いて、君が誰のものなのか見せつけてやろうか。


「もし、そうなら――俺が代わりを務めようか?」


 彼女の背中に手を回したら、抱いているといっても過言ではない距離。隙間無く密着しているのにこちらを見ようともせず顔を背ける彼女の耳に囁けば、カッと頬に朱が差して俺を睨む鉄色の瞳が剣呑な光を宿す。


「お断りですわ。冗談でもそんなこと仰らないで」

「冗談を言ったつもりはないんだが……怒らせたなら謝るよ。すまない」


 平手打ちを喰らうのを覚悟していたのに、アビゲイルは見事に怒りと羞恥を御した。ならばと彼女の手を取り、指先に口づけると「謝罪を受け入れます」と硬い声で返す。感情豊かに喜怒哀楽を表していた素朴な彼女は、会えなかった半年の間に急に大人びて貴族の淑女となったのか。その変化を齎したのが、俺ではないことが悔やまれてならない。

 だが手袋越しに触れたアビゲイルの手だけは、幸福な恋人だったあの頃と変わらずに温かい。離したくなくて指を絡めると、アビゲイルは困ったように眉尻を下げた。


「……貴方は知っているかしら? 貴方と私のいかがわしい噂について」

「聞かせてくれ」


 アビゲイルはうんざりとしたため息を吐いて、遅い夕陽が作る影の中で自嘲を浮かべる。


「私、貴方の愛人らしいわよ? 学院時代、あんなに清いお付き合いをしていたのにね」

「へぇ? 君も俺もまだ結婚していないのに愛人とはね」

「卒業してからほとんど会ったことも話したこともないのに、わざとらしくお互いを避けているだとか、実は隠れて会っているなんて言われて、違うと言っても信じてもらえない。……本当に迷惑しているの。アビゲイルはセシル伯爵令息アーサーの愛人。恋人や愛人としてなら良いが、表では会えない。妻として迎えることはできないと、貴方が判断した女だって噂されているのよ」

「酷い話だな」


 心底気の毒そうに頷く俺を、アビゲイルは胡乱げに見上げている。しかし俺の表情から何かを読み取ることはできないだろう。残念だが、そう簡単に見破られる程、俺の(つら)の皮は薄くない。

 俺は長年君の理想の王子様を演じてきたし、同じ時間君を近くで観察してきたのだ。君が俺の顔に弱いことぐらい知っている。疑惑の段階ならば、この顔で誤魔化せるだろう。


 しかしまぁ、時間がかかったものだ。湧き続けるアビゲイルの縁談を潰すために撒いた噂が、ようやく実を結んだらしい。派手な尾鰭が付いている気がするが、瑣末な問題だ。計画に支障は無い。もうまともな男は寄って来ないだろう。まともじゃない男は、俺の方で対処すればいい。そうして逃げ道がなくなれば、アビゲイルは俺の元に戻ってくるしかない。


「だが、くだらない噂に惑わされる君じゃないだろう?」

「ええ……そうね」


 負けず嫌いの君だから、そう言えば奮い立つと思った。実際、俺を正面から見据えるアビゲイルの眼は強い光を宿したまま潤んではいなかった。足掻いてくれなきゃ俺が困る。足掻いて、逃げ惑って、君が足を踏み外す瞬間をずっと待っているのだから。

 俺のそんな思いが漏れ出ていたのか、アビゲイルは居心地悪そうに咳払いをして、俺の手から自分の指を引き戻した。


「そういう訳ですので、これ以上噂のネタを提供したくないの。遊び相手が欲しいのなら、他を当たってくださ……っ」


 突然言葉を切ったアビゲイルは、俺の上着の袖を掴んで「振り向かないで」と囁いた。少し前から廊下に人の気配を感じていたが、誰かがテラスを覗いているらしい。少し前まで逃げようとしていたアビゲイルは廊下からの視線を避けるように、俺の腕の中で身を小さくしている。建物内から見れば、ちょうど俺の身体が彼女を隠すだろう。

 ――誰かを待っていたのではなくて、誰かから逃げていたということか?


「ああ、もう! だから言ったのに……」


 アビゲイルは砕けた口調で呟いて、恨めしそうに俺を見上げるが、その手は未だ俺の袖を掴んだままだということに気付いていない。

 ……なんなんだこの可愛い生き物は……ちょっと、ずるいんじゃないか? いつもの君なら絶対に俺に頼ろうとしないのに。そんなことされたら絆されてしまう……。

 我ながらチョロ過ぎるなと思いながら、俺は彼女を隠すように胸に抱き込む。


「俺の首に腕を回せ」

「い、嫌よ……」

「早く」


 ――触れて欲しい。

 正直、下心しかなかった。こんなことをせずとも、手っ取り早くこの場を切り抜けたいのなら、アビゲイルを抱えてテラスから飛び降りればいいだけのこと。獣人の身体能力を持つ俺には簡単なことだ。でも、そうしたくはなかった。


「うぅ……」


 悔しげに唸りながら、アビゲイルが爪先立ちになって俺の首の後ろに手を伸ばす。少し屈んで彼女の腰を支えてあげると、ぐっと顔が近づいた。

 可愛い。不満げに膨れる頬に齧り付きたい。

 少しぐらい齧ってもいいんじゃないか? そうでもしないと、胸元で柔らかく潰れている()()の感触に全ての意識を集中してしまいそうなんだが。なるべく見ないようにしていたが、なんてけしからんドレスを着てるんだ君は……。


「……君ってひとは。今度は何をしでかしたんだ?」

「知らないわよ! 向こうが勝手に私を逆恨みして追いかけてくるの!」


 淑女らしい言動はどこへやら。でも、その方がずっと良い。学生の頃に戻ったみたいだ。


「それはまた面白いことになってるな」

「面白い、ですって!? 誰のせいでこんなことになったと思ってんのよ!」


 俺のせいだと思っているのに今の今まで責めないなんて優し過ぎるよ君は。だから、俺みたいな性質(たち)の悪いのにつけ込まれるのだ。


「くっ、ははは」


 やっぱり、君と居ると退屈しない。

 この時間が少しでも長く続けばいいのに。

 そんなことを願っていた。

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