第5章:乖離(19)
夜景を背に歩く度、繁華街の光が徐々に視界から減って行く。
アウロスはその光景に、何となく痛みのような感覚を抱いていた。
(普通は寂寞感なんだろうけどな……)
思うのは――――長期間過ごした闇の中から開放された、あの日。
少年にとって、自分と言う人間が初めて光に包まれた――――あの日。
まるで時間を遡り、闇に還るかのような錯覚を引き起こすこの道を、アウロスは重い足取りで踏み締めていた。
「……」
ふと、その足が止まる。
それと同時に、背中に風が舞った。
「動かないで。動けば首が落ちるから」
その言葉と同時に、アウロスの首筋に冷たい何かが当たる。
視界には収まっていないが、それが短刀である事は容易に想像された。
「要求は?」
アウロスは努めて冷静に問う。
その声は、日常の会話と何ら変化はない。
「貴方が今行っている研究を即刻止めなさい」
その様子を気にも留めず、襲撃者はくぐもった声でそう答えた。
意図的に声を変えているようだ。
「それは、研究者ではない人間になれ、って事か?」
「研究は続けて良い。でも、今の研究は止めて」
しかし、余り徹底されていない。
声は女性のそれだと直ぐに把握出来た。
そして、わかったのはそれだけではない。
アウロスは、幾つかの判断と、それに伴う行動方針を即座に決定し、始めの言葉を紡ぐ。
「つまり、生物兵器を使うな、と」
「!」
その瞬間――――襲撃者は驚愕を露わにした。
驚愕は人の筋肉を硬直させ、反応時間を遅らせる。
限りなく密着に近い状況において、それが致命傷となるのは至極当然だった。
「あっ!?」
続いて、アウロスの頭が豪快に後ろへと振られ、後頭部と額が衝突する。
硬度は後者の方が上だが、衝突を覚悟する者と不意を付かれた者とでは、その衝撃には大きく差が出る。
「うぎゃっ! 痛っ! いったーーーっ!」
襲撃者が額に手を当ててのた打ち回る中、アウロスは嘆息混じりに、そして絶対零度くらいの冷静な目でそれを見下ろした。
全身黒ずくめで、顔は布のような物で覆っている。
目の部分だけは穴を開けているが、微妙にずれており、非常に見え難そうだった。
「まず一つ。刃物を突き付けたくらいで絶対優位だと思うな。頚動脈を切って指で押さえるとか、足を掛けて倒してアキレス腱を切るとかしないとな」
嘆息交じりの指摘。
それを聞いている、闇と布に覆われている襲撃者は、それでも涙目だとわかるくらい、へなちょこな空気を醸し出していた。
「それと、狙いを看破されたくらいで驚き過ぎ。別に不利益はないんだから、堂々としてろ」
その空気が徐々に膨張する。
それは、かつて――――アウロスが日常に感じていたものだった。
「あー、後な。そんな細腕で首なんか落とせないから。自分の限界くらい知っとけバカ。そもそも刃物で脅すなら偽でも良いから殺気くらいは放てバカ。声だけそれっぽくしても殺す気ゼロが丸わかりじゃ意味ないだろバカ。木の棒で脅してるガキんちょと全然変わらないぞ、この下っ手糞」
「きーーーーっ! 何で脅してる側がバカバカ連呼されなきゃなんねーんだよチクショー!」
その声は――――以前アウロスがウンザリするほど定期的に聞いていたものだった。
「夜中に騒ぐなバカ。近所迷惑を考えろバカ」
「うがーっ!」
そして、屈辱にのた打ち回るその姿は――――アウロスがそう遠くない過去に、何度となく視界に収めていたものだった。
「さて。それじゃ尋問を始めるとする」
「じ、尋問……? はっ! 嘗めないでよね! 私がそんな簡単に屈すると思ったら……」
「ああん?」
「は、はい! 力の! 力の限りにお答えしますのです!」
全力で屈するその姿に嘆息しつつ、アウロスは自分自身へ何度も問い続けた言葉を、そのまま送る。
「何故急に辞めた?」
数拍の間。
そして、間の抜けた声。
「も、もしかして、私の正体……バレてる?」
「お前は今までバレてないとでも思ってたのか? ルマーニュさん家のラディアンスさん」
「なーっ! どっ、何処でバレた!? くそっ、色気か! この闇の中でもムワッって出ちまう大人のフェロモンが私を私であると定義して止まないのねっ!」
顔を覆った布を剥ぎ取り、地面に叩きつける。
露わになった顔はまさしく、アウロスの記憶の中にある、一つ年下の少女のそれだった。
ラディアンス=ルマーニュ。
九ヶ月にアウロスの前から姿を消した、自称【奇跡の情報屋】。
格好こそ暗殺者ばりの黒装束だが、その年齢以上に幼い印象を受ける顔立ちは何ら変わっていない。
それにアウロスは少しだけ安堵を覚えていた。
「うう……緊迫感溢れる衝撃の再会だった筈が、何で私ばかりが攻撃される反省会に……」
「知るか。にしてもお前、気配消すの上手いな。俺が察知するのが苦手ってのもあるが」
アウロスの言葉に、ラディが力なく笑う。
しかし次の瞬間、それは消えた。
「これまでも、そうやって見張られてたんだろな」
「……!」
動揺は目に現れた。
カマ掛けと言うには、かなり確率的に分の良い指摘ではある。
だが、アウロスは余り良い気分にはなれず、こっそり嘆息した。
「ミスト教授を必要以上に怖がるのも、それと関係あるだろ。触れたくない部分だろうしな」
「いやー、まあ半分は素でなんだけど」
悪びれない様子で、しかし目は虚ろに、ラディは事実上の肯定を告げる。
自分が――――密告を行っていると。
アウロスは少し顔をしかめて、後頭部を強めに掻き毟った。
「情報屋としての誇りは感じてたんだけどな。こう言う所はどうにも、経験が足りてないな。俺は」
「……」
ラディの下唇に歯が当たる。
その様子をチラ見していたアウロスは、内心で満足と安堵を織り交ぜた感情を抱いた。
(これなら、大丈夫そうだな)
アウロスの言葉は試験だった。
そして、ラディはそれにパスした。
後は、彼女の好きにさせる――――そう思い、沈黙を守る。
暫くして、ラディの口が開いた。
「私の身体を『直す』方法を探してやる、って言われて……」
声がうわずる。
そして掠れる。
これが演技なら、それで一生食べていけるくらいに。
「自分で探すのは辛いだろうって。あいつ、人の思考とか弱点を読むの凄く上手。そりゃ出世するし、あんな顔にもなるよ」
皮肉めいた言葉とは裏腹に、肩が震えていた。
「重大な裏切り行為ってのは百も承知だから、何されても仕方ないのはわかってる。殴る蹴るの暴行、罵詈雑言、ギルドへの報告、何でも受け入れます」
ラディはつかつかとアウロスに近付き、立ち止まる。
顔は俯いたまま動かない。
「……」
アウロスは沈黙のままに振り向き――――頭を下げた。
「んがんんんっ!?」
再び頭突きで来るとは全く予想していなかったのか、奇声と共に倒れ込む。
「いったぁ~……うう、同じ場所をまた……ちょっとくらい手加減してくれたって良いじゃない!」
「自分の発言に責任を持て」
決して石頭ではないアウロスも、額に若干ダメージを受けていた。
その箇所を押さえつつ、涙目でしゃがみ込むラディに手を差し出す。
「ほら、さっさと立て」
「え? こんだけ?『この裏切り者!』とか『信じてたのに……畜生!』とか、そんなのはないの?」
「全然」
断言。
困惑するラディの頬に、つーっと汗が流れる。
「えーと、私、もしかして全然信用されてなかった?」
「無論だ」
「いや、ホラ、ライセンス渡したじゃない。抵当扱いで。まさかあれを預けておきながら……とか、そう言うのは?」
「微塵も」
「……ゴメン。情報漏洩なんてやっといてアレだけど、ちょっと傷付いた」
ラディは大泣きしそうな程に顔を歪めていた。
「悪いな、こういう性格なんだよ。そもそも知られて困る事もなかったし、お前は安いから十分それで価値はある」
「止めて! 安い女なんて言わないで!」
傷心中のラディは訳のわからない傷を増やし、頭を振って叫ぶ。
そして、暫く項垂れたまま沈黙し、ポツリと漏らした。
「まあ、値段なんて付く訳ないか。こんな身体で、情報漏らす情報屋なんて」
その声に応えはなく、結果的に独り言になった。
その代わりに、アウロスは差し出した手を軽く振る。
「ほら、手」
「ん」
アウロスの手をギュッと握り、立ち上がる。
その動作から、彼女の身軽さや運動能力の高さはわかる。
同時に、彼女がどうやって生きてきたかも。
そうならざるを得なかったのだ。
「じゃ、そろそろ話して貰おうか」
「あい?」
「あい? じゃない。お前が辞めた理由だよ。罪悪感から……ってんなら、あのタイミングである必要はないよな。生物兵器を俺から遠ざけようとしたのと関係あるのか?」
「……」
顔を背け黙秘の構えを取ったラディに対し、アウロスは闇夜に映える美しい光を指に灯し、威嚇した。
「わっわっ、言います言います! 言うからその物騒なの消して!」
効果は覿面だった。
ラディはしゃがみ込んだまま、何やら不満そうに上目で睨みつつ、大して重くもなかったその口を開く。
「生物兵器はね、ダメ。あれは使っちゃダメなものなのよ」
同時に、視線が宙に浮かぶ。
虚空は闇と共に、薄い景色を映していた。
輪郭のぼやけた世界に罪はない。
しかし、それはまるで何らかの罰のように見えてしまう。
「私は、それで人生を壊された人間なの」
その中で、ラディは切々と語り始めた――――
「八年前。私はこの【ネブル】の郊外で、家族と共に暮らしていた」
「悪いけど要点だけで良い」
「……私の家は割と裕福で、食べ物や服には不自由ない生活を営んでいたの。両親と私と兄、四人で」
アウロスの要求は棄却された。
「そんなある日、私はいつものように、街の公共井戸に水を汲みに行ったのです。御近所のクレデリクスおばさんとベレネスベリお姉ちゃんに挨拶して、悪ガキのフレッドにタルタルアタックをぶちかまして……」
「だから要点だけで良いっつってるだろ。つーかタルタルアタックって何だよ」
アウロスの疲労がぼちぼちピークに差し掛かって来た。
「樽でドーン! そんだけよ。で、そんなこんなで色々あった結果、私は生物兵器の被害を受けたのでした」
「要点だけってのは、大切な箇所だけを掻い摘めって意味で、適当に省略しろって意味じゃないぞ」
「あーもう色々うるさいな! 誰かが井戸の水を生物兵器で変質させてたのよ! それを私が最初に使っちゃったの! 水浴びに!」
ラディは半ばヤケクソ気味に叫んだ。
生物兵器とは、その名称もあって『生物を兵器化する技術』だと思われがちだが、実際には『生物の性質を利用した技術』だ。
死んだ生物の骨や皮を使ってゾンビを作るのも、生きた微生物を使用して毒を作り出すのも、同じ生物兵器の範疇に入る。
ラディが被害を受けたのは、後者の部類であると想像される。
「その結果、私は、もう人前で肌を晒せない姿になってしまったのよ」
そう言いつつ、ラディは自分の身体を締め付けるように抱きしめた。
「家族は私を疎んじた。そりゃそうよね。こんな気味の悪い肌の女の子、人間に見えないもの」
アウロスの目に、その肌は見えない。
それを見る日も来ないだろうと思いつつ、引き続きラディの話に耳を傾ける。
「家にいられたのも、それからせいぜい何ヶ月かってトコ。半ば強制的に追い出された私は、生きる為に色んな所を転々とした。生きる為なら犯罪だってやった。尤も、こんな身体だから女の武器は使えなかったけどね」
しかし、ラディはその言葉の後、身に着けていた黒装束の襟首を引っ張り、肩の辺りを露出させた。
暗闇でぼんやりとしか見えないその肌は、それでも――――ケロイド状に爛れている事が理解できる程に、はっきりと変形していた。
「でもやっぱりね、口惜しかったのよ。何でこんな身体になっちゃったんだ、何で私が家族に追い出されにゃならねーんだよ、って。だからこの身体を元に戻す情報が欲しかったのですよ」
「それで、情報屋か」
「まーね。情報を得る為、そしてその情報を買う為の資金集め。この仕事しかないって思った。そんで、どっかの酒場のマスターに師事を仰いで、ノウハウを学んだって訳」
ラディの口はそこで閉じた。
「だけど、それなら生物兵器を使おうとする人間の傍にいる方が情報は入って来るだろ。どうして辞める必要があった?」
「……」
沈黙を風がさらう。
ラディは無言のまま、衣服を握る手に力を込めていた。
無意識の内に。
「私は、生物兵器が憎い。私の人生を壊したんだから当然でしょ? そんなのを研究する人と一緒にはいられないよ」
その手が、ゆっくりと脱力する。
アウロスは、再び嘆息した。
色々な物を吐き出す為に。




