第5章:乖離(17)
空気と言うものは、気分次第で感じ方も変わる。
晴れ晴れとした心持ちであれば、多少埃が舞っていても澄んでいるように思えるし、悩みを抱えていれば、高山の頂上であっても淀んで見えるだろう。
見えないものを見る力。
それは、他のどんな生物にも備わっていない、人間ならではの能力だ。
「……ん」
余り掃除が行き届いていない研究室の隅で、寝ぼけ眼のまま床から立ち上がったアウロスは、まずその空気の違いに驚きを覚えていた。
脱力した身体にそっと力を注入し、意識の集約を試みる。
想像以上に、景色が輝いて見えた。
加えて、自身の肌に過剰な分泌液の付着がない事に気付く。
悪夢はもう襲撃して来なくなっていた。
それが、研究の順調さに起因しているものなのか、別に理由があるのかは定かではない。
ただ、ハッキリしている事は――――今の生活環境が、健康面において非常に好影響を与えている、と言う事。
まともな睡眠も摂れない生活だと言うのに。
「おはようさん。良く眠れた?」
ぼやけた意識に、クレールの声が優しく届く。
アウロスはゆっくりと首を回し、頭部への血行を促した。
「……久々に熟睡した気がする」
眠気の残る顔で答えたその顔に、すっと細い手が伸びる。
クレールの位置はアウロスから数メートル離れているので、その手は彼女のものではない。
アウロスは一瞬驚いたが、それが杞憂だと直ぐに気付き、緊張を解いた。
「目脂」
スラッと伸びた美しい指が、少年と青年の狭間を彷徨う男の睫毛を、微風のようにそっと撫でる。
されるがままのアウロスに、ルインは穏やかな顔を添えた。
「身なりはきちんとなさい。社会人なのだから」
「あ、ああ」
すっかり眠気の取れたアウロスを少しの間眺め、ルインは自分の席に戻る。
クレールがその様子を寒々しい目で見つめていた。
「何か……見てるこっちが恥ずかしいんだけど」
「謂れのない羞恥心で非難されても困る」
「ま、いいけど。はあ……私も一時の和みに身を委ねてみたい」
訳のわからない憧憬の念を頬杖付きで吐き出すクレールの横を、今しがた入室してきたレヴィが通る。
その足は真っ直ぐにアウロスの席へと向かった。
「実験は終わったのか」
多少慣れつつも、そんな言葉に違和感を抱かずにはいられず、アウロスは目を細めながらその顔に視線を送った。
「やれる分はな。後は生物兵器関連の問題だけだ」
「そうか。随分早いな。相当な量の実験が必要だっただろうに」
この大学に勤めて以降、アウロスは一度も自主的な休暇を取っていない。
特に研究に没頭してからは、睡眠と食事以外はほぼ全て研究に費やしていた。
魔力量が少ない為、一日に出来る実験の数は人よりも限られている。
ならば、普通は休息に使う時間を充てるしかない。
単純な理論。
その点に関して、アウロスは一切の躊躇を覚えない。
通常であれば打ち切る段階でも止めず、毎日魔力が完全に尽きるまで、手と品を変え続けた。
「……大したものだ」
レヴィは呟くようにそう賛辞を送り、自分の席に戻った。
その様子を眺めていたクレールが、目を丸くしてアウロスに微笑み掛ける。
「凄いじゃない。レヴィから認められてるよ? あんだけ嫌われてたのに」
「……」
当人はと言うと――――複雑な表情でそれを受け流した。
「アウロス君、いる?」
再び扉が開き、ウォルトの声が研究室に響く。
すっかり耳馴染みとなったその声に、関連のある研究員以外は特に目を向けなくなった。
それもまた、歓迎の証。
「ああ。えらい早いな」
一方、部内者のアウロスは手を挙げて相棒を迎えた。
「実験は一通り終わったけど、まだ細部に手を入れたいから。指輪のサイズ分けなんだけど……」
「うい。その話なら俺がそっちの研究室に行った方が良いな」
「そうだね。じゃ、行こうか」
早朝から仕事に精を出す二人の背中に、感心と呆れを交えた瞳をクレールが向ける。
「レヴィじゃないけど、本当大したバイタリティーよね。期限のない研究にあそこまで入り込めるって」
実際――――それは、研究に対して真摯に取り組む彼女ならではの感想でもあった。
研究と言うものは、期限があるからこそ出来るものでもある。
追い詰められないと、妥協が出来ないからだ。
逆に言えば、妥協をしたくないと言う名目の元、どこかで自分に甘えを作るもの。
実験に対しては一切それをしないクレールですら、日程に関してはある程度の余裕を持たせている。
人間の集中力には限界があるのだから、それは決して間違ってはいないし、非合理的でもない。
ただ――――アウロスがそうせざるを得ない状況にある、と言う事を、クレールは知らなかった。
「……?」
そんなクレールの視界に、閉じた扉をじっと眺めるルインの顔が映る。
「何? アウロスくんを彼に取られて口惜しいの?」
「……愚かな女」
無表情でボソッと呟き、首を正面に戻す。
「くっ、年下のクセにいつもいつも可愛くないったら……」
「何故奴の椅子を蹴る?」
「別にっ」
苛々しつつも何処か楽しげなクレールの様子に、レヴィは静かに嘆息した。
リジルを失ったミスト研究室は、最近妙に弄られるアウロスがいなくなると、途端に静かになる。
新たに加わった研究員は、基本余りこの部屋にはいない。
ミストの補助の為に、外部を飛び回っている。
加えて――――
「にしても、最近微妙に学生の数減ってるね。さすがに無駄って悟ったのかな?」
クレールの言葉通り、ここ数日、ミスト研究室を訪問する学生の数が減っていた。
かつては、ミスト、若しくはレヴィを目的として学生が毎日足しげく通っていたが、最近はそう言った来訪者が少なくなってきている。
それが不服と言う事はないにしても、変化に対する疑念は自然と湧く。
研究者の性だ。
「体調不良で休む学生が増えている。恐らくその影響だろう」
そんなクレールの疑問に対し、レヴィは視線を動かす事なく答えた。
「へえ……風邪が流行ってるのかな」
「風邪ではない。もっと厄介なものだ」
「え、どう言う事?」
「最近明らかになった事だが……」
「……流行り病?」
挨拶してくる学生達に返事をしていたアウロスは、その言葉に思わず顔をしかめ、歩を僅かに緩めた。
「うん。割と前からそう言う話はあったみたいだけど」
その速度にあわせるように、並行するウォルトも歩幅を狭める。
微かに起った空気抵抗が、二人の身体を少しだけ刺激した。
「特に最近、体調を崩してる学生や職員が多いみたい。僕の研究室でも一人休んでる人がいるよ」
「詳しい原因は?」
「わかってないと思う。そう言う話は聞かないし……ん?」
一階に降りたと同時に、喧騒が鼓膜を突く。
「あれは……元ライコネン研究室の奴らか」
大学内としては珍しく、やたら騒がしい音。
その音源は保健室の前だった。
「せ、せんせ~……俺もうダメだ~。もう無理だよ~。帰りて~よ~」
「あらあら。そんなおいし……情けない顔して。どうされましたー?」
そして、アウロスには既知のメガネをかけた細い男と、一応は世話になった校医の女性。
メガネの方は、かつてライコネン教授を師事していた研究員だ。
「しっかりしろコラ! お前がいないと論文がスイングしないだろ!」
更にもう一人、小太りの男がいる。
メガネの男に付き添っているらしい。
「知らね~よ~。訳わかんね~よ~。くらくらするよ~。もう帰りて~よ~」
「すぐ帰るくらいなら、最初から来なきゃいい」
「意味わかんね~よ~」
「ジェラシーだよ。ジェラシーが俺にこう言わせんるんだ」
「もっと意味わかんね~よ~……」
現在――――彼らの立場は非常に危うい。
師事していた教授が失脚した場合、ほぼ例外なく、早期の内に別の大学へ飛ばされる。
特に、取り立てて目立つ実績のない彼らの場合は、時間の問題だった。
しかしそのような悲壮感は余り感じられない。
むしろ楽しそうに保健室へと担ぎ込まれている。
「流行り病、本当みたいだな」
「うん」
特に気にする事もなく、そこで話は終わった。




