第4章:偉大なる詐術者(8)
忘れん坊の男の子 鈴も持たずに何処行くの
そっちは蔵よ お家は向こう
忘れん坊の男の子 靴も履かずに何処行くの
そっちは村よ お家は向こう
忘れん坊の男の子 服も着けずに何処行くの
そっちは山よ お家は向こう
「……ん? 何か言いましたかね?」
暗澹の中を揺蕩う歌声に、男が反応を示した。
その男は濃い紫のローブを身にまとい、右手には木製の杖を、左手にはランプを所持している。
魔術士の中において、紫色のローブは教会の人間しか身に付けてはいけないと言う暗黙のルールがあり、彼はそれに該当する身分だと推測される。
衣類による身分の誇示は魔術士に限った事ではなく、王族や貴族をはじめとした高貴な身分の者の多くが派手な装飾、派手な色の服装を好み、それを独占しようとする。
魔術士は黄魔術による雷の攻撃を想定して金属類を余り身に着けたがらない傾向があり、装飾こそ少ないが、その分衣服にはかなり拘りを持つ者が多い。
まず、なによりその象徴であるローブには、色は勿論だが材質にも拘る。
綿や絹と言った一般人にとっては総じて高級な素材でも、ある程度の資金力を持った身分の人間にとってはピンからキリまである。
魔術士のローブは、綿ではなく絹が一般的で、特に身分の高い魔術士は南国にのみ生息する稀少な蚕からしか採れない高級絹を使用するのが常識となっている。
光沢が通常の絹よりかなり顕著で、煌びやかな雰囲気を一層強くしているその高級絹で作られたローブは、一着で一般人が一年生きられる金額に達するくらいだ。
騎士の鎧と違い、そこまで意匠に拘る事が出来ない為、色艶等の外観のみならず、その金額自体が大きなアピールポイントとなる。
見栄と言えばそれまでだが、格を保つ為に必要な事でもあった。
「いえ、唯の鼻歌です。お気になさらず」
そんな魔術士の問い掛けに、もう一人の男は温和に答える。
男はランプを持っていなかった。
教会の人間と思しき魔術士の持つ光源とは数メートル程離れた場所におり、その姿はかろうじて輪郭のみがわかる程度しか見えない。
声は闇にこそ隠れないが、水の流れる音と反響の影響でノイズがかった音になっている。
「ふむ。それでは早速だが、交渉の続きと行きましょうか」
教会関係者は『交渉』と言う言葉を用いた。
これは彼が使者である事を表している。
ここは大学の真下にある地下水路。
大学関係者ですら、そうそう入り込める場所ではない。
教会の人間がこの場所にいる理由は、かなり限られてくる。
そして、それを迎えた人間の目的も。
「とは言っても、こちら側が条件を下げる事はありません。つまり、貴方がたの裁量次第、と言う事になります」
迎えた側の人間は、淡々と、そしてあくまで柔らかくそう告げた。
闇に囲われ、その表情は窺い知れない。
教会の魔術士は思わず苦笑し、ランプの位置を少し上げた。
尤も、それで光が届く事はなかったが。
「しかし、それでは交渉になりませんね……」
「あれの脅威は、誰よりも貴方がた戦争体験者が理解しているでしょう。であれば、その価値もまた然り。決して――――」
意図的な間。
それは次に繋ぐ言葉の強調を意味する。
「悪い条件ではない、と確信しています」
「む……」
それが伝わったらしく、使者は思案顔でランプを下ろし、もう一方の手で顎を摩る。
老人と言う程ではないが、それなりに年齢を重ねた肌がオレンジ色に染められている様は、落陽に照らされた古木のようだった。
「しかし、我々にはメンツと言うものがある。このような過去の遺物にしがみ付くのも、そう言う柵があるからなのですよ。この条件で成立となると、余り良い顔をしない者も多いでしょう」
使者は杖でコツン、と石の床を叩き、肩を竦めながら訴えた。
困っているような素振りだが、その表情にはゆとりがある。
こう言った場面は何度も経験している、と言う事だ。
使者として遣わされる人間とは思えない程に。
それが、この交渉の重要性をそのまま反映していた。
「こちらとしても、それを無視するつもりはありません。教会内部において立て処を誤るのは、道を誤るに等しい行為でしょう。ですから、こうして何度も機会を設けている。必要な時間を提供している」
それに対し、あくまで強気な言動に終始するもう一人の男の声には、依然として感情が篭められていない。
まるで他人事のような話し方だ。
交渉をするに辺り、相手の神経を逆撫でするのは決して有効とは言い難い。
挑発行為が利潤を成すのは、あくまでも対立構造が前提。
友好を深める必要はなくとも、少なからず自分自身、或いは自分の属する組織に有益な交渉をする為には、情の部分を無視する訳にはいかない。
組織同士の交渉の場合、本来はその情の入り込む余地は非常に少ないのだが、格の高い使者が遣わされる場合においては、その限りではない。
簡単に言えば、その時点でその使者には一定の権限が与えられていると言う事だ。
つまり、その権限内において有利な条件を勝ち取るには、良い感情を持って貰うと言うのが最も効率の良い方法。
その為には、話し方一つでも相手に不快感を与えないよう気を配らなくてはならない。
不遜な態度など以ての外。
にも拘らず――――教会の魔術士の眼前にいるその人間は、何処までも強気で、それでいて物静かだった。
「……金額に関しては……まあどうとでもなるでしょう。漏洩防止の徹底や事業提携に関しても問題はない。しかし……」
今度は使者が間を溜める。
これもまた、交渉における一つの闘い方だ。
「教会内の人事情報の提供及び人材の定期流通。これは難しいですね」
「しかし、こちらとしてはそれこそが最重要項目」
扉を閉める音が聞こえて来そうな程、ピシャリと断言した。
「教会の情報規制は徹底している。不定期に風説の流布を行って各情報ギルドの信憑性を落としたり、密告者に対しては本人だけでなく血縁者まで罰したり……とてもじゃないが、私の権力では目を瞑れない」
「では、今日も交渉は不成立、と言う事で。次の日取りを決めましょう」
予めそうなる事がわかっていたかのような、逡巡なき判断。
斯くして、交渉は不成立となった。
「……察するにまだお若いとお見受けしたが、駆け引きの妙を心得ている。大したものですよ、貴方」
「そんな事はないですよ。僕は唯……いえ、何でもありません」
何を言いかけたのか――――使者はそれに関心を示す素振りもなく、年季の入った苦笑を浮かべていた。
それが教会の使者の視界に収まる事はない。
しかし、その笑みは暗闇を伝い、確かに共通の認識を生んだ。
それはつまり、交渉における一つの段階を踏んだ、と言う事になる。
相互理解。
それは内容の是非に拘らず、非常に重要な事だ。
「ではまた後日。進展がある事を祈って」
「この縁に主の御加護があらん事を」
それぞれの決め科白を背中で吐いて――――巨大な密室での交渉は終わった。
(……何だか、なあ)
その様子を一部始終、壁の死角から覗いていたアウロスの口から嘆息が漏れる。
離れて行く二人の内、素性のわからない方の一人は、アウロスの戻る方向へと歩を進めている。
つまり、大学の関係者である可能性が高い。
声で判別出来ないのは、反響の為。
残響と言うのは、声質そのものへ大きな歪みを与える。
加えて、アウロスは何となく大学関係者と思われるその人物の声が、通常の声とは違っているのではないかと感じていた。
意図的に声色を変えていると言うより、何かで口元を覆い、篭らせているような、そう言う声だったからだ。
何れにせよ――――この交渉は、大学の人間と教会関係者との間で行われた、謂わば闇の取引であると推測される。
以前、ウォルト=ベンゲルとウェバー=クラスラードとの間で行われていたのと似ているが、こちらは双方合意の中での行為である事は間違いない。
大学、教会共にこう言った個々の接点は基本的に認めておらず、どちらにとっても契約違反の行動だ。
距離を取っていたのは、互いの身の安全を保障する為と思われる。
よって、初対面ではないが慣れ親しんだ関係でもない、と言えるだろう。
そんな二人がどう言った取引をまとめようとしていたのか――――先程のやり取りからある程度の推測は可能だが、それを組み立てた所で何がどうなる訳でもなく、アウロスは考えるのを止めた。
何しろ、今はそれどころではない。
自分の研究は依然として頓挫している段階。
加えて、クレールの騒動に関しても、まだまだ何ら進展のない状態。
アウロスにとって、その二つより先程の交渉が大事だと言う認識は無かった。
(だが……)
一つ引っかかる事があった。
しかしそれが何なのか――――アウロスは結局自覚出来ないまま、暫く闇の中で静かに佇んでいた。




