第3章:臨戦者の道理(15)
一夜明け――――
泥のように眠っていたアウロスは、クワトロ・ホテルではなく、施療院の一室で目覚めた。
既に陽は高く上っており、柔らかな恵みの熱を大地へ注いでいる。
小さな窓の外からは木漏れ日の欠片が溢れ、小鳥の影絵と優しく戯れていた。
そして、風の運ぶ高音の調べは、穏やかな午後の一時に爽やかな息吹をもたらしている。
穏やかな日。
それを自覚し、疼く瞼に指を重ねる。
アウロスの怪我は――――本人の自覚通り、軽傷だった。
深さは勿論の事、鮮やか過ぎる程綺麗な切り口は皮膚や血管の再生に都合がよく、細菌による感染もないので化膿も殆どない。
それは、ラインハルトの技量と衛生管理の意識の高さを物語っていた。
「グレスさんは教会へ向かわれました。お帰りは4、5日後になるとか」
看護婦のその言葉通り、グレスは総大司教の護衛として第二聖地ウェンブリーにある教会へと赴いていた。
本来の護衛である宮廷魔術士が揃って負傷している為の緊急的な処置ではあるが、ギルドの魔術士が総大司教の護衛を勤めるのは『極めて異例』であると同時に、とてつもない名誉。
グレスにとってはこの上ない僥倖だ。
「そうか……グレス隊長が……」
その事を別室で寝ていた長髪四天王の1人――――カンビアに伝えると、涙を流して喜んでいた。
「俺はいつも隊長の足を引っ張って、今度も……。それでも隊長は咎める事なく勇気付けてくれた。副隊長の一日も早い復帰を願っている、と――――副隊長なんて肩書き、俺には到底釣り合わないと言うのに」
「お前が副隊長だったのか」
「そう言えば、碌に自己紹介もしてなかったな」
バツの悪そうな顔で、カンビアは自分及び他の3人の名前を口にした。
短気だが心根は優しいジダ、厳つい顔立ちのリュン、生意気で臆病なロベンと言う紹介だったが、アウロスには見分けられる自信がなかった。
「お前のお陰で命が助かったと聞いた。本当にありがとう。そして、これまでの態度を心から謝罪したい」
「気にするな。余所者の扱いなんて何処もそんなもんだ」
苦笑しながらそう答えると、カンビアはまた咽び泣いた。
「ああ、俺も強くなりたい……強く……」
アウロスは傷を塞ぐ清潔なガーゼを手でなぞりながら、その声を静かに聞いていた。
弱者である事の自覚。
それは例外なく、誰しもが一度は体験する。
伝説の猛者と呼ばれる兵であっても。
それと向き合い、初めて人は勇を知る。
このような大事な事を、世の親や教師と呼ばれる者は中々教えてはくれない。
幸運な男だ――――そう思いながら、アウロスはその場を静かに去った。
この施療院は民間の私立施療院で、施設や部屋数が充実している分治療費はかなり高い。
とは言え、地方自治体の運営する公立施療院では宿泊が許されず、ガーゼすら使い回しと言う、色々と大雑把な所も少なくない。
よって、高い金を払ってでも私立の方を利用する民間人は多い。
それでも、1日に全てのベッドが埋まる事など、戦争のない時代では珍しい事態だ。
「と言う訳で、君は早く退院してくれ」
そんな医者の切実な頼みもあり、アウロスは起きて1時間と経たない内に追い出された。
実際、大した怪我でもない。
出て行く事に問題はないのだが、1つ気がかりな事があった。
「お前、ここの人間、違う。保険、下りない。治療費、自己負担。宜しく」
ギルドに戻ったアウロスは、受付係の長髪女から絶望の呪文を唱えられ、頭を抱える。
金の問題は何時でも重い。
「あと、グレス隊長、伝言。お前、帰る、ダメ。オレ、来る、待て」
「はあ……」
実験の為に怪我を口実にして数日ほど滞在期間を延ばそう、などと企てていたアウロスにとっては都合の良い展開だったが、内心治療費への言及も期待していたので、何とも微妙な心持ちで実験室に向かった。
そして――――5日後。
「……で、5日間ここに篭っていたのか?」
無事帰還したグレスが実験室へ訪ねると、そこには眼より大きなクマをこしらえたアウロスがいた。
「ああ。ついでにここで寝泊りさせて貰った」
「それは良いが……本当に寝たのか? 脅かし過ぎてやつれ切った幽霊にしか見えんぞ」
グレスのイマイチ要領を得ない例えに、アウロスは脱力した笑顔で応える。
睡眠不足は思考能力を奪うのだ。
「で、総大司教の護衛はどうだった?」
「お褒めの言葉を頂いたよ。特にお前には世話になった、だと。正式な礼状を届けるそうだ。お前の目に触れるかどうかは知らんがな」
総大司教と言う、教会の上位に君臨する身分の人間が個人に礼状を出すとなると、色々と問題が発生する。
よって、所属する機関宛に出される事が常識となっている。
その場合、アウロスに直接礼状が手渡される可能性は低い。
せいぜい大学側から表彰を受ける程度だ。
「オルナ様は困った事に、いたくお前をお気に入りのようでな。お前の話ばかりされて辟易した」
半分冗談、半分本音と言う感じでグレスが息を落とす。
「そうは言っても、お前もオルナには懐かれてたじゃないか。豚にまでなって」
「馬だ馬。まあ、名前は覚えて頂いた」
ギルドと教会の関係は蜜月とは程遠い。
しかしそんなギルドの隊長と言えど、教会の上位者に自分の名を知らしめる事で発生する得は多い。
グレスは複雑な表情で瞑目した。
「……今でも、あの時を思い返すと寒気がする」
「そりゃブタになってる所を部下に見られりゃな」
「馬だと言ってるだろうが! それにその時ではない!」
こめかみに浮かび上がった血管を指でも揉みながら、怒気を押さえる。
「総大司教様を狙った不届き者との戦闘だ。お前が大活躍した、な」
「……」
「お前の機転、英断、そして実行力……全てに救われた。特に総大司教様を逃がす為の一連の行動には戦慄すら走ったぞ」
あの瞬間――――ラインハルトが総大司教の方に視線を移したその瞬間、グレスの視界には右手を後ろに回してこっそりルーリングを始めるアウロスが映った。
編綴を終え、出力された蛇のような影は、魔術士のグレスにも見覚えのないものだったが、数拍の後にそれが束縛効果のある魔術だと判明する。
次の瞬間、再びルーンを綴るアウロスから向けられた視線で、次に自分が何をすべきかを理解した。
理解はしたが、それは同時に『部下を捨て駒にする』と言う選択を迫られる事になる。
プロとして護るべきものは何か。
魔術士ギルドの隊長としてすべき行動は何か。
人間として――――
そんな逡巡を塗り潰すかのように、黒い煙が部屋中に充満する中、アウロスは全てを完璧にこなした。
「まさか10以上も年下の少年に、ここまでしてやられるとはな。脱帽だ」
グレスの愚直な言葉に、アウロスは思わず視線を外し、小指で頬をポリポリと掻く。
「カンビアの救出も含め、改めて礼を言わせて貰う。お前が来てくれて助かった」
隊長としての感謝は、口だけでなく頭の位置でも表された。
「頭を下げる必要なんてないだろ」
素っ気なく最敬礼を拒否したが、あさっての方を見ているアウロスの顔は動かない。
「派遣とは言え、今の俺はあんたの部下だ。仲間を助けるのは当然だし、何より部下の手柄は上司の誇りだろ? 胸を張ってれば良い」
「お前、年齢詐称してないだろうな。とても10代の言葉とは思えん」
「……」
会う人間会う人間に同じ旨の事を言われているものの、慣れる事はない。
ショックの度合いは増す一方だった。
「冗談だ。外見は年相応だしな。ミストの下にいれば、生意気な口が感染っても不思議じゃない」
これは影響ではなく元々の性格によるものだ――――と言う主張は空しいだけなので、アウロスは敢えて反論しなかった。
「それで、実験は上手く行ったのか」
「まあな。お陰さまでやりたい事は全部できた」
「そうか……臨戦と研究の両立など今の時代には難しい筈なんだがな。研究はともかく、臨戦に関しては我々ギルドの人間でも中々上達の機会がない」
グレスは嘆息しつつ、転がっている椅子を拾ってそこに座る。
アウロスはそんな姿を眺めつつ、次に出す言葉を選別した。
「戦争が終わって10年。平和な日々は安寧と引き換えに実戦の場を奪った、か」
「そうだ。デ・ラ・ペーニャの魔術士ギルドと言えば、かつては百戦錬磨の魔術士が何人も身を置いていたものだ。しかし今や、未熟者の巣窟と言っても過言ではない。由々しき自体だが、仕方がない面もある」
口惜しそうなグレスの表情に、アウロスは彼の苦労と苦悩を見て取った。
「魔力量の数値で才能を勝手に定められ、ふるいにかけられる。その時点で残った者の多くは砂上の楼閣に等しい誇りを抱き、無意味に尊大になる」
「傲慢は怠慢を呼び、残ったのは魔術の使い方より詐術の使い方ばかり上手くなったロクでなしばかり……」
アウロスの言葉は辛辣だった。
「しかし、それを改善するには、魔術士の育成システムが根本から変わらなければならん。お前の上司のような才能豊かな男がそれをやってくれれば良いんだがな」
初対面時に聞いた、ミスト助教授の目的が脳裏を過ぎる。
彼は魔術士の台頭を心に誓っていた。
それが必ずしも、グレスの期待と一致するとは限らない。
しかし、アウロスの網膜に焼きついているミストの姿は、どこか眼前の男に合い通じるものがあった。
「そうなれば、俺のような人間も少しは減るのかね」
狂った歯車が今更噛み合った所で、何がどうなるでもない。
それでも、アウロスはそう呟かずにはいられなかった。
「……そうか。お前は……」
何かを悟ったようにグレスが瞑目する。
閉じた視界の代わりに心が映し出す光は、何を照らしているのか――――
「ミストがお前を寄こした理由が何となくわかった」
「あん?」
「いや、こちらの話だ。気にするな」
一人満足気なグレスをアウロスは訝しげに眺めるが、リアクションはない。
話す気はないらしい。
「ところで、何時ここを離れる?」
「今から」
「は?」
「用事は済んだからな。予定よりかなり長期の滞在だったし、調べ物もある」
アウロスの発言からそれが冗談でないと悟ったグレスは、少し寂しげな顔を見せ、懐に手を入れた。
「なら、今回の仕事に対する報酬を払っておく。生憎大した収入もないから、イロには期待するなよ」
「ちょっと拝見」
グレスの言葉を聞くまでもなく、そんな事は予想済みのアウロスは、受け取った封筒を直ぐに開封する。
「ひーふーみー……」
「だから期待はするなと言っただろ」
「よー。んじゃ、コレ」
アウロスはグレスの勘違い発言を無視し、4枚の紙幣を返却した。
「何だこれは」
「治療費だよ。自己負担らしいからな」
「施療院にはサビオ氏が既に全員分の治療費を支払っている。必要はない」
寝耳に水のその事実に、アウロスは一瞬目を丸くする。
「太っ腹……と言いたい所だが、ただの見栄だろな」
「もっと素直に受け取れ。間違いではないだろうがな」
負傷者には、総大司教お抱えの宮廷魔術士も含まれている。
よって、彼らの治療費を払う事で、総大司教を危険な目に合わせた帳尻を少しでも合わせよう――――しかし彼らだけに支払うのは余りに露骨だから全員分払っちまえ、なあに金なら幾らでもあるさ、むーっほっほっ――――そんな推測は容易に成り立つ。
「それじゃ、その分はカンビアの火傷手当てと滞在延長分の宿泊費って事で」
「はっはっは! 一度出したものを引っ込めるのが苦手なのか。そんな所までミストと似てるんだな」
「……」
アウロスにとっては余り歓迎すべき事ではないのだが、グレスは何がそんなに可笑しいのかと言うくらい豪快に笑っていた。
「正当な取り分なんだからいちいち気を使うな。どうせ、自分の予想より多かったのを気にしてるんだろ?」
「違う……とは言わないけどな」
してやったりの表情で笑い飛ばすグレスの手から、紙幣を奪い取る。
金は幾らあっても――――とはなく適量が最良と考えるアウロスは、土産品のグレードアップを検討する事にした。
「さて、後はこれを」
そんなアウロスに、破顔したままのグレスが手荷物から小さめの四角い箱を取り出し、それを手渡す。
「土産だ」
「あれ、わざわざどうも。中身は?」
「知らん」
実に嬉しそうに言い放った。
「……それが言いたいが為に用意したんじゃないだろうな」
「年上を甘く見るなよ」
どちらにも不快感のない、ただ爽やかなだけの笑みが零れる。
酒を飲まず、気を許せる知人もないアウロスにとっては、余り経験のない瞬間だった。
「さて、と」
その余韻を残しつつ、アウロスは少し多くなった荷物を整理して担ぐ。
「行くのか」
「ああ。世話になった」
「それは客観的に見てもオレの科白だろうな。アウロス=エルガーデン」
「少年で良いよ」
初めて呼ばれたその名前をやんわりと拒否し、肩を竦める。
「なら少年。その土産は決して紛失する事のないようにしろよ。失くす前に中身を確認しておけ。それと、寄り道せずに真っ直ぐ帰れ。迷子になるなよ」
「……少年扱いすんな」
「はっはっは。では、また会おう」
筋骨隆々の一見厳格そうな男は気さくな表情を浮かべ、見送りの言葉を再会の約束として、アウロスに渡した。
ギルドの隊長との再会――――大学の研究室に属する者にとってそれは、余り歓迎出来る事ではない。
ここへ再び来ると言う事は、暇を言い渡されるか左遷に近い扱いを受けるかのどちらかだし、魔術士ギルドの人間が大学へ赴くのは傭兵の必要な事態が勃発する場合のみ。
僅かな例外を除けば、最悪のケースばかりだ。
「ああ。またな」
にも拘らず、アウロスはそう返事した。
ごく自然に。
魔術士ギルド【グリムオーレ】を出ると、光と音を薄闇で洗浄した落陽の世界が広がっていた。
ギルドの外壁に設置された松明の炎が揺れる事なく照らしてくれる道を歩きながら、アウロスは言われた通り貰った土産物を取り出し、開けてみる。
すると――――
(紙……だけ?)
早く開ける事を推奨された時点で食物を予想していたアウロスは、少し拍子抜けして瞬きを止める。
しかし直ぐに、綺麗に折られたその羊皮紙に何となくそれが何であるかを悟り、丁重に広げてみた。
そこには推測通り、達筆に記された文字が並んでいる。
差出人は勿論――――総大司教だ。
(部下に書かせた礼状を大学宛に送るだけで十分だろうに、わざわざ……)
グレスに預け、直接手渡すよう命じたと思われるその行動は、儀礼的な贈与ではない事の表れだ。
実際、総大司教と言う役職名はどこにも記されていない。
あくまでも『ミルナ=シュバインタイガー』個人としての手紙だと言う事だ。
内容はと言うと、取り立てて特徴のないお礼の手紙だった。
自分を逃がしてくれた事、そして何より自分の子供を助けた事に対する謝礼が、美しい文字と文章でつらつらと書き綴られている。
その文から窺えるのは、アウロス=エルガーデンに対する敬意に他ならない。
この国に住む人間であれば、殆ど例外なく光栄に思う所だが、アウロスは複雑な思いで読み進めて行った。
(……ん?)
手紙は3枚あるのだが、2枚目で文章は終わっていた。
不思議に思いながら、残りの1枚を見る。
そこには絵が書かれていた。
絵と言っても、芸術性に富んだ珠玉の作品と言う訳ではなく、どちらかと言えば落書きに近い。
色も1色のみで、人の形ではないが人と思しき物体が2つ、そしてその中央に夥しい数の点が乱雑に描かれている。
そしてその下に、歪な文字が歪な間隔で書き殴られていた。
『またみせてね オルナ』
拙くも力強い約束の言葉――――それを見た”にーちゃん”は、経験した事のない感覚を胸の中で消化し切れず、逃げるように空を見上げた。
そこにあるのは、ただの黒い空。
どれだけ眺めていても、いずれ蒼くなり、また黒くなるだけの空。
そこに星が1つ増えても、大した意味はない。
結局はそれと同じ事なのだろう――――そんな事を考えながら、ゆっくり視線を下ろした。
「……ま、いっか」
考えるのを好むアウロスらしからぬ、能動的な思考停止。
しかし、手紙を仕舞った次の瞬間には、新たな問題が幾つも頭の中に並んでいる。
それら全てに目を通し、糸を解しては繋げて行く。
それは研究漬けの生活に戻る為の準備でもあった。
(さてと、次は……)
少年は闇深き前を見る。
そして、臆する事なく歩き出した。
風のない夜道を、前へ、前へ。
約束が一つ、置き去りにされている事など――――知る由もなく。




