はたして誰がドアマットだったのか
ジョエル・イヴォークは伯爵家の嫡男だった。
幼い頃から容姿に恵まれ、賢しく、要領がよかったジョエルは、長男ということもあって順風満帆な人生を歩んでいた。
「おいロルフ、いつもの通りこれやっておけよ」
「はい、兄さん」
ジョエルにとって三つ下の弟は便利に使える下僕だった。イヴォーク家には従属称号がない。長子として伯爵位を継ぐジョエルは生涯を貴族のままで過ごすが、次男であるロルフはどうあがいてもジョエルのスペアに過ぎず、領地にてジョエルの補佐をして過ごすことが定められている。
自力で身を立てればロルフにも別の道はあるのだが、どちらにせよ継ぐ家のないロルフは貴族家の当主にはなれないし、またそうできないよう、ジョエルは幼い頃から自分の手駒として動くようしつけている。
幼い頃からの刷り込みは強いもので、ジョエルが床に放り投げた領地に関する書類をロルフは文句もなく拾い、すぐさま読み込んでどう手続きすればいいのかと動き始めている。従順な弟は、領地のためという名目に蓋をされ、ジョエルの手足として動くことに異議は覚えていないようだった。
ジョエルには愚かで便利な弟がいたが、それと同時に政略で結ばれた婚約者もいた。同じ派閥に属するライエンバーグ伯爵家の娘で、フリーデという。
二人の婚姻はライエンバーグ家が持つ爵位の一つをイヴォーク家に移すためのもので、また、新たに興す予定だった共同事業のためでもあった。フリーデのもたらす爵位は次男であるロルフのものとはならないが、ジョエルとの間に生まれた子が複数あれば、下の子に授けられる予定である。
そんな風に、領地と爵位と多額のお金を持参して嫁ぐ予定のフリーデだったが、実際のところジョエルはこの婚約が不満でもあった。
何事にも優先されて育ったジョエルにとって、自分の意思を無視して決められた婚姻というだけで不本意だったのだが、婚約者のフリーデの容姿がいまいちぱっとしないところもまた不満だったし、家格的にも婚約の条件的にも適当に扱えない相手ということも腹立たしかった。
地味なのに偉そうな女というのが、フリーデに対してジョエルが抱く感情だった。そんな相手に愛情を抱けるはずもない。次期伯爵として携わっている領地経営はロルフに任せていたジョエルは、空いた時間を使って社交に精を出し、愛人となるべき女性を見つけることにやっきとなった。
由緒ある伯爵家を継ぐ自分には、きちんとした家から迎える夫人は必要だ。爵位と領地まで背負ってきてくれるなら、フリーデを我慢して受け入れるしかないことはわかる。だが、自分の無聊を慰める相手は好みの女性であってほしいし、その女性との子どもにこそ後を継いでほしい。
愛人予定の女性がフリーデより益をもたらしそうならば完全に乗り換え、そうでなければ表と裏の存在として使い分ければいい。傲慢なジョエルはそんなことを考えて女漁りに励んだ。仮面舞踏会では一夜の熱情を覚え、社交界で愛人予定の娘を物色する。
だが、婚約者をエスコートもせず社交界に顔を出しては、見目麗しい女性に声をかけまくるジョエルに、良識的な貴族たちは顔をしかめた。貴族家の当主が愛人を持つことはあるが、それは義務を果たしたのちに許されることだった。貴族の婚姻とはやはり家同士を繋ぐためのものゆえ、婚前に愛人を抱えたり、また正妻が子を成す前に愛人を迎え入れる行為は倦厭される。
「ジョエル、ライエンバーグ家との縁談は政略が絡んでいる。非となるような行為は慎むように」
両親を通して婚約者の家から苦情を受けたジョエルは、一見反省する姿を見せた。社交には必ずフリーデを伴い、最初にダンスを踊る。もちろんその後に他の女性とも踊るが、二人ほどと踊った後は必ずフリーデに戻る。
そんな風に政略結婚の婚約者として求められるラインを下回ることのないように扱いながらも、ジョエルは水面下で目をつけていた女性との仲を深めていった。そう、主に単身で参加できる仮面舞踏会で。
「ジョエル様」
「ヤスミン、ああ、今日も美しいね。こうやって仮面で顔を隠していても君の美しさは隠れない」
ジョエルが目を付けたのは、ヤスミンという子爵家の令嬢だった。子爵の庶子であった彼女は、義姉や義母にいじめられながらも折れない、凛とした美しさを持つ娘だ。
ヤスミンはメイドの母親に育てられたために礼儀作法は子爵家の令嬢としてはお粗末なものだったが、母親譲りの美貌は輝くほどで、金の巻き毛や潤んだ青い瞳、そして男ならだれもが引き寄せられてしまうような肢体を持つ。指先まで美しい彼女の後に婚約者のフリーデを見た日などは、そのぼろ雑巾のような見た目に、正直落胆が隠せなかった。
自分の銀糸のような髪や緑柱石のような瞳を継いだ子は、地味な色合いのフリーデには望めない。なにより、ヤスミンの豊満な肢体と控えめなフリーデの身体では、自分の励みようも違ってしまう。
「すまないね、ヤスミン。君を日陰の身に置いてしまう僕を許してほしい。だが、僕の愛は君にだけ捧げよう。美しいヤスミン、僕の本当の妻は君だけだ」
「ジョエル様、わたしは大丈夫。いじめてくるお義姉様たちのおかげで、いつだって陰にいることは慣れているの。奥様になれないことは悲しいけれど、ジョエル様がいてくださるなら、わたし、頑張れるわ」
愛を囁けば、響くようにヤスミンから返される愛に、ジョエルは溺れた。涙の雫に彩られた長いまつ毛の奥に潤む青い瞳は、ジョエルの愛によって輝くのだ。
「ヤスミン、可愛い人。君のことは一生僕が守る」
虐げられるヤスミンを守れるのはジョエルだけだった。正妻にできないことは歯噛みをするほど悔しいが、ジョエルも貴族である。フリーデのもたらす益を理解できない男ではないのだ。財産もなければ生家という後ろ盾もないヤスミンを娶ることはできない。
家では新しいドレスも仕立ててもらえないヤスミンに、彼女に似合うジョエルの色の服を贈ると、毎回ヤスミンは涙を浮かべて喜んでくれる。その顔が見たいがために、ジョエルはあまたの装飾品をヤスミンに贈った。
「ジョエル様、こんな美しい宝石、わたし初めて見たわ。ああ、でもわたしがあなたに返せるのは、この身と心だけ……」
こんな風にジョエルはヤスミンに様々なものを与えてやれるが、ヤスミンが返せるのは愛と一夜の熱情だけ。だが、ジョエルがヤスミンからほしいものはまさにそれだったので、彼らの仲は急速に深まっていった。
「兄さん、最近フリーデ嬢に贈り物をしすぎではないですか? この間もドレスを作っていたのに、また?」
そんな折、ジョエルはロルフからも苦言を呈された。タウンハウスの予算管理や品物の手配はロルフの仕事だったと、苦情を受けたジョエルはようやく思い出したが、それを受け入れる予定はない。
「彼女はサイズが変わって着る服がないのだ。第一、愛する人に贈り物をするのは当然だろう」
「ですが、もう婚約者用の予算はありません。もうやめていただきたいです。これ以上は兄さんの私財から出すことになります」
「次期伯爵夫人のための予算がないだって? 来期の予算を借りてくればいい。足りない分は持参金がある」
「持参金はフリーデ嬢の予算です」
「だから、その金をフリーデに使うのだから問題ないではないか!」
実際の贈り先は違うのだが、準備したプレゼントは直接相手方に送るのではなくいったんジョエルが窓口になるので、書類しか触らないロルフにはわかりようもない。
「もう式も間近なんだ。婚約者として贈れるのは今だけだ。僕の愛の邪魔をするなロルフ!」
激昂すると、ジョエルの命令を受けるしかないロルフは黙った。黙るのならば最初から差し出口を挟まなければいいのにとジョエルは思ったが、優しい兄なので黙っていてあげることにした。
「服の仕立ては急がせるように。ああ、サイズを調整できるデザインにするよう託けてくれ」
ジョエルは上機嫌に言った。なにもかもがうまくいっている。式は月の終わり。フリーデが妻になれば使える資産も増えるし、なにより愛するヤスミンの胎にはジョエルの後継者となる赤子がいるのだ。つい先日もたらされたその吉報に、ジョエルの頬は緩んでしまう。
生まれる子は自分似だろう。イヴォーク家に生まれる子はイヴォークの特徴が強く出る子ばかりなので、母親が違っても隠せるはずだ。生まれた子はフリーデの子として届け出れば嫡子として迎え入れられるし、心優しいヤスミンはそれで構わないと言ってくれている。
居場所のない実家を出てジョエルが準備した家で暮らしているヤスミンは、ジョエルの愛を受けて日々輝くばかりの美しさを見せてくれていて、まさに愛の巣とはこのことだろうとジョエルは思った。イヴォーク家のことはロルフとフリーデがいたら問題ないだろう。
まさにジョエルの人生は順風満帆だった。
◇
結婚式という晴れの舞台であるというのに、フリーデは相変わらず地味だった。
こげ茶色の髪は美しく手入れされていたとしても、元からの輝きがまずヤスミンとは違う。自分と似た緑柱石の瞳は唯一美しいと思えたが、化粧の下には変わらずそばかすはあるだろうし、デコルテの下のふくらみはみすぼらしいとしかいえないものだ。子ができたといえど、未だふるいつきたくなるような肢体のヤスミンと比べては可哀想かもしれない。
(腹が膨らむ前にこの花嫁衣装をヤスミンに着せるのもいいな。フリーデにはもう用済みだろうし、しまい込んだままより使ってやった方が親切だろう)
贅を凝らした花嫁衣装は美しかったので、ジョエルは司祭の前で愛を誓いながらそんなことを考えていた。胸元はだいぶんきつくなるだろうが、逆に扇情的になって素敵かもしれない。
「いいか、ジョエル。これは政略結婚だ。必ずフリーデさんとの間に子どもを作るのだぞ」
式の後、ジョエルは領地から出てきた父にそう釘を刺された。ヤスミンのことがバレているのかもしれないと一瞬ヒヤッとしたが、父からの苦言はフリーデがもたらした縁を大切にしろとそれ一つだったので、真面目腐った顔で頷いて見せた。子どもの件はフリーデさえ押さえてしまえばどうとでもなることだ。なにしろ、跡継ぎとなる赤子はもう芽生えているので。
(嫁しては夫に従えというし、従順なフリーデなぞどうとでもなる)
なまじ幼い頃からロルフを従えてきた実績があったため、この時のジョエルは高をくくっていた。今までジョエルのまわりにいた人間は、皆ジョエルに従順だった。三つ下の弟も、使用人たちも、婚約者であったフリーデも、囲い込んだヤスミンも、楽しく過ごしてきた友人たちも皆。
なにしろ、ジョエルの人生は順風満帆だったのだから。
「僕がおまえを愛することはないし、妻として抱くこともない」
だからジョエルは、初夜を迎える夫婦の寝室で、新妻であるフリーデに対してそんな傲慢なことを告げた。
「なんだその顔は。妻として遇してもらえるとでも思ったか。イヴォーク家に嫁いだおまえはもう僕のものだ」
「……子どもはどうされるおつもりですか」
「おまえも子の話か! おまえの子などいらん! 万が一にでもおまえのみっともない特徴が出て、イヴォークの美貌が損なわれたらどうしてくれる!」
「我々の縁は政略ですよ」
「そうだ。僕らの間に愛はない。愛されるはずがないんだよおまえは! その重苦しい髪も、汚い肌も、薄っぺらい身体も、イヴォークの継嗣たる僕にはふさわしくない!」
フリーデの熱のない視線が腹立たしく、ジョエルは激昂して彼女の容姿を悪し様に罵った。
「そうですか。旦那様のご意向は理解いたしました」
ジョエルがどれだけ罵声を浴びせても、フリーデの表情は崩れなかった。そうだ、この取りすました表情がいつも癇に障ったのだ。月に一度の交流をすっぽかしても、フリーデの名義を使ってヤスミンに貢ぎ倒しても、彼女の反応はいつも平坦だった。それは、プライドの高いジョエルにとって耐えがたいことだった。泣いて縋る姿を見て、初めて留飲を下げられるというのに!
「石女として恥をかくといい」
「わたくしの子がなくては、マジョリー男爵位もマジョリーの地も、イヴォーク家のものとはなりませんよ」
「僕には愛する人との子がいる! 継嗣には困らないんだ!」
「まぁ」
ヤスミンと彼女の胎に宿る子どもの存在を明かすと、ようやくフリーデの表情が変わった。ただし、それはジョエルの期待していた崩れ方ではなく、美しい微笑みという形であった。
「存じ上げておりますよ、旦那様」
「な……!」
夜着の上に羽織ったガウンの前を合わせながら、フリーデは微笑んだままジョエルの顔を見た。ジョエルはそこに優しさとは違うなにかを感じたが、それがなにかまでは追求できず、つと視線をそらせる。
ひどく、居心地が悪かった。
「万事了解いたしました。家のことはお任せください。だってわたくしたち、政略結婚ですものね」
◇
妻となったフリーデに白い結婚を突きつけたジョエルは、翌日にはヤスミンが待つ家に帰った。ジョエルが新妻と枕を交わさなかったことは、きれいなままの寝室の敷布が示したと思われるが、誰にも何も言われなかった。
ぬぐい切れない居心地の悪さをジョエルはヤスミンで晴らそうとしたが、お腹の子に障るとやんわり断られ、その日は仕方がなく娼館に向かった。だが、貴族が使うような娼館はかなりお金がかかる。早々に手持ちが尽いたジョエルは費用を取りにしぶしぶ家に戻ったが、ロルフではなく女主人となったフリーデが家計を握ったため、引き出せない。
「あら、お戻りですか、旦那様。今月のお小遣いはもうございませんよ」
「うるさいっ」
静かに微笑むフリーデに気圧されたのが苛立たしく、ジョエルは怒鳴った。
(結婚前はおとなしかったくせに、なんだこの女は! イヴォーク家の跡継ぎは僕だ。この家で偉いのは、僕の方なんだ!)
結婚以来溜まったいら立ちをぶつけるため、ジョエルは手を振り上げた。殴ればこのうるさい妻もおとなしくなるはず、そう思ったのだ。
だが、ジョエルの拳はフリーデにあたることはなかった。
「兄さん」
背後からロルフの声がした。掴まれた腕が痛い。自分より劣る弟が、継嗣たる自分の腕を無遠慮に掴んでいる。その事実が気に入らなくて、ジョエルは重ねて大声を上げた。
「離せロルフ! 僕はこの女をしつけてやるだけだ!」
「それは暴力です、兄さん。許されない」
「離せッ!」
力任せに腕を振りぬくのと、ロルフがジョエルの腕を手放すのは同時だった。結果、ジョエルはみじめに床にしりもちをつくことになった。絨毯が敷かれているので痛みはなかったが、恥ずかしさにカッと血が上った。
「なんだおまえたち! いいか、この家で偉いのは僕だ! おまえたちじゃない!」
そう言い捨てて、ジョエルは部屋を後にした。みじめさにいら立ちが止まらない。そうだ、このいら立ちを解消するためにきたのに、なぜさらにイライラしなければならないのだ。
ジョエルはお金のかかる娼婦の代わりに、手近なメイドに手を出そうと思った。タウンハウスにはそこそこメイドがいる。婚前のジョエルの身支度の手伝いなどもしてくれていたから、その中から少しでも見目麗しい女を見繕おうと、ジョエルは屋敷を探索した。
(どういうことだ)
メイドはいる。だが、それを捕獲する機会がない。おかしなことに、メイドたちは一人きりにならないのだ。以前と違って必ず複数人が固まっており、その中の一人に声を掛けても、奥様から命じられていると断られる。無理強いしようとすると、必ずロルフかフリーデが現れた。
思い通りにいかなくなって焦れたジョエルは、ヤスミンの家に戻った。そちらでヤスミンの代わりに家事をする娘を雇い入れ、そのメイドに手を出せばいいと気づいたのだ。
実際、ジョエルの案はうまくいき、家政ギルドから雇い入れた年若いメイドは、つわりにいら立つヤスミンをフォローしつつ、ジョエルの慰めにもなってくれた。彼女はヤスミンほど美しくはなかったが、若く愛らしい顔立ちで、ジョエルはそこそこ満足した。平民なので子を成すような相手とはならないが、場つなぎとしては悪くない。
(そうだ、これがあるべき姿なんだ。だが、本来僕がいるのは伯爵邸であるべきだ。こんな小さな家ではない!)
現状に一応の満足を覚えたジョエルは、ふと戸籍上の妻を思い出して再びいら立った。結婚してからというもの、イライラすることが多い。これもすべてフリーデのせいだった。そのいら立ちをメイドにぶつけては、満足し、またいら立つ。
そんな風にすごしていたせいか、メイドとの関係にヤスミンが気づいた。つわりが落ち着き始めたため、行動範囲が増えたせいだった。
「ジョエル! 嘘つき! わたしだけって言ったのに!」
「いや、これは違うんだ、違うんだよヤスミン! 単なる君の代わりなんだ!」
膨らみ始めたお腹を押さえながら、ヤスミンは泣き叫んだ。彼女の母は、義母が義姉を孕んでいる間に子爵のお手付きとなった。それを知っていたのに同じような状況で同じようにメイドに手を出したジョエルに、ヤスミンは耐えられず、手あたり次第物を投げつけてきた。
「嘘つきいいいいいいっ!」
絶叫するヤスミンから這う這うの体で逃げ出したジョエルは、イヴォーク家のタウンハウスに駆け込んだ。他に逃げ場を思いつけなかったのだ。
◇
「フリーデ! フリーデはどこだ!」
妻が暮らしているタウンハウスに逃げ込んだジョエルは、大声でフリーデの名を呼んだ。突然帰宅したジョエルの命令に、慌てた使用人たちがフリーデを呼びに行った。
(やっぱり血が劣る者はダメだ。次の愛人はきちんとした貴族令嬢を選ぼう。それまではフリーデでいい)
フリーデの見た目は気に食わないが、彼女はジョエルの正式な妻だ。フリーデならば、どう扱っても許される。
「フリーデはまだか!」
「あらあら、とんだお客様ね」
焦れたジョエルが再びわめいた時、階上から女の声が降ってきた。かすかに笑いを含んだ軽やかなそれは、彼の妻のものだ。
「ようやく来たのか! ご主人様の帰宅をすぐ迎えられないとは、無能な妻だな!」
タウンハウスごと妻を放置していたことは棚上げし、ジョエルはフリーデをあげつらった。上位関係は叩き込んでおかねばならない。舐めた様子のフリーデは、厳しくしつける必要がある。
「妻?」
ジョエルの目の前に現れたものの、玄関ホールにしつらえられた階段の上から下りようともせず、フリーデは白々しく首を傾げて見せた。
「まぁ、わたくしの旦那様によく似てらっしゃるけれど、どちらさまかしら。先ぶれもないお客様をお通ししてはダメよ。危ないわ」
「な……! 僕は客ではない! この家の主だ!」
「おかしなことをおっしゃるお客様ね。この家の主であるわたくしの夫は、ここにおりましてよ。ねぇ?」
冷たい視線でジョエルを見下ろすフリーデは、そう言うと自分の背後をちらりと振り返った。釣られるように視線をやると、フリーデの後を追うようにロルフが現れる。
「ロルフ!」
「やぁ、僕によく似た誰かさん。あなたにこの屋敷に入る権利はないよ」
自分とよく似た──イヴォーク家の人間は皆顔立ちが似ている──弟の姿に、ジョエルは血管が切れそうなほど顔を赤くした。そんなジョエルの姿を小気味よく眺めつつ、ロルフはフリーデに寄り添い、その腰に手を回す。フリーデもまた、しだれかかるようにロルフに頭を寄せ、ふわりと笑って見せた。
「おまえ! 兄の、この兄の妻に手を出したのか! 兄嫁に! 倫理に悖る奴め!」
「なにを言っているの? おかしな人だね。僕はジョエル・イヴォーク。イヴォーク伯爵家の継嗣で、フリーデの夫だよ」
「はぁ!?」
ジョエルはたまらず階段を駆け上がろうとしたが、その行為は護衛たちに阻まれた。
「おまえたち! 僕を知っているだろう! 僕が! ジョエル・イヴォークだ!」
「これ以上は憲兵を呼ぶこととなります。イヴォーク家と関係ない方はお帰りください」
名前は覚えていないものの、見知った顔の護衛たちに食って掛かったが、彼らもまた知らぬ顔でジョエルを押し戻した。元より体格や力で勝てるはずもなく、ジョエルは床に取り押さえられる。
「この僕に! 伯爵家の僕に! こんな仕打ちをしてただで済むと思うなッ!」
「その言葉をそのまま返してさしあげるよ。ねぇ、僕になりすまそうとした人。この家の嫡男は僕だし、フリーデの夫も僕だし、フリーデの子の親も僕だ。これは両親もライエンバーグ伯爵家もみんな知っていることだよ」
知っているはずの弟の声が、知らない人間の声に聞こえた。ジョエルは、思わず生唾を飲み込む。自分が家を離れている間に、いったい何が起こったのか。
「フリーデの、子……?」
「フリーデはイヴォークとライエンバーグを繋ぐために来てくれた。イヴォークのたっての願いでね。フリーデの子はイヴォークを継ぎ、マジョリーを継ぐ。わかっていたことだろう?」
親密さを隠さない弟と妻の姿に、ジョエルは言葉を失った。ジョエルの視線を受けて、フリーデが微笑みながら自らの腹をさする。
「僕はイヴォークのために生きてきた。フリーデもまたライエンバーグのために生きてきた。僕たちは互いを理解しているし、互いを支えあっている。なかなかいい夫婦だと思わない?」
「ロル、フ……」
「こんなに愛らしくて賢くてしっかりしている妻は、他にいやしないよ。イヴォーク家を代表して僕は彼女を妻にと希ったし、彼女もそれを受けてくれた。これは両当主も認めていることだ。それになにより──」
見せつけるように、ロルフはフリーデに口づけた。顔をかすかに赤らめて、フリーデがロルフの胸を軽く押す。
「僕らは愛し合った夫婦だ」
「まぁ、人前でいけない旦那様」
「愛する妻を愛でて何が悪いのかな。ねぇ、僕のフリーデ」
視線だけ蔑むようにジョエルに向けて、ロルフは嗤った。
「二度と我が家には来ないでいただこう。ねぇ、平民の君?」
◇
投げ出されるように道に放り出されたジョエルは、そのままとぼとぼとヤスミンのいる家に戻った。タウンハウスの扉は固く閉ざされ、どうやっても開くことはなかったからだ。
(なぜ……どうして……)
自分の思うままに生きてきたジョエルは、打たれ弱かった。今まで誰にも反抗されたことなどなかったのに、なぜ今こんなみじめなことになっているのか、ジョエルには理解できなかったのだ。
「ヤスミン……」
荒れた家に戻ると、ヤスミンは一人寝室で寝ていた。不貞腐れているのか、声を掛けても反応はない。
「ごめん……ごめんよ、もうしないから……」
今のジョエルにはヤスミンの機嫌を取ることしかできなかった。不本意だったが、打ちのめされた心持の今は、誰かに縋らないと立っていられなかったのだ。
「あの女追い出して。家のことは全部ジョエルがやって。あと、お詫びにドレス買って」
「いや……もう、お金が……」
「はぁ!?」
もう手持ちのお金はない。メイドもヤスミンが追い出したのか姿が見えないし、ジョエルはうなだれることしかできなかった。
「ジョエルのとりえは顔とお金しかないじゃん! なのになんでお金ないわけ? 家から持ってきてよ!」
「いや……もう家に入れなくて」
「はぁ? ジョエルの家でしょ? 家を継ぐのジョエルなんでしょ?」
「僕は……もう、君しか」
ジョエルはこらえきれず、涙を浮かべた。だが、ヤスミンは容赦なかった。かつての愛らしさは消え、ヤスミンは邪神のような恐ろしい表情でジョエルの胸ぐらをつかむ。
「子どもはどうするのよ! わたしもう貧乏生活とかごめんなんだけど! 貴族のお嬢様になれば贅沢できるかと思えばそんなことないし、伯爵夫人になれるかと思えばジョエルは役立たずだし! 馬鹿じゃないの! もうなんでもいいからお金稼いできてよ!」
お金がなかったらあんたなんて生きてる意味なんかない!とわめくヤスミンに叩きのめされ、ジョエルは泣きながら洟をすすった。
これからどうすればいいのか、ジョエルには思いつかなかった。いつものように誰かにやってほしかった。
(僕は……僕は優秀で、誰からも尊ばれていたのに……なんでこうなったのか)
泣きじゃくるジョエルに寄り添う者は、誰もいなかった。
ドアマット4種の詰め合わせ。白い結婚の末、夫を挿げ替える別パターン。
交代後の夫が腹黒く、妻もまた容赦がなく、且つどこぞのそのそのおじさんのような無能な当主が双方に皆無だったら、こんな風になったかも。
両家の血を引く子の誕生を基礎にして結ばれた契約なのに、他の人との子を引き入れるのはありえないし、家を守るためにダメな長男を次男を置き換えるのは貴族的に普通かなと思います。
守るべきは長男ではなく家。
そのそのおじさんが長男優先したパターンは「白い結婚? よろしい、ならば夫すげ替えだ!
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よろしくお願いします。




