幕間 ジョシュア・ユリウス・セブティリアン
ルクメリア王国のとある医院の一角で、彼は生まれた。その産声を最初に聞いた母が見せた顔は、彼は覚えていない。
彼は母の胸で眠り続けた。彼はそれを覚えていない。
彼と彼の家族は日々を過ごした。何もかも初めての中で、彼らは幸福を得ていた。彼はそれを覚えていない。
――幼少の頃
物心ついた時は彼は一人で本を読んでいた。字は読めないが、彼はその本が好きだった。剣を持った騎士が圧政を強いる者から人々を救う本。大きな大きな剣を握る騎士の姿に、彼は自分の父親を重ねていた。
使用人が彼の為に食事を作る。食卓に彼は一人、彼はスープが好きだった。何も入ってない澄んだスープ、野菜や肉、様々なものを煮込み、濾し、そしてできあがるそのスープは、彼は大好きだった。飲んで染み渡るその味に、その暖かさに、彼は幼いながらも落ち着きを得ていた。
使用人に手を引かれて外へ出る。貴族街の中心にある噴水の周りを歩き、そして戻る。短い散歩。
常に彼は一人、使用人の手を握るも、彼は一人。手の先にいる女性では彼の寂しさを埋めることはできない。
気が付けば、彼は母と父の声を忘れかけていた。
――少年の頃
自分が好きだった本を読み聞かせる彼の傍には、彼の妹が座っていた。きっと自分が話してるこの物語の中身を妹はほとんど理解していないだろう。しかしながら、ページがすすむ度に表情を変える妹の姿に、彼は喜びを覚えた。
彼らは二人、使用人が彼らのために食事を作る。大きな机に、小さな身体が二つ、並んですするスープの色は澄んでいた。
彼らは二人、たまに訪れる父と母に対し、無邪気に喜ぶ妹の前で、彼は子供ながらに愛想笑いをするようになった。
そう、この頃の彼は、自分の両親は自分たちを愛していないんだろうかと思うようになっていた。
父と母は忙しいからと使用人は彼に対して常に言っていた。彼はそういうものだということは理解していたが、受け入れることはできなかった。
当然のように、彼が騎士の塔へ向かう時も、彼を送るのは使用人と妹だけだった。
それでどうして、心の底から彼は騎士になりたいと思うだろうか。彼は外見は立派な少年だったが、中身は、ただ言われるがままに進むままに足を出しているだけの、そんな少年だった。
――若年の頃
比較的食が細く、運動の経験もあまりなかった彼は、騎士の塔ではかなりの苦労を強いられた。
教官たちは彼が精霊騎士の子であり、さらに貴族の中でも裕福な家庭であることを知っていて、必要以上に彼に厳しくした。嫉妬心もあったかもしれない。
毎日毎日、彼は叩かれ、彼の身体に青痣が無い日はなかった。
最初のうちは、痛くて痛くて、彼は逃げ出したいと思った。来る日も来る日も。同期の仲間たちは最初は彼に同情していたがいつの間にか彼を蔑むようになっていた。来る日も来る日も叩かれ、倒される弱い彼に、周りの子供たちは優越感を感じたのだろうか。
友人もなく、知り合いもいない塔の中で、彼は日に日に擦り切れていった。
それを救ったのは医師の女性。毎日毎日医務室へとやってくる彼を笑顔で迎える女性。年上の彼女の手に、彼女の言葉に、彼はいつか忘れていた暖かさを感じた。母のぬくもりを。それが覚えている限りの、彼の初恋。
痛めつけられ、傷つき、だがそれでも彼女がいたから彼は立ち上がることができた。
彼女に、癒しを教えられた。
彼女に、悔しさを教えられた。
彼女に、強さを教えられた。
人一倍叩かれ、人一倍傷つき、人一倍食事を食べ、人一倍鍛える。彼の騎士の塔での暮らしはまるで巨大な岩を削り玉を作るかのように。
毎日毎日毎日毎日。彼は少しずつ強くなっていった。
気が付けば彼の前に敵はいなくなっていた。教官でさえ腕力で押しつぶした。巨大な両手剣を小枝のように振り回し、彼を蔑んでいた仲間たちは彼に何も言えなくなっていた。
いや、いつの間にか隣にいて同じように鍛錬をしていた、小柄な青年は何でも言ってきたが。
彼は強くなった。彼は友人を得た。
卒業の日、鎧化を果たした教官を締め落としたその日。彼は彼女に報告に向かった。今日で離れるということを彼女に伝えた。
彼女の左手には光る指輪が見える。彼女は数年前に婚約していた。相手は、彼が締め落とした教官の男。
少しだけ仕返しをして、彼は自分の淡い恋心を奥に押し込んだ。彼女は大笑いして、おめでとうと言ってくれた。彼はありがとうと、一言だけ返すとその場を後にした。
騎士の塔を出た時、彼は気が付いた。そうだ、自分は彼女に母を重ねていたんだと。
失ったこの胸の空間は、嘗て感じていた、寂しさ。
――そして、彼は大人になる。
きっと皆は、彼に救いを求めるのだろう。彼は強いから。
きっと彼は、それを叶えるのだろう。彼は強いから。
だが彼は、救っていない。彼は皆を救えないことを知っている。何故なら自分が、救われていないから。
誰も彼を救えない。彼は強いから。
彼の前に立つ敵は全て倒される。今までも、これからも。
彼の後ろにいる仲間たちは救われる。今までも、これからも。
だが彼は救われない。彼は常に思う、初めて人を斬ったあの時から、この殺した相手は、自分がいなかったらきっと死ななかっただろうと彼は思う。
彼はうぬぼれているのだろうか。違う。きっとそれは違う。
彼は強いから、相手のこれからを叩き斬って彼は進む。
彼は許しを必要としない。彼にあるのは証のみ。前へ進んだという証のみ。
そう、実のところ、彼の在りかたは騎士ではないのだ。騎士としての矜持、全て理解してるからこそ、彼は騎士でない道を進むのだ。
彼は自分のために、剣を振る。自分が好きな人たちを失いたくないから、剣を振る。それは人のために戦う騎士からは最も遠い在りかた。
幼少期に愛されることに飢えていた彼が、行きついたのは自分勝手さ。世界を救うのは彼の我儘。
故に、彼の領域には墓標があるのだ。彼の進んだ証である、墓標があるのだ。墓標の数だけ、彼は障害を力づくで取り除きそして進む。
彼の心の在りかたはきっと、振り向きたくないという我儘。
そして、振り向いたら何もないことに彼は気が付いている。
母がこの世界に自分を産んだ時から始まる。進み続けなければ消え去ってしまうという強迫のような彼の在りかた。
――故に、振り向かせないように、ジョシュア・ユリウス・セブティリアンの全ての使徒はあの日の彼女のように、彼を生み出した母のように、愛することで彼を進ませる妻のように、『微笑む女性』なのだ。




