23 魔女と笑顔と使い魔と。
フレアの術式魔法に先導されて、ロクたちはアビスの元へと急いでいた。
何が起きている。
ロクは、何も語らず先を進んでいくフレアに一抹の不安を感じながら、ただその後を追う。
やがて、入り組んだ獣道を抜けて、少し開けた場所に出たところで、ロクの目はしゃがみ込んで呆然とするアビスの姿を捉えた。
ロクはすぐに駆け寄り、その小さな肩に触れる。
「アビスっ! お前、こんなところで何やって――っ!?」
「……ロク。ヌヴィが……ヌヴィがっ!」
そこには、ぼろぼろと大粒の涙を頬に流すアビスと、何かを成し遂げたのであろう、小さな黒猫の姿があった。
後から追いついてきたリコベルも、その状況を見て声にならないようで、はっと息を呑んで口に手を当てる。
「嘘……だろ?」
ロクは半ばよろけるように数歩進むと、その痛々しい姿になったヌヴィに震える手でそっと触れる。
まだ、僅かだが魔力の反応を感じる。
「……先輩」
「話はあとだ」
フレアは、今回の事の顛末を話そうとしたが、ロクにとってもう理由は必要なかった。それに、自分に言わなかったという事は、言えない事情があったということ。
それよりも、今はヌヴィの治癒が先だ。
「アビス。ちょっと、離れててくれ」
ロクは低い声でそう伝えると、ヌヴィに触れた手のひらに魔力を込める。ほんの一片でも可能性があるならと、ヌヴィの体へ魔力を注入する。
「……っ!」
だが、どれだけ魔力を込めようと、穴の空いた風船に空気を送るかのように、即座に魔力が抜けていってしまう。
それでも、それに気付かない振りをしながら、ロクは魔力を注ぎ続ける。
「ヌヴィっ!! お前には言いたいことがまだあるんだ! 戻って来いっ!」
今回のことは、すべて自分のせいだ。
自分がもっとしっかりしていれば、ヌヴィがこんな目に合わずに済んだかも知れない。その後悔と自責の念は、ロクの手のひらを通じて、謝罪のようにヌヴィの体へと流れる。
その姿を悲痛な顔で見守る少女たちは、かける言葉すら見つからず、ただ黙ってその様を静観するしかなかった。
それが、どれくらい続いたか、ついにはロクの魔力の方が底を見せ始める。
「……っ! くそっ!」
ロクの口の端からは血が滲み、明らかに魔力量の限界を越え、その生命力を代償にし始めていた。
フレアはとうとう耐えきれずに、ぎゅっと拳を握り、意を決してロクへと歩み寄る。
「……先輩」
だが、ロクは聞く耳を持たないようで、魔力注入の手が止まることはない。
「……先輩」
「……」
「これ以上は先輩がっ」
「黙ってろっ!!」
ロクは、無情な現実を否定するこどものように声を荒げると、一瞬、申し訳なさそうな表情を見せ、俺のせいなんだ、と小さくつぶやいた。
それでもフレアは、今彼を止めるのは自分の役目だろう、と口を開いたのだが。
「先輩。もう、器の方が……」
壊れてしまっています。
そう続く言葉は掠れて上手くでなかった。ロクの今にも泣き出しそうな表情を見てはばかられたからだ。
ロクは、こんな終わり方があってたまるか、こんな別れ方があってたまるか、と自身の命も顧みず、駄々をこねるこどものように、生命力を魔力に変えて、ぴくりとも動かないヌヴィの体に流し続ける。
「……っ」
一瞬、魔力の枯渇により視界がぼやけた時、ヌヴィのまぶたが僅かに動いたのをロクは見逃さなかった。
「お、おいっ!! ヌヴィっ!! 目を覚ませっ! おいっ!!」
ロクは魔力注入の手を止めぬまま必死に呼びかけると、ゆっくりと弱々しくその目が開かれた。
「おいっ! わかるかっ?」
だが、その声はヌヴィには届いていないようで、その視線もどこか遠く、ロクには向けられていなかった。
「……ね」
小さく、聞き取れないほどの掠れた声が、震えるヌヴィの口から漏れた。
「なんだっ? どうしたっ?」
ロクは、焦点の定まらないヌヴィの口元に、そっと耳を寄せる。
「ごめん、ね。ぼくが……ふがいない、使い……魔だから」
「っ!?」
意識が混濁しているのだろう。
ヌヴィの視界に映っていたのは、ロクの肩越しで涙を浮かべて不安そうにする、オルコスを重ねたアビスの姿だった。
また、悲しい顔をさせてしまった。僕のせいで。
そう途切れ途切れに続いた言葉のあと、すっとヌヴィの目尻に浮かぶものが見えた。
「笑顔に……できなく、て。ごめん……ね」
ロクは、うわ言のように謝罪を繰り返すヌヴィを見て、静かに魔力供給を止めると徐ろに立ち上がった。
ヌヴィの過去に触れた経験があるロクは、その言葉ですべてを察したのだ。
「ロクっ? ヌヴィどう? よくなる?」
ロクは、不安気に聞いてくるアビスからそっと視線を外すと、奥歯を噛みしめてその両の拳を強く握りしめる。
「アビス、頼みがある……」
「えっ?」
ロクは、よくわからない、といったふうに聞き返すアビスに、あらゆる感情を押し下げて、その言葉を口にする。
「ヌヴィに……笑ってやってくれないか」
しっかりと発音したつもりのロクの言葉尻は、震えていた。
「笑っ? え? ヌヴィの怪我は? だいじょう――」
「頼むっ」
ロクは、アビスの言葉を遮るように強い口調で言うと、静かに目を伏せる。
「……あびす、笑ったら、ヌヴィよくなる?」
ロクは、アビスの無垢な言葉に胸の奥が抉られるような痛みが走る。
それでも。
「……ああ。すぐによくなる」
ロクは、精一杯の作り笑顔でアビスに向き直った。
「……わかった」
アビスは混乱する頭のまま、そっとヌヴィをのぞき込む。
ヌヴィは相変わらず傷だらけで、僅かに開かれた目も弱々しく、それを見ただけで、アビスの目にはじわりと涙が浮かんでしまう。
でも、ヌヴィは良くなるとロクが言った。
どこかで嘘だとわかりながらも、アビスは服の袖でごしごしと目尻を拭った。
――そして。
「……ほらっ! 見て! ヌヴィ? アビス笑ってるよ? 元気出る? ……これも見て? 仲直りでヌヴィに作ったんだよ?」
アビスは、泣いてしまいそうな気持ちをぐっと抑えて、にぱっと笑みを浮かべ、ヌヴィにお魚形のポーチを見せてやる。
ヌヴィの事を思って、一生懸命に作ったそれを。
しかし、ヌヴィの目に映っていたのは、オルコスの笑顔だけだった。
「……あ。ああ。よかっ、た。オルコス。笑えたんだね? みんなを……笑顔に、できたんだね。僕も……うれし――」
嬉しそうに笑うヌヴィの頬に、一筋の涙が流れていく。
確かに、ヌヴィの心を縛る鎖が解ける音がした。
瞬間、淡い光の粒子がヌヴィを包むと、それは風にさらわれていくかのように天へと向かい、あとにはアビスの手から落ちた、ポーチだけが残っていた。
初めから、何もなかったかのような静寂が僅かに流れる。
「……あ、あれ? ヌヴィ、どこ、行っちゃった?」
アビスは、状況を飲み込むことができず、放心状態のままゆっくりと立ち上がると、ふらふらと近くの茂みへ歩いて行く。
「……また、かくれんぼ、かな。あびす、あんまし探すの得意じゃないし……な」
アビスはがさがさと、深い茂みへと入って行く。
「アビスちゃんっ」
誰よりも先に彼女の震える小さな手を取ったのは、リコベルだった。
「……やだっ!!」
本当は全部わかっているのだろう。アビスの掠れた声があらゆるものを拒絶する。
「ヌヴィ。あびすといっしょに居るって言ってた。まだ、向こうとか探して……ないから」
アビスはリコベルの手を振り解き、おぼつかない足取りで、ふらふらと崖になっている方へ歩いていこうとする。
「こっちかな……」
「アビスちゃん……」
「このポーチ頑張ったから、ヌヴィ喜ぶかな」
「アビスちゃんっ!!」
――っ!?
リコベルは、後ろからぎゅっとその小さな体を強く抱きしめる。同時に、信じたくない現実に引き戻されたように、口をへの字に結んだままのアビスの目尻から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れた。
「だっで、よくなるって……ぽーちもがんばって、なかなおし……なのに」
リコベルは、その小さな体を強く抱きしめたまま、泣き声混じりにアビスへ伝える。
「ヌヴィはね……やっと、大好きな人のところに還れたんだよ? だから、さ。私達も、笑っ……て」
とうとう、リコベルの堰も切れる。
辺りには、沈んだ陽にあてられた二人の泣き声が染み渡り、一人の若き魔導士が持つ守り抜く意思と覚悟を、更に強固なものへと導いたのだった。
~終幕~
あれから五日の時が流れ、エスタディア北区に居を構える材料屋の一階には、昼飯時になったのにも関わらず、アビスの姿はなかった。
「どうすりゃあ良かったんだろうな……」
ロクは、自身の不甲斐なさ情けなさを差し置いても、未だに何が正解だったのかをわからずにいた。
「仕方ありませんわ。いずれにせよ、ヌヴィには元々残り僅かの時しか残っていなかったのですから」
フレアは、ふさぎこむロクを慰めるように優しく微笑む。
ロクは、あのあと事の顛末をフレアから聞いた。
ヌヴィの時間がほとんどなくなっていた事も、記憶に触れたから知っている。
それでも、もっと違う他のやり方があったのではないかと、ずっと考え続けていた。
「ヌヴィは……あれで良かったのか」
未だにわからない。
「最後の時まで使い魔としての大義を果たせたのですから、本望だったと思いますわ。それに、先輩まで落ち込んでいたら、守る、ということが成せなくなってしまいますわよ」
フレアは知っている。ヌヴィが心からアビスの笑顔を望んでいたことを。そして、ロクにその想いを確かに託したことを。
「ああ……そうだな。それで、グレンは大丈夫なのか?」
ロクは、ヌヴィの言いつけを思い出し、少し話題を変える。
「ふひひ。総帥が帰ってきて、勝手な事をした件について絞られてましたわ」
フレアは底意地悪そうな笑みを浮かべて、良い気味ですわ、と悪態をつく。ロクとしては体が無事か、という問いだったのだが、この分なら問題無さそうだ。
勇者は魔神だった。そして、それを封じるためにグレンが禁忌の術式を使用し、成功したかのように思われたが、グレンの意識が戻ったあと、その二の腕から魔法印が消えていたらしい。
しばらくは大丈夫だろう、とのことだが決して油断はできない。次は、必ず自分の手で守って見せる。ロクは、強い意志でそう決めている。
「で、当の本人は、まだ立ち直りそうにないですか?」
「まだ……しばらくはかかりそうだな」
ロクは言って、アビスが引きこもる天井を仰ぐ。
「そうですか……」
二人がなんとも言えない沈黙を持て余した時。
「おっす~。いやぁ~、急に振られちったよ」
びしょ濡れで入ってきたのはリコベルだった。
「なんか拭くもん貸して」
リコベルは、ロクから手渡されたタオルでわしゃわしゃと頭を拭いて、いやぁ~まいったまいった、と、いつもの空元気を見せる。
「じゃあ、ちょっとアビスちゃんの様子、見てくるよ」
「ああ、頼む」
あの日から、ロクは何とかアビスを元気づけようと、ヌヴィに教わった芸を見せたりしているのだが、あまり効果がないようで、私に任せて、と言ってくれたリコベルに、その補助を頼んでいた。
今日も、甘い菓子を持ってはしご階段を上っていくリコベルを見ながら、フレアは元気のないもう一人に向けて口を開く。
「先輩。私、思い付いたのですが、ヌヴィはその辺に居る野良猫ではありませんわ。あれは原初の魔女に仕えた使い魔。悪魔なんですよ?」
「……っ!」
ロクは、その言葉を聞いて、そうか、そうだよな、と一筋の希望を灯した。
可能性は薄いが、0ではない。
ロクが僅かばかりの元気を取り戻した時、リコベルがしょんぼりと獣耳を垂れさせ、目が腫れたアビスを伴ってはしご階段を降りてきた。
「……」
アビスは、ちらりとロクの方を見て、すぐに俯いてしまった。
ここから先は、自分の役目だ。
ロクは、ゆっくりとアビスへ歩み寄り、その小さな肩に手を乗せる。
「アビス。一緒に昼ごはん、買いに行かないか?」
「……うん。おそと、出てみる」
アビスは、相変わらず元気がないようだが、それで良いとも思っていないようで、ロクの提案に乗ってくれた。
ロクに背中を押されて、アビスは静かに扉に手をかける。
それを見ていたリコベルは、一瞬頬を緩ませるが、すぐにそれを思い出した。
「あっ! アビスちゃん、外はすっごい雨だよ?」
しかし、扉を開け一歩外に出てみると、通り雨だったようで、雲の切れ間から眩しい光がまばらに差し込んでいた。
アビスはぼんやりとした頭で、空を眺める。
「……っ!?」
アビスは、空の彼方できらきらと輝くそれを見つけて、ロクの手をぎゅっと掴んだ。
「見てっ! ロクっ。きれいなのがあるっ! あれなに?」
アビスが少し元気を取り戻して指差したのは、くっきりと視える色とりどりの放物線状の光だった。
「あれは、虹の架け橋だ」
ロクは、狼耳をぴんと立たせて目を輝かせるアビスに頬を緩ませる。
「じゃあ、ヌヴィもあれに乗って、お空に行ったのかな?」
アビスは、いつか読んだ絵本の話を思い出して、自分の気持ちに整理を付けるように、それを言葉にした。
「ああ。きっとそうに決まってる。だから、アビスもそろそろ元気にならないと、ヌヴィに笑われちまうぞ?」
ロクは、わしゃわしゃとアビスの頭を撫でながら、優しい眼差しを向ける。
アビスはしばらく考えるような素振りを見せて、大きく一つ頷いた。
「……うんっ。わかった。あびす、ヌヴィが笑っちゃうくらい、げんきだすねっ」
アビスは言って、にぱっと表情を明るくする。
それでも、まだ幼い女の子がすべてを消化しきれるわけもなく、その小さな手に込められる力がぎゅっと強くなる。
「それにね、あのにじはヌヴィのおひげみたいっ」
雨上がりの匂いを肺いっぱいに吸い込んだアビスは、首から下げるお魚型のポーチをひと撫でして、その小さな一歩を再び踏み出したのだった。




