19 使い魔の行く道
「……」
意識を取り戻したロクは、ぼんやりとする頭に手を当てたまま、未だに眠りこけるヌヴィに戸惑っていた。
「今のは……こいつの記憶か?」
「……多分」
隣に立つ放心状態のリコベルの頬には目尻から溢れた雫が流れる。普段のポンコツっぷりを見せるヌヴィからは想像を絶する過去だった。
何度繰り返しても変わらない、変える事のできないオルコスの悲しい末路をその眼で見続けてきている。
それでも、ヌヴィは初代のオルコスとの約束を守るために、どれだけ悲しい最期になるとわかっていても、呪いにも似たその血族と寄り添い続けてきたのだ。
全ての者に笑顔を。
その子供じみたオルコスの願いを叶えようと、その幻想をオルコスと共に追い続けてきた。
だが、その悠久にも似た呪縛の螺旋も、もうじき終わろうとしている。
「……む?」
二人が呆然と立ち尽くしていると、気配に気付いたのか、ヌヴィの目がゆっくりと開いた。
「なんだ……わっぱと小娘か。使い魔の固有結界に断りもなしで勝手に入ってくるとは、礼儀がなってないのではないか?」
ヌヴィはおどけるように口の端を釣り上げて、露わになっている自身の満身創痍の体を一瞥すると、自嘲するかのように小さく鼻で笑った。
「お前……あとどれくらい持つんだ?」
ロクは捻り出すような低い声で知りたくないことを訊く。
「……ふっ。我輩の記憶に触れたか。まったく、そんな顔をするでないわ。こっちまで滅入るではないか」
ヌヴィはひとつ大きく欠伸をすると、そこいらで見る寝起きの猫となんら変わらぬ伸びをして、体の傷を魔力で隠した。
「狂騎士討伐に加勢している、もう一人の殲滅階級ってのは……お前か?」
ロクはヌヴィをまっすぐに見据えて、確信に変わってしまっている疑問を口にする。
「……わっぱ。我輩は眠い。続きは、また明日にしてくれないか?」
ヌヴィがロクから視線を外し、何かをはぐらかそうとした瞬間、不意に耳鳴りのような甲高い音が響いた。
「まったく。魔導士というのは空気が読めない上に節操もないか」
ヌヴィが布団の下から取り出したのは、羊皮紙を幾重にも重ねた上に奇怪な紋様が描かれた一枚の札だった。それは、ロクが胸元にしまっている魔導士の呼び札と同じものである。
「やっぱりな。ヌヴィ、もういい。あとは俺がやる」
ロクは言って、ヌヴィの手から呼び札を奪うと、「お前は、アビスの傍に居てやってくれ」と、その使命を引き継ごうとする。
「バカを言うな。我輩の主から笑顔を奪うと言うなら、例えわっぱでも許さんぞ」
だが、ヌヴィはそう言って尻尾を素早く振ると、ロクの手から呼び札を奪い返した。
「お前っ、その身体じゃっ!!」
「……くくっ」
ヌヴィは、感情を剥き出しにして迫るロクを見て、不意に喉の奥で笑いを噛み殺すと、
「まったく。いや、そうか。使い魔というのは存外主に似るものなのかもな」
そんなことを言って、楽しげに尻尾を揺らした。
「許せ、わっぱ、小娘」
――っ!?
ヌヴィがロクとリコベルの額を順に尻尾で小突くと、同時に二人の意識は再び闇に落ちていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
巨躯の漆黒が野を駆ける。
辺りを行く行商人や冒険者には視認できないようで、巻き起こる突風にただ眼を丸くしていた。
その速さは人智を超えた速度で森へ入ると、魔導士の呼び札に従って、ヴァンの待つ場所へと一直線に進んでいく。
行く手を阻むのは、乱雑に育った獣道の草木。
だが、ヌヴィの妖しく光る赤い魔眼が睨むと、まるで木々が頭を垂れるかのように道を譲った。
そうして、まもなくヴァンと落ち合う場所が迫ったところで、眼前に一人の人間が現れた。
ヌヴィはその脚を止めると、その者を見下ろし僅かに逡巡して口を開いた。
「我輩は急いでいる。用があるなら早急に頼む」
「ヴァンさんから、貴方が納得すれば代わりを務めても良いと言われました」
ヌヴィの前に立ちはだかるように魔力を解放し、腰に帯びた細剣を抜刀したのは、灰色のローブを身に纏う少女だった。
「代わり? 馬鹿を言うなよ……金髪」
フレアは、自分なりに集めた情報を元に真実にたどり着いている。このポンコツだと思っていた使い魔が、これから何を成そうとし、何を覚悟しているのかも、わかってしまっている。
「馬鹿な事かどうかは、試してみないとわかりませんわ」
フレアは、徐に持ちうる全ての魔力を解放すると、自身を中心に渦巻くような風を展開させた。
だが、ヌヴィが軽く尻尾を縦に振って地を叩くと、たちまちの内にフレアが展開させた風の防壁が無へと収束していく。
「まったく。無駄な魔力を使わせるでないわ」
「……」
フレアは、想像を絶する力の差にただただ驚き唖然としてしまった。
「……っ!」
フレアは後から湧いて出た悔しさに歯を食いしばる。そして、片膝を地につけると、その細い指で握られた拳を胸に掲げる。
「……何のつもりだ?」
ヌヴィは、まだ何かあるのか、と辟易した様子でフレアを見下ろしたのだが。
「偉大なる原初の魔女の使い魔ヌヴィ殿っ……先輩を助けてくれたこと、心から、感謝します」
フレアは、意外にも掠れた声で心からの言葉を吐き出し、深々とその頭を下げた。
「……よせ。まあ、我輩もわっぱとは色々と因果があってな。成るべくしてなった事だ。金髪が心に病むことではない」
顔を伏せたフレアの相貌から頬に雫が伝い、それをヌヴィの尻尾が優しく拭った。
「では、せめて我輩から一つ。どうやら、我が主が単独行動を始めたみたいだ。事にならない内に連れ戻してくれ」
ヌヴィは、やれやれと、その巨躯の体で肩をすくめるような素振りをして、フレアに頼めるか? という視線を向ける。
「……確かに」
フレアは幾つかの感情を胸にしまうと、疾風の如く姿を消した。
「まったく、何の余興なのだこれは」
ヌヴィは言って、木陰に潜むヴァンへ嫌そうな顔を向ける。
「すまないね。ロクくんの周りには面倒なのが多くて」
ヴァンは苦笑しながら木陰から出てくると、その分信頼できるけどね、と付け加える。
「準備はできておるのか?」
「もちろん。余興はここまでさ」
ヴァンは言って、拳で一つの大木を小突くと、そこには白く光る魔法陣が出現した。それは、グレンが待つポイントへ直通となるヴァンの術式魔法だった。
「じゃあ、時間きっかりに迎えに行くから、ちゃちゃっと頼むよ」
ヴァンは、何でもないことを頼むかのように、極めて明るく努める。
「ふん。短い付き合いではあったが世話になった。叶うならば、最後までわっぱの味方でいてくれ」
ヌヴィはヴァンを見ずにそう言って、転移術式の魔法陣の中へと吸い込まれていった。
「最後に……そんな事を言われても、困るよ」
ヴァンの言葉が、誰もいなくなった森の中で小さく虚空へ流れた。




