13 記憶を奪う秘薬。
鬼気迫る表情をした一人の青年が、エスタディア北区を駆け抜ける。朝の準備に追われる職人たちの驚いた表情に構うこと無く、ただひたすらに全速力で。
もう、あれを飲んでしまっていたら、自分のことはわからなくなってしまっているかも知れない。
焦る気持ちを抑えきれないまま、そこへと戻ってきたロクは、乱暴に店の扉に手をかけた。
「アビスっ!!」
飛び込んだ室内には、驚いた表情のフレアと、コップを手にしたまま固まるアビスの姿があった。
早鐘に打つ鼓動を抑えてアビスに駆け寄り、その細い腕を取ってロクの視界に入ったのは、空になったコップの中身だった。
間に合わなかった。
馬鹿な事を考えて、自分勝手な行動をしてしまった代償は、きちんと支払われたらしい。
ロクは、腹の底が奈落へと落ちていくような虚脱感と後悔に圧し潰されそうになりながら、両の膝を折り、掠れる声で「すまない」と、床に向かって零した。
「……?」
アビスは呆然とした表情でロクを見るばかりで、そこからロクの求める結果は見て取る事ができない。
だが、ここで心を折ってしまったら、ヌヴィの言う『守る』という事は一生叶うことはないだろう。
一から全部説明して謝罪した上で、はじめからやり直そう。出会ったところからもう一度、アビスとの関係を作っていく。
ロクは歯を食いしばり、意を決して口を開いた。
「アビス。俺は――」
そう、言いかけた時。
「どっ、どうしたのロク? おしごとは?」
「っ!?」
ロクは口を半開きにしたまま、呆然とアビスを見上げる。
アビスの口から出たのは自分の名だった。何がどうなって、何だったか。
ロクは、これからアビスに伝えるはずだった言葉をすべて失い、頭の中が一瞬真っ白になる。
よくわからないままフレアに目を向けると、空の小瓶を胸元から出して見せて、
「すみません先輩。うっかり全部零してしまいましたの」
そう言って、フレアは心底嬉しそうに微笑んで頭を下げた。
ロクは、しばらく間抜けな表情でフレアを見たあと、ゆっくりとアビスに向き直り、
「アビス……俺は、馬鹿だっ」
小さく言葉を捻りだすと、その小さな体を強く抱きしめた。
「っ!? ……ロク?」
アビスは、良くわからない状況に戸惑いながらも、すぐにそれに気が付いた。気が付いて、どうしようもなく泣きそうになるような、笑いそうになるような、不思議な感情が湧いて出た。
「ロク……どうしたの? 怖いおばけ出た? だいじょうぶだよ。あびすがやっつけてあげるね?」
アビスは、心配そうにロクの身体をぎゅっと強く抱きしめ返すと、頭をよしよしと撫でてやった。
ロクの身体が、僅かに震えていたからだ。
アビスは、いつも助けてもらってばかりだけれど、ロクが困っている時は自分が力になりたいと思っている。
「もっと、むぎゅってする? あびす得意だよ?」
普段から、ぬいぐるみのうさぎにしてやってるので上手にできる。アビスは、そう思ってロクの体を抱きしめたまま、耳元でささやいた。
「いや、もう大丈夫だ」
ロクは、自身の情けなさと愚かさを存分に堪能したのち身体を離すと、アビスと視線を合わせたまま、ゆっくりと口を開く。
「アビス。俺はまた近いうちに、仕事でレギオンに戻らないとならない。でも、必ず帰ってくるから待っていてくれるか?」
「……うんっ。あびすいいこできるよ!」
アビスはお姉さんぶって、にこっと笑ったあと、すぐに表情をこどものそれに戻し、ロクのシャツをぎゅっと掴んだ。
「でも、きょうはまだおしごといかない? あびす、お料理ロクにつくりたいけど」
「ああ。2、3日の間は大丈夫なはずだ」
ロクの胸元には、グレンから渡された魔導士の呼び札がしまわれている。緊急の指令がある場合は、これで知らされる仕組みになっているのだ。
「ほんとっ! もうきょうはないしょでどっか行かない?」
アビスはやっぱり気にしていたのだろうか、ないしょ、という部分を強調してロクのシャツを掴む手に力を込める。
「あ……ああ、本当だ。じゃあ、夜になったらアゼーレの店でごちそうになるかな」
「うんっ! あびすいっぱいれんしゅーしたから、ちょうおいしいの作るねっ!」
アビスは、にぱぁっとお日様のような、柔らかい笑みを向けてくる。
「楽しみにしてる」
ロクは言って、アビスの頭に手を伸ばす。
瞬間、決まっていたかのように、写真の女の子が浮かぶ。
だが、ロクにもう迷いはない。ヌヴィに正してもらったその道は、しっかりとロクの心の中心で守る強さを示していた。
ロクは、えへへ、とはにかむアビスの頭をわしわしと撫でてみる。
指の隙間を抜ける細い髪と、少し触れるとくすぐったそうに動く獣耳は、この小さな魔女を守り抜くという決意を持たせるのに、十分な暖かさだった。
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「それで、狂騎士討伐に加わったっていう、もう一人のやつは何者なんだ?」
「……それが、私にも情報が入って来てませんの。かなりの凄腕らしいので、地方に散っていた殲滅階級なのは間違いないと思うのですけど」
あれから、アビスは今日も学校があるという話だったので、それまで寝とくように伝えて、フレアとロクは情報交換を進めていた。
そのアビスはと言えば、今はロクの膝の上ですーすーと寝息を立てている。ロクがまたぞろ内緒でどこかへ行くかもしれないという不安から、起きてるの一点張りで二階の寝室へ行くのを拒んだのだ。
「そうか。まあ、せいぜいこいつが鳴らないのを祈ってる」
ロクは胸元から、羊皮紙を幾重に重ねて加工して作られた、奇怪な紋様の入った札を取り出してひらひらと弄ぶ。
「ふふ。しばらくは大丈夫だと思いますわ」
フレアは、皮肉たっぷりに言ってくるロクを愛おしそうに見つめて、このチャンスを逃す手はないと、以前から考えていた作戦を実行に移すことにした。
「先輩。私、結構頑張ってますわよね?」
「ん? ああ、お前にも助けられてばかりだな」
「まだ先輩への恩返しには足りてませんが、今回の私の功績には何かしらのご褒美があっても良いかと、恥ずかしながら思うのです」
フレアは、怪訝そうにするロクに構うこと無く、言葉を重ねる。
「ご褒美? よくわからんが、欲しいものでもあるなら、今回かなりの報酬がレギオンから支払われるらしいから、そんな高いものじゃなけりゃいいぞ」
「いえいえ。私が欲しいのは、そういうものではないんですの」
フレアは言って椅子から立ち上がると、照れるような演技をしながら、店の扉の前まで歩き、純粋無垢な表情を作ってぱっと振り向いた。
「私が欲しいのは先輩との、こど――ぷぎゃっ!?」
フレアが何かを言いかけた瞬間、乱暴に扉が開け放たれた。
「ロクはっ!?」
飛び込んできたのは、息を荒げたリコベルだった。
「……あれっ? 何であんた……職人さんから黒い馬車が街を出てったって、どういう事?」
リコベルは、混乱する頭のまま疑問を口にする。
「ちょっ、ちょっとあなた。今良いところでしたのにっ」
フレアは、リコベルが開け放った扉に弾き飛ばされ尻もちをついたまま、文句を言う。
「ああ、ごめん。てか、何で扉の前に居たのよ」
「い、色々と段取りがあったのですわ」
フレアは、まったくもう、とスカートを払うと、毒気が抜かれたように大きく一つ嘆息する。
リコベルにはちゃんと説明して、謝罪しないとならない。
「……リコ?」
一連の流れで目を覚ましたらしいアビスが、こしこしと目元をこすりながら、リコベルの存在を認めたようだった。
「フレア。悪いんだけど、アビスちゃん学校に連れてってくれない?」
「は? 何で私がそんな事を」
「ちょっと、こいつと二人で話したいことあるから、お願い」
リコベルは、片を付けるとでも言わんばかりに、真剣な面持ちでフレアを見据える。
「……わかりましたわ。ささ、アビス。行きますわよ」
フレアは、仕方がありませんわね、と状況を察すると、手早くアビスに着せる外套を手に取り、その小さな背中をぐいぐいと押した。
「えっ? でも、はみがきと顔洗うのまだしてないよ?」
「そんなの向こうでできますわ」
アビスは状況がよくわからないまま、ロクの方をちらちらと何度か見ながら、フレアに背中を押され、店から出ていく。捨て台詞というわけでもないが、ないしょはダメだからねっ、と、アビスは念を押していった。
バタバタと騒がしくなったのち、少しの沈黙を待って、リコベルは静かに口を開く。
「……で? 何がどうなったのか。しっかり説明してもらうわよ?」
「ああ。実は……」
ロクは大きく一つ呼吸を整えると、リコベルにこれまでの経緯を全て説明した。
リコベルは、ロクの話に茶々を入れることなく、黙って今回の全容を聞いた。
――そして。
「なるほどね。あんた、ちょっとそこに正座しなさい」
何を言うでもなく清聴していたリコベルは、ただ無表情でそう言った。
「……?」
ロクはよくわからないが、首を傾げて言われるがまま地べたに正座した。
次の瞬間だった。
――っ!?
ロクは激しく後方に弾き飛ばされ、後を追うように頬に痛みが走った。
有り体に言って、ぶん殴られたのだ。
「アビスちゃんの記憶をなくそうとした!? 馬鹿なのあんたはっ!!」
殴られて当然だ。
ロクは、仁王立ちして怒りを露わにするリコベルを見て、素直にそう思い自嘲気味に苦笑してしまった。
「なに笑ってんのよっ!」
「いや――」
すまなかった。そう言おうとしたロクの口は、眼前のリコベルを見て閉じられた。
リコベルの目尻に涙が浮かんでいたからだ。
「頼りないかっ!!」
「……?」
リコベルは、泣き声混じりに声を荒げる。
「私は、そんなに頼りないかって言ってんのよっ!」
「……いや。そんなことは」
ロクは、罪悪感とリコベルの剣幕に気圧されながらも、頬に走る熱を確かに感じていた。
「だったら、今度からはちゃんと全部話して。あんたが、また馬鹿みたいなことしなくてもいいように、私も一緒に考えるから」
私が、あんたを支えるから。
そう続くはずだった言葉は、今はまだリコベルの胸の内にしまわれる。
そうして、この一件は無事に終息したと、この時の二人は疑いもせずに、確かにそう思っていた。




