09 魔導士として。
閉じた瞼の外側に薄っすらと光を感じ、ロクは目を覚ました。
狭い室内には、自身が体を預ける治癒術式が施されたベッドと、小さなテーブルがぽつんと置かれている。
ここは、魔導レギオン内にある、臨時でロクにあてがわれた一室だ。
ロクは、鉛のような半身を起こし時計に目をやると、まだ眠りについてから二時間ほどしか経っていない事に気付いた。
ここのところは、ろくに睡眠も取っていないせいか、頭の中にもやがかかっているように思考が重い。
眠ろうとすると、写真の女の子とアビスの姿が脳裏に浮かんでは消え、ロクの心をかき乱していた。
もう、アビスとしばらく会っていないような、言い表しようのない空白が胸の奥に鎮座している。
レギオンに戻ってから、どれだけの命を奪ったのか。どれだけ誰かの幸せを壊したのだろうか。
ロクは、忌々しそうに自身の掌を見つめる。
この汚れた手で、再び彼女を撫でる事ができるだろうか。そんなことが許されるのだろうか。
アビスの事を思い出す度に、あの暖かい日々の記憶を思い返す度に、苦しい。苦しい。苦しい。と、ロクの心が叫び声をあげていた。
仮初の平穏に少しばかり身を委ねたところで、どこまでいっても魔導士は魔導士なのだと痛感させられる。
もう、いっそのこと……と、ロクが胸の奥に引っかかる何かを手放そうとした時、不意にノックの音が響いた。
「……はい」
「おっ。起きてるか? 入るぞ」
その言葉と同時に部屋へ入ってきたのは、白髪頭の大柄な男、グレンだった。
「うぉっ。何だっ!? ひっでぇ面してんなぁ」
グレンは、そんな事を言って、ずかずかとベッドに歩み寄り、テーブルを椅子代わりにして、どかっと座った。
「出撃ですか?」
ロクは、壁に掛けられた黒いローブをちらりと見て、ベッドから起き上がろうとする。
「いや、今日は休みだ。なんでもヴァンの野郎が腕の立つ魔道士を殲滅階級に引き入れたらしくてな」
「休み? 休んでいたら戦死できませんよ」
ロクは、皮肉たっぷりに言ってやる。
「あん? ん~、ああ。なるほど。まあ、そうも取れるはなぁ。だからヴァンの野郎もあんなに……」
グレンは、意外そうな表情を浮かべて、あごひげをじょりじょりと撫でる。
「出撃でないなら、何の用ですか?」
「まあ、そう邪険にすんなって」
グレンは、だっはっは、と豪快に笑うとロクの背中をばしばしと叩く。
「それで、どうだ? 久々に魔導士として働いてみて」
「よく……わかりません」
ロクはうつむいたまま、手のひらを開いたり閉じたりする。それだけで、その心境は見て取れた。
「ロク。このままレギオンに戻って来い。普通の暮らしと魔導士の生業は、決して混じり合わない。それに、お前が魔女の嬢ちゃんをただのこどもとして過ごさせたいなら尚更だ」
グレンは、先程までの豪快な笑みを消し、真剣な眼差しを向ける。
「……」
「魔女の嬢ちゃんには、あの赤髪の子を付けておけばいいだろ。お前は、外側から外敵を駆除すればいい。レギオンに居た方が情報も早いしな」
グレンの言っている事はわかる。その方が効率的だし確実に守る事ができるだろう。
だが、アビスに寂しい思いをさせてしまう。しょんぼりと獣耳と尻尾を萎れさせ、自分の帰りを待ってくれている姿が脳裏に浮かんでくる。
それだけで、レギオンに戻るという選択肢を容易に否定する事ができた。
「……自分の処遇は様子見の筈です。それに、こうして魔導士としての職務にもあたっています」
「魔女の嬢ちゃんに寂しい思いをさせるのが辛いか?」
グレンは一拍の間もおかず、ロクの心を見透かす。
「……」
ロクは言葉を返さぬまま、拳を固く握り自身の境遇を呪う。
「そうか。そう思ってな、今日はちょいといいもん持ってきてやった」
そう言ってグレンが懐から取り出したのは、透明な液体の入った小瓶だった。
「それは?」
「こいつはな、俺が現役で前線に出てた時に、とある魔女から貰った秘薬でな。なんでもこいつに自分の魔力を込めて飲ませば、自分に関する記憶が消せるって代物らしい」
グレンは、透明な液体の入った小瓶に陽を当てながら、ちゃぷちゃぷと揺らしてみせる。
「アビスの記憶を……消す?」
「まあ、方法の一つだな。寂しい思いをさせたくないってんなら、お前が居なくても寂しくない状況になっちまえば問題解決だろ?」
グレンは、軽い口調でそんなとんでもない解決策を提示した。
「それともお前は、自分が側に居たいという欲求を満たすためだけに、嬢ちゃんに寂しい思いをさせて、危険にさらすことが正しいと言いたいのか? それにだ。本当にその小さな魔女がただのこどもってんなら、その親が恨まれ憎まれる魔導士ってのはどうなんだ? この数日で何人殺した? どれだけ壊した? お前だって本当のところはわかってるんだろ? その手が、どういうものなのかを」
グレンはゆらぎを見せるロクに、矢継ぎ早に、畳み込むかのように、言葉を重ねる。
わかっている。考えないようにしてきただけだ。
あの陽だまりのような日々に身を委ねながらも、自身がこれまでやってきた事は体の中心にこびりついていて、いつだって心の安寧を得る度に罪悪感を巡らせていた。
殺して、奪って、壊したくせに、と。
ロクは、ぼんやりとその液体を視界に収めながら、あの街での暖かな日々を思い返す。それは何とも得難く、手放すと考えるだけで身を裂かれるような、今の自分の全てのようなものだ。
だが、それは魔導士の自分にとって分不相応なのだ。
例え誰かの小さな幸せを守るためとは言え、殺せば殺した相手の家族や繋がりがある者から恨まれ憎まれる。当然、その者たちからすれば、悪は殺した魔導士、つまり自分なのだ。
だから魔導士は正義を口にしない。殲滅する対象を悪と断じることもない。
そして、魔導士は一般の人と繋がりを持たない。持ってはいけない。普通では無いから、関わりあった者も関わりを持ってしまった魔導士本人でさえも、普通では居られなくなってしまうから。
魔導士の日常は狂っている。狂っているからこそ、誰かの日常を正常に保てる。
そんな事はずっと前からわかっていた。わかっていたのに、いざ繋がりを得てしまってから、それらに意識を向けると、眼前に迫る魔導士としての正しい選択肢に酷く感情的な嫌悪感が立ちはだかる。
だが、あの優しい小さな女の子の保護者が人殺しであって良い筈もない。
これまでの事を全て……無かった事に。
「まあ、無理にとは言わねえけどな。そいつはやるから、いらなければ捨ててくれ」
グレンは、すっと頬を緩ませると、思い悩むロクにそれ以上の追求はせず、その記憶を消せるという魔女の秘薬をテーブルに置いた。
「ヴァンの話じゃ、狂騎士の方は、3、4日は大丈夫だそうだ。一度帰ってみたらどうだ?」
「いいんですか?」
「そりゃあ構わんさ。おじさんとしては、どんな手でもどんな状況でも、目的が果たされてるのなら文句の言いようもない」
グレンは、おどけるように両手を広げてみせる。
「ロク。よく考えることだ。お前さんの力と、嬢ちゃんの置かれている状況。魔導士として、何が最良なのかを」
ヴァンは、重みのある手のひらをロクの肩に乗せると、じゃ、と小さく告げて部屋を出ていった。
一人部屋に残ったロクは、テーブルに置かれた小瓶をじっと見つめる。
「最良の選択……か」
そう小さく零し、旅支度を始めたロクの胸元には、魔女の秘薬が入った小瓶がしまわれていた。




