18 魔導士と召喚者。
「ああ、これは凄い。まさか、聖域を壊そうと思っていたなんてね。でも、せいぜい効力が少し弱まった程度だ。それに、これを壊したからといって、どうだって言うんだ?」
ロレントは、まさか聖域に干渉するとは、と少し驚いたものの、相変わらず余裕の笑みを保っていた。
「さあね……」
リコベルは、限界の体に鞭を打って、何とか立ち上がると、感覚が無くなり始めている手で、強く剣を握り直す。
聖域結界を壊すには至らなかった。
あの一瞬で、ロクがどうにかできたのかどうか……いや、あいつなら、絶対に。
リコベルは、迷いを打ち払い、真っ直ぐな気持ちでそう信じて、今は少しでも時間を稼がなくては、とロレントへ向けて剣を構えた。
「だからさぁ……あの魔導士ならとっくに死んでるって、言ってるだろっ!」
ロレントは、頑なに希望を捨てないリコベルに苛つきを見せ、感情の赴くままに属性魔法を放つ。
「ぐっ!?」
リコベルの体は、強く壁に叩きつけられ、同時にカラン、と音を立てて、唯一の武器である剣が弾かれ、地面に転がった。
もう、ロレントの魔法から身を守るだけの魔力すら残っていない。
「いい加減、降参したらどうだ? 僕は君を奴隷にすると決めたからね。あまり傷つけたくないんだ」
ロレントは、そろそろ精神魔法に抵抗する魔力も尽きているだろうと当たりをつけて、リコベルへ向かって一歩踏み出した。
「もう……いいわ」
「ん? やっと諦めて、おとなしく僕の奴隷になる気になったかい?」
「馬鹿ね。そんなわけないでしょ……あんた、もう終わってるから」
リコベルは、その姿を認めると、後は任せた、とでも言うように全身から力を抜いた。
「何を言ってっ!?」
ロレントは、リコベルの視線の先を追うように振り返ると、そこには想像を絶する魔力と殺気を帯びた、最強の魔導士が屹立していた。
「なっ!? お、お前、どうやって……っ!?」
「……」
ロクは、何を言うでもなく、ボロボロになったリコベルを見て歯噛みをすると、更にその魔力を増幅させていく。
「は、ははっ。いいぜ、やってやるよっ!」
ロレントは、ロクが聖域結界内に入るために、相当な魔力を消費しているだろう、と踏んで、掌に魔力を集中させて戦闘態勢に入る。
「言っておくが僕は召喚者だ。お前みたいな雑魚魔導士に――」
ロレントの言葉は、そこで途切れた。
僅かな時間差を持って、建物の軒先に積まれていた木箱が砕け散る音が響く。
何が……どうなった?
ロレントの視界には、何故か空が映っていた。
熟睡中に、突如起こされたかのような、理解できない状況に呆然とする。
――閃光。
凄まじい魔力を帯びた何かが迫ってくる。ロレントは、その意も知れぬ恐怖を感じ取り、何とか身を捩って、それを回避した。
とにかく、距離を取らなければ。現状の確認を。
目の前には、とてつもない魔力の波動を放つ魔導士が相対している。そして、ややあって、じわりと頬に鈍痛が広がった。
ぶっ飛ばされた。その事実が、うるさい心音と共に、ロレントの全身へ染み渡っていく。
攻撃を防ぐどころではない。速すぎて、視界に捉える事すらできなかった。
何かのスキルか、それとも。
ロレントは、早鐘を打つ鼓動を抑えて、自分の置かれている状況を整理しようとするが、間髪入れずに尋常ではない魔力が迫ってくる。
「ぐっ!?」
自身が持ち得る最大級の防護魔法を全て発動させ、何とか防いだものの、それでも勢いを殺しきれず、ロレントの体が大きくノックバックする。
一瞬にしてロレントの表情から余裕は消え失せ、見る見るうちに焦りの色へと染まっていく。
実際のところ、総魔力量的にはロレントも劣ってはいない。
しかし、血の滲むような修行を繰り返し、精錬されたロクの体術と、与えられた魔力を振るってきただけのロレントでは、そこに雲泥の差が生じていた。
「くっ、くそっ! こんなところで……終われるかっ!!」
ロレントの掌から、持ちうる全ての攻撃魔法が乱射されるが、その弾幕によって舞った砂埃ですら、ロクが発する魔力の波動で瞬時に打ち払われてしまう。
「なっ、何なんだよ、お前はっ!? こんなのまるで……」
スキル魔法では、ロクに対しての有効打にはならない。そこから導き出される結論は、詰みであった。
「くっ!」
ロクの拳が、ロレントの魔法防御の上から、お構いなしに叩きつけられる。
それでも、さすがは召喚者といったところか、並大抵な冒険者であれば、既に粉微塵になっているであろう、その攻撃を何とか凌いでいた。
しかし、徐々にロレントの魔力が目減りしていく。
魔力操作には精神状態が大きく関与する。ロレントは自分より弱いものしか相手にしてこなかった為、初めて劣勢に立たされた事で、心が乱れて魔力がうまく操れなくなってきていた。
それは、圧倒的な恐怖である。
その一方で、ロクの攻撃速度は落ちる事なく、更に上がっていく。そして、一瞬ロレントの防護魔法が遅れた。
――っ!?
とうとうロクが放った拳の一撃が、腹部に凄まじい衝撃を走らせ、ロレントはその勢いのまま、建物の壁に激突し、悶絶した。
「……ぐっ、いっ、痛てえっ。おっ、おいっ。ちょっ、待てっ。骨がっ!」
ロレントは、大きく咳き込みながら、迫り来るロクに懇願の目を向ける。
「……」
ロクは、その様を無感情に見据えながら、瞬時に距離を詰める。
「ちっ、違うっ! 僕も被害者なんだっ! 勝手にこの世界に召喚されて、それで……」
ロレントは、地面に尻を付けたまま、両手を交差して何とかこの場を切り抜けようと、必死に弁明するが、
「……何でもいい」
「へっ?」
魔導士の酷く冷たい瞳が、ロレントへ向けられる。
もう、理由などどうでも良かった。目の前の男が、アビスを苦しめ、悲しませ、追い詰めた。更には、リコベルまで。
それだけで、その拳を突き立てるには十分だった。
「好きな神に祈れ」
ロクの拳に、防ぎようのない魔力が集約されていく。
「ひっ、や、やめろっ! くっ、くそっ、魔力が出ないっ!? た、頼む、死にたくないっ!」
命乞いをするロレントに、魔神すらも貫いたその拳が、禍々しい波動を放つ。
そうして、ロクの拳が、ロレントに放たれる寸前。
――っ!?
突如、二人の間に稲妻のような衝撃が走った。
そこには、ロレントのつま先を掠めるように、長柄の鉈が地面に突き刺さっている。
「ふ~。間一髪だねえ、馬鹿魔導士」
間延びする声でそんな事を言いながら、反対側にある建物の屋根から飛び降りてきたのは、魔導レギオンの頂点、ルマ・ドレイクだった。
「ババア……何のつもりだ?」
ロクは、激情に支配されたまま、ルマを睨みつける。
「何のつもりって、そいつを保護するつもりさね」
すると、ルマは片眉を釣り上げて、さらりとそんな事を言って退けた。
「どういう……事だ?」
返答次第では、魔導レギオンだろうと容赦はしない。ロクの魔力は感情を投影し、静かにルマへと向けられる。
「落ち着け、馬鹿魔導士。感情に従って自己満足のためにそいつを殺すのと、あの娘を守るためのカードを増やすのと、どっちが大事だい?」
「……っ!」
召喚者であるロレントは、教会が隠蔽したい多くの情報を持っている筈だ。その身柄だけでも、大きな交渉材料となるだろう。
つまり、ロレントを生かす事が、結果的にアビスを守る事に繋がると、ルマはそう言っているのだ。
アビスを守るため。
ロクは、そのたった一言で冷静さを取り戻すと、込み上げる様々な感情を無理矢理に飲み下し、拳を下ろした。
「いや~、怖い魔導士が乱暴してすまなかったねえ」
ルマは、ロクの肩を軽く叩き、立ち位置を入れ替えると、すっとロレントの前にしゃがみ込んだ。
「なっ、何だお前は? 僕を助けたって事は、教会の奴なんだろ? はっ、早くこいつを殺してくれっ!」
「あー、悪いが私は教会関係者ではないよ。魔導レギオンで総帥やらせてもらっている老いぼれさね」
ルマは、真っ直ぐにロレントを見据える。
「なっ!? レギオンっ? ……ぼっ、僕に手出しをすれば、教会が黙ってないぞっ!」
「ん? おかしいねえ。教会は、今回の件に関しては、この区域を担当する高位聖職者の手違いだったと謝罪し、金まで寄越してきたんだが」
「……そっ、そんな、まさかっ!?」
ロレントの顔が、絶望に歪む。
「つまり、この邪教改めにお前さんは居ない事になっている」
教会による、とりあえずの尻尾切りだった。
「まあ、そういう事だから、これにサインしてくれるかい?」
ルマは、手の中から一枚の誓約書を出現させた。
そこには、『私はいかなる場合においても、交渉が終わるまで魔力を使いません』と記されている。
「な、なんだこれは? こんなものにサインなんて……」
ロレントは、その誓約書を見て、反射的に拒絶を示す。
「ああ、あいつの魔力は異常でねえ。素手でも鋭利な刃物のように人の首を落とす事ができるらしい。自分の眼で自分の尻の形がどうなっているのか、見てみたいと思わないかい? カミシロ・レント君」
ルマは、脅すような不敵な笑みを浮かべる。
「ひっ、わ、わかった。ここにサインすればいいんだろっ?」
「いや~、話がわかる男で助かるよ」
ロレントが、いそいそと誓約書にサインした瞬間、その全身に鈍色の見えない鎖が巻き付いていく。
「っ!?」
それは、ルマの術式魔法であり、誓約書に名を記した者は、三十日の間、魔力が使えなくなる。
ロレントはこの後、魔導レギオンの拷問により、その情報を全て引き出されるだろう。
「おい、ババア……」
その様子を静かに見ていたロクが、耐え切れずにぼそりと口を開く。
「うん? 何だ?」
「殺さなきゃ……いいんだろ?」
ルマは、その言葉の意味する事を即座に悟り、じっとロクの顔を見据える。
「……ふむ」
その瞳に先ほどまでの淀みは無く、正気である事が伺える。
「ああ。殺さなければいい」
ルマは、にやっと口の端を釣り上げて立ち上がり、早く済ませろよ、とでも言わんばかりに再びロクの肩を叩いた。
「なっ、なにをっ!?」
ロクは、ロレントの襟首を掴んで、無理矢理に起き上がらせる。
これは、八つ当たりだ。
今回の事は、自分がちゃんと側で守ってやれていれば、起こらなかった筈だ。それでも、ロレントを許す事など、到底できない。
だから、八つ当たりだ。
ロクは、魔力を消失させると、その拳を固く、固く握りしめ、ロレントを睨みつける。
「やっ、やめっ――」
衝撃。
鈍い音を伴って、ロレントの体が宙を舞い、地面を転がっていく。
「ん~、あれは本当に生きてるんだろうねえ?」
ルマは、死にかけの虫のように逆さになって痙攣するロレントを見て、やれやれと肩をすくめた。
「んじゃ、後のことはこっちでやっておく。お前さんには、まだやる事が残っているだろう?」
「……ああ」
ロクは、続々と北区へ入ってくる魔導士たちには目もくれず、即座にリコベルへと駆け寄って行く。
「リコっ、大丈夫かっ?」
「何とかね……」
リコベルは、不安気なロクを心配させぬよう、痛む全身に耐えて、にっと笑みを浮かべた。
「それより、私の事はいいからさ。早く、アビスちゃんのところに行ってあげて」
自分が受けた傷は、すぐに治るだろう。だが、アビスが心に負った傷は、取り返しが付かなくなるかも知れない。
だから、できるだけ早く、彼女の所に行ってあげて欲しい。
リコベルは、ロクを突き動かすように、真剣な眼差しを向ける。
「いや……」
ロクは、何度かリコベルから視線を外したり、傷ついたその姿を見たりして、まごまごしていると、
「ほら、早く行きなってっ」
その肩をとん、と押されてしまう。
「……すまん。お前には助けられてばかりだ。近いうちに、必ず埋め合わせをする」
「うん。楽しみにしてるっ」
ロクは、心底申し訳無さそうに眉を下げると、全速力で通りを駆け抜けて行ってしまった。
その言葉だけで十分だ。
リコベルは、駆けつけてきた魔導士の医療班の治療を受けながら、埋め合わせという約束に、小さく頬を緩ませたのだった。




