09 魔導士と小さな背中。
小さな材料屋に穏やかな静寂が流れる。
夕食を済ませたいつもの三人は、それぞれに本を読みながら、ささやかな団欒に身を委ねていた。
それは、なんてことのない日常の一幕なのだが、無愛想な魔導士だけは、その安寧の中に心を落ち着かせていなかった。
何かがおかしい。
ロクは、木箱に座って絵本を広げるアビスを見て、言い難い違和感を感じていた。
理由はわからないが、何かが違って見える。
ロクは、読んでいた書物をテーブルに置くと、何を言うでもなく徐ろに立ち上がった。
その姿が視界の端に入り、リコベルは、うん? と、ロクを見上げる。
ロクは、リコベルの前を素通りし、そのままアビスの方へ歩み寄ると、すっとその華奢な背中に触れた。
やはり、魔力封印の術式は解けていない。
「……ロク?」
アビスは、その行動の意味がわからなかったので、不思議そうにロクを見上げた。
「何やってんの?」
その様子を見ていたリコベルも、怪訝そうに眉をひそめるが、ロクはその問いに答えることなく、突如アビスのまぶたをくわっと指で広げた。
「っ!?」
アビスは、突然の事に、びくりと体を強張らせる。
「……」
ロクは、無言のまま、真剣な面持ちで、じっと眼球を見つめる。
何かに操られたり、洗脳されている様子はない。幻惑効果のある薬草などを使用していれば、必ず体のどこかに変化が現れる。だが、彼女にそういった状態は見られず、幻惑系の魔法を掛けられているような魔力の波長も感じられない。
「……どうしたの? あびす、またびょーきになった?」
アビスは、少し不安になって、目をこしこししながら、訊いてみる。
「いや……」
ロクは、相変わらずの無表情のまま、アビスをじっと見据えて、
「お前、俺に何か隠してないか?」
何の前置きもなく、そう切り出した。
「えっ!?」
アビスは、色々な内緒の事が頭に浮かんできて、一気に心拍数が跳ね上がった。
「例えば、俺の知らない誰かに会って、それを内緒にしろとか言われてないか?」
アビスは、ごくりと生唾を飲み込んで、震える声で小さく返す。
「言われて……ない」
アビスは、絵本を持つ手にぎゅっと、力を込める。
「そうか。じゃあ、他には何か無いか?」
「……え、えっと――」
「何言ってんのよ、あんたはっ。そんな事あるわけないでしょっ」
話を聞いていたリコベルが、慌てて二人の間に割り込んでくる。
「どうしたのよ、急に」
リコベルは、ロクへのサプライズパーティーがバレないように必死だった。
「いや、何となく気になってな」
「ったく、あんたは。アビスちゃんもびっくりしちゃうでしょ?」
「ちょっと、びっくりした」
アビスは、いつも以上に目を丸くして、尻尾を膨らませていた。
「……すまん」
ロクは、勘違いか、と頭を掻いて二人に謝罪する。
「んじゃ、そろそろ帰るかな~。ねえ、この本持って帰っちゃダメだよね?」
リコベルは、先ほどまで読んでいた古ぼけた本を両手で持って、駄目元で訊いてみる。
その本は、魔導士だけに伝わる秘伝の書物であり、そこには様々な結界についての記録が記されていた。
リコベルは、ダンジョンでの幻獣騒動があって以来、結界に興味を持っており、ロクがたまたま読んでいた本を読ませてもらっていたのだ。
本来ならば、これを魔導士以外に見せた事がバレたら、ロクはレギオンからの懲罰対象になる。だがロクは、彼女に対して並々ならぬ借りがあるし、何より信頼している事もあって、それを許していた。
それでも、外に持ち出すとなれば、そこには彼女にも様々なリスクが付いて回る。
「いや、済まないが、できれば外には持ち出さないでくれ」
「……だよね。でも、結界って色々あるのね。あんたたち魔導士って、こんなの全部覚えてるの?」
「全部ってわけじゃないが、大体はな」
「ほえ~。魔導士になるのって大変なのね。じゃあ、また読みにくる。アビスちゃんもまたね」
そう言って、リコベルはアビスに分かるように目配せをした。それは、サプライズパーティーの事をバレないようにね、というリコベルなりの合図である。
「うん。リコ、またね」
アビスは、それに尻尾をふわふわさせて応えると、リコベルはにっと笑って、月が照らす街の中へ紛れていった。
そうして、二人きりになった狭い店内に、静かな時が流れる。
「じゃあ、そろそろ片付けて寝るか」
「うん」
アビスは、夕食の後片付けをするため、テーブルの上のコップやお皿をまとめて、水場へと運んでいく。
いつの頃からか、洗い物はアビスの当番となっていた。
ロクは、機を見計らうと、本を片付ける手を止めて、食器を洗うアビスに意を決して声をかける。
「なあ、明日は近くの山に簡単な薬草を取りに行くんだが、一緒に来るか?」
「あっ、明日も、学校……あるので、へーきっ」
アビスは、ちらりと肩越しにロクを見て、気まずそうに尻尾を垂れさせる。
「……ああ、いや。無理にってわけじゃない。たまたま近場での仕事だったからな」
本当は、あえて近くの場所を選んだのだが、今回も断られてしまった。
「……うん」
最近は、アビスをどこかに誘っても、こんな風に断られる事が多くなってきた。
リコベルは、女の子はすぐに大人になるし、色々あるんじゃない? と言っていたが、やはり寂しいものは寂しい。
こどもというのは、あっという間に育ち、仲の良い者たちと家族外に自分のコミュニュティーを築いていく。やがて、親に対しては、生活に必要な根源的な部分以外を必要としなくなり、巣立っていくものだ。
だが、この未熟な保護者がそんな事を熟知しているわけもなく、まだまだ一人立ちには程遠いその幼い背中を見つめて、とある不安を感じていた。
避けられている気がする。
ここ最近は、話をしていてもぎこちない感じがするし、どこか心ここにあらずで、アビスの自分に対する態度が変わってきた気がする。
何だか出会った頃に戻ったような、怖がられているような、そんな感覚だ。
やはり、ロレントのように、いつもにこにこしているタイプの方が、こどもにとっては良いのだろうか。
ロクは、ぼんやりとそんな自虐的な考えに嵌っていき、思わず口を開く。
「アビス。俺は……怖いか?」
「ん? 怖くないよ? どうして?」
アビスは、洗い物をしながら、振り返って聞き返してくる。
「いや……」
ロクは、馬鹿か自分は、と思いつきで喋った事を後悔する。そんな事を聞かれて、素直に怖いと言える筈がない。
思い返せばレギオンに居た頃、よくフレアから、他の魔導士から怖がられているから、もっと笑ってください、と言われていた。
ロクは、もうちょっと自分に愛想があれば、と思い、むにっと自身の頬を摘んでみる。
もしも、アビスが自分のことを嫌っていたら、どうすればよいのか。
一瞬、そんな事が頭をよぎり、弱気になるが、すぐに何を馬鹿なことを、と振り払った。
そんな事は決まっているからだ。重要なのは、アビスを幸せにする事であって、自身の保護欲を満たす事ではない。彼女が望むのならば、やはりどこか他の引取先を探して、他の魔導士を近くに配属させて、自分は遠くから見守れば……。
それこそ、馬鹿な考えだが、ロクはアビスの事となると、冷静に状況を判断できなくなる事がある。それだけ、彼女に対する想いが強いからだ。
今、ロクに獣耳と尻尾が付いていたなら、しゅんとしている事だろう。
ロクは、自分がこんな事でどうする、と気合いを入れなおして、途中だった本の片付けを再開した。
二人の間に、何とも言えない空気が流れていく。
アビスは、食器の片付けを終えて、手を拭きながら、仕事道具の整理をするロクをちらりと盗み見る。
一緒にお出かけしたい。
手を繋いで、たくさんお話しながらお散歩して、お仕事のお手伝いで褒めてもらって、それからそれから……。
しかし、その楽しい想像が叶わない事はよくわかっている。
アビスは、行きたいけどロレントとの約束で、北区のあちこちに印を付けなくてはならない。その間は、ロクと少し距離を取るように言われているのだ。
アビスは、内緒のことで苦しくて、ロクが気づかないところで、狼耳を垂れさせて、小さくため息をついた。
でも、ロレントに指定された、印を付ける作業も、残すところあと二回だ。
このまま頑張れば、二日後には魔女を辞められるので、その翌日には普通のこどもとして、ロクの誕生節を祝う事ができる。
アビスは、ロクに迷惑や心配をかけたくない一心で、今日まで頑張ってくる事ができた。
あと、ちょっとだけ我慢すれば……。
しかし、そんな幼い少女の想いを踏みにじるかのように、ロレントの企みが、すぐそこまで迫っていたのだった。




