08 幼女と不安と安心と。
もふもふの尻尾を振りながら、ちっこい奴が北区の通りをとてとてと歩いて行く。
そいつは、幼いながら整った顔立ちで、まん丸の双眸に建物や行き交う人々を映しては消していた。
身に纏うのは、お気に入りのひざ下丈の黒いワンピースで、胸元の白いリボンの刺繍が控えめに主張している。
指を通せばするりと滑りそうな、綺麗な黒髪を肩の辺りで揺らし、軒先から顔馴染みに声を掛けられれば、にぱっと笑って挨拶を返す。そんな微笑ましい光景に、重い荷を運ぶいかつい男たちの頬も、思わず緩んだ。
アビスはいつの頃からか、エスタディア北区の皆を癒やす存在となっていた。
もちろん、そんな事は微塵も自覚していない彼女は、通りの人たちが自然と向ける笑顔に気付くことなく、目的地へと向かって行く。
今日は、学校が休みなので、テッドとウィズと遊ぶ約束をしているのだ。
待ち合わせ場所までの道中、野良猫の喧嘩を仲裁したり、積み荷を乗せすぎた見知った商人の荷台を一緒に押してあげたりと、この小さな顔役は忙しない事この上ない。
肩がけのポーチから顔を覗かせる、うさぎのぬいぐるみを撫でながら細い路地裏を抜けると、少し先に北区唯一の広場が視界に入った。
北区に住むこどもたちは、何か用事がある時以外は、勝手に他の区画へ行くことを許されていない。
エスタディアは、発展途上の都市であり、年々恐るべき早さで豊かになっているが、同時に治安も悪くなっているからだ。
広場を見渡すと、既にそこそこの人数のこどもが遊んでおり、中にはアビスのように尻尾と獣耳を有した者も居る。
だが、その亜人のこどもの中で女の子なのは、アビスだけだった。それは、亜人族の女の出生率が異常に低くいためだ。
「おーっ! アビスっ。こっちこっち」
声がした方を見ると、テッドとウィズがこちらに向かって手を振っていた。
「アビスちゃん、こんにちは。ご飯食べてきた?」
「うんっ!」
アビスは、ウィズの言葉に元気よく返事をして、二人に小走りで近付いていく。
時刻は昼過ぎ。大人たちは仕事に集中し、こどもたちは遊びに夢中になる時間帯だ。
「今日は、なにしよっか?」
すでに木の棒を振っているテッドを横目に、ウィズが訊いてくる。
「ぬいぐるみで、お話のやつやりたい」
アビスは、ニコッと笑ってポーチからぬいぐるみを取り出した。
「じゃあ、おままごとしよっか。私も今日はクマの持ってきたんだ~」
ウィズもかばんから、可愛らしいぬいぐるみを取り出す。
「じゃあ、テッドはこれね?」
ウィズは、かばんの中からもう一つ、犬のぬいぐるみを取り出した。
「ん? 俺は、おんなこどもの遊びには付き合ってらんねえっ。特訓しないとだから」
「え~。テッドもまだこどもだと思うよ?」
「そうか? まあ、俺は忙しいから魔物が出たら呼んでくれっ!」
テッドは言って、剣に見立てた木の棒を陽の光にかざして見せる。
「街の中で魔物は出ないと思うんだけどなぁ……」
ウィズは困ったように笑って、きょとんとするアビスの頭を一撫でする。
「そっちは、そっちで楽しんでくれ。俺は夢に向かって爆進中だからなっ!」
テッドは、額の汗を拭って木の棒を地面に置くと、スクワットを始めてしまった。
「じゃあ、アビスちゃん。テッドは放っておいて、おままごとやろっか?」
「うんっ」
三人で遊ぶ時は大体こんな感じで、体を動かすような遊びをする時だけ、テッドは参加してくる。
女二人に男一人なので、仕方ないと言えば仕方ないのかも知れない。
「でも、夢か~……アビスちゃんは将来の夢ってある?」
ウィズは、ぬいぐるみを並べながら、何となく気になって、アビスに訊いてみた。
「しょーらい?」
アビスは、よくわからなかったらしく、小首を傾げて聞き返した。
「えっと、おっきくなったら何になりたい?」
「おっきくなったら……ロクにお料理したい」
「へぇ~。どんなお料理してあげるの?」
「おいしいの……かな」
アビスは、斜め上に視線を投げて、何やら考えるような素振りをしたあと、にまっと得意気に笑ってウィズを見た。
そして。
「あびす~、今帰ったぞ。おなかが空いて、まずいことになった。助けて欲しい」
突如アビスは、そんな事を言い出して、ロクのようなしかめっ面をする。
「ロクっ、おかえり。今日はすごく美味しいのになった」
すると今度は、くるりと回ってさっきまで自分が居た立ち位置に向かって、喋り出した。
これは、たまにあることで、アビスは妄想が膨らむと、一人芝居を始める事がある。
ウィズは、この寸劇を密かにアビス劇場と呼んでいた。
「たのしみがとまらないっ。すぐ食べたい」
「わかったっ。どうぞ、おいしいので」
「これはおいしいっ。お腹がばくはつてきだっ!」
アビスは、くるくると役柄を変えながら一人芝居を続け、最後はロクになりきり何かを食べるような素振りをして、ポン、とお腹を叩いた。
「爆発したらだめなんじゃ……」
ウィズは、気になって思わず口を挟んでしまった。
「うん? でも、リコが美味しいの食べた時、ばくはつてきにっ! って言ってる」
「あはは。リコ姉は適当だからなぁ~。いつかお料理できるといいね」
「でも、あびすはまだ小さいからダメだって。だから、早くおっきくなりたい」
アビスは、細い両腕を伸ばして、小さな体を精一杯大きく見せた。
「アビスちゃんは、本当にいちりゅーさんが好きなんだね」
「うんっ! あびすは、ロクが嬉しかったら嬉しい」
アビスは、ロクが嬉しそうに自分の頭を撫でてくれる想像をして、ふさり、と尻尾を揺らした。
「そっか~。じゃあ、いちりゅーさんのパーティー楽しみだねっ」
「でもロクは、ありがとうすると、すぐぷいってなっちゃうので……」
ロクは、アビスにお礼を言われたり、愛情表現をされると、すぐに目を逸らしてしまうところがある。
なので、アビスは少しだけパーティーが不安だった。
「いちりゅーさんは、照れてるだけだと思うよ? 男の人は、本当は嬉しいけど、上手く伝えられない事があるって、アゼーレさんも言ってたし」
「じゃあ、本当はあびすがありがとうしたら、ロクは嬉しい?」
「絶対、嬉しいと思うよ」
ウィズは、普段ロクがアビスにどのように接しているのか良く知っている。言葉や態度は素っ気ないが、いつだってアビスの事を一番に考えているのが、見ているだけでも伝わってくる。
だから、自信を持って、絶対と言えるのだ。
「……わかった。頑張る」
アビスは、うん、と一つ頷いて、パーティー成功への想いを新たにした。
「ウィズは、しょーらいの夢ある?」
アビスは、ふと気になって訊いてみる。
「へっ? う~ん。私はね~……」
ウィズは、少しはにかんでテッドをちらりと見て、
「特にないかな~」
そう言って、はぐらかした。
「じゃあ、テッドは?」
「俺か? 俺は、すっげえ冒険者になって、悪いやつをバッサバッサとやっつけるんだ。てやっ!」
テッドは言って、剣に見立てた木の棒をがむしゃらに振った。
「ぼーけんしゃ? リコとおんなじ?」
「そうっ! でも、みんなはなれっこないって言うんだよな……」
「ぼーけんしゃになるのは、むつかしい?」
「まあなっ。いくら努力しても、才能がないと――」
「わぁっ!?」
アビスとテッドが話していると、突如ウィズが驚きの声を上げて飛び退いた。目の前に、大きな蜂が飛んできたからだ。
「蜂だよっ。アビスちゃん刺されないようにね」
「ここは、あぶないので、向こうに行った方が……」
「わっ! こっち来たっ!」
「っ!?」
アビスとウィズが怖がっていると、テッドは木の棒を強く握りなおして、二人を庇うように立ち位置を移動した。
「まものかっ? たあっ!」
――バチっ。
何と、偶然にもテッドが振るった木の棒がヒットし、大きな蜂を一撃で倒してしまった。
「テッドすごいっ! ぜったいに、ぼーけんしゃになれるっ」
「おうっ! 当たり前よっ! 悪い奴は、この正義の冒険者、テッド様が許さないぜっ!」
テッドは、キラキラと目を輝かせて、得意気にポーズを取った。
「もう、すぐ調子に乗る……」
「このテッド様にかかれば、ドラゴンも魔女も魔王だって、イチコロだぜっ!」
「魔女も魔王も、絵本の中にしか居ないんだよ?」
ウィズは、本当にこどもなんだから、と嘆息する。
魔女。
テッドが何気なく言ったその言葉は、容易にアビスの鼓動を高鳴らせた。
アビスは、蜂が居なくなって安心する反面、悪者の中に魔女が含まれている事に胸が苦しくなる。
やはり、自分は悪い存在なのだろうか。
リコベルも冒険者だから、自分が魔女だと知ったら討伐しようとするのだろうか。
そう考えると、凄く悲しくなってくる。
ロクに言いたい。リコベルに言いたい。
二人に全部話して、大丈夫だって言って欲しい。
ロレントは、いつもにこにこしているが、何故か少し怖い時があるので、アビスはどうしても、彼のことが苦手だった。
でも、他の誰かに知られたら魔女を辞められなくなると、ロレントが言っていた。
それに、自分が魔女だと知ったら、二人とも自分の事を嫌いになるかもしれない。
それは、絶対に嫌だった。
もしも、今やっている事が失敗して、魔女を辞められなかったらどうなってしまうのだろうか。
また、独りで……。
怖い。怖い。怖い。怖い。
アビスの小さな胸の奥の方で、薄暗い感情がぐるぐると回り出した。
しかし、その感情が外側に出る直前で、アビスのうなじにある魔法印が妖しく煌めき、その淀みを散らしていく。
ロレントの精神魔法により、不安が一定以上に達すると、安心に向かうように操作されているからだ。
だが、それは同時に、その悩みを誰にも気付いてもらえないという事でもある。
「アビスちゃん? どうしたの?」
「なっ、なんでもない。へーきっ」
そうだ。平気な筈だ。魔女を辞めてしまえば、全て解決するのだから。
アビスは、精神魔法の効果もあり、絶対に上手くいくという根拠の無い自信で、心を満たしていった。
そうして、大きな不安は、小さな安心へと変わっていく。
その後は、おままごとをしたり、途中からテッドも交えて、駆けっこをしたりしながら、時が過ぎていった。
「おっ、そろそろ父ちゃんが仕事終わるから、いちりゅーのプレゼント作りやりに行こうぜっ」
「そうだね。アビスちゃん、行こう」
「……うん」
アビスは、嫌なことはなるべく頭から追い出し、ロクが喜ぶ事だけを考えて、職人たちの工房へと向かったのだった。




