04 魔導士と女の手料理。
とある日の夕刻。
にわかに忙しくなり始める麦のシッポ亭の調理場には、包丁を手にぷるぷると震える幼女の姿があった。
「だめだめ。ちゃんと野菜も押さえて」
アゼーレがアビスの横に付いて指導を行う。
「こっ、こう?」
「そう。そのまま一気に下ろす」
リコベルもその少し後ろから、初めての包丁に苦戦するアビスを心配そうに見守っていた。
「わかった……はっ!」
アビスが思いっきり力んで包丁を下ろした瞬間、ずだん、と根野菜の切れ端が弾け飛んだ。
「あだっ!?」
それはあざやかな軌跡を描き、ぺちん、とリコベルの額にヒットした。
「ああっ!? リコっ。ごめんね? 痛かった? あびすへたくそだからっ」
アビスが慌てて歩み寄り、額に手を当てるリコベルを覗きこむ。
「いや~。だいじょうぶ、だいじょうぶ。まさか、飛んでくるとは思わなくて」
リコベルは、照れ笑いしながら、心配そうなアビスの頭を撫でてやる。
今日は、アビスが料理をやってみたいと言い出したので、リコベルがアゼーレに頼んで、調理場の隅を少し貸してもらっていた。
最近のアビスは、何でも自分でやってみたいといった感じで、師匠の数も増えてきている。
だが、上手くいかない事も多い。
「ん~。確かにこの野菜は弾力が強いやつだけど、飛ばしたか~」
アゼーレは、どうしたものか、と頭を捻る。
「やっぱり、もっと簡単なのから始めた方が良いんじゃないかな?」
「そうさね~。うちにはこども用の包丁なんて置いてないしねぇ」
二人のやり取りを聞いて、アビスは少し残念そうに、無残な姿になった野菜を見つめる。
本当は、ロクのお酒のおつまみを作りたかったのだ。
「あっ。じゃあ、クッキーにしようかね」
「クッキー!? やってみたいっ!」
アビスは、自分が好きなお菓子の名前を聞いて、お酒のおつまみを頭から追い出すと、エプロンの下で尻尾をわさりと揺らした。
「クッキーなら混ぜて焼くだけだからね……」
アゼーレは言って、手際よくボウルの中に材料を入れていく。
「はいっ。これをよく混ぜて、黄色のどろどろになったら呼ぶんだよ。焼いてあげるから」
「わかったっ!」
アビスは、混ぜ棒を受け取ると、真剣な面持ちで作業に取り掛かった。
アゼーレは、これなら危なくないし大丈夫だろう、と忙しくなり始める店のホールへと戻って行く。
「じゃあ、アビスちゃん。頑張ってねっ」
「……」
その声が届かないくらい集中しているアビスのほっぺには、すでに卵と小麦粉が混ざったようなものが付いている。
リコベルは、その一生懸命な姿に笑みをこぼすと、邪魔をしないように調理場を出て、ロクが待つテーブルへと戻る事にした。
冒険者と商人でごった返す店内を縫うように歩いて行くと、客の姿が一望できる壁際の席に、ジョッキの酒をちびちびやりながら、何やら文書に目を通しているロクの姿が見えた。
「いや~、アビスちゃん頑張ってるね」
「ん? 終わったのか?」
「ん~、これからかな」
リコベルは、困ったように笑いながら、ロクの正面の椅子に腰を下ろし、注文しておいたハチミツ入りのミルクを口に運ぶ。
「なんだって急に料理なんか」
「アビスちゃんもそういう年頃なのよ。あんたは乙女心ってやつをわかってないわね」
「なんだそりゃ」
そんなもん知るか、と言わんばかりに、ロクはジョッキを傾ける。
「んで、どうなの?」
リコベルは、すっと真面目な表情になると、小声で訊いてくる。
「何がだ?」
「アビスちゃんを狙って来る、怪しい奴は見つかったの?」
あの日、レギオンの総帥とフレアは、事情を知っているリコベルの元にも立ち寄っており、ロクは度が過ぎる心配性なところがあるから、少しフォローしてやって欲しいと、二人から頼まれていたのだ。
「いや、今のところは」
「なら、もうちょっと普通にしててもいいんじゃないの?」
「……十分、普通にしてるだろ?」
「学校に付いて行こうとしてた」
リコベルは、じと目でロクを見てやる。
「っ!?」
ロクは、アビスが心配で、何度かこそこそと学校に付いて行こうとしていた事がある。
「い、いや、万が一の事態に備えてだな……」
ロクは、不審な魔力反応が無いか、定期的に街中を見て回っているし、リコベルも怪しい人物が居ないか日々気にしている。
そもそも魔女というのは、卓越した擬態能力により、直接的に見つける事はほぼ不可能とされている。
なので、密偵の人間も真面目に探すような事はなく、ざっと見回って終わりにする事がほとんどだ。
それに、アビスの魔力は封じてあるので、まさかあんな亜人のこどもが魔女だとは思わないだろう。
「職人連中も、最近あんたんとこが卸す材料が少ないってぼやいてたわよ」
「……考えておく」
リコベルとしては、もちろん考え過ぎなロクを支えたい気持ちもあるが、どちらかと言えば、アビスのサプライズプレゼントを隠すために必死だった。
「ったく……ところで、あんた何飲んでるの?」
リコベルは、ちらりと見えたジョッキの中身が、いつもの葡萄酒ではない事に気付いて、少し気になっていた。
「これか? アゼーレに新しく店に出す酒を試してくれって言われてな。若干きついが、まあまあいける」
「ふ~ん。ちょっと飲ませてみてよ?」
「……構わないが」
リコベルは、ただの興味本位だったのだが、何気なくジョッキを受け取ったところで、ある事に気付いた。
「っ!」
これって、このまま飲んだら間接的に……。
そんな考えが浮かんでくると、過去に直接唇を重ねた記憶が蘇ってくる。
リコベルは、顔が熱くなるのを感じながら、あれはノーカウントだ、と頭を振った。
ロクは、そんなリコベルの事を不思議そうに見つめている。
「あんたさ、これどっから飲んでた?」
「は? そんなの覚えてねえよ」
ロクは、間違いなく、そういう事を気にしないタイプだ。
リコベルは、ロクの顔とジョッキを交互に見ながら、むぅ~、と下唇を突き出して小さく唸る。
「飲まないなら、返してくれ」
リコベルとしては、ここでやっぱりいらない、と突き返すのも、何だか意識しているみたいで思うところではない。いや、存分に意識はしているのだが。
「飲むわよっ」
リコベルは、もやもやとしてくる感情を追い出すと、勢いに任せてジョッキの中身を一気にあおった。
「おまっ、そんなに一気にっ!?」
「……」
リコベルは、ややあって。
「かっらーーーーいっ!!」
目を見開いて悶絶した。
口直しとばかりに、はちみつミルクを一気に流し込む。
「なにこれ? まっず。あんたらいつもこんなの飲んでんの? 信じらんない」
「お前な……」
ロクは、ジョッキを奪い返すと、呆れるような目を向ける。
リコベルは、何とかその強烈な味の余韻から抜け出すと、すぐに追加の飲み物を注文した。
「あ~っ、何か喉があっついわぁ」
「そりゃ、あれだけ一気に飲めばな……」
そう言って、ロクがジョッキを口に運んだところは、丁度リコベルが口をつけた場所だった。
「あっ!?」
「ん? 今度は何だよ?」
「……別に」
この朴念仁に、そういう事を期待する方が土台無理な話だったらしい。
リコベルは、とうとう馬鹿らしくなって、一人であれやこれやと考えていたのが虚しくなった。
だが、しばらくすると、何故かリコベルの気分は高揚してきた。
不思議と楽しい気持ちになり、何だか普段は聞きたくても聞けない事を訊ける気がしてくる。
なんだろう。
胸の奥がふわふわするような、変な感じだ。
「あんたさ、フレアとはどういう関係なの?」
リコベルは、ずっと気になっていたけど聞けなかった事を、単刀直入にさらりと口にした。
「ん? どういうって……ただの先輩と後輩だ」
「でも、フレアはあんたの妻だって言ってたわよ?」
リコベルは、ずいっと身を乗り出してくる。
「それは、あいつが勝手に言ってるだけで――」
「フレアの事、好きなの?」
普段から胸の奥にあったからだろうか、リコベルの口からは、考えるよりも先に言葉が出てくる。
「はっ? お前、酔ってるのか?」
「酔ってにゃいわよっ」
リコベルは、完全に酔っていた。
「それで……なんだっけ? ああ、そうそう。ロクはさ、やっぱり女の人は料理ができた方がいいって思う? 思うわけ?」
リコベルは、少し前にアゼーレからサンドイッチの作り方を教わって以来、料理の方はサボり気味である。
「お前、支離滅裂だぞ……。まあ、女なら、できないよりはできた方が良いんじゃないか?」
「そうだよね~。そうですよね~」
リコベルは、酔っぱらいが管を巻くように言うと、運ばれてきたはちみつミルクを酒でも飲むかのようにぐいっとやった。
「だがまあ、料理ができないからって、どうという事では――」
「わたしだってねぇ、ちょちょっとやれば、しゅごいの作れるんらからっ!」
リコベルは、ろれつの回らない言葉を吐いて徐ろに立ち上がり、ふらふらと調理場へ向かって行ってしまった。
ロクは、なんなんだあいつは? と、首を傾げて再び書物に目を落とす。
少しして、何気なくジョッキに手を伸ばしたところで、ロクは人の気配を感じて顔を上げた。
すると、そこには銀のトレーを手に乗せた、照れ臭そうにするエプロン姿のちっこい奴が居た。
「ロクっ。あのね……これ、あびすが作ったの」
トレーの上には、形のばらばらの酷く不細工なクッキーが並んでいる。
「よ、よかったら、たべてみて……ほしい」
アビスが、おずおずとそのトレーを差し出そうとしたその時。
「おっ? アビス。今度は料理か?」
不意に、後ろから伸びてきたごつい手が、すっと、一つクッキーを摘んだ。
テッドの父親だ。
「どれどれ……」
職人たちは気の良い連中だが、デリカシーがない。テッドの父親はロクより先に、アビスの手作りクッキーを食べてしまった。
「……ぐっ!? しょっぺえ。これ、塩入れたか?」
「ロクは、あまり甘いの好きじゃないって、言ってたので……」
アビスは、テッドの父親の表情を見て、美味しくないのかもしれない、と不安な気持ちになる。
「く~っ。こりゃあ、魔女の料理だなっ! だはははは」
テッドの父親は悪気なく言うと、「まあ、何事もやってみないとわからんよなぁ」と、アビスの頭をわしわしと撫でて、行ってしまった。
魔女。
アビスは、その言葉を聞いて、不安と恐怖がせり上がってくるのを感じていた。
でも、ロレントは順調だって言っていたし、ロクのパーティーまでには魔女を辞められるんだから、と自分に言い聞かせる。
大丈夫。きっと上手くいくはず。
アビスは、無理矢理に魔女の事を頭の中から打ち払った。
だけど、魔女の料理と言われたものを、ロクに食べさせるわけにはいかない。
アビスは、頑張って作ったクッキーを見つめながら、無意識にため息をついた。
「それ。お前が作ったのか?」
「あっ、あのっ。これは、捨てますので……」
ロクが喜んでくれたら、と思ったのだが仕方ない。
アビスは、狼耳と尻尾を垂れさせて、しょんぼりしながら、調理場へ戻ろうとする。
「あっ!?」
だがロクは、その小さな手のひらから、ひょいと皿ごと奪ってテーブルに置くと、一つ摘んでぽりぽりと食べてしまった。
「……うん。俺は甘いのが苦手だからな。これは塩気が効いてて酒のつまみにちょうどいい。ありがとな」
ロクは、かなり塩気の効いたそれを、表情一つ変えずに咀嚼する。
「ロ、ロクっ!? へーき? おいしくないっ?」
「いや、悪くない。もうちょっと練習すれば、もっと良くなる。頑張れ」
「……うんっ!!」
アビスは、ロクの言葉を聞くと、さっきまでの萎んだ気持ちが嘘のように晴れていき、満面の笑みを浮かべた。
やったー! と、嬉しそうに尻尾を振りながら調理場へ戻って行く幼女と入れ違いに、異様な匂いを漂わせながら近づいて来る人影があった。
リコベルだ。
彼女が持つ手鍋には、どぶどろのような色合いのなにかが、ぐつぐつと煮立っている。
「ロク~。私のも食べてみてよ」
「食べてって……」
ロクは、その見たことのない料理に身を仰け反らせて、拒否反応を示す。
「自信作だからっ」
ふと、視界の端で動く影があったので、そちらに目を向けると、こっちに向かって必死に手でバツマークを作るアゼーレの姿があった。
これは、相当なモノに違いない。
「はいっ。召し上がれっ」
リコベルは、にこっと無垢な笑みを浮かべて、皿に取り分けたそれをテーブルに置いた。
これは、断るわけにはいかなそうだ。
思い切って、一匙口に運んでみる。
「っ!?」
その後、ロクは…………。
この世の地獄を垣間見た気がした。
そして、リコベルは翌朝……。
しっかりと記憶に残る、自分の言動に悶絶した。




