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「アリス! お前は何と浅ましい振る舞いをしてくれたのだ!? 他家の令嬢のアクセサリーを羨むだけならまだしも、よりにもよって譲ってもらうよう頼むなどと! しかも最初は無償で、だ!!
そこまで気に入ったのならば、例え一点ものだとしても、似たデザインの物を発注すれば済む話だと言うのに……こんな話が社交界に広まれば、我が家の評判は地に落ちてしまうのだぞ!? 伯爵家の令嬢、それも跡取り娘が、まるで物乞いのような真似をするなど、モニクス家の実態はどれほど困窮しているのかとな!!」
ウォルサル邸の応接間にて。
いつものお優しいお父様とは似ても似つかない、烈火のような怒りを向けられ、初めてのことへの驚きと恐怖に、私はしばらくの間、動くことも話すこともできずにいた。
「あら。度合いはさておき、困窮していることそのものを否定するのはなかなか難しいのではなくて、伯爵閣下?」
「ウォルサル夫人! あまり人聞きの悪いことは仰らないでいただきたい!」
「……あ、あの、お父様……私がクロディーヌ様のブレスレットを欲しいと思うのは、立派な理由があるんです。手紙に書いたように、あれはリーゼロッテお姉様とお揃いで作られたもので──」
場を仕切る夫人に、せっかくの美丈夫を台無しにする勢いでお父様が噛み付くので、応接間の雰囲気はどうにも居心地が悪い。しかもお父様だけがソファーから立ち上がった状態なので、娘だけでなく夫人も下に見る体勢になっており、大丈夫なのかとひやひやしてしまう。
他にこの場にいるのはあの執事と侍女たちだけで、クロディーヌ様も不在である。ブレスレットの持ち主という当事者なのに、何故なのかと不審に思ったものの、予想外すぎるお父様の剣幕にそれどころではなくなってしまった。
とは言えこのまま黙っているわけにもいかず、お父様に何とか気持ちを理解してほしくて、説明を試みようとした。
が。
「ああ、読んだよ!『だからお姉様の従妹に過ぎないクロディーヌ様より、実の妹の私にこそ相応しい品だから手に入れたいのです』だったな!? そんなものは何の理由にもならん、単なる戯れ言、いやそれ以下だ!
おまけに売買交渉などと、まるで卑しい商売人のようなことまでしおって……お前がリーゼロッテのものに対して、無闇に執着していることは知っていたが、まさかそれだけに留まらず、ここまで愚かな真似をするとはな!!」
「そ、そんな、お父様! お父様ならきっと、私の思いを解ってくださると思っていましたのに……! いつものお優しいお父様は、一体どこに行ってしまったのですか!?」
目を涙に潤ませて訴えるものの、一通り怒鳴り散らしたお父様は、今度はひたすらに冷たい目で私を見下ろす。
……その目に何故かお姉様が重なり、ぶるっと背筋が震えた。
「お優しい、か。確かに優しくはしたさ。お前は母親に似て愛らしく、素直で従順で、時に我が儘にはなるが、我が家の中だけで片付く程度ならば十分に許容範囲だったからな。娘として可愛がる甲斐があるのなら、父親として優しくするのは当然だろう?」
「甲斐も何も、長年浮気をして母親を悩ませた挙げ句に早死にさせるような父親に対して、反発を覚えない娘が一体どこにいると仰るのかしらねえ、モニクス伯爵様? 元義理の姉であるわたくしに、是非とも教えていただきたいものだわ」
……どうしてだろう。目の前のお父様より、横手で輝くような笑みを浮かべたウォルサル夫人の方が怖い。
その言葉をかけられた当のお父様は、よほど私に腹が立っているのか、夫人を一瞥もせずこう宣告した。
「だが、対外的にこれほどの愚かさを晒してしまったなら話は別だ。
──アリス。お前には完全に失望した。モニクス伯爵家当主として、今この時を以てお前の廃嫡と、我が家からの絶縁を言い渡す!」
「えっ──廃嫡はともかく、絶縁ですか!? そんな……それじゃあ、お母様はどうなるんです!? それに、お姉様との関係は……!」
顔が真っ青になったのが自分でも分かる。
廃嫡は別に構わない。フレッド様との婚約を解消し、既に自分から跡継ぎの座を放棄している以上、今更特に困りはしないから。お父様がその気になってくださったのなら、お姉様に元のお立場に戻っていただくための障害が一つ消えたということでもあり、むしろ喜ばしいと言える。
けれども、絶縁となると話は別だ。縁を切られるような娘を産んだお母様の立場は、一体どうなるのだろう。今のまま伯爵夫人でいられるのかどうかは、全てお父様の判断次第となる。仮に変化はないとしても、私が絶縁されてしまえば母娘離ればなれになってしまうのだ。
そして、再び次期当主となるであろうお姉様ともそうなる可能性は高い。今も距離は離れてしまっていて、手紙もまともに交わせていない状況だけど、それでも何とか頑張ってお姉様の心を解すことさえできれば──という希望は持てる。
でも絶縁されれば私は貴族ではなくなり、変わらず伯爵家に属するお姉様やお母様とは、接触を持とうとすること自体が難しくなる。家族ではなくなったただの平民が、お二人に手紙を送ったところで、お父様の目に触れてしまえば即座に燃やされるかゴミ箱行きか、どちらにせよ読まれる前に処分されるに決まっている。
お母様のためにも、お姉様との関係改善のためにも、絶縁だけはどうにか考え直してほしい──そんな思いを必死に込めてお父様にすがり付いたが。
「触るな。絶縁と言っただろう。──お前のような恥知らずは我が家には不要だ。どこへなりとも好きなところへ行くがいい。が、モニクス領に足を踏み入れることがあれば、即座に捕縛の上、投獄もしくは追放されると思え。
ではウォルサル夫人、私はこれで失礼させていただきます。このどこの誰とも知れぬ娘は、煮るなり焼くなりお好きなように」
「お、お父様っ!! お願いです、絶縁だけはどうか考え直してください!! どうしようもなく馬鹿な真似をしたことは謝ります、反省もしています! ですから、どうか……お姉様やお母様と、引き離されるようなことだけは……!!」
「くどい。その上、見苦しい。
──ああ、そうだ。ウォルサル夫人、また日を改めてこちらに伺うので、我が唯一の娘リーゼロッテによろしくお伝え願います。近日中に迎えに来るので、王都に戻る準備をしておくようにと」
「伝言だけは承っておきますわ。……ですが失礼ながら、度重なる後継者交代に伴う騒動で、伯爵閣下はこれからさぞご多忙になるのでは?」
──上着を掴んだ手を容赦なく払い飛ばされ、ソファーに尻餅をついた私を気にもせず、何事もなかったかのようにお父様と夫人の話は続く。
「これはこれは。わざわざご心配くださるとは、夫人らしくもなくお優しい。
ですが平気ですよ。元娘に惚れ込んでいる婚約者とその家族の説得には骨が折れるでしょうが、それ以外では特に問題はない。もし説得が叶わないようなら、残念ではあるが契約は白紙にし、リーゼロッテにはまた別の婚約者を選べば済む話なので」
「あらまあ。ではわたくしは、姪の後見人としては最早お役御免ということですのね?」
「……それは、大変失礼だとは思っていますが。リーゼロッテが戻って来なければ、我が家から跡継ぎが消え去る最悪の事態となることは、聡明なるウォルサル夫人ならばお分かりでしょう?」
「そんな事態を招いたのは一体どなたなのかと、小一時間ほど問い詰めたいところではありますけれど、まあよろしいですわ。待ち受ける面倒事を片付けるためにも、どうぞ早々にご出立なさって」
これ以上ないほどどうでもよさそうに言い放つと、夫人はひらひらと追い払うようにお父様に手を振った。
……格上の家の女主人でなければ、殴られてもおかしくないほど無礼な態度だということは、お父様のこめかみに三つほど浮かんだ青筋を見るまでもない。
──お父様の背中を見送りながら、私はこの後どうすればいいのかと途方にくれていた。
もう伯爵家の娘ではなくなった。当然屋敷には帰れないし、帰るための手段もない。名乗れる名前ももう「アリス・モニクス」ではない、ただの「アリス」。単なる平民の一人でしかないのだ。
半ば呆然としていた私に、ウォルサル夫人の声がかかる。
「さて、アリス嬢。いえ、もうアリスさんと呼ぶべきかしらね。念のために確認したいのだけれど、あなたはまだクロディーヌのブレスレットが欲しいの?」
──ブレスレット。そうだわ、それがあるなら──
「……はい。勿論です」
「もう貴族ではなくなって、高価なアクセサリーを着けて出席するような場とは縁がなくなってしまったのに?」
「貴族でなくなったからこそ、です。……お姉様にお会いすることがほぼ不可能になった今、あのブレスレットさえあれば、私はいつどこにいても、お姉様を偲んで幸せを感じることができますから。あのお父様のご様子では、お姉様にいただいた私の宝物を、屋敷から持ち出すことは許してくださらないでしょうし……」
「……それはまあ、その通りでしょうね。財政的な意味でも」
珍しく夫人が言い分を肯定してくれたので、それに勇気と決意を得て話を切り出す。
「ですから、お願いします、ウォルサル夫人! 私は何年かかっても、あのブレスレットの代金を用意するつもりです。それまでどうか、クロディーヌ様に待っていただけるよう、説得をお願いできませんでしょうか!!」
「説得、ねえ……」
「はい! どうかお願いします! この通りです!」
「とりあえず顔をお上げなさい。
そうね……引き受けても構わないけれど、一つだけ確かめさせていただくわ。──もしもの話として、近いうちにあのブレスレットが、アリスさん、あなたの手に入ったとしましょう」
「はい」
有り得ないけれど嬉しい仮定に、内心胸を踊らせつつうなずいた。
「そうなれば当然、ブレスレットはクロディーヌの手元から消えることになり、無論リーゼロッテもそれに気づくでしょうね。
そしてある時、リーゼロッテは偶然にあなたを見かけ、その手首に問題のブレスレットがあるのを見つけてしまうの。
さてアリスさん。この時のリーゼロッテが一体どんな気持ちになるか、あなたは想像がつくかしら?」
問われて考える。
クロディーヌ様とお揃いで作ったブレスレットを、妹が身に着けているのを見つけたお姉様のお気持ち……
「……きっとお姉様は、喜んで私に声をかけてくださるはずです。『流石は実の妹のアリスだわ。私とお揃いのアクセサリーがよく似合うわね』と笑顔で────ひっ!?」
夫人の背後に酷く禍々しく恐ろしい何かが見えた気がして、思わず悲鳴を上げてしまった。
「……アリスさん。それはあなた流の冗談という理解でよろしい?」
「い、いえ、違います! 私は本気で、真面目に考えて答えました!」
「まあ、そう。とても素敵な考えだこと」
うふふふ、と微笑む夫人は、この上なく美しく優しげな風情なのに、私がこれまで会った誰よりも強烈な恐怖を覚える存在だった。
──うっかり絆されかけたのが間違いだったわね。と、夫人が自分自身に対しても怒っていることなど私が分かるわけもなく。
結局私は、「あなたの意思だけはクロディーヌに伝えましょう」という約束だけを収穫に、ウォルサル邸を去ることになったのだった。
──それから一年ほどが経った頃。
ウォルサル夫人の手配で王都に送り届けてもらえた私は、生まれ育った小さな家に暮らしながら、平民としてのごく当たり前な日々を送っていた。
五年間の貴族生活で身の回りについての感覚が狂っていて、普通に働いてお金を稼ぐ暮らしに慣れるのにかなりの時間がかかったけれど、最近になってようやく細々と貯金が作れるくらいには生活が安定してきていた。
でも、「細々と」くらいじゃ目標には全然足りない。
半年くらい前、金銭感覚がほぼ昔に戻ったのを見計らったように、ウォルサル家からあのブレスレットの値段を知らせる手紙が来て……あまりの額に思わず便箋を取り落とし、驚きと絶望にしばらく震え続けてしまったことは忘れられない。
目標到達への道は恐ろしく長くて険しいのだと、容赦なく突きつけられて、でも諦めることなんてできなくて。
甘い話にうっかり耳を傾けそうになるのを必死にこらえ、食堂のウェイトレスや雑貨店の店番といった地道な仕事を掛け持ちしながら、目標金額に比べれば雀の涙にもならないくらいのお金をこつこつ貯め続ける日々を、時々心が折れそうになりながらも何とか過ごしている。
それでも最近は、懐かしい顔を見るようになって、重たい荷物の存在をほんの少しだけ忘れることができるようになった。
「お疲れ様、アリス。今日は昼で上がりだろ? 広場で露店が出てるから、よかったら見に行ってみないか」
「ありがとう、サイ。もうちょっとだけ待っててくれる?」
子供の頃に近所に住んでいた幼馴染みで、今は王都でも名の知れた商会に勤めている青年が、いつものように優しく笑って声をかけてきてくれた。
一つ年上の彼とは昔、「大人になったら結婚しようね」と無邪気な約束を交わしたことがある。もう十年近く前の話だし、何よりサイの妹で私と同い年のジェナに、「ぜえええったい、い・や! アリスがお兄ちゃんのお嫁さんになるなんて、あたしは何があってもぜったいに許さないんだから!」と盛大に反対されてもいたので、今となってはもう完全に無効なのだけど。
そのジェナは、再会後も変わらず私を嫌っているらしく、今日みたいに二人で歩いているのを見ただけで凄い顔をされてしまう。……お姉様やクロディーヌ様には到底敵わなくとも、普通よりはかなり綺麗な顔立ちをしているのに、勿体ないなとしみじみ思う。
ただこのところ、周りの人から、私とサイの仲を恋人か何かだと誤解しているような物言いをされるのが、個人的には面倒だった。ジェナも同じ勘違いをしているみたいで、向けられる敵意が日に日に増しているような気がする。
でもサイには何も言われていないし、そもそも私にそんな気はない。今の私には、ブレスレットの代金を貯めることが最優先事項で、結婚だとか恋愛だとか、そういう余計なものに関わる余裕はないから。今日誘いに応じたのも、余分な買い物をする気はゼロで、ただ久しぶりに息抜きをしたかったからに尽きる。
私のそういった事情は、軽くサイには話してあるし、再会してから今までの数ヶ月、彼も余計なことは言わないでいてくれた──のだけれど。
「でもアリス。目標に向かって頑張る君は凄いと思うけど、離ればなれになったお姉さんはお金持ちのお嬢様なんだろ? そんな人たちが身に着けるものの値段なんて、俺たち庶民が稼ごうと思ったら、年単位どころか十年、いやそれ以上かかってもおかしくない。
あ、別に俺は君を止めるつもりはないんだけどさ。でも、目標額を貯めるまでずっと一人で、いくつも仕事を掛け持ちして休まず頑張るのは辛いし、厳しいんじゃないかと思って」
「……辛さも苦しさも覚悟の上よ。そうでもしなきゃ、必要なお金は手に入らないんだもの」
心配してのこととは言え、まさに「余計なこと」でしかない言葉をかけられて、和んでいた気持ちは途端に霧散してしまった。
お父様を激怒させたこともあり、いくら幼馴染み相手でも真実をそのまま話すのは憚られたので、「離ればなれになってもう会えないお姉様とお揃いで作ったアクセサリーを、事情があって手放してしまった。定価さえ払えばそれを売ってもらえるとある人に言われたので、代金を稼ぐために頑張っている」とサイには説明している。
私が貴族の娘だということは彼も知っているけど、誰かに知れると厄介なことになりかねないからと、言い回しに気を遣って話してくれるのはとてもありがたかった。
けれども、不機嫌な顔を見せれば大抵は引き下がってくれるサイは、今日に限ってはやけにしつこかった。
「いや、そりゃそうなんだろうけど。ほら……一人でずっと頑張り続けるのってしんどいだろ? だからその……君の事情を知ってて、一緒に目標に向かって頑張れる奴と、協力して負担を分かち合う、とかさ」
「無理。その優しい人が誰であれ、私だけの事情に巻き込んで負担をかけるなんて嫌だし、申し訳ないもの」
「……そっか。そういうアリスこそ優しいと思うけど、時には少しくらい他人に甘えたっていいと思うぞ? 例えば俺にとか」
「うーん、でもいくら幼馴染みで親しくしてもらってるからって、甘えていいことと悪いこと、が────」
「……アリス? 顔色が悪くなったけど、どうかしたのか?」
自分が何気なく口にした言葉に、心配そうなサイの声が耳に入らないくらい動揺してしまった。
──甘えていいことと、悪いこと。
どんなに近しい相手だとしても、普通はそれを弁えなきゃいけない。ごく当たり前のことで、貴族や平民とかいった立場は何も関係のない一般常識だ。誰かに甘えてばかりで何もしない、できないままなら、真っ当に生きていくなんて絶対にできないことは、平民に戻ってしみじみと実感した。
だけど、思えば──過去の、伯爵令嬢だった頃の私はどうだったろう? そう、例えばお姉様には──
「…………ス。おい、アリス!?」
「え……あ。サイ……ええと、ごめんなさい。平気だから」
「ほんとか? ならいいけど……」
「うん、大丈夫。それより早く行こう? 掘り出し物がなくなっちゃう」
と、無理に笑顔を浮かべてサイを促す。
そうして、やってきた広場の一角、立ち並ぶ露店の一つで見つけたのは──
「……これ……! まさか……お姉様からいただいた……!?」
「えっ?」
サイが驚いて目をやった、私の視線の先には。
十五歳の誕生日にプレゼントとして貰い、お姉様が家を出る時にも間違いなく私が身に着けていたはずの、繊細な銀細工を台座に鮮やかなルビーが嵌め込まれた、それは見事な髪飾りがあったのだった。




