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フェルダ邸の昼食は、ウォルサル邸での食事よりもやや品数は少なく、味が少し濃いめだけれど、十分に美味しく食べられるものだった。
いや、本来なら絶品と言うに相応しい水準なのだろう。──でもこの時の私には、どんなに美味しい料理でも、味を正当に評価できるような余裕はどこにもなかった。
クロディーヌ・ウォルサル──将来の義妹になる予定の少女には、顔を合わせたその瞬間からとにかく圧倒された。
「初めまして、アリス・モニクス様。わたくしはウォルサル辺境伯家が長女、クロディーヌと申します。わたくし、この五年間ずっと、あなたにお会いできる日を心待ちにしておりましたのよ。王立学園ではアリス様は二年先輩に当たりますから、直接お話をする機会は入学まで待たなければならないと考えておりましたので、今日望みが叶うなんて本当に嬉しい驚きですわ」
と、母親の夫人そっくりの整った顔立ちに淑やかな笑みを浮かべ、一分の隙もない淑女の礼を披露する姿は、お姉様と同じく生粋の貴族令嬢そのもので。
本来なら私も同じように返すべきであり、そのための作法も、この数年で付け焼き刃ながら身に付いている。
それは間違いない。そのはずなのに──何なのだろう。この年下の令嬢から伝わってくる、言いようのない圧力のようなものは。
知らず一筋の汗を流す私を、クロディーヌ様は笑顔のまま促して食事の席に着かせた。
そして、昼食が始まったのはいいのだけど……問題は、クロディーヌ様が話す内容だった。
「今日はリーゼお姉様は、どなたかのせいでお疲れで、ベッドで休んでいらっしゃいますの。出来れば丸一日を、誰にも邪魔されずゆっくりと回復に使っていただきたいですわね」
「お姉様はこちらに滞在中、わたくしのお勉強を見たり、ピアノを教えてくださったりしますのよ。昨日の昼間は、わたくしの歌の伴奏をしてくださって、とても楽しい時間を過ごせましたわ」
「本当なら今日は、お姉様と一緒に街までお出掛けする予定だったのですけれど……全く、お兄様ったら」
「リーゼお姉様は」「お姉様が」「お姉様」……出てくる話題のほとんどが、私のお姉様についてのことばかり。
確かにクロディーヌ様はお姉様の従妹で、昔から交流もたくさんあったに違いない。義理の従兄でしかないソリュード様とお姉様が随分と親しげにしていたのだから、実の従妹のクロディーヌ様とはもっと近しい仲だとしても、何ら驚くことではないのは確かだとは思う。
そもそも、初対面の私と彼女の間で共通の話題となれば、お姉様のこと以外はないのも事実だ。私が既にフレッド様との婚約を解消した件や、彼女の兄に激しくも熱い恋情を捧げている事実など、クロディーヌ様は知らないのだから。
……でも。頭で理解できることと、感情がもやもやするのは全然違う問題だった。
「……どうかなさいましたか、アリス様? 何かお気に障ることでもおありですの?」
デザートを食べ終えたところでそんな質問をされ、言葉を選びつつ答える。
「気に障る、と言いますか……その。クロディーヌ様は、リーゼロッテお姉様と仲がよろしいのですね?」
「あら、ええ。勿論、セーニャお義姉様──レイナスお兄様の奥様も、とてもお優しくてお綺麗で心身ともにお強くて、わたくしの大好きなお方ですけれど。生まれた時からのお付き合いであるリーゼお姉様はやはり別格ですわ。お姉様もわたくしをそれは可愛がってくださっているので、物心ついた頃からずっと『お姉様』と呼ばせていただいていますのよ」
「それは……つまり、十年以上になるということですね」
「ええ、そうなりますわね」
──にこにこと上機嫌な笑みから、圧力が漂うとともに別の言葉が聞こえてくる。
『お姉様とわたくしの仲は、あなたの軽く倍以上の期間に渡るものですのよ』
『いくら妹とは言えあなたは所詮、後から割り込んできた身でしかないのだから、お姉様に関する偉そうな主張はやめておくことね』
実際に声に出されてはいないし、表情は笑顔で敵意のようなものはない。……ない、はずなのに。
お姉様のことがあるにせよ、初対面の私に対して、こんなにも非好意的な感情を向けてくるなんて──
(顔だけじゃなくて、態度まで夫人そっくりだわ)
私はお姉様から、知らなかったとは言えお母様の形見を奪ってしまった。認めたくはないけれどそれは事実。
多分クロディーヌ様も、そのことを知ってはいるのだろう。でも私には、決してお姉様に対して悪意などなく、今日はペンダントのことで謝罪をしに来たことと、お姉様を妹として心からお慕いしていることを、彼女には解ってもらわなくてはいけない。そうでなくてはお姉様に会わせてもらえないだろうし、何よりソリュード様と結ばれるためには、彼女と仲良くなっておくに越したことはないから。
……こほん、と咳払いをして気を取り直し、本題を切り出すことにする。
「あの、クロディーヌ様。貴女もウォルサル夫人も、私について勘違いと言いますか、大きな誤解があるみたいですけれど。私はリーゼロッテお姉様のことを本当にお慕いしていますし、敬愛もしているんです。ただ、そのつもりはなかったにしても、私がお姉様に酷いことをしてしまったのは確かですから、今日はそれを謝りたくて伺いました。クロディーヌ様にも、私は決して悪気があったのではないことを理解していただければ──」
「問題はそこではありませんわよ、アリス様」
ばっさり。
──声も言葉にも、情け容赦の欠片もなく一刀両断された。
「悪気があろうがなかろうが、あなたとご両親がお姉様にしたこととその結果に、何か違いが生じるとでも?『そのつもりはなかった』のなら、どんな結果でも許容されて当然と仰りたいのかしら。何の迷いもなくそんな戯れ言を口に出せるなんて、本当に謝罪するつもりがあるのか疑わしいことこの上ないですわ。お姉様をお慕いしているという言葉も、とても信用する気にはなれませんわね」
「っ!! クロディーヌ様! いくらあなたがお姉様の従妹でも、そんな言い方は──」
「血縁が問題であるのなら、腹違いではあれお姉様の実の妹のあなたが、何故理解してくださらないのかが最大の疑問なのですけれど。
ではアリス様。あなたが本当にお姉様を愛していると主張したいのであれば、わたくしの質問に答えていただけるかしら?」
「勿論です! 何でもどうぞ!」
あまりにも心外な疑いをかけられ、頭に血が上っているのを自覚しつつも意気込んでうなずいた。
「それでは想像してみてくださいな。
──リーゼお姉様が公園を歩いています。そこに、馬に乗った紳士が通りかかりました。
その紳士は背後から、遠くにいた友人に呼び掛けられ、そちらへ急ごうと素早く馬の向きを変えます。──友人の方しか見ていなかった彼は近くの人影に気づかず、馬の蹄が勢いよくお姉様の体を引っかけてしまいました」
「────!!」
譬え話とは言え、あんまりな事態に息を呑む。
私の動揺にも気づいているだろうに、クロディーヌ様は淡々と話を続けた。
「不意を打たれたお姉様は倒れて頭を打ち、意識を失ってしまいます。
紳士は何かを引っかけてしまったとは思ったものの、それが人だとは思わず、その場から走り去りました。
──その事故のせいでお姉様が大怪我を負い、生涯消えない傷を負ったと、その紳士が知ったのは数ヵ月が経ってからのこと。
彼は急ぎモニクス家を訪ね、平身低頭で謝罪をしました。『本当に申し訳ない』『急いでいてリーゼロッテ嬢に気づかなかった』『気づいていれば放置などせず、医者のもとへ連れていった』と、必死に頭を下げます。
──アリス様。あなたは悪気なくお姉様に酷い傷を負わせた挙げ句、気づかずに放置したこの紳士を、そのまますぐに許すことはできますか?」
「無理に決まってます、そんなこと! お姉様に大怪我をさせた人のことなんて、意図や悪気があろうとなかろうと、許せるはずがないでしょう!?」
「ええ、同感ですわ。──だからわたくしたちは、あなたとご両親を許せないし許さないのよ」
「…………えっ……?」
いきなり話が飛び、冷ややかすぎる言葉を向けられて理解が遅れた。
見ればクロディーヌ様は、可愛らしく小首を傾げているものの、その表情からは柔らかみというものが消え去っていて、恐ろしいまでの真顔になっている。
「……あ、あの。クロディーヌ様……?」
「わたくしなりに解りやすく例えたつもりなのですけれど、やはり解説が必要ですのね。──つまり、アリス様。あなたはお姉様に対して、問題の紳士と同じことをしたというご自覚は、全くないということでよろしくて?」
「はい!? どうしてそうなるんですか! 私がそんなことをするわけがありません! 愛するお姉様を傷つけたり、それに気づかずに放っておいたり……なん、て…………」
あり得ない、と続くはずの言葉は、紡がれることなく消え去ってしまう。
確かに私は、お姉様を傷つけたことはない。肉体的には。
でも、心に対しては……そうだ。大切な大切な亡きお母様の形見を、そうとは知らずに手元から奪い、自分の物にしてしまった。しかもそれを毎日肌身離さず身に着けていたのだ。お姉様の目の前で。
そんな行動が周りからどう思われるかなんて、気にしたこともなかった。だって私にとってあのペンダントは、大好きなお姉様からの初めてのプレゼントで、着けて歩くのに何の抵抗もないどころかむしろ誇らしいものだったし、お父様やお母様も「よく似合う」と誉めてくださったから。
けれど今思えば、お姉様が同じように誉めてくださったことは一度もなかった。そのことに何の疑問もなかったけれど、よく考えればおかしい。本当にペンダントがお姉様の意思で贈られたのなら、私が着けている姿に何か一言くらいあるはずだ。
『リーゼお姉様はとてもお目が高くて、一緒にお買い物に出かけると、わたくしに一番似合うアクセサリーを選んでくださるし、着けた姿を手放しに褒めてもくださいますのよ』
と、クロディーヌ様の話にあったように。
でも、現実にそんなことは全く、一度たりともなくて──
「……あ……わ、私は……決して許されないことをお姉様に……!?」
ただ単純に「お姉様に悪いことをしたのだから謝らないと」と考えていただけの自分に、愕然とする他なかった。その「悪いこと」というのが一体どれほどのことなのかを、今の今まで欠片も実感できていなかったのだから。
──生涯消えない傷痕が残るほどの大怪我を、お姉様の心に負わせたということ。
「わざとじゃない」「悪気はない」「心の傷は目に見えないから気づかなかった」──いくつもの言い訳が頭をよぎるけれど、そのどれもが何の意味もない、自己正当化にすらならない勝手すぎる言葉で。
椅子に座っていなければ、膝から床に崩れ落ちていただろう私の耳に、正面から聞こえるクロディーヌ様の声。
「一つだけフォローをするのなら、経緯はさておき、お姉様にペンダントを返してくださったことだけは良かったですわね。あまりにも遅いですしお礼に値することでもないけれど、ペンダントが手元に戻ったことで、お姉様が大事なものや欲しいものに積極的に手を伸ばすきっかけになってくれたのですし」
「……お姉様の、欲しいもの……?」
ショックの収まらない頭では何を指すのかが分からなくて、ただ緩慢に首を捻る。
「解らなくて結構ですわ。
それよりもアリス様。小耳に挟んだところでは、あなたは今ソリュードお兄様に恋い焦がれていらして、クライトン様とは婚約を解消なさったのですって?」
「ど、どうしてそれを!?」
またも予想外のところを突かれ、ごまかすことも頭に浮かばなかったせいで、クロディーヌ様にころころと笑われてしまった。
「認めてくださるなら話が早くて何よりですわね。現状、そのお気持ちに変化はありませんの?」
「……むしろ、どうして変化すると思うんですか? そうなるはずの理由がいきなり出てきたとでも?」
「ええ。だって、ソリュードお兄様はお姉様の想い人であり、逆もまた同じで、お二人はこのたびようやく両想いになられたのですもの。つい先ほど、あなた自身がどれほどお姉様を傷つけたのかを理解していただけたようですから、お姉様のためにも、ここはおとなしく引き下がってくださるかと思ったのですけれど」
「お言葉ですが、確かにお姉様にはお詫びの言葉もないと思っていますけど、それとこれとは全然違う話だと思います。その理屈で言うなら、私はこれから先の生涯、お姉様と望みがかち合った時には、あらゆる場合でそれを譲らなければならなくなるでしょう。クロディーヌ様が私にお怒りなのはよく分かりますけど、そこまでの理不尽を私に要求する権利を、貴女がお持ちだとは思えません」
体勢を立て直して主張すれば、クロディーヌ様は年相応の雰囲気で、先ほどとは反対方向に首を傾げる。
「…………一理はなくもありませんわね。加害者の口から出た台詞でさえなければ。
ですが、ご存知のようにわたくしは、ソリュードお兄様の妹でもありますの。長年の恋をようやく叶えられたお兄様と、愛するお姉様との幸せを、第三者に壊してほしくないのは当然のことだと思われません?」
「お気持ちは分かります。けれどその希望を、私が叶える義務はどこにもないと思います」
「まあ。そこまで仰るなら是非とも確認させていただきたいわ。
あなたのお望み通り、もしも仮に万が一まかり間違って、お兄様の趣味が奇跡的かつ劇的に変わってあなたを選ばれたとしたら、当然あなたはフェルダ子爵夫人になるわけですけれど」
「…………はい」
……いくらクロディーヌ様がお姉様びいきだからと言っても、私がソリュード様と結ばれる可能性の低さを、ここまで何重にも強調する必要はないんじゃないかしら。
ウォルサル夫人もその娘も、間違いなく褒められた性格ではないと、嫌になるくらいしっかりと実感させられた。
「その場合、モニクス家次期当主の座が完全に空くことになってしまいますわよね。現在の次期当主としてそこをどうなさるのか、きちんとした考えはお持ちですの?」
「勿論、お姉様にその座をお返しするつもりでいます。こちらに伺ったのは、それを直にお話しするためでもありますから」
「…………予想通りのお答えね。
ではもしも仮に億が一、お姉様が倒れるほどの高熱でも出された結果、アリス様の提案を受け入れてモニクス家に戻られたとして」
「……クロディーヌ様……」
またも念入りに畳み掛けられ、半眼になった私を咎める人は誰もいないだろう。
もっとも、続いた質問はあらゆる意味で、私の考えのはるか外側にあった内容だったために、両目を見開きぱちくりさせてしまったのだけど。
「クライトン家との縁が切れた以上、お姉様は新たな婚約者を探さなくてはなりませんわ。──いずれ決まるであろうその婚約者に、あなたがお兄様と一緒にお会いした時、一体どう思うかを教えてくださる?」
「……お姉様の新しい婚約者、ですか……」
つぶやいて、想像してみる。
──お姉様の婚約者となれば、さぞかし素敵な男性に違いない。
そんな御方がお美しいお姉様のお隣に立ち、仲睦まじく寄り添う光景を目撃したら……
「……きっと、お姉様を羨ましがると思います。『私もお姉様の婚約者のような、素晴らしい殿方のお隣に立ちたい』と」
素直に述べた言葉はしかし、クロディーヌ様の眉を急角度でつり上げる結果を招いてしまった。
「……本気で仰っているの? その時点ではあなたは、既にフェルダ夫人の座を得ているか、最低でもお兄様の婚約者となっているはずなのに。──要するにあなたにとっては、リーゼお姉様の婚約者がどんな御方であるにせよ、ソリュードお兄様は彼以下の存在に過ぎないというわけですのね」
「!! ち、違います! 私はそんなつもりで言ったわけではなくて、ただソリュード様のことを忘れていただけで──」
「ああ、お姉様の婚約者に自称一目惚れをした結果、最愛の伴侶のことを完全に意識の外に追いやってしまった、と」
「だから、そうじゃないんですってば! 偏見に満ちた解釈はやめてください!」
──ならばどういうつもりだったの?
正面からの無言の問いと、頭の中に響いた自分の声が、見事なまでにシンクロした。
──私にとって、ソリュード様は最愛の男性であり、運命が定めた伴侶だ。そうでなければ、お姉様から奪おうなんて思わないから。
そう考えた時だった。過去の自分の発言がまざまざと蘇ったのは。
──『違います! そんなわけがないでしょう! 私は心の底からあの方を、フレッド様を愛してるんです! そうでなければ、よりによってお姉様から奪うだなんてことは絶対にしません!』
そう。確かに私はそう言った。……それなのに今、私の隣にフレッド様はいない。
当然だ。私はつい昨日、そのフレッド様との婚約を解消したばかりなのだから。それも、未練も何もなくあっさりと。
──フレッド様を、心の底から愛していたはずなのに。ソリュード様を見初めたその瞬間、その想いは見事なまでに消え去ってしまった。お姉様に譲り渡してしまおう、と簡単に決心してしまうほどに。
そしてついさっき、想像上でしかないお姉様の新しい婚約者に対して、ソリュード様の伴侶になったはずの私が抱いた想いは──
「何がどう違うのかしら、アリス様? あなたにとっては、お兄様にせよクライトン様にせよ、お姉様のものではなくなった時点で価値は激減したのだとしか、わたくしには思えないわ」
「……で、ですから……! 本当に違うんです! 私は本当に……心から、ソリュード様のことを……」
あまりの混乱と困惑に、震えて先細りになった声を紡ぐ私を、ふっ、とクロディーヌ様が鼻で嗤う。
「その程度にしかお兄様のことを考えていないあなたに、お姉様との仲を引き裂くことに繋がる説得など、断じて許すわけにはいかないわ。ウォルサルの名にかけて、何よりもお二人の妹として、ね。
キール、お客様がお帰りになるそうよ。馬車まで丁重にお連れして差し上げて」
「かしこまりました、クロディーヌお嬢様」
完全に敬語を取り払った辺境伯令嬢に命じられ、執事は恭しく一礼した後、丁寧に見えながらもかなり強引に私を立ち上がらせ、容赦なく廊下へ出て、玄関ホールに連行していった。




