②ー5・アリス
モニクス家の破産と爵位譲渡に伴い、私がディント家から離縁されたのは、嫁いでから二年余りが経った後のことだった。
「……私……これからどうしよう……」
あれよあれよと言う間にまとめられた少ない荷物と、押し付けられたお金が入った袋のずっしりとした重さを感じながら、私はただただ呆然とつぶやくしかなかった。
ようやく好色老人との縁は切れた。それだけは良かったのだけれど……私の帰るべき場所はもうどこにもなくなっていたから。
そして。乗り合い馬車を乗り継ぎ、私がやって来た先は━━王都だった。
「やっと着いた……腰が痛いわ」
長時間の揺れのせいで痛むところをさすりながら、降り立った私は何とも言えない懐かしさを感じながら周囲を見回す。
「ここなら……何か、お姉様に評価していただけることが見つかるかしら」
正直なところ、今の私は途方に暮れていた。
前の人生はまだ良かった。クロディーヌ様のブレスレットを買い取るためのお金を稼ぐという明確な目標があったから、それを目指してなりふり構わず生きていけた。
けれど今は……どうすればいいのか分からない。「リーゼロッテお姉様に認められることをしたい」という希望はあるけれど……何をどうしたらいいのだろうか。
そんな風に思うようになったのはほんのつい数日前。乗り合い馬車の旅を始めてからのことだった。
ディント家から貰えたお金はかなりの金額で、その気になればウォルサル領までは余裕で馬車で行くこともできるほどだった。そこから少し足を伸ばせばフェルダ領で、お姉様が間違いなくいらっしゃる場所。それは分かっているけれども……私はどうしても行く気にはなれなかった。
勿論、お姉様にお会いしたい気持ちはある。会って今度こそきちんと謝って、どうにか姉妹としての絆を取り戻せるなら、と。モニクス家が爵位や領地ごとディント家のものになってしまった以上、私は既に平民であり、貴族であるお姉様と親しくするなんて不可能だと理解はしているが、それでも諦めたくはないという思いは強い。
けれど一方で、どうしようもない怖さがある。またどうにかお姉様に会えたとしても、二年前のように容赦なく拒絶されて、妹どころか家族だとも思っていないのだと面と向かって言われてしまったら。
私は……ただ同じ家に暮らしているだけで、リーゼロッテお姉様を傷つけていた。それはもう徹底的に、ただただ無邪気に笑いながら。何も知らずお父様とお母様にひたすら甘やかされて、疑問など何一つ覚えることなく。
そのことはようやく理解した。嫌というほど。
『話には聞いておりましたが……奥様は伯爵令嬢どころか、貴族を名乗ることも怪しいほどのレベルなのですね。これはさぞ、ご家族の皆様は苦労なされたことでしょう』
ディント家でつけられた家庭教師に、初日から言われた言葉がそれで。━━彼女はお姉様のことは知らずに言ったのだろうけれど、だからこそ私の心にはぐっさりと突き刺さった。
今更確認するまでもなく、お姉様は伯爵であるお父様と、同じく伯爵家出身のお母様をもつ生粋の貴族。そんなお姉様にとって、私は━━「貴族を名乗ることも怪しいほどの妹」という存在は、どれほど恥ずかしいものだったのだろう。
いくら私のお母様が平民であったとしても、そんなものは「モニクス伯爵令嬢」という立場であろうとするなら免罪符になどならない。むしろ平民の血を引くからこそ、それに甘えず人一倍努力して、貴族に相応しい振る舞いを身につけなくてはいけなかったのに……私自身のことは勿論、平民であるお母様や、彼女を選んだお父様の名誉を傷つけたりしないように。その両親から生まれた私が貴族としてまともでないとすれば、それはつまり親がまともな教育を怠ったということになるのだから。
もっとも……モニクス家に来たばかりだった十一歳の私が、貴族流の教育についていけたかと言えば、自分でも否定せざるを得ないのだが。
『だからこそお父様は、私に無理に教育を施そうとしなかったのかしら……? 言葉は悪いけど、お姉様のように『まともな貴族令嬢』らしくはなれないだろうから、って』
そうでないとしたら単なる手抜きや怠惰ということになる。もしくは何も考えていなかったか。……案外それが正解なのかもしれない。前回の人生では、私が勘当されてからのモニクス家は知らないうちに破産していたし、今回もまたモニクス家の爵位と領地は借金のカタとしてディント家のものになったのだから。
『……結局お父様にとって、『モニクス家』って何だったのかな。お姉様や私や、お母様のことも……』
少なくとも私が聞いた限りでは、当主であるお父様よりも、後継者だったお姉様の方がよっぽどモニクス家や領地のことを考えていたと思う。たくさんたくさん考えて、どうにもならなくなっても改善しようと足掻いて。でもそれがどうやっても不可能だと分かってしまったら、限界が来て折れてしまったほどに。
━━リーゼロッテお姉様はとても情の深いお方だとそれだけで分かる。けれどその情の深さは、私には向けられないのだ。そのことは嫌というほど思い知らされた。
かつてはそうではなかった。モニクス家にいた頃のお姉様は、不出来な私を何かと叱ってくれたから。ただ怒るのではなく。
『叱ることは相手を思ってあれこれ言うことであり、ただ自分の感情をぶつけて怒ることとは違う』のだと、ディント邸での家庭教師が教えてくれた。……思えば私は、幼い頃を除けば両親にも叱られたことはなかった気がする。特にお父様には。
あえて言うならフレッド様との婚約を無断で解消した件と、その後に先代ディント男爵との結婚を嫌がった時は盛大に怒られて怒鳴られたものの、叱られたわけではない。
『つまり、私をはっきり叱ってくれたのは……家庭教師の先生たちを除けば、後にも先にもリーゼロッテお姉様だけで……それなのに私は、お姉様にたくさん酷いことをしてしまったんだわ』
そんなお姉様が私を許せなくても仕方がない。悪気も何もなくやってしまったことでも、私はお姉様の心に酷い傷を負わせてしまった。自業自得なのだ。そもそも悪気があろうとなかろうと、傷つけられた側の被害が変わるわけがないのが現実である。いつか同じようなことを誰かに言われたけれど……あれはソリュード様だったか、クロディーヌ様だったろうか。
『……でも私は、ちゃんとお姉様に謝罪の意思を示したい。面と向かってでなくてもいい。私が反省したってことを、どうにかしてお姉様に伝えられたら……そうなればいつか、お姉様に許していただける時が来るかもしれないもの』
許してもらえる保証なんてどこにもない。そんなものは分かりきっていて、でも素直に諦められるはずもないのだ。だって私はリーゼロッテお姉様を愛しているから。
お姉様にとっては迷惑だろう。実際ディント家にいる間、お姉様には謝罪の手紙をたくさん書いたけれど、それも読まずに捨てられてしまっていたとしても驚きはしない。
(だけど、それでも……遠くからお姉様を愛することは自由だよね)
もうお姉様には会えないかもしれないことを考えると、身が切られるように辛い。
けれどいつか……お姉様に誇れる何かを成し遂げることができた時には、またフェルダ領に行く勇気が持てるかもしれない。それが具体的に何なのかは、これから見つけなければいけないけれど。
何はともあれ、まずは住むところを見つけなくては。問題をいったん先延ばしにした私は、自然と王都でも馴染みのあるあたりに歩みを進め━━
「うわ。アリス!? 何であんたがここにいるのよ……!」
「あ……ジェナ!」
振り向けば、気の強そうな美貌をとても嫌そうに歪める幼馴染みの姿があり、私は思わず笑顔になっていた。当のジェナはその反応に、ますます顔をしかめることになったが。
それをきっかけに、何だかんだとあったものの、ジェナとは旧交を温めることになった。彼女の兄のサイとも顔は合わせたが、前回の人生で気まずくなってしまった印象がまだ大きいため、私の方からはあえて距離を取っている。
ジェナからするとそれはとても意外だったようで、彼女には会うたびに首を傾げられていた。
「変なの。アリスって昔から腹が立つくらい兄さんと仲良くしてたくせに、今は違うのね。それってやっぱり、お貴族様としての経験のせい?」
「それもあるけど……今は生活の立て直しに忙しいのと、他にやるべきこともあるから」
「やるべきこと、ねえ。何かアリス、随分変わったんじゃない? そりゃ十一歳の頃に比べれば誰でも成長はするもんだけど……昔はぽわぽわ夢見がちで世の中薔薇色って感じで、『やりたいこと』はあっても『やるべきこと』なんて考えは全然なかったでしょ」
ぐさっ、と音を立ててジェナの毒舌が私の心に刺さった。……相変わらず彼女は容赦がないけれど、私個人への強い悪意がなさそうなので受け入れやすくもある。これが例えばクロディーヌ様ならばそうはいかないだろう。
「ま、まあ昔の私は確かにそうだったけどね。でも今は……リーゼロッテお姉様に、ちゃんと妹として認められる自分になりたいから」
「あー、またその『お姉様』? とっても美人で有能で、腹違いの妹にも優しいって、どこの完璧超人かと思うような人がほんとにいるの? 正直聞いててすっごく嘘っぽいのよねえ」
本気でうんざりしたように言い、ジェナはオレンジジュースのカップをぐいっと傾ける。
「酷いわ、ジェナ。そんな言い方はないでしょ?」
流石にむっとしてジェナを睨むと、彼女は肩をすくめてこう言った。
「そう言われても、私はそのお姉様とやらに会ったことないし。……と言うか、あんたの考える『お姉様』と実際のリーゼロッテ様って、実は結構なズレがあるんじゃない? アリスって昔っから思い込み激しいし」
「……何、それ。どういう意味?」
「どうってそのままよ。あんたの言う『お姉様』って、凄い人なのは分かるけどそれだけで、肝心の実体が見えてこないんだもん。例えば、どんなものが好きでこれが嫌いとか、趣味は読書で虫が苦手だとか、そういう分かりやすくて想像しやすい点やそれに関係したエピソードがないから、どうにも空想の存在っぽいのよね。要は『私の考える理想のお姉様!』みたいにしか思えないってこと」
「…………え」
ジェナとしては何気ない一言だったに違いない喩えはしかし、私にとてつもない衝撃を与えた。
━━私の考える理想のお姉様。
否定したい。しなければならないのに、けれどそのための言葉が何故か出てこない。
だってそんなのはおかしい。否定できないなんて、まるで……私が『リーゼロッテ・モニクスという姉』個人を見ていたわけではなく、『理想のお姉様』などという存在しない幻を、ただただお姉様に一方的に押しつけて見ていただけということになってしまう。
有り得ない。そんなことは私はしていない。そんなはずはないのだ。そんなはず━━
━━どこの完璧超人かと思うような人がほんとにいるの?
その問いかけと、二年以上前にお姉様と交わした会話のあれこれが、私の中だけで取れていた整合性を容赦なく粉砕していく。
「……アリス? おーい、どうしたの? お酒飲んでもないのに酔っ払った?」
手をひらひらと目の前で振ってくるジェナは、私がどれだけショックを受けたかに全く気づいていないようだった。
「…………ごめん。ちょっと疲れが出ちゃったみたいだから、帰るね」
「そうなの? 一人で大丈夫? もうちょっと待ってくれたら、兄さんが迎えに来てくれることになってるけど」
「ううん、平気。またね、お休み……」
ふらふらと、我ながら頼りない足取りのまま家路につく。
「……『私の考える、理想のお姉様』……」
ぽつりとつぶやく。それは考えれば考えるほど正鵠を射ていた。
私は何度も言っていた。思っていた。━━お姉様なら私を誰より愛してくれる。私の存在を笑顔で受け入れて、願いは何でも聞き入れてくれる。私が何をしたとしても、謝ればきっと許してくれる━━『理想のお姉様』であるならば、と。
「…………そんなわけ、ないのに。お姉様は……」
確かにリーゼロッテお姉様はとても優しくて、お綺麗で有能だ。私の理想通りかそれ以上に。……だからこそ私は、勝手な理想を押しつけてしまっていた。これほど私の理想通りのお方なら、他の要素もきっと私の望む通りに違いないと思い込んで、そんなお姉様を私は愛した。━━そう。『理想のお姉様』だから愛したし、愛されたいと思った。愛してほしいと願い、愛されているという証を何より欲した。
でも、それは見当違いだった。あまりにも酷すぎて、的外れと言うのも愚かしいほどの。
「私……何て馬鹿だったんだろう……」
自分の有り様が酷すぎて、笑うこともできない。
そもそも、仮に本当にリーゼロッテお姉様が私の理想そのものだったとしても、肝心の私は『お姉様の理想の妹』などであったはずもない。そんなことにも気づくことなく、相手にだけはひたすら理想通りであることを求めるなんて━━どこまで傲慢で考えなしだったのか。
『君がリーゼを愛しているなんてのは大嘘だ』
フェルダ邸でソリュード様に言われた言葉はまさにその通りだった。━━私が愛していたのは架空でしかない『理想のお姉様』であって、実在する『リーゼロッテ・モニクス』ではないのだと、嫌というほど理解できてしまった。
━━ぽつり、ぽつりと空から雨粒が落ちる。
すぐに本降りとなった中をずぶ濡れになりながら、私はただとぼとぼと歩みを進めるしかできなかった。
翌日、私は高熱を出して仕事を休まざるを得なかった。
すぐに回復すると思っていたが、疲れが溜まっていたのと精神的な衝撃のせいかそれは酷く長引き━━心配したジェナやサイがお見舞いに来てくれたものの変化はなく、とうとう一週間後には入院することになってしまった。
「……ごめん、なさい。お姉様……わた、し……ちゃんと、お姉様のこと……見てなかった……」
混濁した意識のまま、病室でひたすらそう繰り返していたらしい。……自覚はなかったけれど。
結局その後、私は回復することは叶わず、どんどん衰弱していき死に至った。
そして次に目覚めた私は━━
ループ二周目終了。
やっと書けました、「私の考える理想のお姉様」。このワードを出したくてここまで書いてきたと言っても過言ではありません。
アリスは徹頭徹尾、個人としてのリーゼロッテに興味なんてありませんでしたのでね。姉の大切な男性や所有物には興味津々でしたが、それもまたアリスにとってはトロフィーのようなものでしかなく。「理想のお姉様」のイメージが物凄く強固だったせいで、リーゼロッテ本人が拒もうとウォルサル家のメンバーに何を言われようと、根本的にへこたれずにいられたのが難儀です。
アリスの行動には色々理屈をつけていましたが、端的に言うと「私の考える理想のお姉様」に対して、同担拒否の過激かつ超絶迷惑な推し活をしていたと思っていただければ。ここまでのアリスは、どれだけ拒まれても色々言われても「そんなお姉様は解釈違い!本当の(理想の)お姉様はこうなの!」と思い込んで全力で脳内修正していた次第。自分で書いてて何ですがリーゼロッテが不憫すぎる……
こういうひとには無関係の第三者からの言葉の方が有効だったりするので、家庭教師さんとジェナはいい仕事をしてくれました。
さて、これでようやくリーゼロッテに対してのアリスの認識を変えられました。長かったですが、次回以降が正念場……と言っても、実はまだ方向性は固まってません。名前だけ出てきたサイストン家嫡男ディオンは出てくる予定ではありますけど。
続きはまた時間が空くことになりますが、気長にお待ちいただければと思います。




