②ー3・アリス/クロディーヌ
そんな私へ、お姉様は口元を緩めて優しくこう言った。
「誤解しないでね、アリス。私は別に、この件に関してはあなたたち母子を責めてはいないから。お母様と私にさんざん口うるさく言われて辟易していた伯爵が、後妻とその娘に帳簿を触らせるなんてことをするはずがないもの。正直なところを言えば、それでも疑問に思うことくらいはあってほしかったのだけれど」
「……も、っ……申し、訳……あり、ませ……」
怖い。お姉様が怖くてたまらない。
だって今、微笑んでいるように見えるのは唇だけで、私を見るワインレッドの瞳には凍りつくほどの冷たい何かが宿っている。
お茶を飲んで暖まりたいと思うものの、どうしようもなく手が震えていて、ただティーカップを持ち上げることさえ不安で仕方がない。
「いいのよ、そのことは。私が失望したのは伯爵個人で、だからこそ彼の後を継ぐ日が待ち遠しくなったわ。王立学園を卒業してフレッド様と結婚し、正式に実権を手にしてモニクス家を立て直す━━それだけを目標に私は頑張ってきたのよ。婚約が破棄されるあの日まではね」
「っ━━!!」
ふふっ、と自嘲の笑みとともに発せられた言葉は、私の心臓を容赦の欠片もなく刺し貫いた。
「絶望したわ。これまで私がやってきたことは何だったのかって。モニクス家を立て直すパートナーとして苦楽を分かち合うはずだったフレッド様まで、異母妹のわがままの餌食にされてしまっただなんて。━━こんなことなら、婚約が白紙になる危険を侵してでも、最初からフレッド様とクライトン家に正確な財政状況を打ち明けていればよかったと、数えきれないほど後悔したわ。そうすれば、フレッド様が当主教育もまだのアリスを選ぶ可能性は、ゼロにはならずともかなり減って、フレッド様とクライトン、モニクス両家が余計な傷を負うことはなかったはずだもの」
フレッド様に関するお姉様の語りは、恋愛感情なんて入る余地もない、どこまでも理性的で合理的で……けれど彼個人が実際に負ってしまった「余計な傷」のくだりでは、紛れもない気遣いの念が感じ取れた。
やはりお姉様はお優しい。でもその優しさは今、私たち家族に対しては砂粒ほどの量も向けられてはいなかった。
「あなたがフレッド様と正式に婚約して次期当主になったことで、私が抱いていた目標と計画は粉微塵になってしまった。一瞬で目の前が真っ暗になって……同時に、心のどこかがぽっきり折れて戻らなくなったのが分かったわ。あなたとフレッド様の婚約が成立し、次期当主の座を追われた時点で、モニクス家を救おうとする気力や意思は、私の中からは完全に消え去ってしまったの」
「そ、そんな……お姉様……!!」
「だって仕方がないでしょう。私が家のためにと動くたびに、意図的ではないにせよ手を変え品を変え、何度も何度も台無しにしてきたのは他でもないあなたたち親子。平気な顔で邪魔しかしてこない人たちが我が物顔で居座る場所を、私一人で改善しようとするなんてことは、ただただ無謀かつ徒労に終わるだけ━━最初から分かりきっていたのに目をそらしていた現実を、あなたたちには否応なく理解させてもらったわ。ありがとう、アリス嬢。あなたのご家族にもお礼を伝えてちょうだいね」
そう言ったお姉様は、私が初めて見る穏やかな笑顔をしていた。
けれどその言葉の内容は、妹に対するものとは思えないほど他人行儀すぎて━━
話が終わったと判断したのか、ソリュード様がお姉様の怪我の手当てをし始める。お二人の脇にはいつ用意したのか救急用品が置かれ、 白い手のひらに丁寧かつ手早く包帯が巻かれていった。
兄妹それぞれからため息と一緒に小言を言われて申し訳なさそうにしながらも、お姉様の雰囲気はとても柔らかい。
それとなく、けれど明確に輪から弾き出された私は、数々の衝撃に上手く働かない頭をどうにか動かし、必死にお姉様へ尋ねた。
「……お、お姉様……私たちは、お父様とお母様と私は、れっきとしたお姉様の家族でしょう? なのにどうして、『あなたの家族』なんて━━」
「あら。モニクス家にいた頃の私の家族は、亡くなったお母様ただお一人よ? お父様だのお義母様だのはただ便宜的に呼んでいただけ。今はこうして、フェルダ家やウォルサル家の皆様が家族になってくれたけれど」
「まあ大変。仲間はずれにされたと知ったら、サイストンの叔父様やディオン兄様、フェリックスが拗ねてしまいますわよ、お姉様」
「サイストン伯夫妻は苦笑いするだけだろうからともかく、息子たちはまあ間違いなく拗ねるな。病弱な伯爵と夫の看病や家の切り盛りに忙しい夫人、父親の代理として多忙な日々を送る従弟たちに頼る選択肢を、心苦しいからとリーゼに除外されたことで、一人前のつもりの十代の男としては少しばかり傷つくものがあっただろうし」
「面目を潰したつもりはなかったのですけれど……ディオンたちもなかなか難しい年頃のようですわね」
「そう気にすることもないさ。二人と会う機会を作って話をすれば機嫌も直るだろう」
サイストン━━お姉様のお母様の実家だったはずだ。
そう言えば長男のディオン・サイストン様は学園の同級生で、入学当初からことあるごとに私に声をかけてきてくれていた。
多忙であまり登校はしてこないけれど成績は極めて優秀で、当主代理の仕事に専念するために飛び級卒業も視野に入れているのだという話は彼から直接聞いた気がする。
『そのためにも、学園でやるべきことはさっさと済ませてしまいたいところなんだ。婚約者は自分で見つけて構わないと両親にも言われているし』
と、意味深に言われたことを思い出した。
━━分かっている。一連の思考が、今直面している事態には無関係な現実逃避だということは。
正直信じられない。信じたくない。夢にも思っていなかった━━あんなにも情の深いリーゼロッテお姉様に、家族ではないと否定されてしまうなんて。それも私やお母様だけではなく、お姉様にとって生来の家族だったはずのお父様のことまで完全に切り捨てるなんてこと……
確かにお父様は、決して許されるべきではないことをしたかもしれない。だけどそれでも、れっきとしたお姉様の家族なのに。無論お父様だけでなく私も、血の繋がりはないけれどお母様も。
衝撃と混乱で目まいすら覚えていた私の耳に、心底から不思議そうなお姉様の声が、やけにはっきりと届いた。
「そんなにショックを受けているのは、あなたの思い通りに事態が動いていないこと? それとも、私があなたの思い通りに動こうとしないのが意外ということかしら」
「それはっ……!」
どちらかだなんて決まっている。自問するまでもなく答えはただ一つ━━後者だ。
だってお姉様はとてもお優しい方なのに。私にとってはたった一人の姉で、お姉様にとって私はただ一人の妹。ならば当然、お互いはお互いにとって誰よりも大切な存在であるはずだ。私たちはれっきとした家族なのだから。
━━そう確信していた。何があろうと揺るがない、絶対の真実だった。面と向かって当のお姉様に否定されるまでは。
「ねえ、アリス嬢。つい数ヶ月前、あなたは私がモニクス家で持っていた何もかもを、完全に自分のものにしたはずでしょう? 以前にも似たようなことを言ったと思うけれど、これ以上あなたにあげられるものは、今の私には何もないのよ。そんな私から、あなたは一体何を奪うつもり? 能力と精神力と死ぬまでの時間全てを擲って、あなたたち家族のために尽くせとでも言いたいの?」
「違います! そんなつもりはありません! ただ私は━━!!」
そう。私がお姉様に望んでいたのは━━以前も今も変わらず望むのは、ただ一つのこと。
「……私はただ、お姉様に心から愛してほしくて……!! お姉様に妹として、家族として愛されているという確かな証が欲しいだけなんです!! だから━━」
「だからあなたは、リーゼお姉様の大事なものを遠慮も何もなくおねだりしたというの? 父親の手を借りて強引にお姉様から取り上げてまで? ……それがどうしてお姉様から愛されているということに繋がるのか、正直言ってわたくしには微塵も理解できないわ」
呆れを通り越して私の存在そのものが不可解だと言いたげな視線をよこすクロディーヌ様の横で、お姉様とソリュード様が何とも複雑な表情を浮かべている。
「……まさか、本当にソリュード様の推測通りだとは思いませんでしたわ」
「的中していてこれほど嬉しくないものもまずないな、これは。━━とは言え、だ。アリス嬢」
改めて私の名を呼ぶソリュード様の声は、変わらず軽い調子であるはずなのに、どうしてか聞く者に無視することを許さない、不思議な何かを宿していた。
「正直君には言いたいことや訊きたいことが山ほどある。子爵家当主としての立場からも、年長のきょうだいを持つ弟としてもな。━━だが今は何より、リーゼロッテの婚約者として質問したい」
「こ、婚約者……!? そんな、嘘です! お姉様が私たち家族に何の相談もなく 、そんな勝手なことを━━」
「勝手? アリス様、わたくしの記憶が間違いでなければ、あなたはお姉様は勿論お父様にも一言も相談せずに、クライトン様との婚約破棄を独断で決めたのではなかったかしら」
「クロディーヌ」
「はい、ごめんなさい。もうお兄様の邪魔はしませんわ」
ただ名前を呼んだだけでクロディーヌ様がすぐにおとなしくなったあたり、ソリュード様は怒ると本当に怖いのだろう。
けれど、彼がどんなに怖くても負けるわけにはいかない。
だってこのままでは、お姉様との絆が完全に断ち切られてしまう。いくら婚約者だとしても、家族の絆の修復や再建を邪魔するなんてことはあっていいわけがない。
そう強く思って、正面からソリュード様と目を合わせて━━硬直した。
こちらを見る彼の目には、私に対する感情らしきものは何もなかった。正も負もない、ありのままの私という存在をただ見透かすように見ているだけで。
━━おかしい。無言で観察されているだけの視線に、どうしてこんなにも震えを誘われるのだろう。
「まず確認したいんだが。君はリーゼに愛してほしいと言っていたが、君の方からはリーゼのことを、姉として家族として愛しているつもりでいるという理解でいいのか?」
「━━!? ふざけないでください! つもりなんかじゃありません! 私はお姉様のことを、誰よりも何よりも心の底から愛しています!!」
あんまりな質問内容のせいで反応が遅れた。
視野の端でクロディーヌ様が明らかに異論のありそうな顔をしたけれど、約束通りに口に出されることはなかったので無視する。
肝心のお姉様は、もたれていた肘掛けに肘をつき、手のひらに伏せた顔を髪が隠すせいで表情が見えない。
でもどう見ても私の宣言に喜んでいる様子はなく、その現実に胸が苦しいほど締め付けられた。
「まあそう主張するだろうな。で、見たところ君にとっての愛情表現は、君の願いを百パーセント十全に相手に聞き入れてもらうことという理解で間違いないな?」
「……百パーセントだなんて完璧主義ではありません。ただ、愛する相手に望まれたことを叶えるために、最大限の努力をしてみせてほしいというだけの話です。別に間違ってはいないでしょう?」
「よし、それで改めて分かったよ。君がリーゼを愛しているなんてのは大嘘だってことがな」
「はあっ!?」
瞬時に頭に血が昇った。
これまでの人生━━回数としてはもう三度目になったけれども、殺意が湧いたのは今日この瞬間が初めてかもしれない。
明らかな害意を隠すこともせず屋敷の主を睨み付けた━━が、ソリュード様は欠片も動じない。
それどころか癪に障るほど悠然たる態度のまま、ペースを崩すことなく言葉を続けた。
「だってそうだろう? 君は『ただこのまま放っておいてほしい』というリーゼの望みを叶えるために、最大限どころか努力の一つもしようとしていないじゃないか。つまりアリス嬢、君の基準においては、君はリーゼを愛しているなんて胸を張って言えるような行動は何もしていないことになる」
「だ……っ、それは! 私はモニクス家の一員として、領民の皆さんのためにもお姉様に帰ってきていただきたいと思っているからで━━」
「だったら何故、安易にリーゼに頼る以外の方法を考えないんだ? モニクス家次期当主の立場を全うして君自身が領地運営に力を尽くすか、父親の伯爵を全力で説得する、もしくは頼りになる新しい婚約者を探すのでもいい。どれもどうしても無理と言うなら極論、爵位を放棄して国に返上すべきだ。そうすれば領民や領地の平和は保たれるどころか、むしろ今より楽になるだろうさ」
「ひ、他人事だと思って勝手なことを……! 私やお母様はともかく、お父様に貴族であることを放棄しろと!?」
「ついさっきリーゼが言っていたのをもう忘れたとでも? 伯爵は既に、貴族としての領民や領地への責任を何ら悪びれもせず放棄していると。そんな男が貴族の立場にしがみつくためにこれ以上リーゼを使い潰そうとするなんて、俺は何があろうと絶対に許すつもりはない。無論俺以外のフェルダの人間やウォルサル、サイストンの皆もな。━━君だって、本当にリーゼを愛しているなら、そんなろくでもない人生を送らせようと思うこと自体が有り得ないと思うんだが。違うか?」
冷静に、冷徹に。私の反論を、ソリュード様は一切の手加減なく粉微塵にしていく。
「アリス嬢。君の主張はただ、リーゼの心身両面の自由を何の呵責もなく犠牲にして、今まで通り貴族としての義務を果たさぬまま権利だけをひたすら享受する、どこまでも安楽な生活を送り続けたいという我欲にまみれた代物でしかない。━━そんな身勝手極まりない要求をしておきながら、同じ口でぬけぬけとリーゼを愛しているとほざくだと? むしろ俺の方が言いたいよ。━━ふざけるな」
━━その一言とともにぶつけられたのは、紛れもない殺気だった。
私が先ほど抱いたのとは比べ物にならないほど明確で強烈なそれは、何の覚悟もなく正面から浴びた私からあらゆる抵抗を奪う。
虚勢を張ってソリュード様の目や顔を見返すことは勿論、本能的にその場から逃げ出すことも、悲鳴を上げることさえ不可能で。
「……ぁ……っ」
恐怖のあまり息苦しさまでも覚えたその時、一度目の最期の記憶が蘇った。
━━森の中、虫に刺された痛みと毒で歩けなくなり、だんだんと体が痺れて起きていることすらできなくなって、そのまま地面に倒れ込んだのを覚えている。
そして、土と草の何とも言えない感触の中、苦痛は増すのに呼吸はどんどん心もとなくなる一方で━━
再び迫り来る死の影から逃げたくて、私は自ら意識を手放した。
ソリュードお兄様の本気の殺気にさらされたアリス嬢は、みるみるうちに蒼白になり、ほどなく糸が切れたように脱力してしまった。
とは言ってもソファに座った状態だったので、見たところはただ背もたれに身を預け、目を閉じて休んでいるようにしか見えない。顔色さえ無視すればの話だけれど。
念のために近づいて確認すればしっかり息をしている。
まあどれだけ図太くて厚顔無恥かつ無意識の傲慢に満ち溢れた存在でも━━いや、だからこそと言うべきか━━自分の立場や生命が直接脅かされる事態にはとにかく弱くなるものだ。
ましてお兄様を含めたウォルサルの成人男性は、遠近両方の手段で熊を軽く倒せるくらいの実力者である。そんな存在から手加減なしの殺気をぶつけられれば、意識の一つや二つをあっさり飛ばしてしまっても無理はないだろう。
「どうやら気絶したようですわね。どうしましょうか、リーゼお姉様。目覚めるまで客室に放り込んでおきます? 念のためお医者様にも診ていただいた上で」
「そうね。たぶん明日には問題なく帰らせることができるでしょうし」
了解を得たので、使用人たちに頼んでわたくしの泊まっている客室からは一番遠い部屋に荷物ごと運んでもらうことにした。
招かれざる客の姿がなくなったところで、煎れ直したお茶とお茶菓子をいただくことにする。
ふう、とお姉様が溜め息をついた。
「━━それにしても。破産の危機に気づいたのがいつかは知らないけれど、それがフレッド様との婚約を破棄した後だとしたら、本来は別の危機感も覚えておくべきではないかしら。私がモニクス家を出た理由の一つでもあるのに」
「だな。どんな理由であれ財政面に問題がある家に適齢期の子供がいれば、その伴侶には他の条件はさておき、とにかく裕福な相手が選ばれるのが定番だ。そこに当の子供の意思や希望が反映されることはまずない。最悪アリス嬢とクライトン殿の婚約が決まった段階で、別の金持ちの男がリーゼの新しい婚約者に選ばれていてもおかしくなかったな」
「そのあたりはお父様、ではなくてモニクス伯爵の見通しが甘かったということでしょうね。以前はとにかく失望を誘われた側面でしたけれど、今となっては心からお礼を言いたいくらいですわ」
自分から追い出したも同然の長女にそんな感謝をされているとは、モニクス伯爵は欠片も思っていないだろう。
せめて今頃は妻の前で盛大なくしゃみをしていればいい。
「クライトン様が発たれたのは昨日の朝でしたわよね? アリス嬢の出立が明日になるとしても、単純計算で二日の差が出ますから、モニクス邸では間違いなく激怒した伯爵が彼女を待ち構えているでしょうね」
「二日で済むかは微妙だぞ。それなりに急ぐ理由のあるクライトン殿と違って、アリス嬢にはそんな理由はないし旅慣れてもいないだろうからな。途中で適当に休みを入れながら余裕のある日程で帰るんじゃないか?」
「確かに……」
納得せざるを得ないお兄様の言い分だった。
つまり下手をしなくともアリス嬢が帰宅した段階で、誰とも知れない財産家と彼女の結婚が、父親の了解のもと既に決まってしまっていることも有り得るわけで。
「……ちなみにお兄様とお姉様は、条件に該当する男性に心当たりはおありですの?」
「そこそこあるな。婚約者がいない相手ってことならまずはフォルテス公爵子息、嫡男シグルドと次男アレクセイか」
「即座に断られること間違いなしの殿方を挙げるのは冗談でもやめてくださいな、ソリュード様。アリスを嫁入りさせてモニクス家は養子を取るにしても、あの子に公爵夫人など務まるわけがありませんし、まだ十一歳のアレクセイ様にアリスのような子を押し付けるなんて不憫でしかありませんもの」
ぴしりとお姉様にたしなめられたソリュードお兄様は、何故かどことなく嬉しそうな様子。相変わらずお姉様のお尻に敷かれることは満更でもないらしい。
おふざけは終わらせて真面目にお二人が提示した殿方は、爵位の有無はそれぞれだけれど、年齢は若くても三十歳手前とアリス嬢よりもかなり年長で、程度の差はあれ素行に難のある方々ばかりだった。
「若くて評判の悪くない貴族の男は八割方、学園卒業前には婚約するからな。嫡男でなければ割合は下がるし、アリス嬢はまだ一年生だからフリーの学生も周りにそこそこいるだろうが、相手にも当然選ぶ権利がある。そして真っ当な価値観を持っていれば、いくら未来の女伯爵とは言え、姉の婚約者を略奪して捨てた令嬢と好き好んで婚約しようとする奴はいないだろう?」
「ですわね。もしディオン兄様が億が一にもアリス嬢を見初めたとしたら、扇で後頭部を張り倒してでも考えを改めていただきますわ」
「その心配はないわよ、クロディーヌ。わざわざ言うまでもないけれど、アリスが私のペンダントを自分のものにしたことを、伯母様と同じくらい怒っていたのがディオンだもの」
「ええ、ですから『億が一』ですのよ。それでもかなり多く見積もっていますけれど」
お姉様のペンダントに刻まれているのは他でもないサイストンの紋章なのだから、サイストン家の嫡男たるディオン兄様が怒らない方が異常事態である。
話によればアリス嬢とは違うクラスらしいが、意識的に兄様の方から接触を増やすようにはしていたらしい。
そのことで、彼女がおかしな勘違いをしていなければいいけれど。
(そんな心配は無用かしらね。恐らくアリス嬢には、もう学園に通う自由はなくなるでしょうから)
果たしてその通り、アリス嬢がフェルダ家を去って半月ほどが経った頃。
アリス・モニクス伯爵令嬢が次期当主の座から外れ、王都有数の商会を営むディント男爵家の先代当主に嫁ぐことが、申し訳程度の記事として新聞に掲載されたのだった。




