②ー2・アリス
フェルダ邸への帰途につく馬車の中、私はとてつもない居心地の悪さを覚えていた。
ただそれは、あくまで私一人にとってだけみたいだけれど。
「予定をかなり早く切り上げることになってしまいましたわね、リーゼお姉様。ドーソンのレストランでランチの予定でしたのに、正直残念ですわ。今日の日替わりメニューは何だったのか、気になって仕方がありません」
「あらあら、食いしん坊ね、クロディーヌったら。確かにそちらも残念だけれど、厨房の皆に申し訳ないわ。昼食は外で食べるからと言ったのに、結局はフェルダ邸でいただくことになるんですもの。ころころ予定を変えてしまったことを謝らなくてはいけないわね」
「まあ、リーゼロッテ様。そのくらいのことなら日常茶飯事ですので何の問題もございません。フェルダ邸の厨房メンバーは、騎士団宿舎の方にも週に一度、交代で手伝いに入っているのですもの。あちらの多種多様な凄まじさに比べれば、皆様のお食事予定の変更程度はアクシデントにもならないレベルでございます」
「ありがとう、ラナ。そう言ってもらえると気が楽になるわ」
……明らかに私には介入できない話が延々と続く。
クロディーヌ様、彼女の侍女だというラナという少女、そしてお姉様と私。
四人乗りの馬車は定員いっぱいだけど、その気になれば六人は乗り込めそうなほどゆったりした作りで、クッションもふかふかしていて乗り心地のいい、素敵な空間だ。
なのに今の私には、別の意味でとても居心地が悪い。しかも並びが、私の隣がラナで正面はクロディーヌ様、その隣がお姉様という、何とも言えないものだから尚更だ。
……姉妹なのに、馬車の中で並んで座ることもできないなんておかしい。
そう考えていた私の心を読んだかのように、クロディーヌ様がこう言った。
「ご不満そうですわね、アリス様。でも申し訳ないのですけれど、あなたとリーゼお姉様をむやみに近づけることは絶対にしないというのが、ソリュードお兄様を含めたウォルサル家一同の総意だということは、是非ともご理解いただきたいですわ」
「!……それ、は……ええ。ごもっともだと、思います」
個人的にはとても不本意ではあるけれど、私がお姉様を傷つけてしまったことは、ウォルサル家の方々には当然知られている事実だから仕方がない。
自分の望みを相手に叶えてもらうには、ただ一方的にそれを押し付けるのではなく、相手の事情をまず考えてから行動に移す必要がある。前回の人生で数多くの仕事をした経験から思い知ったことだ。時には、その事情さえ無視しなければいけないことはあるにしても━━
ウォルサル家にとっての私という存在は、「リーゼロッテお姉様を酷く傷つけ続けた妹」でしかないのだろう。それは理解できるし、納得せざるを得ない。だってそれ以外の好ましい面を私が彼らに見せる機会はなかったし、これからもその機会はないと思う。少なくとも私は、ウォルサル家という生粋の貴族の皆様に対して、胸を張って誇れるものは何も持ち合わせていないから。
それでも私はまだモニクス伯爵家の娘であり、次期伯爵家当主という立場にある。だからせめて、それに相応しい選択と行動を取らなければいけない。モニクス家のため、領民のため。そして何より家族━━お父様やお母様、お姉様のために。
投げた言葉を肯定されたのが予想外だったらしく、不審げに眉をひそめたクロディーヌ様は、それでもごく淡々とした口調で再び口を開いた。
「さて。アリス様が、遠路はるばる王都からこの地までいらした理由は、一体どのようなものなのです? お姉様に関わることだというのは予想がつきますけれど、差し支えがなければ教えていただけませんこと?」
「……大変申し訳ありませんが、これはモニクス家の未来に関わることなので、他家の御方に軽々しくお教えするのは憚られるとだけ言わせてください」
「まあ。聞けばあなたは、他でもないわたくしのお母様の目の前で、お姉様から奪い取った男性との婚約を破棄したのでしょう? それは『他家の御方』の前で『軽々しく』行っても構わないことだったとでも?」
殊更に驚いたような表情はとても無邪気に見えるけれど、その言葉は明らかな嫌みでしかない。内容は紛れもない事実ではあるので、どう足掻いても否定できないのがまた厄介だ。
だから私は、素直にそれを肯定する。
「フレッド様のことは、確かにクロディーヌ様の仰る通りです。でも私は……あの時からはもう変わりました。ほんの数日でそんなことを言っても、説得力がないのは分かっていますけど……今まで自分がどんなに愚かなことをしていたのか、嫌というほどに実感していますから」
「実感、ね……ではあなたがこれからお姉様に何を話すにせよ、その内容は間違いなく愚かなものではないという期待だけはさせていただきましてよ」
どうせそんなものはすぐに外れてしまうのでしょうけれど━━
紡がれはしない言外の声はあまりにあからさまで、けれどそれは以前の私には絶対に聞こえなかったに違いないもの。
……これもまた、前回の人生での経験の賜物と言えるのだろう。およそ二十年に渡り種々様々な仕事をして人に関われば、あえて言葉にはされないが隠す気もないような本音くらいなら楽に感じ取れるようになる。
むしろ貴族社会であれば、その程度のことは社交界デビュー前の必須スキルと言っていい。……そしてそのスキルさえ身に付いておらず、身に付けるつもり自体がなかったかつての私は、伯爵令嬢としてはあらゆる意味で問題外の存在だったということだ。
過去の未熟さを改めて思い知らされるうちにも、馬車はスムーズに道を行く。
せっかくなのだからお姉様と雑談の一つもしたいと思うものの、その希望が叶うとも思えなくて、クロディーヌ様との会話の後は、私はひたすら沈黙を保つことになった。
お姉様と私の共通の話題がモニクス家関連のこと以外になく、この顔ぶれの前では歓迎されない可能性が高いこともあるけれど、従妹とその侍女と話しているお姉様がとてもリラックスしている様子なので、その邪魔をしたくないという気持ちが大きい。
……先ほど再会した時のお姉様の反応は、私という存在をどう思っているかを欠片の容赦もなくつきつけてきた。
その事実に心が挫けそうになるけれども、まだ望みを捨てる気はない。だってお姉様がお優しいことは、妹である私が一番よく知っている。妹に心変わりして婚約破棄をしたフレッド様に対しても、「愛はなくとも情はある」からと心配する様子を見せていたのだし。
そう。きっと大丈夫。お姉様は間違いなくモニクス家に帰ってきてくれる。
その優しさに報いるためにも、お姉様が帰っていらした暁には、私は必死に仕事を覚えて、できる限りの手助けをするつもりでいる。付け焼き刃では足手まといと言われるかもしれないけれども、それならそれでお茶を入れたり休憩を促すようなお世話は十分可能だから。
場合によっては使用人たちを減らす必要も出てくるだろうし、私やお母様が最低限の家事をすることを提案してみようか。昔のように、お母様と二人で台所に並んで━━
(━━━━っ)
前回の記憶……一人暮らしの家から貯金を盗まれた時の衝撃と絶望が蘇り、顔が一気に青ざめた。
でもあの出来事は一年以上未来のことで、今気にしても意味がないのだとどうにか自分に言い聞かせる。
(……そうよ。今のお母様はまだれっきとした伯爵夫人で、それに相応しい暮らしをしているんだもの。私から何かを盗む理由なんてない)
そんなことを考えながら無言でそっと首を横に振る私は、怪訝そうに見ている三対の目には気づかない。
━━その目の持ち主たちに思考を読まれていれば、「裕福に暮らしている貴族夫人や子女でも、他人から何かを掠め取る例はごく身近にありましたわよ? どんな理由かは知りたくもありませんけれど」とさぞ冷たく指摘されただろうことにも、私が思い至ることはなく。
(まだ起こっていないことなんてどうでもいい。今大事なのはお姉様の件だわ)
何とか頭を切り替えて気合いを入れ直した、ちょうどそのタイミングで。
━━がたん、と馬車が揺れて止まり、御者からフェルダ邸到着が告げられたのだった。
持参していた最低限の荷物を手に、記憶はあってもいい印象はほぼない城へ足を踏み入れる。
侍女の案内で応接間に通され、ソリュード様も同席する旨を告げられて、お茶を飲みながら彼の到着を待つ。
話をどう持っていくかを頭の中で最終確認していると、ソリュード様の名前に何の反応も示さなかった私を奇妙に思ったのだろうクロディーヌ様が、分かりやすく怪訝そうな表情になった。その右手に座ったお姉様は、内心が読めない顔のまま無言で私を見つめている。
……酷いプレッシャーを感じるけれど、何も言えないまま屈するわけにはいかない。
ここからが本番なのだ。未来で知っただなんて怪しすぎる真実を悟られることなく、お姉様に破産の危機を伝えて、モニクス家に戻ってきていただくよう誠心誠意頭を下げて頼まなければ。
いや、それ以前の問題として、分不相応でしかない私が伯爵家次期当主の立場にあったこと自体が間違いだと、はっきり口に出して認めるのが重要である気がする。
モニクス伯爵家の後継として、誰よりもその座に相応しいのはリーゼロッテお姉様ただお一人なのだと、心の底から断言し宣言するのだ。何も難しいことはない。胸を張り、お姉様の目を真っ直ぐに見て、本心をありのままに語ればいいだけ。
お姉様の品格には決して敵わなくとも、唯一の妹として、モニクス伯爵家次女アリスとして。今の私にできる最高の振る舞いをお姉様に見てほしい。
そしてそれを見たお姉様が、妹のことをほんの少しだけでも誇らしく思ってくださったなら━━そんな夢のような空想は、現実の前に容赦なく粉々に砕かれてしまった。
「嫌よ」
「………………え?」
端的かつきっぱりした答えは、私の予想とはまるで正反対のものだった。
信じられなくて下げていた頭を上げれば、左手にある一人用の椅子に座ったソリュード様の顔には呆れと苦笑が混じっていて。クロディーヌ様は意外にも、既に私と話の内容には関心のない様子で、テーブルに置かれたクッキーとお茶を、お姉様を挟んだソリュード様の反対側で至極優雅に堪能している。……この配置に関しては、お姉様の隣を巡って兄妹でちょっとした揉め事があったりもしたのだけれど、今はそんなことはいい。
あまりのことに愕然とした私に、例によって━━という表現になってしまうのが悲しい━━ほぼ無表情のお姉様は、ふぅ……と細く長く息をつき改めて視線をくれた。
「何故断られたのかちっとも解っていないようね、アリス・モニクス伯爵令嬢。まあ、そうでなければ、こんな考えなしの甘ったれた要望をあえてしてきたりはしないでしょうけれど」
「なっ……!?」
二度目の目覚めからずっと、考えに考えてきた結果を不当に非難され、瞬時に頭に血が昇る。
「ふざけないでください! いくらお姉様でも、そんな言い方は酷すぎます! 確かに私に言われたくらいのことでは、モニクス家の破産の未来を信じられないのは分かりますが、それでも━━」
「そこが君の最大の勘違いなんだよ、アリス嬢。いや、最大のうちの一つと言うべきかな」
私の怒りなど何とも思っていないのだろう、普段とちっとも変わらない軽い口調でソリュード様が割り込んできた。
「……どういうことですか?」
「どうもこうも。少し考えれば気づかないか? たかだか数ヶ月程度の当主教育しか受けていない君が気づくような財政危機について、とうの昔にその教育を完了していたリーゼが、今の今まで気づいていないなんて何故思うんだ?」
「━━━━っ!?」
絶句した。意味が分からなかった。
……ソリュード様の指摘を時間をかけて噛み砕くことで、ようやく理解する。
でも納得できない。そんなことがあるわけがない。
「嘘です! お姉様が既に破産の可能性に気づいていただなんて、そんなこと━━」
「あら、心外ね。つまりあなたにとって私は、付け焼き刃の教育しかされていない今のあなたと比べても格段に無能ということになるのかしら」
「ち、違います! そういう意味ではなくて━━だっておかしいじゃありませんか! お姉様がモニクス家の未来に危機感を覚えていたのなら、私たちを見捨てて家を出るなんてことはせず、今も王都で破産回避のために奮闘していらっしゃるはずです!」
「あちらの壁に鏡があるのでよくご覧になるといいですわよ、アリス様。リーゼお姉様が家を出る大きな原因になった上に、本来モニクス家のために奮闘しているべき方の顔がはっきり映るはずですから」
口を挟んだクロディーヌ様の態度は完全に他人事といった風情で、ささくれ立った神経を遠慮なく逆撫でしていく。反論できない事実を語る内容だからこそ尚更、効果は絶大だった。
……恐らくお姉様は、次期当主だった頃━━フレッド様との婚約が破棄されるまでは全力で破産を防ごうとしていたに違いない。お父様がそのことを知っていたかは分からないけれども。
けれど私のせいでお姉様は次期女伯爵の座を追われ、ウォルサルとフェルダ両家の庇護のもと、こうして南部辺境で暮らしているのだ。
そのことは重々承知している。だからこそ私は私なりの奮闘をしている。リーゼロッテお姉様がモニクス家に帰ってくるように全力を尽くすこと。それが今私ができる、モニクス家のための最善の行動なのだ。
「無関係のクロディーヌ様は黙っていてください! これはモニクス家の問題なんですから!
お姉様、お願いします! これまで私がお姉様にしてしまった酷いことは心から謝ります。今この場で土下座をしても構いません! ですからどうか、本来のモニクス家次期当主として、家に帰ってきてください! そして、家の立て直しのためにお父様にお力を貸してください! 私はまだ仕事のお手伝いは何もできませんけれど、全力で学んでお姉様をお支えしますから━━」
「そこが甘ったれだと言っているのよ。
ねえ、モニクス家次期当主様。あなたが継ぐべき家が危機に陥りつつあることを知ったのなら、何故あなたは今南部辺境にいて、家を出た私の説得などという時間の無駄でしかないことをしているの? どのタイミングで破産の可能性に気づいたのだとしても、あなたはすぐさま王都に帰って、モニクス家存続のためにあちらこちらを走り回っているべきでしょうに」
「そ、それはそうかもしれませんけど……でも、こんなにも不出来で不勉強な私は、伯爵家の当主になんてなるべきではないんです! だから私はこうして、お姉様のところへ来たんです。間違いを正すために!」
「生憎だけれど、後継者の変更を決める権利があるのはあなたではなくてお父様、現伯爵よ。あなたのことだから、思い立ったら即行動で直談判しに来たのよね。伯爵の許可を得ることなんて考えもせずに」
何ら揺らぐことなく、淡々と。お姉様はただひたすら事務的な口調で、正論と正しい推測を紡ぐ。
思えば、お姉様の私に対する口調はいつもこんな感じだった。
私はお姉様の妹なのに。世界にお互いしかいない、れっきとした姉妹なのに━━
「確かに可愛い娘のお願いとなれば、お父様も事後承諾で問題なく聞き届けてくださるかもしれないわ。━━お父様が跡継ぎの娘の伴侶として選んだ存在である、フレッド様との婚約を勝手に破棄してさえいなければね」
「そういえばそれがあったな。だがそれで癇癪を起こした伯爵が、アリス嬢を後継者から外す可能性も十分ある。穏便な手段じゃないが得られる結果はほぼ同じだ。そこを見越した賭けだったとしたら、アリス嬢もなかなか大したものだな」
「つまりこの後に、伯爵がお姉様を連れ帰ろうと直々に乗り込んでくる可能性があるということですの? 伯爵のお茶に下剤でも仕込んで差し上げようかしら」
「気持ちは分かるがデビュタントを控えた淑女の発言じゃないぞ、クロディーヌ」
……年下の少女の不穏な言葉に、私は思わず何度か口をつけたティーカップに目をやってしまった。
「あら、ご心配なく。今日のお茶やあなたのカップには、わたくしは一切触れていませんので」
「……そ、そうですか……ちなみに、触れる機会があれば何かを入れるつもりだったんですか?」
「ご想像にお任せしますわ」
にっこり、と毒気が抜けるほど無邪気で愛らしい笑顔を向けられても、明確な否定をされなかった以上、かえって恐ろしくてたまらない。
クロディーヌ様の企みについては考えないことにして、改めて話を進めるために正面に向き直る。
「……お茶のことはともかく、お姉様。お父様の許可がいただけたとしたら、モニクス家に帰ってきてきてくださると思っていいのですよね?」
「いいえ」
またもや即答だった。
「そこでそんな風に青ざめられることの方が、私にとっては意外だわ。
あなたには見えていなかったとは思うけれどね、アリス。私はこれでも以前は、必死にモニクス家の財政状況をどうにかしようと日々頑張っていたのよ」
「……はい。そうだったのだとは思います」
「認めてくれたことは嬉しいわ。
でもね、何を言ってもどう頑張っても、お父様は私の意見なんて聞き入れてくださらなかった。『モニクス家の金を、当主の私が好きに使って何が悪い!』と言いながら、自分やあなた、お義母様のためと称して湯水のようにお金を使うだけ。
それならと思って領地の産業振興を進めて収入を増やしても、増えたその分以上にお金が使われてしまうのよ、あなたたち三人に。━━あまりにも目に余ってお父様に抗議をしたら、何て言われたと思う?『今までまともな待遇をしてやれなかった妻と娘に、今までの分を補填してやっているだけだろう。単なる嫉妬で、何の問題もない正当な行動に文句を言うな!』ですって」
━━お姉様の言葉に、いくつかの記憶が蘇る。
『十五歳の誕生日おめでとう、アリス』
満面の笑顔とともにお父様がくれたプレゼントは、可憐なデザインの中に目映い宝石が散りばめられた、一目で高価なものと分かるネックレスだった。
流石に呆然としたけれど、デビュタントも近いのだからこれくらいのものは持っておくべきだと言われて素直に受け取った覚えがある。
そして、もう一つの記憶。
『結婚一年目のプレゼントだよ』
とお母様に贈られたのは、ティアラを象った美しく繊細な指輪で。
『私にとって君は誰より美しいプリンセスだ』と告げるお父様と、はにかみつつもこの上なく嬉しそうなお母様が並ぶ姿はとても素敵で、自分の両親と分かっていても思わず見とれてしまったほど。
まだ十二歳だった私はそのお姫様のようなデザインを羨ましく思ったけれど、それを察したお母様に優しくこう言われた。
『あなたもきっと、お父様のように素敵な男性からプレゼントしていただけるようになるわ。だってあなたはこんなにも可愛らしい、旦那様と私の自慢の娘なんですもの』
━━どれもただ思い出すだけで幸せになれる、温かく素敵な記憶だった。
でもその時から今まで、私は何も知らなかった。疑問にすら思っていなかったのだ。その裏で何が起こっていたのか━━同じ日同じ時刻に、お姉様が一体どんなお気持ちを抱いていたのかということを。
「━━ふざけるなと思ったわ。お父様に関することで誰かに嫉妬した時期なんて、あの時点でも既に思い出せもしないくらい昔のことになっていたもの。だから私は、伯爵家の跡継ぎとしての立場で現伯爵に抗議をしていたの。━━なのに、 伯爵は━━あの男は」
つうっ、と。震えるほどに握りしめられたお姉様の手のひらから、赤い血が流れ白い肌を伝った。
「何の問題もない? 正当な行動ですって? それが個人資産を使い込んだというだけの話なら、行動の是非はともかく、あの男が無計画ということ以外の問題は確かになかった。━━でも実際に使い込んで空っぽどころか赤字にしたのはあらゆる税収であり、最後には伯爵家の貯蓄にまで及んだわ。不測の災害や不作の年に備えて、備蓄食料とは別に、多少の増減はあっても必ず一定の金額を確保しておくのが、領地を持つ貴族の最低限の常識と責任なの。家のため、領地のため、何よりも領民のために」
つまり、それを使い果たしたお父様は━━貴族の常識を完全に放り出し、領主としての責任を言い訳の余地もなく放棄したということになる。お母様と私に贅沢をさせたいからという、ただそれだけの理由で。
顔どころか全身から血の気が引いて真っ白になったことを、私は嫌でも自覚せざるを得なかった。




