「赤ちゃんの匂いと幸福な日常」
魔王城の人々の、ちょっとした日常をお届けします。
産まれた時はふにゃふにゃだったエヴァンにも、ほやほやの銀髪が生えて来た。
エマは赤子の頭に顔を近づけ、その匂いを嗅ぐ。
「ああ……なんていい匂い」
エヴァンはくすぐったそうに笑う。以前にも増して、表情が出て来ていた。
彼は手を広げたり閉じたりして、木漏れ日を掴もうとしている。
エマは赤子を抱いて、木漏れ日を掴みやすいように移動してやる。
エヴァンは手を握るが、光が逃げてしまうのを不思議そうに眺める。
「そろそろ食べようか」
芝生に寝転がっているウィルが言う。
エマはそのそばに座って、持って来たミルクをエヴァンの口に押し込んだ。
「今回のミルクはお気に召したようだな」
ウィルがエヴァンのしきりに動く頬をつつく。
「ウェンディの肝入りだもの。何でも人間界に下りて行って、赤ちゃんを連れてる母親に声をかけて回ったそうよ」
「あの、鱗だらけの成りでか?声をかけられた方はさぞ驚いただろうな」
「ええ。大体逃げられたそうよ」
「……やっぱり」
「でも分けてくれる人が数人現れて、それを研究したらしいわ。するとね、人間の母乳にはなんとまだまだ未知の成分が含まれていることが判明したんですって」
「ほー」
「しかも、それぞれ成分が違うんですって。その人の赤ちゃんに合った成分になっているのよ」
「そんなこと、魔王城で引きこもってたら知り得ない情報だったな」
「だから、その中でも共通して含まれる成分を配合して」
すると、何を思ったのかエヴァンは急にミルクを戻した。
「わわわわわ」
エマは慌ててエヴァンを抱き上げた。エマとエヴァンの服はミルクで汚れた。
「あーあ……」
「こいつ、こういうところあるよな。親が話し込んでたら、ちょっかいかけてもらおうと吐くんだよ」
「まったく誰に似たんだか」
エマはそう言うと、ウィルを横目にした。
「……何だよ」
「何でもないわよ?」
エマがからかうように笑って、赤子の服を着せ換える。
ウィルの方は、バスケットから生ハムのサンドイッチとアップルシードルを取り出した。
エヴァンは余計なミルクを吐き出してスッキリしたのか、うとうととし出した。
魔王がこちらを覗き込んで言う。
「エマ、これ好きだろ」
「あら、アップルシードル?……でも、エヴァンが」
「俺が寝かしつけておいてやるから、お前が先に食べるんだ」
「……いいの!?」
エマはここ最近、エヴァンの睡眠時間に合わせて何もかもを行っているため、自由に好きなものを食べる時間が取れなかったのだ。
ウィルはぐずるエヴァンを抱き上げると、背中を小さく叩いてやる。
エヴァンはすぐに静かになった。
エマは生ハムのサンドイッチを頬張った。厚みのあるレタスの束と、粒マスタードが溢れるように出て来て非常に食べにくい。でも、それを舌ですくうようにして食べるのが、エマは好きだった。
木漏れ日の中、静かに泡立つアップルシードルののどごしを味わう。
隣には夫と赤子。
静かで幸福な午後。
ほろ酔い気分でウィルにしなだれかかると、彼に抱かれているエヴァンの額から、あの格別な匂いが漂って来る。
愛する人と、赤ちゃんの匂い。
「あー、幸せ」
エマが呟くと、ウィルが声も出さずに笑う。
サフィアノ村までの道のり。
村は、まだまだ先だ。




