第15話 異変
王都に戻る日まで残り三日と迫った朝、アシェリーはメイドからレベッカの様子がおかしいと聞かされてサロンへ向かった。
「レベッカ……?」
そこにはソファーに座っているレベッカの姿があった。顔色が悪く、目に生気がないように見える。
心配になったアシェリーが駆け寄ると、レベッカはようやく気付いたように顔を上げて弱々しい声で呟いた。
「お姉様……」
(一体どうしたのかしら?)
心配になって顔を覗き込むと、彼女の瞳に涙が溜まっていることに気付いた。
(泣いているの……?)
「何かあったの?」
アシェリーは戸惑っていると、レベッカは堰を切ったように話し始めた。
「私……お姉様のことが嫌いだったわ。ローレンツを私から奪った人だと思っていたから……それに性格だって悪いし」
いきなりの散々な言われ様に、アシェリーは絶句する。
だが、レベッカは鼻をすすりながら続けた。
「でも……尊敬できるところだってあるし、今は仲良くしたいと思っているの。姉妹として……」
「レベッカ……」
妹の言葉に、アシェリーはジンと胸を打たれる。レベッカは視線を伏せて恥ずかしそうに言う。
「お姉様は……私の憧れだから……」
まさかそんなふうに思ってもらえているとは思わず、アシェリーは感動した。
「ありがとう……レベッカ」
そう言って微笑むと、レベッカは目を潤ませた。そして突然アシェリーに抱きつく。
「お姉様……!」
「どうしたの?」
今まで妹から抱きしめられたことはない。──いや、うんと幼い頃には日常的にあったが、ある時を境になくなってしまった。
(あら? レベッカの気が乱れている……?)
先ほどは気付かなかったが、レベッカの体内の気が濁っているように感じた。
(それに、何だかいつもの妹のものではないような──)
困惑しているアシェリーに、レベッカは暗い瞳でボソリとつぶやく。
「……だからこそ、完璧なお姉様に害虫がまとわりついているのが許せないの」
「え……?」
アシェリーが聞き返そうとすると、レベッカはパッと離れて立ち上がった。
「お姉様の夫……ラルフ様は国王陛下だけど…… 私、あの方のこと嫌いよ」
突然の告白に驚いていると、レベッカはくるりと背中を向けた。
「お姉様の夫なんて、いなくなれば良いのに……」
(っ……!)
そんなレベッカに、アシェリーはなんと声をかければ良いのか分からなかった。
「どうして、そんなふうに思うの……?」
アシェリーの問いかけにレベッカは答えなかった。そのまま部屋を出て行ってしまう。
呆然とアシェリーは、妹の後ろ姿を見送った。
◆
(……レベッカの様子が何だか気になるわ)
アシェリーは朝に妹と会話した時から、ずっと気がかりだった。どうするか悩み、二階の自室にいる妹の元へ会いに行く。
「レベッカ、少し良いかしら?」
アシェリーは窓辺の椅子に座って読書していたレベッカに声をかけた。彼女は本から顔を上げて、こちらを見ると首を傾げた。
「何? お姉様」
その顔色はやはり悪く、心なしかやつれているようにも見える。
(何か悩み事でもあるのかしら……?)
心配になってアシェリーは妹のそばまで行き、椅子に座ってから口を開いた。
「最近、何かあったの? その……何かいつもと違うことでもあった?」
するとレベッカは少し考え込んだ後で答えた。
「……別に何もないわ」
そう言って再び本に視線を落とす妹を、アシェリーはじっと見つめる。
「そう……それなら良いのだけれど」
(やっぱり話してくれないか……)
アシェリーは嘆息してから、また出直そうと決めて立ち去ろうとした。
その時、レベッカがぽつりと尋ねてくる。
「お姉様は……陛下のことをどう思っているの?」
「え……?」
アシェリーは驚いて振り返る。するとレベッカが本から顔を上げてこちらを見ていた。その瞳には、不安の色が滲んでいるように見える。
「それは……」
(どう答えればいいのかしら?)
アシェリーが戸惑っていると、彼女はさらに続けた。
「……お姉様は、陛下のことを好きなの?」
「え? ええ……そうね。だから結婚したのよ」
(最初は無理やりだったけれど……)
しかし今は彼と本当の夫婦になれた、と思っている。
アシェリーが答えると、レベッカは顔を歪めた。
「……お姉様は陛下と結婚して幸せ?」
「……ええ。幸せよ」
そんな問いに躊躇なく答えることができたのは、それだけ彼との今の生活が充実しているからだろう。だが妹はその答えでは納得しなかったようだ。さらに質問を重ねてくる。
「本当に? 心から満足してる?」
(え……?)
「ええ、もちろんよ」
(どうして何度も聞いてくるの?)
アシェリーが答えると、レベッカは悲しげに微笑む。
「……そう……なら……」
その後の言葉は小さすぎて聞き取れなかった。
「レベッカ……?」
アシェリーが戸惑っていると、レベッカは立ち上がった。そしてそのまま部屋を出て行ってしまう。
(訳が分からないけれど……あんな状態の妹を一人にさせられないわ)
アシェリーは急いで妹の後を追った。
そして、間もなく廊下の先に彼女の姿を見つける。
「お姉様を不幸にしたら、絶対に許さないんだから!」
レベッカの大声が響いて、アシェリーは思わず足を止めた。
(え?)
レベッカがいたのは玄関ホールの螺旋階段の上だった。数段下にいるラルフがレベッカを睨みつけている。
二人は口論をしているようだった。その険悪な様子に、アシェリーは青くなる。
「何を言っている? 俺はアシェリーを不幸になんてしない。絶対にだ」
その自信満々なラルフの様子に、なぜかレベッカはますます頭に血を昇らせた。
「あなたにお姉様の何が分かるのよ!?」
そんな二人の様子を使用人達が遠巻きに眺めている。だが誰も止めようとはしない。皆、巻き込まれたくないのだろう。レベッカとラルフの間には誰も口を挟めないような一触即発の空気があった。
しかしこのままではいけないと思い、アシェリーは勇気を出して声をかけようとする。
「レベッカ、ちょっと……!」
だがその時、アシェリーは「あっ」と驚いて目を見開く。レベッカの体内に黒いもやのようなものが渦巻いて見えたのだ。その禍々しい気配は、ローレンツの体を蝕んでいた悪い気と同じだ。
(え……? どうして、あれが……)
アシェリーが困惑している間に、レベッカが真っ赤になってラルフに手を伸ばす。そして叫んだ。
「絶対に許さないんだから!」
我に返ったアシェリーが慌てて階段まで駆けた。
(間に合って……!)
「やめて、レベッカ……!」
しかし、アシェリーが制止する間もなく、レベッカはラルフを突き飛ばした。
ラルフの体が傾ぐ。アシェリーは手を伸ばして、落ちる寸前のラルフの手を握った。
「アシェリー?」
ラルフの瞳には『なぜここに?』というような動揺の色がある。
「きゃああ!」
「陛下ぁぁっ!」
使用人と護衛達の悲鳴が響き渡る。
アシェリーは硬直した。なぜか瞬きした次の瞬間には、ラルフに抱き寄せられて彼の腕の中にいたのだ。
そしてラルフは空中で一回転して、優雅に階段下のホールに着地してしまう。
「危ないだろう、アシェリー。いきなり飛び込んでくるなんて」
「い、いえ飛び込んだ訳じゃなくて……、ラルフを助けようとしたんだけれど……」
(全然必要なかったわ……)
冷静になって考えてみれば、ラルフは身体能力がずば抜けているのだ。ちょっと女性に階段上から押されたくらいでは怪我などしないだろう。
床にそっと降ろしてもらったアシェリーは、眉根を寄せてレベッカの方を見る。
(まさか妹がこんなことをするなんて……)
今までのラルフへの無礼な言動は、アシェリーの妹だから目をつむってもらっていただけだ。さすがに今のレベッカの行動は度を越しすぎている。
レベッカは目に見えて狼狽していた。
「あ、あれ? 私、どうしてこんなことを……ッ! ごめんなさい。陛下、私はそんなつもりじゃ……突き飛ばす気なんて、全然なかったのに……」
レベッカは真っ青になって震えている。
ラルフは嘆息して、彼女を睨みつけた。
「……レベッカ。いくら子供のしたこととはいえ、これは見逃す訳にはいかない。国王である俺を害そうとしたことは斬首刑に値する。それでなくても、俺の最愛の妻を危険に晒したことは許しがたいことだ。たとえ故意でなかったとしても。これまでの俺達への非礼もどうかと思うし……罰を受ける覚悟はできているな?」
レベッカはビクリと大きく肩を震わせて、後退していく。しかしラルフの護衛達が即座に動き、レベッカの周りを固めて彼女の動きを封じた。
ラルフがゆっくりとした足取りで妹に近付こうとするのを、アシェリーは咄嗟に腕を掴んで止める。
「ラルフ、待って」
「……どうした?」
怪訝そうな顔をする彼に、アシェリーは言った。
「少し妹と話したいの」
「かばい立てするのか?」
ラルフは顔をしかめてから、アシェリーにだけ聞こえる低い声音でそっと耳打ちする。
「心配するな。そこまで大事にするつもりはないから」
ラルフもアシェリーも別に危険はなかった。ただ、やりすぎな妹に灸を据えるつもりで、ラルフはレベッカを叱ろうとしていたのだろう。
彼が本心ではレベッカを罰するつもりがないことが分かってホッとする。だが、アシェリーは首を振った。
「違うんです。これは、レベッカがしたとは思えません。彼女は操られているようです」
「何だって?」
ラルフは驚きの声を上げる。
アシェリーは、階段の上で縮こまっているレベッカの気をじっと見透かすように見つめた。
「レベッカの体内に知らない他人の”気”が渦巻いています。とても邪悪な気配で……おそらく、これはローレンツの時と同じような呪いの類かと……」
「呪いだと……?」
ラルフが険しい表情になる。アシェリーは頷く。
(レベッカにこんなことをした相手って、やっぱり……)
その疑問の答えを得るべく、アシェリーはレベッカにゆっくりと近付いた。そして彼女に優しく声をかける。
「ねえ、レベッカ……あなたはどうしてラルフ……陛下を害そうと思ったの? それは、いつから? もしかして、ローレンツに関係しているんじゃない?」
すると妹は大きく目を見開く。どうやら心当たりがあるようだった。
「……そ、そういえばローレンツから花束が贈られてきて……それから体がだるくて、気持ちが不安定になったような……」
「花束?」
ラルフが眉をひそめる。
アシェリーは渋い顔で言う。
「どうやったのか分からないけれど、きっとその花束に呪術がかけられていたんだわ。レベッカを操ってラルフを殺すために……」
「そんな……っ」
レベッカは青くなって、両手で口を覆った。その肩が震える。
「ローレンツが私を操って……? だって……そ、そんなことが彼にできる訳が……っ」
ガタガタと震える妹を安心させるようにアシェリーは微笑みかける。そして、彼女の両肩を包み込んだ。
「終わったら、ゆっくり説明するわ。──その前に、部屋に戻って休みましょう。まずは呪術を解かなきゃ……」
そのために、ローレンツに会わなければならないだろう。
(私の可愛い妹に、なんてことをしてくれたの……レベッカを利用しようとするなんて……)
ふつふつと腹から怒りが込み上げてきて、アシェリーは拳を握りしめる。
「大丈夫よ、レベッカ。必ず、私が助けてあげるからね」
アシェリーの言葉に、レベッカの瞳が次第に潤みだす。そして最後には泣き崩れてしまった。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……お姉様、……陛下……! 私……っ」
「良いのよ、レベッカ。あなたは悪くないわ……」
嗚咽を漏らすレベッカを、アシェリーは優しく抱きしめて妹の背中を撫でた。




