第14話 呪い返し
ラルフが滞在している客室に入ると、彼は机の上に置いてあった本を手に取って、その表紙を見せてくれた。
「これなんだが……」
「……これは」
それは『呪術全書』と書かれた手書きの書物だ。挿絵もふんだんで、かなり分厚い。
「中身を読んでも良いですか?」
そう尋ねると、ラルフは首肯する。
古い書物なので、破れないよう慎重にページをめくっていく。
とあるページに栞が挟まれていた。
そこに注目して欲しいという意図だと察し、アシェリーはそのページを読み込む。だが、ほとんどが古語で書かれているうえに難解な内容で、王妃教育を受けてきたアシェリーでさえ理解するのに時間がかかる。
「これって……」
アシェリーの予想を裏付けるように、ラルフは険しい表情で言った。
「ああ。……この書物によると、呪術とは『呪いをかけることで相手の命を奪う禁術』らしいんだ」
(やっぱり……)
前世の知識のあるアシェリーが予想していた通りだ。だが、ラルフの話にはまだ続きがあった。彼は続ける。
「しかし、仮にローレンツが十年前に誰かに呪いをかけられたとしたら、今も生きているというのは奇妙な話だ」
「それは……確かにそうですね」
アシェリーも同意する。だが、そうなると疑問が残る。
(呪いは失敗した? それとも別の要因が……?)
考え込んでいると、ラルフが口を開いた。
「ここの記述を読んでくれ。この書物には『呪術の失敗例』という項目がある。それによると……」
『呪いはすぐに効力を発揮し、相手を死に至らしめる』
『ただし、呪いを受けた相手が力のある呪術師で、即座に反術式を展開すれば、呪いは緩やかに進行する。だが呪いは確実に体を蝕み、長く苦しみ、いずれ死ぬ』
アシェリーは難しい表情でうなずく。
「そうですね……ここに書かれている通りなら、呪いを受けた者は即座に亡くなるはず……不思議ですね。反術式を展開しなければ呪いを緩やかにできないと書かれているけれど……当時のローレンツは幼いし、呪術についての知識はないと言っていました。彼にそれができるはずもありません」
「もし、それが嘘なら?」
ラルフの言葉に、アシェリーは目を見開く。
「え?」
「嘘だとしたら、どうだ? ローレンツは呪術に関して十分な知識と、それを扱えるだけの能力を持っていたと仮定してみろ」
「……まさか」
(つまり、幼いローレンツが反術式を展開した?)
戸惑うアシェリーに、ラルフは思案げな表情で嘆息する。
「呪いを受けたら、術者に解除してもらうしか助かる方法はないようだ。だが術者はいないのに、アシェリーには治療できただろう? おかしいと思わないか? 普通の治療師ならば、治癒なんてできないはずなのに」
「確かに……」
アシェリーは考え込む。
(でも、どうして私にそれができたの……?)
ラルフの推測が正しいと仮定して……もし、ローレンツが誰かに呪いをかけられ反術式を展開したとしても、アシェリーの治療で病が治るはずがないのだ。
アシェリーは『呪術の失敗例』の記述をじっと眺めて、ある文章に目を留めた。
『呪いにはゼロか十の結果しかない。失敗したものは全て術者に返ってくる。これを呪い返しという』
『呪い返しを解く唯一の方法は、呪った相手が致死するほど生命力を奪うこと』
「生命力を奪う……?」
アシェリーは呟く。
(訳が分からない……)
「アシェリー、大丈夫か?」
ラルフが心配そうに覗き込んできた。アシェリーはハッと我に返り、慌てて答える。
「ええ……でも、本当に訳が分かりません」
ラルフは顎に手を当てて考え込むような仕草をした後、口を開いた。
「……これは俺の予想だが」
そう前置きをしてから続ける。
「ローレンツは呪い返しを受けたのかもしれないな」
「え……?」
(まさか……そんなことがある?)
恐る恐るアシェリーは言う。
「つまり、ローレンツが誰かを呪って、それが返ってきたということですか?」
そう口にしてから、ある可能性に思い至りアシェリーは青ざめる。
生命力とは魔力と言い換えることもできる。
つまり、アシェリーがラルフの膨大な魔力をローレンツに流してしまったことで、彼の病は回復してしまったのだ。ラルフはピンピンしているが、それだけの魔力量を奪われたら常人なら死ぬ。つまり呪いは成就したことになる。
「私はラルフの魔力を使って、彼を治療しました。その結果、ローレンツの傷は癒えた……それは、つまり……ラルフが彼に呪われていたということですか?」
「ああ。おそらくは。ローレンツは昔からアシェリーのことを好きだと言っていたからな。そして十年前に発病したということを考えると……アシェリーが俺に執着するようになってから、ローレンツが俺を呪ったのだろう。しかし、それは失敗してしまい、呪い返しを受けることになったと考えられる」
衝撃的な内容に、言葉を失う。
「そ、そんな……」
(じゃあ、私はラルフを殺そうとした相手を救ってしまったということ……?)
その事実に愕然とする。
そんなアシェリーを見てラルフは言った。
「大丈夫だ、アシェリーは何も悪くない」
「……っ」
これはアシェリーがラルフに恋をしてしまったために、起きた悲劇なのだと。
そう思うと泣きそうになったが、ぐっと堪える。
ラルフは冷静だった。
「アシェリーが気にすることはない。それに、まだこれは俺の勝手な推測に過ぎない。断定はできないだろう」
そう言って慰めてくれるが、それでも不安な気持ちは拭えなかった。
そんなアシェリーの肩を抱き寄せながら、ラルフは言った。
「……だが、もしそうだとしたら……やはりあいつを生かしておくのは危険かもしれないな」
(え……?)
戸惑うアシェリーに構わず、彼は続ける。
「恋敵を密かに殺そうとするような相手だ。放っておけば、俺もアシェリーも危険にさらされる」
「そう、ですけど……」
ラルフの言っていることは正しい。だが、それでもアシェリーは納得できなかった。
(私は……ローレンツを殺したくない)
たとえ敵だとしても。できるだけ周りの人を傷つけたくない──そんな気持ちを過去の贖罪として持っているのだ。
そんなアシェリーの気持ちを察したのか、ラルフは優しく微笑んだ。
「俺はそんなに簡単に殺されるような相手じゃない。心配するな。だが、できるだけローレンツには警戒しろ。奴に不審な行動をさせないよう見張りをつけておくから」
「……分かりました」
アシェリーはラルフの提案に首肯した。だが、それでも完全に不安が拭えたわけではない。
そんなアシェリーの心情を察したのか、ラルフは安心させるように彼女の頭を撫でた。
「心配なら、四六時中、俺と一緒にいてくれ」
甘く囁かれて、アシェリーは頬を染める。
「っ……もう」
照れ隠しに顔を背けると、ラルフが苦笑する。そして、そっと唇を重ねてきた。
◆
しかし、その日の夕方、ローレンツから花束が贈られてきた。
「あいつ……」
アシェリーはサロンで薔薇の花束を受け取った。
ソファーで隣に座っていたラルフは顔をしかめている。
「アシェリー、その花を捨てろ」
ラルフが険しい表情で言う。
だが、アシェリーは首を横に振った。
「いいえ……捨てません。花には何も罪はありませんから……これをどこかに飾ってちょうだい」
そう言ってメイドに花束を渡す。その時、サロンにレベッカが入ってきた。表情が暗く、目の下にはクマのようなものが見えている。
「レベッカ……」
昨夜、ローレンツと庭のガゼボで話をしているところを見られてから、妹との関係が気まずくなっている。
「ローレンツから花束が贈られてきたの? お姉様ったら、モテモテなのね。羨ましいわぁ」
嫌味たらしい妹の口調に、アシェリーは顔を引きつらせる。
「レベッカ……その、昨夜のことは……」
「ああ、別に気にしていませんわ。お姉様が誰と何をしようが、私には関係ありませんもの」
(……やっぱり怒っているわね)
アシェリーは気まずくなって視線を逸らす。
レベッカからしたら、想い人を姉に取られたようなものだ。面白くなくて当然だろう。
「レベッカ」
ラルフが声をかける。すると、彼女はキッとラルフを睨みつけるように見つめた。
「何ですの? 私に何かおっしゃりたいことでも?」
「……アシェリーはお前の姉だ。あまり困らせるな」
その言葉にレベッカは眉根を寄せる。そしてプイッと顔を背けたかと思うと、そのまま部屋を出て行ってしまった。
(ああ……)
気まずい雰囲気にアシェリーが嘆息していると、不意に横から抱きしめられた。驚いて見ると、すぐ近くにラルフの顔があってドキッとする。
「ラルフ……?」
困惑していると、彼は耳元で囁いた。
「シスコンの妹を持つと大変だな」
「え? 今のやり取りで、そんな要素ありました……?」
レベッカとの応酬はギスギスしていて、そんな和やかな雰囲気はなかったように思えたが──。
「だが俺はアシェリーを妹にだって譲るつもりはない」
「ラルフ、何を言って……?」
脱力するアシェリーに、ラルフはふっと笑う。
ふいに、ラルフが唇を重ねてきた。
(んっ……)
突然のことに驚きながらも受け入れると、次第に深くなっていく口づけに翻弄されそうになる。だが何とか堪えて彼の胸を押して距離を取ると、潤んだ瞳で睨みつけた。しかしラルフは余裕の表情で微笑んでいる。
「アシェリー……」
そんな熱っぽい声で名前を呼ばれ、再び顔が近づいてくる。だがその時、突然ラルフは動きを止めて扉の方を見た。そして舌打ちをする。
「ちっ……邪魔が入ったか」
「え……?」
アシェリーが戸惑っていると、ノックの音がした。メイドが入ってくる。
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
「ああ、そこに置いておいてくれ」
ラルフはアシェリーから身を離して、ティーセットの用意をさせる。メイドに聞こえないように耳元で囁く。
「続きは、また後でな」
(もうっ……)
そんなラルフに呆れながらも、アシェリーは赤くなった顔を背けて、紅茶に口を付けたのだった。
◆
レベッカは面白くない気持ちで子爵邸の廊下をズンズンと歩いて行く。
(夫に愛されているのにローレンツの気持ちまで奪っていくなんて罪な人ね……)
レベッカは昔からローレンツに、ほのかな恋心を抱いていた。
自分が伯爵夫人として彼を支えられたら……と何度想像しただろう。しかし、彼の心が昔から姉のアシェリーに向けられていることを知っていたレベッカは、その秘めた想いを彼に伝えることはなかった。ほとんど諦めていたからローレンツが姉に想いを告げたと知っても、少しがっかりするくらいで済んだ。むしろ過去の初恋と決別できて、すっきりとさえしている。
だが、姉のアシェリーがローレンツと──いや、特にラルフと仲睦まじくしている様子を見るのは面白くなかった。
そもそも自分から姉を奪ったのはラルフなのだから、彼が国王で敬うべき存在だと分かっていても、どうしても好意的な気持ちは湧かない。もし姉が何年も領地を離れず、ずっと子爵領にいて──レベッカのそばにいたなら、もっと違う友好的な姉妹の関係だって築けたかもしれないのに……。
そう苦々しく思ってしまうのは、自分の心が狭いからだろうか。
レベッカは、昔から姉へ愛憎交じりの複雑な思いを抱えている。姉の傍若無人な振る舞いでさえ──それができない小心者のレベッカにとっては、時に羨ましく映った。
姉の神がかった治療師としての才覚と、その美貌への尊敬と羨望。それに頓着しない姉への侮蔑と嫌悪。十年前にローレンツを治してくれなかった恨みが入り混じり、姉がそばにいると気持ちがぐちゃぐちゃになる。そして、そんな自分がますます嫌いになっていく。
「お姉様の馬鹿」
そう呟くと、背後から声をかけられた。
「レベッカお嬢様」
振り向くと、そこには紫色の花束を抱えたメイドがいた。レベッカは彼女を睨む。
「何? 今忙しいんだけど?」
すると彼女は困った顔をした後、口を開いた。
「……ローレンツ様から花束の贈り物が届いておりますが……」
(っ……)
その言葉に思わず息を呑む。だがすぐに平静を装って答えた。
「あらそうなの? でも、それは私宛ではないでしょう?」
しかし、メイドは首を振った。
「いえ、レベッカ様宛です」
(え? どうしてローレンツが私に……?)
驚いて目を見開くと、彼女は不思議そうな表情で続けた。
「ローレンツ様が直接届けたいと仰っていたのですが、残念ながら所用があるからとお預かりました」
「そ、そう……」
戸惑いながらも返事をすると、メイドが一礼して去っていく。その後ろ姿を見ながらレベッカは薔薇の花束を胸に抱いた。
「あら……?」
薔薇の花の一つが枯れかかっているのに気付く。
手で触れると、まるで砂のように朽ちて落ちてしまう。それが手に吸い込まれていったように見えて、レベッカは幻覚かと思い、目をこすった。
「気のせいかしら……?」
不思議と、それから酩酊したように頭がくらくらした。
(何かしら……? 夜にあまり眠れなかったから? 急に眠気が……)
自室まで戻ると、メイドに花束を渡して花瓶に花を活けてもらう。
ベッドに横になって血色の悪い唇のような色の薔薇の花を見ていると、思考がどんどん混沌と濁っていくように感じられた。
(ローレンツにお礼の手紙を書かなきゃ……)
そう思いながらも、手足が鉛のように重くて意欲が湧かない。
「はぁ……疲れた……」
自分が姉のことを好きなのか嫌いなのか、それすら今はよく分からない。姉が領地に戻っている間、少しは近付けたと思っていたのに……。
「はぁ……」
ため息を吐くと、レベッカの脳裏に声が聞こえた。
『……憎い』
「え?」
レベッカは驚いて辺りを見回す。だが、誰もいない。
『国王ラルフが憎い……』
(誰……?)
その声は、まるで地の底から響いてくるような暗い声だった。レベッカは思わず身震いする。
「何なの……?」
不安になって立ち上がると、今度ははっきりと声が聞こえた。
『お姉様の夫なんていなければいいのに……』
(っ……!)
そんな恐ろしい言葉に、背筋が凍り付くような感覚を覚えた。しかし次の瞬間にはその声も聞こえなくなり、静寂が訪れる。
レベッカは呆然としたが、やがてまた思考がぼんやりしてきて眠りに落ちた。




