第9話 雪解け
アシェリーはミレー子爵邸に戻る馬車の中で思案していた。
(何とか、ここに滞在している間に呪術について調べなきゃ)
ローレンツに呪いをかけた男を捕まえられるのが一番良いが、もし原作通りだとすると、その男は数年前に火事に巻き込まれて亡くなっているはずだ。探しても無駄骨になる可能性が高い。
「浮かない顔だな」
ラルフにそう声をかけられて、アシェリーは苦笑する。
「治療師は万能ではありませんから」
「でも、アシェリーならきっとできるさ。俺はそう信じている」
ラルフはそう言って、優しく微笑む。
その笑顔に勇気づけられて、アシェリーも微笑み返す。
「ありがとう……」
そして突如、ラルフはアシェリーの腰に腕を回して抱き寄せ、彼女の額に口付けを落とした。
「わっ! ラ、ラルフ……」
驚いて見ると、ラルフはニヤリと口の端を上げる。
「どうした? 顔が赤いぞ」
「……っ!」
「元気になったか?」
アシェリーは唇を尖らせる。
「もう……っ!」
ラルフはアシェリーが落ち込んでいるように見えたから、ふざけて見せたのだろう。そう分かってしまったから怒るに怒れない。
「怒った顔も可愛いな」
ラルフはそう言って、今度は頬に口付けを落とす。
「からかわないでください」
「からかってなんかいないさ。本当に可愛いと思っているから言ったんだ」
アシェリーが赤くなった顔を逸らすと、ラルフはクッと笑ってから真面目な表情になる。
「それで、呪術について調べるのか?」
「ええ。まずは、邸や町の図書館を調べてみようかと……」
呪術については焚書されているから望みは薄いが、他に方法も分からない。
ラルフは「ふむ……」と思案するような表情になる。
「もしかしたら王宮図書館の禁書庫になら呪術についての書物が保管されているかもしれない。配下に調べさせてみよう」
「ありがとうございます」
「礼には及ばない。アシェリーのためだからな」
ラルフはそう言って、アシェリーの頭を撫でる。
「でも現存する資料は多くないだろうから……あまり期待はしないでおいてくれ」
アシェリーは神妙にうなずく。
(まずは自分で調べてみましょう。とりあえず今日は邸の書庫を調べて……何もなかったら明日、街の図書館に行ってみようかしら……)
ラルフに任せるばかりではいけないと思い、アシェリーはそう決めて、拳を握りしめるのだった。
◆
その日の夕方、アシェリーは子爵邸の書庫から出て、ため息を落とす。
(やっぱり呪術に関する資料はないか)
伯爵邸から実家に戻ってからダメ元でどこかに転がっていないかと書庫の中を探してみたが、そう簡単に見つかる代物ではなさそうだ。
(夕食まで、まだかなり時間があるわね……)
廊下の窓から夕焼けを見つめながら、何気なく庭園を見おろして──アシェリーは目を見開いた。
「あれは……」
レベッカだ。メイドを連れている。
地面にうずくまっている。何をしているのだろうと目を凝らせば、足元にいる茶色のウサギを撫でていた。そのウサギの足には包帯が巻かれている。
レベッカは悲しげな表情でウサギの包帯をほどいた。傷があるらしく茶色の毛に赤黒い塊がついている。
彼女は何度かウサギを撫でた後、目を閉じて手のひらをウサギの傷の上に当てた。レベッカの手のひらが光り輝くが、すぐに光は消えてしまう。
レベッカは失望したような表情を浮かべた。彼女はそばにいたメイドから救急箱を受け取り、新しい包帯をウサギの足に巻いてあげていた。
「アシェリー?」
そう呼びかけられ、アシェリーはビクリと肩を震わせる。悪いことなどしていないのに、こっそり見ていたことがバレて気まずさを覚える。
声をかけてきたのは母親である子爵夫人だった。
「あっ……お母様」
アシェリーは安堵した。
「何を見ているの?」
そう言って母親は窓の外を眺める。アシェリーの視線をたどり、レベッカを見つけたようだ。
母親は苦笑する。
「ああ、あのウサギね……レベッカが庭で見つけたのよ。ネズミ捕りの罠にかかってしまったみたいで、足を怪我して歩けなくなってね。数日前から庭で面倒を見ているの」
「そうだったの……私に言えば良いのに」
アシェリーは顔を歪める。レベッカは決して姉であるアシェリーに助けを求めたりしない。かつて手ひどく裏切られた経験があるからだろう。
(頼んでも無駄だと思っているのか、それとも私に借りを作りたくないのか、どちらなのかは分からないけれど……)
沈痛な表情で黙り込んでしまったアシェリーを見て、夫人はためらいがちに言う。
「あの子もどうして良いか分からないのよ。ほら、元々はレベッカの方が先に治療師になろうとしていたでしょう?」
「えっ……?」
思ってもいなかった母親の言葉に、アシェリーは固まる。
「どういうこと?」
「あら、忘れちゃったの? ほら、レベッカが六歳の時に転んで膝を擦りむいて、あなたが治してあげたことがあったじゃない。それ以来、レベッカは『わたしも、おねえさまみたいな治療師になる!』って宣言して、治療師を呼んで練習していたのよ。結局、あの子は芽が出なかったけれどね」
「あ……」
アシェリーは思い出した。確かにそんなことがあった気がする。昔の記憶で曖昧だったが……。
「でも、あれは……」
アシェリーは言葉を濁した。
彼女からしたら、ただの気まぐれだった。妹が泣きわめいてうるさかったから、という、ただそれだけの自己本位な動機で、まったく憧れられるようなものではない。
母親は微苦笑している。
「……アシェリーは昔から怪我をしなかったわよねぇ。いえ、きっと怪我をしても自分で無意識のうちに治療していたんでしょう。だから転んでも擦りむいてもすぐに治っていたのね。大人達が気付いた時には、もう自由に魔力を操れるようになっていたもの」
母親は言葉を切って、深く息を吐く。
「……でもレベッカはそうじゃない。普通の子だった。いえ、少し男勝りだったかもね。よく小さな怪我を作っていたわ。……王都にはたくさんいるでしょうけれど、子爵領には治療師はごくわずかしかいないの。だから、あの時のアシェリーの治療は、幼いあの子には奇跡のように見えたのかもしれないわ」
目をキラキラさせながら姉の治す姿を見つめている幼いレベッカの姿を思い出した。
(ああ、そうだったわ……)
そういえば、かつてはレベッカから尊敬の眼差しで見られていた時期があった気がする。『やり方を教えて』と駄々をこねる妹を鬱陶しがり、アシェリーは彼女に冷たく接した。そして、妹の目が尊敬から失望へと変わっていくことすら興味がなかった。
母親は困ったように眉尻を下げる。
「あの子を悪く思わないであげて。思春期で、今はとても難しい年頃なの。あなたへの気持ちも複雑なのよ」
「悪くなんて思っていないわ……」
アシェリーは首を横に振る。
「そう……それなら良いのだけれど」
母親はそう言って微笑んだ後、表情を曇らせる。
「……あの子は治療師になりたかったけれど、なれなかった。あなたは治療師には興味はなかったけれど、才能が突出していた……それが、どれほどレベッカにとって残酷なことだったか……きっと幼馴染のローレンツを治すことができない己を、あの子はずっと歯がゆく思っているはずよ」
「そう、ね……」
アシェリーは目を伏せる。
(レベッカが、そんなに本気で治療師になりたがっていたなんて……)
アシェリーは動揺していた。そして自分の言動を省みる。
(私はいつも、あの子の気持ちを考えていなかったかもしれない……)
だから、レベッカとの思い出も忘れてしまっていたのだろう。
「アシェリー」
母親は優しく微笑んで、アシェリーの手を取る。
「あなたが気に病むことはないわ。何もしなかったとしても誰かから憎まれることはあるもの」
「……ええ」
そう答えながら、アシェリーは思う。
(何もしなかったから……)
アシェリーは目を伏せる。
(私は……何もしなかったから、レベッカに憎まれていたのかもしれない)
◆
夕食後、アシェリーはラルフと別れて庭園を歩いていた。外気に触れたい気分だったのもあるが、気になることがあったのだ。
今日もレベッカはアシェリー達と夕食を共にしなかった。だからきっと、あそこにいるのだろうと察したのだ。
(やっぱり……)
昼間にレベッカがウサギの治療をしていた場所に行ってみると、やはりそこには彼女がいた。しかし、今日はお供のメイドはいないようだ。
レベッカの隣には救急箱が置かれている。どうやらウサギの包帯巻き直してあげていたらしい。
レベッカはアシェリーの姿を認めると、ギクリと身を強張らせた。
「お姉様……」
アシェリーは黙ってレベッカの隣に腰を下ろした。そして救急箱の中身を見る。包帯も薬もきちんと揃っているようだ。
(このくらいの傷なら、いずれ痕も残らず自然治癒するでしょうけれど……)
そう思いつつも、ついお節介を焼きたくなるのが姉心というものだろうか。
「貸して」
そう言ってアシェリーはウサギの足に手をかざす。
傷口に魔力を流すとみるみるうちに傷が半分ほど塞がっていく。その様子をレベッカは目を皿のようにして見ていた。
「なんで……っ、余計なことしないでよ!」
レベッカが不機嫌そうに言う。
アシェリーは顔を強張らせて、しばらく押し黙ってから言葉に迷いつつ言う。
「余計なことじゃないでしょう。傷が早く治るのは良いことじゃない」
「それでもお姉様に治してもらわなくても良いわ! 恩着せがましいことしないでよ! うざいから」
レベッカはアシェリーを鋭く睨みつける。
アシェリーは大きく頷いた後、静かに言った。
「それなら、あなたが治しなさい。手伝ってあげるから」
「えっ?」
何を言われたのから理解できなかったのか、レベッカはきょとんとした顔をしている。
「あなたが、治すのよ」
「私が……? でも私、治療師じゃ……」
「なれるわよ。あなたなら」
アシェリーはきっぱり言う。
レベッカが驚いたように目を瞬かせた。
「どうして、そんなことを……?」
アシェリーは微笑む。そして、レベッカの体内にある魔力の流れを見る。
昼間、ウサギを治そうとした時に彼女の手のひらが輝いていた。それは治療師の才能がある証拠だ。
「素質はあるわ。でも、あなたは魔力量が多いから、きっと自分の体を制御するので精一杯なのね。その状態で人を治そうとすれば体内の魔力の均衡が崩れて魔力暴走が起きそうになるから、体が無意識に他人に魔力を流すことを拒絶しているんだわ」
「そ、そんな……」
レベッカは泣きそうな顔になる。アシェリーは微笑んで首を横に振る。
「そんな顔しないで。コツさえ掴めば、体内の魔力は制御できる」
「……どういうこと?」
「手を貸して」
そう言って、アシェリーはレベッカの手を取るとウサギの足に触れさせた。
「ちょ、ちょっと!」
レベッカの抗議は無視した。
アシェリーはもう一方の手で、震えて縮こまっているウサギをなだめるように撫でる。
「大丈夫よ。落ち着いて」
そう声をかけながら、アシェリーはレベッカの体内で渦を巻く魔力を操る。
レベッカの魔力をゆっくりとウサギに流していくと、強張っていたウサギは警戒を解いた。アシェリーが治そうとしていることが本能で分かったのだろう。
「この感覚をよく覚えておいて」
アシェリーは狼狽しているレベッカにそう言う。さらにレベッカの手を通して彼女の魔力を流していく。すると、みるみるうちにウサギの傷口が塞がっていった。
(やっぱり、この子は治療師になるべきね)
アシェリーは確信した。
相手に流せるほどの魔力量がないと、そもそも治療師になるのは難しい。だが、レベッカはその点はクリアしている。ならば、あとは魔力制御のやり方を学ぶだけで良い。もちろん魔力が多いほど制御は難しくなるが、手のひらを光らせられるほど集中できるならコツさえ分かれば習得できるはずだ。
「ほら、できたでしょう?」
そうアシェリーが微笑んで手を離すと、ウサギの足はすっかり綺麗になっていた。
レベッカは目を白黒させている。
「……すごい。これ、本当に私の魔力で……?」
「ええ、もちろん。これで分かったでしょう? 魔力のコントロールさえできれば、あなたにだって治療できるのよ。きっと今までの先生は教え方が下手だったのね」
アシェリーの言葉に、レベッカは押し黙る。
「お姉様は……私に才能があるって、本当にそう思う?」
そのかすれた問いかけに、アシェリーは微笑む。
「ええ、もちろん。私がやり方を教えてあげるわ」
レベッカの顔がパッと明るくなった。直後に素直に喜ぶのが癪に思えたのか、レベッカは顔を逸らして変な顔をしていた。
そして、しばらく迷いに迷ったような表情をしてから──ポツリとこぼす。
「……それなら、教えてもらってあげても良いわよ」
素直になれない妹の精一杯の小さな呟きを、アシェリーの耳は確かに拾った。




