第4話 治癒
邸に入ると、すぐに伯爵夫妻が出迎えてくれた。
「ようこそいらっしゃいました。ラルフ陛下、アシェリー様」
「アシェリー様、お久しぶりですね」
そう言って微笑むレーマー伯爵と夫人だ。
アシェリーは複雑な気分である。
かつて息子を治療しなかったアシェリーに恨みがあるだろうに、伯爵夫妻は笑顔の下ではそれを隠している。己の気持ちを押し殺して、わずかな可能性に賭けてアシェリーを頼ってきたのだ。
客観的に考えれば、過去のアシェリーがローレンツを治療しなくとも恨まれる道理はないのかもしれない。だが身近な相手だからこそ『あの時、助けてくれなかった』という恨みは根深く残るものだ。
アシェリーは居心地の悪さを感じながら視線を落とす。
「ご無沙汰しております」
そう挨拶するアシェリーに、レーマー伯爵は悲しげに微笑む。
「ローレンツを……息子を治療して頂けると手紙に書かれておりましたが、本当でしょうか」
「はい。そのつもりで来ました」
アシェリーの答えを聞いて、夫妻は顔を見合わせて破顔する。しかしすぐにまた表情を曇らせた。そして夫人が口を開く。
「でも……もし治らなかったら……」
夫人は不安そうだ。
ラルフが安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だ。アシェリーはこの国一番の治療師だ。彼女を信じろ」
「……そうですね。ではこちらへどうぞ」
レーマー伯爵に案内されて、アシェリーとラルフは屋敷の中を進んでいく。
その途中、使用人らしき男性とすれ違ったが、彼はアシェリーを見て顔を曇らせた。
(やっぱり……恨まれているわよね)
居心地の悪さを感じたが、それでもローレンツを治すと決めたのだ。もう後戻りはできないし、したくない。
しばらく歩くと、大きな扉の前にたどり着いた。中へ入ると奥にベッドがあり、そこに一人の青年が横たわっていた。
(ローレンツ……)
銀髪の頭、顔や首、衣服から覗く腕の大部分に包帯が巻かれて血が滲んでいる。
今は目を閉じて眠っているように見えるが、顔色は悪く呼吸も浅いようだ。その姿に思わず息を呑む。
(よくこんな状況で十年も耐えて……)
そう気後れするほど彼の状態は酷かった。
「アシェリー様、お願いします」
レーマー伯爵に促されて、アシェリーはローレンツの近くにある丸椅子に腰かける。
そして彼の額にそっと手を置いた。
(ローレンツ……ごめんなさい)
心の中で謝りつつ治癒魔法を使うと、淡い光が彼を包み込む。
しかし、まるで底がない桶に落ちる水のように力がどんどん吸い込まれていく。こんなことは初めてだった。
(これは何……?)
彼の体内に渦巻く魔力は、濁った川のようにおぞましさを感じる。ローレンツだけのものではなく、何か別の邪悪なものが混ざっているかのような気持ち悪さがあった。
幼い頃の記憶からも、ローレンツの治癒は大変で何日もかかるだろうことは分かっていたけれど、これは予想以上にひどい。年月が経っていることもあるが毒素が体に充満している。
「息子は助かるんですよね!?」
そうすがりつく伯爵夫人に、アシェリーは困り顔でチラリとラルフを見る。
アシェリーの体内魔力だけでは、ローレンツの治療には全く足りない。
「ラルフ……いえ陛下、協力していただけますか?」
ラルフは少し目を見開く。
「精霊の森の水晶柱の時みたいにするのか?」
アシェリーは難しい表情で「はい」と、頷く。
あの時も切迫していたが、今度は失敗すれば目の前で人が死ぬかもしれない。
(でも、やるしかない……!)
並の治療師ならば匙を投げるような治療でも、アシェリーに迷いはなかった。
ラルフの膨大な魔力を人間の体に注げば、普通なら相手は魔力暴走を起こして死んでしまう。だが、アシェリーがコントロールしながら慎重に魔力を注げば、不可能ではないだろう。
ただ、そのまま魔力の流れを整えたら体内の毒素がますます広がってしまうから、まずはアシェリーを介してラルフの清浄な気を注ぎ込み、少しずつ毒素を汗や尿から排出させていく。根気のいる作業だ。
「始めます……!」
アシェリーはラルフの手を借りて、深呼吸してから目を閉じる。
ラルフの魔力がアシェリーの体内を巡り、ローレンツにかざした手のひらに集まっていく。
「おお……陛下の人間離れした量の魔力を取り込むことさえ本来ならば難しいことだというのに……」
光り輝くローレンツの体を見て、伯爵がどよめいた。
それをやすやすとこなしてしまったアシェリーに、伯爵夫人が息を飲む音が聞こえる。
額に汗がにじむ。治癒魔法は繊細な作業なのだ。少しでも集中を切らせば失敗してしまうかもしれない。
徐々にローレンツの顔色が良くなっていく。呼吸も安定してきたようだ。
(よし……)
怪我を治すまでには至らなかっただろうが、体内の毒素の五分の一ほどは排出できたはずだ。
「う……」
ゆっくりとローレンツの瞼が開いて青い瞳が覗く。彼はぼんやりとした表情でアシェリーを見つめる。
ローレンツの意識が戻ったのを見て、アシェリーはホッと胸を撫で下ろした。
「ローレンツ!?」
伯爵夫人が喜びの声を上げると、ローレンツは少し戸惑ったような表情で口を開いた。
「えっ……? 俺はいったい……うっ」
身を起こそうとして、ローレンツは胸の辺りを押さえて痛みにうめき声を上げた。
「ああ、ローレンツ! 大丈夫!?」
伯爵夫人は心配そうに息子に手を伸ばす。
アシェリーは肩で息をしながら言う。
「無理はしないでください。まだ完治していませんから……少し包帯をほどいて肌を見せてももらえますか?」
アシェリーの言葉に夫人がうなずき、メイドの手を借りてローレンツの半身を起こさせる。そしてシャツを脱ぎ、上半身の包帯を慎重に取っていく。
アシェリーは傷の具合を確認して、うなずく。
「血は止まっていますね」
そう言うと、伯爵が安堵したように相好を崩した。
「良かった……本当に良かった……! ありがとうございました」
アシェリーは難しい顔で首を振る。
「いえ、これは一時的な回復です。まだ体内の毒素の五分の一ほどしか排出できていないので……このまま放っておけばまた悪化するでしょう。何日かかけて集中的に治していきましょう」
「今日はもう無理なんですか!?」
伯爵夫人のすがるような視線に、アシェリーは心苦しくなりながらも首肯する。
「申し訳ありませんが……一度に治そうとするとローレンツの体への負担も大きいです。それに、私も集中力が続きません。明日に必ずまた治療しにきますから、今日はゆっくり休んでください」
最後の言葉はローレンツに向けて。
アシェリーが穏やかな声音を心がけて言うと、彼はじっと穴が開くほどアシェリーを見つめていた。
アシェリーは何を言うべきか迷う。
(『久しぶり』? それとも、『私のこと覚えている?』とか? 『遅くなってごめんなさい』と言えば良いのかしら……?)
発する言葉を見つけられず躊躇していたアシェリーを、なぜかローレンツは熱のこもった瞳で見つめている。
まるで女神でも見ているかのように彼の目が煌めいているのは気のせいだろうか。
「君が治療してくれたのか……? 美しい恩人の名前を教えてくれ」
ローレンツが手を伸ばしてアシェリーの手を握る。その枯れ葉のように力のない手にアシェリーは驚いてしまう。
「あっ、私は……」
ローレンツは気付いていないのだ。アシェリーがかつて憎んだ少女だと。
十年も会っていなければ幼馴染の顔など覚えていないだろうし、面差しも変わっているだろう。
何より、アシェリーは前世の記憶を取り戻す前と後では雰囲気も性格も違うと言われる。ローレンツが同一人物だと気付かなくても無理はない。
「レディの手を無闇に握るのは失礼だろう」
ラルフはそう言って、ローレンツが握るアシェリーの手を引き離す。
「あの……」
言い淀むアシェリーを見て、何を思ったのかレーマー伯爵が割り込むように言う。
「ローレンツ、疲れただろう。今は休むんだ。お前が落ち着いたら、改めて二人を紹介するから」
そう言って、アシェリーとラルフを半ば強引に部屋から連れ出してしまった。
◆
客間に案内されて、レーマー伯爵は深々と頭を下げる。それに伯爵夫人も続く。
「アシェリー様、息子を治療してくださり、ありがとうございました……!」
アシェリーは慌てて首を振る。
「い、いえ……っ、私一人の力では無理でした。陛下がいてくださったから、ローレンツを救う手段が見つけられたんです。それに結局は今日だけで治すことはできませんでしたし……もう少し時間がかかります」
そうアシェリーが言うと、なぜかラルフが苦笑する。
「陛下も、ありがとうございました! お手を煩わせてしまってすみません」
伯爵夫妻の感謝の言葉に、ラルフは鷹揚に首を振る。
「いや、俺は何もしていない。有能で謙虚な妃の行いだ。だてに聖女と呼ばれていないな」
ラルフの言葉に、感心したように大きく頷く伯爵。
「……恐れながら、本当に助けてくださるとは思っていなかったんです。新しい聖女がアシェリー様だと聞いて……とても慈悲深い方だという噂を耳にして、どうせ聞き入れてもらえないだろうと思いながらもご連絡をしまして……」
震える肩が痛ましくて、アシェリーはぎゅっと拳を胸元で握りしめる。
「……くるのが遅くなって、ごめんなさい」
伯爵は反射的と言うように顔を上げて、「……いえ」と、ゆっくりと頭を振る。
「時間はかかりますが、必ず治せますから安心なさってください」
そう言うアシェリーに、伯爵はおずおずと言う。
「ありがとうございます。あの……実はご相談がありまして、大変失礼なことだと思うのですが……アシェリー様が治療してくださっていることは、ローレンツが完治するまで秘密にしていただけないでしょうか?」
「えっ?」
思ってもいない提案に、アシェリーは目を瞬かせる。
伯爵は気まずそうに視線を逸らしながら自身の首筋を撫でた。
「実は、アシェリー様をお呼びしたことは息子に話していないのです。これは私達夫婦が独断で行ったことで、その……申し上げにくいのですが、ローレンツはアシェリー様にあまり良い感情を抱いていないのです。だから、もし治療師がアシェリー様だと知ったら治癒を拒否するのではないかと危惧しておりまして……」
アシェリーは唇を引き結ぶ。
(その心配は無理もないことだわ……)
誇り高いローレンツなら、アシェリーの施しなど受けないと突っぱねてしまうだろう。かつて慈悲を与えなかった相手が治療するとなれば、下心を疑うに決まっている。『どうせ高い金を要求するんだろう』と罵られるくらいのことはしそうだ。
――と、そこまで考えて、『私は今は王妃なのだから、それはさすがにないか』と首を振る。
しかし、それでもローレンツに好印象は抱かれないだろうと想像できる。
「妃に正体を隠せとは……無礼ではないか?」
むっとした表情のラルフの腕に、アシェリーはそっと制するように手を添わせる。
「いえ……私のかつての行いのせいですから、ローレンツに信じてもらえないのは仕方ありません。私も完治するまでは大人しく治療を受けてもらいたいので、正体を隠すことは構いません」
と言いつつも、どうしても寂しさがにじむ。
アシェリーの言葉に、ラルフは眉根を寄せつつも黙り込む。
「……仕方ないな。アシェリーがそう言うなら」
ラルフはそう言った。
「ありがとうございます!!」
伯爵夫妻は喜色を浮かべつつ、アシェリーの両手を握りしめる。
「今日は家でゆっくり休んでください。豪華な夕食も用意させますので……!」
そう言う伯爵に、アシェリーは首を振る。
「いいえ、せっかくのお気遣いですが……今日は実家に泊まると連絡してありますので、そちらに陛下と共に参ります」
「あっ、そうだったんですね。それでは明日、またお待ちしております」
伯爵の言葉に、アシェリーとラルフは頷く。
(そうだ。もう一つ、問題が残っているのだったわ……)
妹レベッカの顔を思い浮かべながら、アシェリーは密かにため息を落とした。




