第3話 自分ができること
十年前の光景が脳裏によみがえる。
(ああ、これは夢だわ……)
先ほどまでアシェリーは船のスイートルームにいたはずだから、これは夢に決まっている。
意識ではそうだと分かるのに、少女のアシェリーの足は勝手に廊下を歩いていた。
「退屈だわ。何か面白いことないかしら……」
アシェリーは、そうつぶやいた。
最近では両親も『ローレンツを治してあげたら?』なんてアシェリーの意思を無視した提案をしてくるから面倒くさい。
数日前にローレンツを治すよう妹のレベッカとローレンツから懇願されたばかりだ。あれから妹に会うたびに親の仇のように睨みつけられている。
「やっぱり、田舎はつまらないわねぇ……」
家庭教師と勉強するくらいしかやることがない。
その時、ふと廊下の先で父親が客人と応接間に入って行くのが見えた。
(そういえば王都からお客様が来たって言ってたわね……)
交友範囲の広い父親の元には友人がよく来訪する。
アシェリーは一ヶ月ほど前までいた王都での生活を思い出した。
(なにか、ラルフの近況が知れないかしら……)
毎日のように父親にラルフのことを尋ねているが、はぐらかされてしまっている。
アシェリーは扉の前まで行き、そっと扉に耳をつけて聞き耳を立てる。中から声が聞こえてきた。
「……王妃様は流行り病で身罷られたことになっているが、本当はラルフ殿下の魔力暴走に巻き込まれて亡くなってしまったんだ」
客人の声だ。
その衝撃的な内容にアシェリーは息を飲む。
二週間ほど前にアシェリーも王妃の訃報を聞いてはいたが──。
(王妃様が亡くなった原因が……ラルフにある?)
「そうなのか? それでは今、ラルフ殿下は……?」
心配そうなアシェリーの父親の声に続くように、客人は言う。
「殿下は部屋で謹慎処分だ。しばらくは外に出てこられないだろうな。宮廷治療師達もお手上げだよ。ラルフ殿下の魔力量が桁違いで、誰もまともに制御できない。国一番の治療師と名高いデーニック・クロード公爵が今のところ対応しているが、それでもまたいつ暴走するか分からないようだ……」
「それでは殿下は……」
「ああ……この状態が続けば王太子の座も危ういだろうな。幽閉塔に閉じ込められるかもしれない。我々もクラウス殿下派につくべきかも──」
(──これはチャンスだわ!)
アシェリーは歓喜して、その扉を音を立てて開けた。
「お父様! それなら私を王都に連れて行ってくださいませ! 殿下を治して差し上げますわ!」
驚いた表情の父親と客人の男。
「アシェリー!? お前、聞いていたのか……!」
青くなる父親をよそに、アシェリーは機嫌よく室内に入り、父親の膝にすがりつく。
「お父様も私が天才なことはご存知でしょう? そのデーなんとかっていう人より、ずっと上手に殿下を治療してみせますわ!」
発言はともかく顔だけは可愛い愛娘のおねだりに、父親はたじろぐ。
「しっ、しかし、お前は面倒だから幼馴染のローレンツの治療でさえもしたくないと言っていたじゃないか。良いのか?」
「ええ! 私は別に誰の治療もしたくない訳ではありませんもの! 相手は選びたいだけです」
「……ほお。ラルフ殿下の魔力を制御できるほどの自信があるのかい?」
今まで黙り込んでいた客人が、アシェリーに向かって尋ねた。鋭く睨めつけてくる眼差しは、子供の戯言など許さないといった雰囲気がある。王宮の大臣を務める男なのだから当然だろう。
アシェリーは胸を張って答える。
「ええ、私は天才ですから!」
アシェリーの自信満々な態度が気に入ったようで、客人は噴き出すように笑った。
「君の話はお父上から何度も聞いているよ。気まぐれだが、類まれな才能の持ち主だと……ふむ。良いだろう。一度殿下に会わせても良いかもしれない」
客人の言葉に、動揺したのは父親の方だった。
「本気かい? そんなことして失敗したら……」
「いや、治療師として来てもらう訳じゃない。殿下もずっと部屋に一人でこもっているから、話し相手も必要だろう。たとえ治療できなかったとしても、殿下の気晴らしになると説得すれば、陛下もお許しくださるだろう」
彼はアシェリーの実力を知らないから、彼女を軽んじてそう言っているのだろう。
アシェリーは不満だったが、ここで変に反論して王都に行けなくなるのは嫌だったので黙っていることにした。
そして母と共に再び王都へ向かい、ラルフを治療して周囲を驚かせたのだ。
そしてアシェリーはラルフの治療に必要なことだから、と家族を説得して半ば強引に王都にあるタウンハウスに侍女達と移り住むことを了承させた。国王の後押しがあったことも、両親を納得させる理由になったのだろう。
そうして国王や大臣の信頼を得たアシェリーは、ラルフが嫌がろうが関係なく彼の婚約者の座に収まったのだ。
◆
アシェリーは温かい手のひらの感触で目を覚ます。
「大丈夫か、アシェリー? うなされていたぞ」
そうラルフが声をかけてきてくれる。
ひどく汗ばんでいる。いつの間にか寝てしまっていたらしい。
「ラルフ……」
アシェリーは身を起こして、ラルフの首に腕を回して抱きついた。そして彼の胸に顔を埋める。
(ああ、やっぱりこの温もりが落ち着く……)
今の彼はアシェリーを優しく受け入れてくれるから、つい甘えてしまうのだ。過去にアシェリーは許されないことをしたにも関わらず。
「怖い夢でも見たのか?」
そう問いかけてくる彼に、アシェリーは首を横に振る。
「いいえ、ただの過去の夢です」
かつてのアシェリーは、周囲のことなど何も考えていなかった。
恵まれているのは貴族で天才だから当然だとさえ思っていた。誰かを救える力があったのに、それを利己的に使うだけの傲慢な少女。それが自分だ。
──それは悪夢ではなく事実。消せない過去だ。だから今のアシェリーが過去の己の過ちを清算しなければならないと強く感じる。
ラルフは「そうか」と頷いて、アシェリーの髪を撫でてくれた。
「お前が過去の行いを後悔しているのを知っている。俺はもう許したが……もしかしたらお前のことを許せない者がいるかもしれない。もしお前を認めず傷つける者がいたら、俺が必ず護るから」
アシェリーは弾かれたように顔を上げた。
(ラルフは私が昔にしていたことを知っているのかもしれない……)
調べれば分かることだ。全てではなくても、アシェリーの悪行をある程度は把握しているのだろう。
──それでもアシェリーをかばって、護ると言ってくれる。それに胸がジンと温かくなる。
(本当に優しい人……)
アシェリーにはそんな資格はないのに、十年憎んでいたのに、水に流してくれるくらい懐の大きな男性だ。こんな人は他にいない。
「ありがとう……でも、大丈夫。これは私がけじめをつけなきゃいけないことだから」
彼の優しさに甘えてばかりではいけない。
「アシェリーは強いな。でも、たまには甘えてくれ」
そう諦め混じりに笑うラルフの胸に、アシェリーは微笑んでから身を預ける。
「はい……」
アシェリーはラルフの温もりに包まれながら、ゆっくりと目蓋を閉じた。
(もう間違えたくない。この力は大切な人達を護るために使うと決めたのだから……)
◆
船の上で二日が過ぎた。
三日目の朝にアシェリーが目を覚ますと、ラルフが既に起きてこちらを見ていた。
「おはよう」
そう言って額にキスを落としてくる。その仕草にドキリとした。
(私ったら……昨日あのまま寝ちゃったんだ)
まだ覚醒し切らない頭でぼんやりと思い出すのは、昨日の情熱的な情事だ。お互いに求め合うように何度も体を重ねた。思い出してアシェリーは顔を赤くする。
「どうした?」
ラルフが不思議そうに首を傾げるので、アシェリーは慌てて首を振った。
「な、何でもありません! あ、そういえばもうそろそろ着く時間ですね」
窓の外を見れば港に停泊する船が見える。甲板に出れば海風を感じられるだろう。
ラルフと連れ立ってスイートルームから出ると、ちょうど侍女のフィオーネがやってきたところだった。彼女は朝食を載せたワゴンを運んでいるところだった。相変わらず気が利く侍女だ。
「アシェリー様、ラルフ様。そろそろ船が港に着くそうです」
フィオーネの言葉に、アシェリーは頷く。
「そう。それなら少し甲板に出てみましょう」
そう言って甲板に出ると、心地よい風が頰を撫でる。潮の匂いがした。
(わぁ……っ!)
視界いっぱいに広がる海を見て、アシェリーは目を輝かせた。白い帆が風を受けて膨らんでいるのが見える。太陽の光を反射して水面が煌めいた。
前世では船に乗ったことがほとんどない。せいぜい修学旅行でフェリーに乗ったくらいだ。
アシェリーが感動していると、ラルフが後ろから抱きしめてくる。そして耳元で囁いた。
「良い景色だ」
「はい。本当に綺麗ですね!」
そう答えると、ラルフは満足そうに笑う。それから彼はアシェリーの顎を持ち上げてキスをした。
(っ!?)
人前でキスされたことに驚きつつも、アシェリーもそれを受け入れる。すると今度はフィオーネが咳払いをした。彼女は少し困ったように言う。
「ラルフ様、もうすぐ港に到着しますよ。早く朝食をお召し上がりになりませんと……」
「ああ……分かっている」
そう言って渋々といった様子でアシェリーから離れると、ラルフは手を差し出してくる。その手を取ると、フィオーネが微笑ましげにクスリと笑った気がした。絶対に過保護だと思われている。
(うぅ……っ)
恥ずかしいけれど嬉しいような気持ちで胸がいっぱいになった。
軽い朝食を食べ終わった頃に船は港に着き、楽団達が船を降りていく。
「アシェリー、こっちだ」
ラルフの手を貸りて、アシェリーは船にかかった渡し板から港に降りる。
「わぁ……!」
そして、思わず感嘆の声を上げた。
レーマー伯爵領の港町が活気に満ち溢れていたからだ。魚や野菜を売る露店が並び、人々が行き交っている。
「レーマー伯爵領は、この大陸でも有数の商業都市だ。世界中から物が集まるし、人も集まる」
ラルフがそう言った。確かにその通りで、様々な人種の人々が歩いている。
アシェリーは幼い頃に一度来たきりなので、この場所の記憶はほとんどない。
(すごい活気……!)
アシェリーが目を輝かせていると、執事服を着た男性達数人が近付いてきた。
先頭に立つ老人が優雅に一礼する。
「ラルフ陛下、ならびにアシェリー妃殿下。お待ちしておりました。私はレーマー伯爵家の執事をしております、ウィリアムと申します。伯爵家までご案内いたします」
「出迎えご苦労。アシェリーは船旅で疲れているから、すぐに向かいたい」
ラルフの言葉に、ウィリアムは重々しく頷く。
「かしこまりました。ではこちらへどうぞ。馬車を用意しております」
そう言って馬車へと案内される。中にはラルフとアシェリー、フィオーネが乗り込む。
「では参ります」
ウィリアムの合図で馬車はゆっくりと動き出した。
(これからローレンツに会う。……そして家族にも)
社交シーズンの数ヶ月間は毎年家族と王都のタウンハウスで顔を合わせていたが、過去のわだかまりがあるのか、妹のレベッカとはギスギスした関係が続いている。
(どうなることか……)
ふと視線を感じて隣を見ると、ラルフがこちらを見ていた。
「アシェリー、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
どうやら緊張しているのを隠せていなかったらしい。ラルフに心配をかけてしまったことを申し訳なく思う。ここで弱気になっていてはいけないと、アシェリーは笑顔を作った。
「大丈夫です。ただ、久しぶりに幼馴染と妹に会うから少し緊張していてしまって……」
(私は憎まれているかもしれないから……)
そう答えるとラルフが手を握ってくれる。その温かさに心が落ち着くのを感じる。
「ラルフ……」
「大丈夫だ。俺がそばにいる」
その言葉だけで、アシェリーは勇気付けられた。
「はい……!」
馬車がゆっくりと止まると、御者が扉を開ける。すると目の前には大きな邸が建っていた。レーマー伯爵家だ。
ウィリアムが一歩前に出て言う。
「ようこそいらっしゃいました。こちらが伯爵家でございます」
そう言って一礼する執事にラルフは頷く。
「案内ご苦労だった」
ラルフはアシェリーの肩を抱いて邸の中に入って行く。フィオーネもその後に続く。
(いよいよ、ローレンツに会うんだ……)
緊張するアシェリーを安心させるように、ラルフが優しく頭を撫でてくれる。それだけで気持ちが前向きになる気がした。




