第2話 船旅
ラルフは顔をしかめている。
「アシェリー……」
彼の言いたいことも分かる。アシェリーは多忙だ。しかしアシェリーにとって、これは放っておけない事態だった。
「魔力暴走の研究は、今のところは他の研究員達に任せても大丈夫ですし。治療師の仕事は、私が不在の間はデーニックさんやサミュエルに代わってもらいます。元々はデーニックさんの治療院にいらっしゃっていた患者達だし問題はないかと……建国祭などはまだ先ですし、王妃としての仕事は差し迫って大きなものはありませんから大丈夫です……!」
切々と語るアシェリーに、ウンウンと頷いてクラウスは同調してくれる。
「逆に行くなら今しかないですね!」
「逆にって何だよ、逆にって」
ラルフはそう突っ込みつつ、黒髪を掻き回してため息を落とす。
「……仕方ない。それなら俺も一緒に行こう」
「「えっ」」
アシェリーとクラウスの声が重なる。
クラウスは真っ青になっていた。
「兄上は政務があるんだから行っちゃ駄目ですよ! 仕事がたっぷりあるんですから!」
「大丈夫だ。俺には信頼できる弟がいる。後のことは頼んだぞ」
そう朗らかな笑みでクラウスの肩を叩くラルフ。そんな彼にクラウスはすがりつく。
「いやだ……いやだぁぁ!! これ以上、仕事なんてしたくない……っ! 俺がどれだけ書類仕事が嫌いか知っているじゃないですか!! 仕事が増えるくらいなら、俺はレーマー伯爵なんて見捨てますよ!?」
「清々しいくらいのクズ発言をするんじゃない。お前が提案してきたんだろうが」
「それは姉上だけが行くんだと思っていたからで……っ」
「自業自得だな。俺に代わって、しっかりと仕事に励めよ。フィオーネ、クラウスを政務室に連れて行ってやれ」
静かに控えていた侍女に向かってラルフが言うと、彼女は「はい」と頷いてクラウスを半ば強引に部屋から連れ出してしまった。
ラルフは閉じられた扉を見つめて肩をすくめる。
「やれやれ……ああ言いながら奴は書類仕事は得意なんだ。面倒くさがっているだけでな」
なんだかんだ言いつつも、ラルフのクラウスへの信頼感が垣間見える。
過去のわだかまりがなくなってからは、本当に仲の良い兄弟という感じがして微笑ましい。
「それなら良かった……でも、本当に良いんですか? しばらく王都に戻れませんよ。やはり私だけ向かった方が──」
アシェリーがそう躊躇いがちに言うと、ラルフは首を振った。
「アシェリーがレーマー伯爵家に行くなら俺も絶対に行く。それが嫌なら一人で行かせられない。もう離れないと誓っただろう」
「……っ」
そう拗ねたように言うラルフに、アシェリーは何も言えなくなる。
彼の子犬のような瞳に見つめられると、どうしても否定の言葉は出てこなかった。
(そうよ。もうラルフから離れないと誓ったもの……)
アシェリーはそれを思い出して顔を赤らめて頷く。
「わ、分かりました……」
アシェリーが観念すると、ラルフは破顔した。
「それなら決まりだな。そういえば結婚してから、ゆっくり二人の時間も取れていなかったな。ちょうど良い。レーマー伯爵領へは船旅にしよう」
「えっ」
朗らかに笑うラルフに、アシェリーは顔をひきつらせた。
「船旅……ですか?」
「ああ、ハネムーンもしていないだろう? レーマー伯爵領には海があるし、ちょうど良いじゃないか」
ラルフは上機嫌だ。
(確かにハネムーンもしていなかったけれど……)
もちろんラルフと旅行に行きたい気持ちはある。アシェリーの悪行のせいとはいえ、これまではハネムーンどころか結婚式ですら、おざなりにしかしてもらえなかったのだから。
(だけど……)
アシェリーは言いにくそうに口を開く。
「その……実は私、船酔いするんです……」
だから馬車で向かうつもりだったのだ。
アシェリーの言葉に、ラルフは既に知っていたかのように首を縦に振る。
「大丈夫だ。それは前からフィオーネからも聞いている。俺に良い考えがあるんだ」
そうラルフが言った数週間後、アシェリーは彼と侍女のフィオーネと共にレーマー伯爵領へと旅立つこととなった。
(本当はもっと早く行きたかったんだけど……)
ラルフとアシェリーの仕事の調整で時間がかかってしまった。
レーマー伯爵家はアシェリー達が向かうことを伝えると大喜びして『お待ちしております!』と返事を送ってきている。
王都から馬車を走らせて海辺の街まで向かい、船場に停まった巨大な豪華客船を見てアシェリーは目を丸くする。完成したばかりなのか、テープが引かれて進水式の準備がされていた。
「すごい……」
大きさももちろんだが、王室御用達のため至る所にあしらわれた金の装飾が目に眩しい。
多くの人達が船を見つめて歓声を上げていた。楽団が陽気な音色を奏でている。
ラルフがアシェリーの肩を抱いて言う。
「今回は楽団も連れて行く。レーマー伯爵領までは馬車だと十日ほどかかるが、船なら三日で到着するだろう」
「そ、そうですか……」
アシェリーはそう相づちを打つが内心は気が気ではない。
(船酔い……大丈夫かしら)
そんな不安を胸に抱きつつ、アシェリー達は豪華客船へと乗り込んだのだった。
結論から言うと、アシェリーの心配は杞憂に終わった。
というのも──。
「眺めはどうだ?」
ラルフと共に甲板に出ると、大海原を背にした彼がそう問いかけてくる。
遠ざかっていく港町を眺めながら、アシェリーは驚愕していた。
「この船、全然揺れないんですね」
「ああ。驚いたか? まだ試作段階なんだが、この船は動力に『精霊の涙』を使っている。俺の魔力でコントロールしているから、風や波の揺れが起きないようになっているんだ」
「精霊の涙を……?」
アシェリーも魔力暴走を抑える護石作りのために『精霊の涙』を使わせてもらっているが。
(そうか……『精霊の涙』には魔力を閉じ込めて、数倍にする力があるから)
「すごい……」
アシェリーは素直に感心した。
(魔力を動力にする船なんて聞いたことないわ……)
もちろんラルフの無尽蔵な魔力があるからこそ、たやすく揺れを制御できているのだろう。他の者の力を使うなら、かなり人数も時間も必要とするはずだ。
アシェリーが欄干に身を乗り出すように興奮していると、ラルフは楽しそうに笑う。
「どうだ、ビックリしただろう? お前を驚かせたくて黙っていたんだ」
ラルフは風で流れるアシェリーの髪を耳にかけてくれる。
「アシェリーにプレゼントしようと思って、この船を作った。喜んでくれたなら嬉しい」
「そうだったんですね……」
確かに船酔いの心配がないのは嬉しい。それに『精霊の涙』にこんな活用方法があるなら、フリーデン王国の産業も活性化しそうだ。
──と、そこまで考えて、己の国益を考える思考に笑ってしまう。ラルフの考え方が移ってしまったのかもしれない。
アシェリーは甲板の手すりにもたれながら、隣のラルフに言う。
「ありがとうございます。とても嬉しいです。でも……こんな高価なものを私のために作ってもらうなんて……」
気遅れしているアシェリーに、ラルフは軽く笑う。
「本当に欲がないな。アシェリーが快適に過ごせるなら、何でもプレゼントするのに」
そう優しく微笑むラルフに、アシェリーは胸が高鳴るのを感じた。
赤くなった顔を隠すように俯くと、アシェリーの手に何かが触れた。見るとそれはラルフの大きな手だった。
彼はアシェリーの手を握りしめて、熱っぽい視線を向けてくる。
「やっと……二人きりになれたな。いつも周りに人目があるから。こうして一緒にいられるのが嬉しい」
侍女のフィオーネも護衛も、いつの間にか姿を消していた。空気を読み過ぎな従者達である。
どこか遠くからムードのある曲が聞こえてきた。楽団の音色だろう。
レーマー伯爵領まで三日間。その間はラルフと一緒にゆったりと過ごせるのだ。そう思うと喜びが胸に溢れてくる。
最近はお互いに忙しく、夜もすれ違うこともあって密かに寂しく思っていたのだ。
ゆっくりとラルフの顔が近付いてくる。アシェリーは目を閉じてそれを受け入れた。
「んっ……」
唇が重なり合う。何度も角度を変えながら、お互いの唇をついばむ。ラルフの熱い吐息が唇にかかるだけでアシェリーは頭がクラクラした。
先ほどよりロマンティックな音色が甲板に響き、さらに雰囲気を盛り上げていく。
(もっと……)
アシェリーがそうねだるように彼の服を掴む。
「……っ!」
その時、視線を感じてアシェリーはハッとした。
「あ、あの……っ」
ラルフの胸をそっと押して、彼の唇から顔を離す。そして慌てて周りを見回した。
いつの間にそこにいたのか、甲板の隅にいる楽団がヴァイオリンを奏でている。指揮者がアシェリーに向かって心得たとばかりにウィンクを飛ばす。リクエストした覚えはないのに、もっと情熱的な音色に変わる。
先ほどより音色が近付いているように感じたのは勘違いではなかったようだ。
どうやら遠くで演奏していた楽団がアシェリー達の良い雰囲気を察して、勝手に盛り上がる演奏をしてくれていたらしい。
アシェリーは羞恥心で顔に熱が上がる。
「どうした?」
アシェリーの表情を不思議に思ったのか、ラルフが首を傾げる。その大型犬のような仕草はとても可愛いのだが、今はそれどころではない。
「ラルフ……っ、駄目です!」
「……何がだ?」
「ここは甲板の上なんですよ? 他の人がいるのに、こんな所でキスするなんて……」
アシェリーの言葉にラルフは目を瞬いた後、小さく笑う。
「なんだそんなことか。楽団なら気にするな。彼らはそのためにいる」
「そのためって何ですか……!」
アシェリーは頰を赤らめて抗議する。
ラルフはそんなアシェリーを面白そうに見つめて、腰をぐいっと抱いてきた。
「人目が気になるなら、部屋に行こう」
そう耳元でささやくように言って、ラルフはアシェリーをスイートルームに連れて行った。
部屋に入るなり、再び唇を重ねてくる。その熱い吐息を感じて、アシェリーは諦め混じりに微笑んで、彼の背中に手を回した。




