第1話 過去の清算
アシェリーは窓から差し込む朝日で目を覚ました。隣には裸で眠っているラルフがいる。
メイドを呼ぶためにベッド脇の卓上の鈴を取ろうと身を起こしたが、体のあちこちに痛みが走り思うように動けない。昨夜の行為を思い出して赤面した。
(やりすぎだわ……)
もう何度目になるか分からないほど体を重ねているが、いつもアシェリーは翻弄されて終わってしまう。
ラルフの体力が尽きないこともあって、昨夜もアシェリーが先に意識を手放してしまった。
こんな経験は前世でも今世でも初めてだ。最初はとても恥ずかしかったが好きな人と一つになれたことが、たまらなく嬉しい。
そんなことを考えているうちに、ノックをする音が聞こえた。アシェリーが慌ててシーツを体に巻き付けると、メイドのフィオーネが笑顔で入室してきた。
「おはようございます! アシェリー様」
「……おはよう、フィオーネ」
情事の痕跡を見られることは未だに恥ずかしいことだが、フィオーネは全く気にした様子はない。
そもそも貴族女性でアシェリーのように気にする方がおかしいのだろうが、前世の記憶がよみがえってからは今まで着ていたドレスといい、これまでなんとも思っていなかったことが恥ずかしく感じるようになってしまった。
フィオーネは顔洗い用のトレイと水を持ってきて、アシェリーの身支度を整えてくれる。
その間に、ラルフが身を起こしてガウンを羽織っていた。人に触られるのが嫌なことは変わっていないようで、さっさと自分で着替えを済ませてしまう。
「おはよう、アシェリー」
少し眠たそうにそう言って、ラルフは自然にアシェリーの目蓋に口付けた。
(人前では止めて欲しいのに……)
アシェリーは少し照れくさくなりながら、「おはよう」と返す。
フィオーネが微笑ましそうな表情で尋ねてきた。
「あの、朝食はどうなさいます? いつも通りこちらで?」
「え? あ! それなら食堂に用意を……」
そう言いかけたアシェリーを制して、ラルフは「無理をするな。寝室まで持ってきてくれ。昨夜もアシェリーに無理をさせてしまったからな」と言った。
恥ずかしさのあまり耳まで真っ赤になったアシェリーは、キッと鋭い目でラルフを睨みつける。
「ラルフ!」
フィオーネは「承知しました」と微笑ましげに一礼して寝室から退室して行った。
アシェリーは恥ずかしさに耐えきれず、シーツの中に潜り込む。
「もう! なんで言うの!?」
「事実だろう?」
「そうだけど……恥ずかしいのよ」
ラルフはベッドに腰掛けると、そんなアシェリーの髪を優しく撫でる。そして耳元で囁いた。
「……怒っていても可愛いな、アシェリーは」
そんなことを言われると馬鹿馬鹿しくて怒る気力も失せてくる。
どんなに怒っていても、ラルフに甘くささやかれると許してしまうアシェリーは、結局ラルフに弱いのだ。
二人で向かい合って食事を終えた頃に、王弟クラウスがやってきてラルフに手紙を押し付けるように差し出した。
「兄上、お義姉様宛にきた手紙なんですが、もう俺の手に負えません。対処してください」
「え? 私への手紙……?」
アシェリーは首を傾げる。なぜそれをアシェリーにではなくラルフに渡すのか。
ラルフは顔をしかめて舌打ちした。
どうやら、アシェリーには隠したいことだったらしい。むくむくと嫌な予感が湧いてくる。
「ラルフ……私に何か隠し事が?」
「ほら、俺が怒られたじゃないか。アシェリーに渡さず、お前が処理しろと言ってあっただろう!」
ラルフの険のある声に、クラウスは肩を竦める。
「もちろん既にやりましたよ。治療師を派遣させましたが、誰も彼を治すことはできませんでした。もうアシェリー様しかいませんよ」
再びラルフは舌打ちする。
アシェリーはさすがに文句を堪えきれず、立ち上がってラルフに詰め寄る。
「どうして私への手紙をクラウスに処理させるんです? 私に見せてください」
「お前は王妃だ。相手は悪意を持った連中かもしれない。だから手紙は全てあらかじめ書記官に確認させている。貴族からの手紙はクラウスが対応していた」
(知らなかった……)
アシェリーは頭を抱える。
確かにラルフの言い分は理解できる。アシェリーは己を頼ってくる相手なら、誰でも力になりたいと思ってしまうからだ。しかし、それは王妃としての役目や、魔力暴走を止める研究も中断させることになってしまう。
ラルフは優しい瞳で、アシェリーの両肩を抱いた。
「お前が慈悲深いから、無償で治してくれと厚かましい嘆願書が絶えないんだ。そんなの、まともに取り合っていられない。お前が読んだら、全員の元へ助けに向かってしまうだろう?」
そう問われて、アシェリーは言葉に詰まる。
(確かにそうかもしれないけど……)
「まぁ、この手紙は治してくれたら謝礼は惜しまないと書かれていますがね」
クラウスの言葉に、ラルフが「余計なことを言うな」と睨めつける。
(でも、もし私しか治せないような病だったら……)
他の治療師ができなくても、もしアシェリーができるなら力になりたいと思う。
「その手紙は、どなたからですか?」
アシェリーの問いに、クラウスは答える。
「レーマー伯爵です」
「レーマー……?」
(何だか、とても聞き覚えのある名前だけれど……)
そう思いながら記憶の底を探り寄せ、アシェリーは血の気が引いた。
◆
それは十年ほど前のこと──。アシェリーがまだ十歳で実家の子爵家にまだいた頃の話だ。
他の貴族の例に漏れず、子爵家も社交シーズンには子爵領を離れて家族で王都に滞在していた。
両親はアシェリーを猫かわいがりしており、欲しがるものを何でも与えた。
しかし王宮のパーティで知り合ったラルフだけは自分のものにできなかった。相手は王子なのだから子爵家程度にはどうにもできないのは当然なのだが。
(つまんないわ。せっかく新しいオモチャを見つけたのに)
類まれな美貌と、アシェリーを圧倒させるほどの魔力量。それらを持つラルフにアシェリーは興味津々だった。最初は物珍しさから仲良くなりたいと思ったが、彼を知るにつれて、どんどん好きになってしまった。
だがラルフはアシェリーが近付くと顔をしかめて嫌そうに避けてしまう。
だからアシェリーは躍起になった。相手の迷惑など考えず、ラルフが来ると聞いたパーティには参加して自分のものだというように彼にまとわりついた。子爵家の父の権力でどうにもできないなら、自分の魅力で彼を手に入れれば良いのだと傲慢にも思っていた。
アシェリーは己の美貌を知っていたし、子爵家といえど国内ではそれなりに歴史のある裕福な家だったから。
──だがラルフはアシェリーに冷淡なままで、社交シーズンも終わり領地に無理やり連れて帰させられてしまった。
ごねにごねたのだが、アシェリーがまだ十歳と幼いこともあり、とても王都に一人で残せないと両親は判断したのだろう。
(お父様達も、私だけ王都に残して子爵領に戻れば良かったのに! 王都にはタウンハウスがあるし、メイドと護衛だけつけてくれたら十分だったわ)
アシェリーはズカズカと歩きながら子爵家の廊下の絨毯を蹴りつける。家庭教師の目を盗んで部屋を抜け出し、廊下をブラブラと歩いていた。
その時、メイドが困った様子でアシェリーの元にやってきた。
「お嬢様……! こんなところにいらっしゃったのですね! お部屋にいらっしゃらなかったので捜しました」
アシェリーは顔をしかめる。
「なぁに? また家庭教師が捜してるって? そんなこと、いちいち言いにこなくて良いって前に言ったわよね? お父様に言いつけて首にするわよ?」
両腕を組んでふんぞり返って睨みつけるアシェリーに、メイドが青ざめた顔で首を振る。
「い、いえ! 違います! レーマー伯爵家のローレンツ様が、お嬢様にお会いしたいと玄関にいらっしゃっておりまして……」
「ローレンツが、また?」
アシェリーは、ため息を落とした。
ローレンツは伯爵家の令息で、アシェリーとは幼馴染に当たる。
家が近いこともあり、以前はアシェリーの妹レベッカも交えて三人で遊ぶこともあった。
しかし数か月ほど前にローレンツは皮膚病をわずらい、邸から出なくなってしまった。アシェリーはしばらく会っていない。
アシェリーはさほど興味はなかったが、レベッカは頻繁にお見舞いに行っているようだ。
伯爵家が有名な治療師をいくら頼ってもローレンツの皮膚病は治せない。だが幼い頃から天才治療師の名を欲しいままにしてきたアシェリーになら、とローレンツは勝手に期待しているのだ。
「めんどくさっ。どうして私がそんなことやらなきゃいけないの? そんなの私の仕事じゃないわ。さっさと追い払ってよ」
長い髪を背中に払いながら、アシェリーはそう言う。
メイドがおずおずと言う。
「しっ、しかし、アシェリーお嬢様にお会いするまで、玄関から動かないとおっしゃっておりまして……レベッカお嬢様にも絶対にアシェリーお嬢様を連れて来るよう命じられているんです……っ!」
アシェリーは舌打ちした。
ローレンツはレベッカを通して、何度もアシェリーに面会を迫っている。レベッカからもローレンツを治すよう懇願されていた。
「はぁ〜、仕方ないわね。会うだけよ」
アシェリーがそう言うとメイドは安堵した表情で、深く頭を下げた。
玄関ホールには予想通り、顔を覆うフードを身に着けたローレンツと彼に寄り添うレベッカがいる。
ローレンツは銀髪で青目の美しい少年だ。しかし今は頰や目元もただれたように醜悪な傷跡ができている。耐えられないような痒みがあるらしく、掻きむしってしまうのか、血が滲んでいる箇所もあった。
レベッカは母譲りの赤く癖のある肩までの髪と紫色の瞳をした気の強そうな八歳の少女だ。アシェリーとは二歳違いになる。今はアシェリーを見上げて険しい表情をしていた。
「何の用?」
アシェリーがだるそうに階段上から問いかけると、アシェリーと同い年の十歳のローレンツがその場に両膝をついた。
「アシェリー! お願いだ! おれの皮膚を治してくれ……! 君にならできるはずだ!」
そう言って、ローレンツは己の袖をまくる。そこには目を覆いたくなるような黒いかさぶたと焼けただれてめくれたようなピンク色の皮膚がある。
「お姉様! ローレンツを治してあげてよ!」
レベッカが涙声で訴える。
アシェリーは二人を冷淡に見おろす。
「どうして?」
「ローレンツが可哀想じゃないの!?」
そう叫ぶレベッカに、アシェリーは馬鹿にするように目を細めて腕組みする。
「なら、私は可哀想じゃないの? 無理やり力を使わされそうになってるのに……私が自分の力をどう使おうと私の勝手でしょう。他人を治療するのってあなたが思っているより、ずっと疲れるのよ」
「そ、それはそうかもしれないけど……っ。ローレンツは幼馴染なのに治してくれたって……」
アシェリーは悔しそうな表情のローレンツを一瞥する。正確には彼の傷跡を。
「それは簡単に治せるものじゃないわ。確かに私は天才よ。それを治癒できる力がある。でも治そうと思ったら、何日も付きっきりで治療しなきゃいけない。そんな面倒なことできないわ。そもそも他人に何かを無償でやってもらおうだなんて考えは失礼なのではなくて?」
「もっ、もちろん謝礼は払う……! 君の望むだけ……すぐ払えない額なら何年かかってでも……!」
ローレンツが縋るように顔を上げた。
アシェリーは唇に指をあてて小首を傾げる。
「あらそうなの? それなら平民の治療師にでも依頼しなさい」
「何人にも依頼してる! でも誰にも治せないんだ! だから君に……っ」
「そうなの。それは残念ね……私には治療できないわ」
「どうして……! お姉様、ローレンツを助けてよぅ!」
涙ながらにレベッカは訴える。しかし、アシェリーは嘆息するだけだ。
「だって労働なんて貴族の子女のやることじゃないわ。それは恥なことよ。あなたも分かっているでしょう。それを私に強いるというの? 私を平民扱いするつもり? それは私への侮辱なのかしら」
アシェリーは屁理屈を言う。
「そ、それは……、でも……っ」
レベッカは口ごもる。
確かに労働者階級ではない貴族女性の一番の役割とは、結婚して子供を生むことだ。治療師となることではない。
とはいえ恵まれない者達への奉仕活動は貴族の美徳ではあるのだが、幼いがゆえにレベッカはアシェリーの屁理屈に反論が浮かばず、黙り込んでしまう。
謝礼を払えば貴族であるアシェリーを平民扱いしたことになり、かといって無償奉仕だとアシェリーは了承しない。
結局、アシェリーは自己本位な性格で、気が向いた時しか己の天才的な能力を使わないのだ。アシェリーはずる賢く、頭の回る少女だった。
アシェリーは嘲るように笑う。
「ずっとそんな傷を負ったままなんて可哀想ね! でもいつかきっと、あなたを助けてくれる人は現れるわ。期待して待っていたら?」
アッハッハ、と邸に高笑いが響いた。
◆
「あ、あぁ……っ」
アシェリーは頭を押さえて呻いた。過去の己のしでかしたことを思い出して悶絶する。
(私はなんてことを……!)
今思い出したが、ローレンツも原作に出てくる重要キャラだ。
原作では聖女アメリアが彼の病を救っていたはず。
アメリアが牢屋に入れられ、アシェリーが王妃を継続するように展開が変わってしまったことで、今ではローレンツを助けられる人がいなくなってしまった。
(どうして今まで忘れていたのかしら……!)
罪悪感で青ざめているアシェリーに、ラルフは眉を寄せる。
「知り合いか?」
「ええ、まぁ……幼馴染というか何と言うか」
言葉をにごすアシェリーに、ラルフの眉間のしわがますます深くする。
「……レーマー伯爵は、アシェリーに息子のローレンツの治癒をして欲しいと嘆願している。何度もな」
そう言ってため息を落とすラルフ。クラウスは諌めるように言う。
「王妃に向かって、己の領地に来いとは無礼ですが、まぁ、それだけ必死なんでしょう。病人に王都まで来いというのは酷ですからね。それに、レーマー伯爵家は王家にとっても無碍にできない相手です。ここらで恩を売っておくのも悪くないのでは?」
そう腹黒く言うクラウス。
アシェリーはそれどころではなく、ラルフに向かって言った。
「お願い! 私をレーマー伯爵家に行かせて!」




