47-2 三冊のノート
蒼真が遠山研究室を訪れたのは、冬の日の夕刻。陽の光はすっかり地平線へと沈み、夕闇が研究室を包み込んでいた。その静けさはどこか彼の心にも忍び込んでくる。さとみの言葉が頭の中で響いていた。
『あなたがさらに傷つく』
この先、一体何が待っているのか。今以上の苦しみがあると言うのか。なぜ、さとみはそれを予感しているのか、蒼真の脳裏にいくつもの疑念が交錯する。
大学の廊下を歩く。赤い夕陽がすべてを染めている。秘書の女性に従いながら、その廊下を静かに進んでいく。やがて彼女はある部屋の前で立ち止まり、ノックをした。
「先生、阿久津蒼真さんがいらっしゃいました」
しかし室内から何の反応もない。秘書は首を傾げ、もう一度ノックする。
「先生?」
変わらず返事はない。不審に思った秘書が慎重に扉を開ける。
「先生、どうかされましたか?」
彼女が中へ入る。蒼真は外で待つ。
その瞬間、悲鳴が響いた。蒼真は慌てて部屋へ駆け込む。本棚には何もない。そこに並んでいたはずの書物は、すべて床に散乱している。原稿らしき紙片が舞い、教授専用の木製の机は横倒しになっていた。荒れ果てた室内に、夕闇の静寂がさらに異様さを際立たせている。
「先生は・・・・・・?」
蒼真の声に呆然としていた秘書がハッとなり周囲を見渡す。彼女の視線に合わせ、蒼真も部屋を見回した。だが人の姿はどこにもなかった。その中で唯一、無傷のソファに何かがある。
それは小さなフランス人形だった。少女の人形は礼儀正しくそこに座っている。蒼真はこの人形に見覚えがあるような気がした。その記憶が掠めるのと同時に人形が突然口を開いた。
「お待ちしていました。阿久津蒼真さん」
「キャー!」
秘書の悲鳴が室内に響き、彼女はその場に座り込んだ。しかし蒼真は動かない。ただじっと人形を凝視する。
「先生はどこだ?」
「遠山教授は、我々が確保しました」
「なに!」
蒼真の眼差しが鋭くなる。だが、人形は無表情のまま、淡々と言葉を紡ぐ。
「遠山教授を救いたいなら、交換条件を呑んでもらうしかありません」
「交換条件?」
蒼真の拳が固く握られる。
「交換条件とは何だ?」
「君が持っているノート、それを我々に手渡してほしい」
「ノート?」
蒼真は混乱する。もっと別の交換条件を想像していたのに、意外な答えに戸惑う。
「ノートとは僕が持っている、父のノートのことか?」
「そう。そのノート」
人形の表情は変わらない。だが、微かに笑ったように見えた。
「あのノートをどうするつもりだ?」
「それは言えない。でも、あなたはそのノートを我々に渡すしかないと思うの」
「それは・・・・・・ もしノートを渡さなければ、教授に危害を加えるということか?」
「ご明算」
近くにいた秘書が蒼真の腕を取った。
「先生を・・・・・・ 先生を助けてください」
「分かりました」
蒼真は彼女の手を優しく握り、落ち着かせるように言葉をかけた。
「ノートは渡す。どうすればいい?」
「明日、千葉の遠山教授の別荘に。蒼真君、ひとりで来るように」
「千葉の別荘?」
蒼真が秘書を見る。
「千葉の房総半島の先に、教授の別荘があります」
もしかすると、自分の実家の近くか? そうかこの少女人形。以前、実家の食堂で話しかけてきた少女に似ている。もしそうなら・・・・・・
「お前は、宇宙人の手先か?」
「そうね。その言い方もできるわ。思い出したようね、蒼真君。お久しぶり」
少女が笑った、ような気がした。
「では、明日の午後五時。別荘で待っています」
その言葉と同時に人形の周囲に白い煙が立ち込める。
「部屋を出て!」
秘書の女性はその言葉を聞いた瞬間、慌てて外へ逃げる。だが蒼真は残り、煙をじっと見つめていた。やがてその煙が晴れる。そこにはもう少女人形の姿は跡形もなく消えていた。
× × ×
「一人で行くのは危険すぎる!」
アキの言葉は鋭く、蒼真の胸に突き刺さる。蒼真は腕の中で眠る大介に目を向けた。さっきまで夢中で遊んでいたせいか、彼はぐっすりと眠っている。
久しぶりに鈴鹿家で夕飯をご馳走になりに蒼真はアキの部屋へと足を運んだ。束の間の安らぎを求めるように大介と遊び、そして彼が寝入った後、アキとダイニングテーブルを挟んでコーヒーを飲んでいる。
蒼真は時折、大介の寝顔を見つめる。彼の穏やかな表情に、心がふっと軽くなる気がした。
「でも、僕が一人で行かないと、遠山教授の命が危ないんです」
「それは分かる。でも、もう少し考えて」
アキは困ったように眉をひそめた。
「宇宙人があなたを狙ってるって分かってるでしょう? あなたの持っているノートには、一体何が書かれているの?」
「それが、生物を作り出す実験の内容みたいなんですが。中身は、僕にもよく分からない部分が多くて」
「へぇ、だれが書いたものなの?」
蒼真は父の名前を言いかけて、ふと口を閉じた。あまり詳細を話せば、彼がネイビージャイアントであることがばれてしまう、そんな予感がした。
「誰が書いたのかは分からないけど・・・・・・母の遺品の中にあったそうです」
「そう・・・・・・そのことは誰か知っているの?」
「神山教授は知っています。昔の友人である柏崎博士のものではないかと話していました。このこともあって、防衛隊への参加を勧められたんです」
「そうだったの・・・・・・」
アキは納得がいかない様子で考え込んだ。
「でも、そんな重要なノートを持って、一人で行かせるわけにはいかないわ。私も同行する」
「でも、一人で来い、っていうのが宇宙人の条件なんです」
「そんなの関係ないわ、それじゃ、あなたの命が危険にさらされるだけじゃない」
アキの声は切実だった。しかし蒼真は冷めたコーヒーを飲み干し、静かに答える。
「僕が行かなければ、教授の命が危険です。防衛隊隊員として、教授を助けることが僕の使命です」
「それは分かるけど・・・・・・」
アキの声が涙ぐむ。
「あなたは本来、民間人よ。危険にさらすわけにはいかない」
「それでも・・・・・・」
蒼真が言いかけたそのとき、大介が小さく身体を動かした。まだ眠っているようだったが、蒼真の気配に反応したのか、彼は胸に顔を埋めるように抱きついた。
「大ちゃん・・・・・・」
蒼真はそっと彼の頭を撫で、優しく声をかける。
「大丈夫です。僕は必ず帰ってくるから」
「本当に・・・・・・?」
アキは不安そうに尋ねる。
「本当です。約束します」
蒼真は微笑み、力強く答えた。
「だから、心配しないでください」
「分かったわ。でも、無理しちゃだめよ?」
アキは、わずかに震えた声でそう言いながら、微笑む。
「もちろんです。ありがとう、鈴鹿さん」
蒼真は感謝の気持ちを込めて、彼女に言葉を伝えた。そして、大介をそっと抱きしめ、彼の寝息に耳を傾ける。彼は何も知らず、ただ幸せそうに眠っている。その穏やかな寝顔を見ながら、蒼真は自らの決意をさらに固める。明日、遠山教授を救う。宇宙人の野望を阻止する。そして必ず帰ってくる。それが、自分の使命だ。




