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ネイビージャイアント  作者: 水里勝雪
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第四十五話 怒りを呼ぶ男

♪淡い光が照らす木々

 襲う奇怪な白い霧

 悲嘆の河が怒るとき

 敗れた夢が怒るとき

 自由を求める戦いに

 愛する誰かを守るため

 青い光を輝かせ

 ネイビー、ネイビー、ネイビー

 戦えネイビージャイアント

 実験室の空気は、冷却装置の低い唸りと蛍光灯の微かな軋み音に包まれていた。壁際のモニターには、MECにの過去の出撃記録が流れ続けている。中央の作業台には、赤いガラス球が静かに置かれていた。光を受けて、球の内部に複雑な模様が浮かび上がっている。

 蒼真はその球をそっと手に取り、科学班のメンバーに向けて差し出した。彼の前には、鈴鹿アキを含む四人の隊員が整列しており、皆が真剣な面持ちで彼の言葉を待っていた。


「この玉は普通のガラス、つまりケイ素に複数の不純物、特に炭素系が混じったものです」

 蒼真の声は落ち着いていたが、球を見つめる眼差しにはわずかな緊張が宿っていた。

「つまりビー玉ってことですか?」

 東野翔平が眉をひそめながら尋ねる。彼の声には、どこか疑念と皮肉が混じっていた。

「そうなるね」

 蒼真は手元のタブレットに視線を落とし、分析結果を確認しながら答えた。指先でスクロールする動作は滑らかだが、どこか疲れが滲んでいる。


「ただ、一つ気になることがあって……」

 資料のページをめくりながら、蒼真は言葉を続けた。ページの隅に赤いマーカーが引かれている。

「おい、日野君。分析結果のデータはどこに格納した?」

 実験室の空気が一瞬、張り詰める。

「え、知りませんけど」

 日野は椅子に浅く腰掛けたまま、無表情で答えた。彼の声には悪びれた様子はまるでない。


「いやいや、調査結果は所定のフォルダーに入れてくれないと困る」

 蒼真の眉間に皺が寄る。彼の声は冷静だが、明らかに苛立ちが混じっていた。

「え、そんな話、聞いていませんけど」

 日野は肩をすくめる。まるで自分には関係ないと言わんばかりの態度だ。

「おい、日野。また決められたことを守っていないな」

 東野が日野に向かって不満をぶつける。彼の声は鋭く、怒気を含んでいた。


「俺? なにかお前に悪いことしたか?」

 日野はむっとした表情で言い返す。椅子の背にもたれ、視線を逸らす。

「まあ、まあ」

 蒼真が二人の間に割って入る。声は穏やかだが、内心では事態の収拾に苦心している。

「俺、そんな話聞いてないですし、その担当は俺でしたっけ?」

 東野は苛立ちを隠せない。指先がタブレットの縁を叩いている。


「なにを言ってるんだ。この分析、お前がやったんだろ」

「分析する人間がデータを格納するのか?」

「当たり前だろう。分析だけして後は放りっぱなしなんてあり得ないだろう」

「それ、ルールとしてどこかに明文化されてたっけ?」

「お前な!」

 ふてくされた日野の表情を見て、東野の怒りは頂点に達した。彼の拳がわずかに震えている。


「まあ、まあ。とりあえずデータをここに格納してくれ、東野」

 蒼真の声が少し低くなる。疲労と諦めが混じっていた。

「はい」

 東野がタブレットを操作し始める。画面に並ぶフォルダーを睨みつけるように見ている。

「日野、分析の元データはどこだ?」

「俺の名前のフォルダー」

「は?」

 東野の手が止まった。画面を見つめる目が鋭くなる。


「どれだ? お前、全然整理できてないじゃないか」

「俺は分かるよ」

「お前だけ分かっても意味がない」

 蒼真が大きくため息を吐いた。肩がわずかに落ちる。

「分かった。今日の話はここまでにしよう。とにかくデータ整理をよろしく頼む」

 日野は変わらずふてくされた表情のまま。椅子に深く沈み込んでいる。東野はその顔をじっと睨みつけていた。蒼真は再び、深くため息を吐いた。実験室の空気は、言葉のない重さに包まれていた。


 ×   ×   ×


「ったく、なんなんだ、あいつ」

 東野の声が、静まり返った科学班の作業室に低く、しかし鋭く響いた。

 夜勤明けの空気は重く、蛍光灯の白い光が無機質に机の上の資料を照らしている。

 彼は自席で、日野が散らかしたまま放置したデータファイルを一つ一つ、苛立ちを込めて整理していた。


 モニターには未分類のフォルダーがずらりと並び、どれも命名規則がバラバラ。検索すら困難な状態に、東野の眉間は深く寄っていた。

 隣の席では奈緒が静かにキーボードを叩いていたが、東野の苛立ちに気づくと手を止め、肩越しに目を向ける。

「しょうがないんじゃない。あの人、仕事できないって、みんな知ってるもん」

「そうだけど、なんで俺がその後始末をしなきゃいけないんだよ!」

 東野は机を拳で叩いた。ペンが跳ねて床に転がり、資料の端が震えた。その音に奈緒がわずかに眉を動かす。


「なんか、あいつのこと考えると眠れなくなるんだよな。夜中に思い出して、腹が立って眠れなくなる。何度も何度も、あいつの顔が浮かんでくるんだ」

 彼の声には怒りが濃く滲んでいた。疲労と諦めが混じってはいたが、それ以上に、抑えきれない憤りが言葉の端々にこぼれていた。

「そんなの、あんな人のこと考えて寝不足なんて、バカみたいじゃない」

 奈緒は呆れたように言い放ち、椅子の背にもたれて腕を組んだ。その冷めた態度が、東野の怒りにさらに火を注ぐ。


「バカって……」

 東野は奈緒を睨む。だが彼女は、感情的にならない目で静かに視線を返す。その無反応さが、逆に東野の苛立ちを際立たせた。

「だって、みんな彼にイライラしてるけど、翔平だけだよ、ムキになってるの」

「そりゃそうだよ! 一番被害が大きいからだろ! 以前も……」

 言いかけたところで、東野は口をつぐみ、深くため息を吐いた。過去の出来事が脳裏に浮かびかけたが、言葉にするのをやめた。拳を握りしめたまま、視線を資料に落とす。


「ほんと、あいつクビにならないのかなぁ……」

 その声は、怒りというよりも、もはや呪詛に近かった。願望ではなく、切実な叫びのように響いた。

「そんなに言うなら阿久津さんに相談してみたら?」

 奈緒が提案する。声のトーンは変わらず淡々としている。その冷静さが、東野の苛立ちと対照的だった。

「阿久津隊員は結局民間人だから、防衛隊の人事権はないんだよ」

 東野はまた深いため息を吐いた。椅子の背に体を預け、天井を睨むように見上げる。その目には、怒りの残滓がまだ燃えていた。


「でも、科学班のリーダーなんだから、相談くらいには乗ってくれるんじゃない?」

 奈緒は変わらず冷めた表情で、東野をじっと見つめる。

 その目には、どこか「それくらい自分で考えなさいよ」という静かな圧があった。

「まあ……そうだな」

 東野はパソコンの画面を乱暴に閉じ、椅子から立ち上がった。背筋を伸ばすと、肩の重さが少しだけ軽くなった気がした。だがその背中には、まだ怒りの熱が残っていた。


 ×   ×   ×


「分かりました。もう少し様子を見ます」

 科学班の実験室。壁際のモニターには赤い球の分析映像が流れ、空調の音が静かに響いている。東野は肩を落としながら蒼真に一礼し、ゆっくりと部屋を後にした。

 その様子を部屋の隅から見ていた鈴鹿アキが、静かに蒼真のそばへ歩み寄る。彼女の足音は床に吸い込まれるように静かで、蒼真は気づいていたが、あえて振り返らなかった。


「本当に日野君を放置しておいていいの?」

「はぁ、それはそうなんですけどね……」

 蒼真は再び深いため息を吐いた。彼の目は資料のグラフを追っていたが、思考は別の場所にあった。

「何度か僕も注意しているんですけどね」

「直らなさそうね」

 アキは苦笑いを浮かべる。彼女の声には、諦めと少しの哀しみが混じっていた。


「ミスは仕方ないと思うんですよ。人間だから。でも、それを認めないし、人のせいにするし……」

「いわゆる協調性のない人間なのね」

「ええ」

 蒼真は困ったような表情を浮かべた。眉間に皺が寄り、指先が無意識に資料の端をなぞっている。

「おそらく指導しても直らないと思うんですよね。行動の習慣は直せても、性格そのものは変えられない」

「人のせいにしたり、相手の気持ちを考えようとしない性格ってこと?」

「そうです。もう、そういう行動様式が刻み込まれているんだと思います」

「そうなの……」

 アキも困ったような顔を見せる。彼女の視線は、蒼真の横顔に向けられていた。


「で、そのツケが東野君に回ってくるんですよ」

「うーん、それなら、なんとかしてあげないとね」

「そうなんですよ。でも、僕には人事権もないですし、他部署に回そうと考えても、噂が広がっていて受け入れ手がいない状況で……」

「あるある、な話ね」

 困り顔の蒼真とアキは、互いに顔を見合わせた。どちらも苦笑いを浮かべていたが、その奥には本気の悩みが滲んでいた。


「でも、このままではチームの雰囲気が悪くなるわ。何とかしないと」

「そうなんですよ」

 蒼真は口元をへの字に曲げる。視線は資料から外れ、天井の蛍光灯に向かっていた。

「なんで僕がこんな管理職みたいなことで悩まないといけないんですかね」

 その言葉にアキが吹き出した。肩を揺らしながら、声を抑えきれずに笑う。

「それだけ偉くなったってことじゃない。成長したね」

 アキは嬉しそうに笑っていた。蒼真はその笑顔に少しだけ救われた気がした。実験室の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


 ×   ×   ×


 その夜のことだった。科学班の実験室は冷却装置の低い唸りと壁際のモニターの微かな光だけが空間を照らしていた。隊員たちはすでに帰宅し、施設内は静寂に包まれている。

 そんな中、ひとり残った日野が、赤いガラス玉の資料を前に座っていた。蛍光灯の光が球の表面に反射し、赤い光が机の上にじわりと滲む。日野は資料を睨みつけるように見つめていた。ページの端には蒼真の手による注釈が走っていた。


「阿久津蒼真が言っていた“気になること”ってなんだ」

 声は低く、独り言というよりも、誰かを嘲るような響きだった。彼がざっくりと分析した結果を蒼真に提出したとき、確かに彼は何かに目を留めていた。だが、それを口にすることはなかった。その沈黙が、日野には侮辱にしか思えなかった。

「なにがデータ整理だ。俺を便利な雑用係扱いしやがって」

 資料を読み進めながら、日野の声には怒りと皮肉が滲んでいた。ページをめくる手は荒々しく、紙の端が無残に折れ曲がる。


「俺はもっと優秀なんだ。それがなんで、あんな東野みたいな凡人に怒られなきゃいけないんだよ」

 震える手を見つめながら、低く呟いた。指先は冷たく、握りしめた拳がじっとりと汗ばんでいる。その汗は屈辱の証だった。

「阿久津リーダーもリーダーだ。俺を軽く見やがって。あいつ、頭はいいかもしれないけど、人を見る目はないな」

 日野はパソコンの画面に目を凝らし、食い入るように見つめ続ける。モニターには赤い球の成分分析が並び、ケイ素、炭素、微量元素のグラフが静かに点滅していた。


「なにか怪獣につながるものさえ見つければ、俺は阿久津蒼真を黙らせられる。あいつの鼻をへし折ってやる」

 そう思いながら、口元にほくそ笑みを浮かべた。その笑みは、他人の失脚を願う者のそれだった。その瞬間、目の前の赤い球が色濃く変化し始める。内部の模様が揺らぎ、赤い光が脈打つように強まっていく。

「?」

 石の変化に気づきながらも、日野は首を強く振った。


「気のせいだ、気のせい。俺の頭が冴えてるだけだ」

 再び資料に視線を戻す。グラフの中で、ケイ素の値がひときわ高い棒で示されていた。隣には、気づくかどうか程度の小さな棒がある。

「これは?」

 別のツールを使ってその棒の正体を調べる。画面には「FL」と表示されていた。

「FL、フレロビウム。これか、阿久津蒼真が気にしていたものは」

 日野は急いでノートにメモを取り始める。ペン先が走る音だけが、静かな室内に響く。その間にも、赤い球は光を強めていく。まるで日野の歪んだ感情に呼応するかのように。


「フレロビウム、怪獣と関係がある物質。でも、これがどうしたっていうんだ? 蒼真は何も言わなかった。俺にだけ黙ってた。あいつ、俺を出し抜くつもりだったんだ」

 資料の文字が滲んで見えるほど、思考が混乱していた。だがその混乱の中にも、嫉妬と執念が渦巻いている。

「クソッ、よく分からない。でも、俺が見つけたってことにすればいい」

 その苛立ちと共鳴するかのように、球が赤い光を脈動させ始めた。机の上に赤い影が揺れ、壁にまでその光が届く。明らかに異常な現象だった。もはや気のせいとは思えない。


「これは、そうか。この状況を阿久津蒼真に伝えれば、東野を出し抜ける。いや、蒼真も一緒に潰せるかもしれない」

 立ち上がり、扉へ向かう日野。だがその前に黒い影が立ちはだかった。

「なんだ!」

 たじろぐ日野の前に現れたのは、黒衣に身を包んだ中年の男だった。顔の輪郭は曖昧で、光の加減で表情が読み取れない。

「なんなんだよ、おっさん。どうやってここに入ってきた?」

「まあ、私のことなど気にしなくていい」

「気にするに決まってるだろ! 俺は今、重要な発見をしたんだ。邪魔すんなよ!」

 日野は男を避けて外へ出ようとするが、男はそれを阻むように立ちふさがる。足元の影が広がり、赤い球の光と混ざり合っていた。


「邪魔するな、どけよ!」

「行かせるわけにはいきません。阿久津蒼真のところへは」

「なんでだよ。俺の成果なんだぞ、これは!」

 日野は男を押しのけようとするが、黒衣の男は揺らぐことなく言葉を続けた。

「あなたは、見返したくはないのですか?」

「?」

「阿久津蒼真は、今日も鈴鹿隊員とあなたの無能ぶりを語っていましたよ。いずれチームから外したいとも」

「なに!」

 日野の拳に力がこもる。目の奥が熱くなり、呼吸が荒くなる。その怒りは、他人の評価に対する異常な執着だった。


「この件も、あなたの手柄ではなく、阿久津蒼真の功績として扱われるでしょう」

「そんな…… そんなの許せるかよ」

「だから、この件は内密にして、あなた自身が真相を突き止め、防衛隊長官に進言するのです。そうすれば、阿久津蒼真などあなたの足元にも及びません」

 日野は立ち止まり、しばらく考え込んだ。赤い球の光が彼の顔を不気味に照らしている。その顔には計算と欲望が滲んでいた。そして再びパソコンの前に戻り、防衛隊の機密文書を検索し始めた。キーボードを叩く指は迷いなく、画面に映る情報に目を走らせる。その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。そして赤い球は静かに脈動を続けていた。まるで日野の中にある何かを見透かしているかのように。


 ×   ×   ×


「おそらく、あの赤い球の赤はフレロビウムだと思うんですよ」

 蒼真はグラスの縁に口を寄せ、ワインを一口含んだ。深紅の液体が喉を滑り落ちると、彼はゆっくりとグラスをテーブルに戻し、静かに言葉を紡いだ。

 さとみの部屋は間接照明の柔らかな光に包まれていた。壁際の本棚には専門書が並び、窓の外には夜の街の灯りがちらちらと瞬いている。テーブルの上には湯気を立てるビーフシチュー、焼きたてのパン、そしてシャキシャキとしたレタスのサラダが美しく並べられていた。


 金曜の夜。明日は大学も防衛隊の仕事も休み。蒼真は久しぶりに肩の力を抜き、さとみの部屋で夕食を共にしていた。

 彼女の料理はいつもながらに絶品だった。特にこのビーフシチューは手作りのルーを使ったこだわりの一品で、口に運ぶたびに深いコクと香りが広がる。蒼真はスプーンを口に運びながら、ふと考える。研究を続けながら、彼女はどうやってこんな丁寧な料理を作る時間を捻出しているのだろう。


「でも、フレロビウムって以前は白い霧状だったんじゃないの?」

 さとみがスプーンを置き、蒼真に視線を向ける。彼女の声は穏やかだが、問いには鋭さがあった。

「そうなんです」

 蒼真はパンを一口かじりながら頷いた。小麦の香ばしさが口の中に広がるが、思考は赤い球のことに集中していた。

「でも、気になることがあって」

「それはなに?」

 さとみは食事の手を止め、真剣な眼差しで蒼真を見つめる。彼女の瞳はまるで資料を読むときのように、相手の言葉の奥を探っていた。


「怒りがフレロビウムを赤くしてるんじゃないかって」

「怒りが?」

 さとみは首を傾げた。その仕草は柔らかいが思考はすでに動き始めている。

「怒りを得てフレロビウムが赤いネイビエクスニュームになったのと同じ理由?」

「おそらく」

 蒼真はパンを飲み込み、そして静かに答えた。彼の声には確信と少しの興奮が混じっていた。

「そういえば、さとみさん、昔、怒りについての論文を書いてましたよね」

「ええ、昔の話だけどね」

 さとみはグラスを手に取り、ワインを軽く揺らした。液面がゆらめき、光を受けて赤く煌めく。


「どう思います? 今の考えは」

「そうね……」

 さとみは少し考え込んだ。テーブルの上に視線を落とし、指先でナプキンの端をなぞる。

「フレロビウムと怒りの関係については、今では蒼真君のほうが詳しいと思うけど。でも気になるのは、怒りが人に伝搬するってこと」

「伝搬するんですか?」

 蒼真はワインをもう一口飲みながら、身を乗り出すように尋ねた。彼の目はさとみの言葉に吸い寄せられていた。


「そう。怒りは脳が反応する生理現象ね。当然、神経回路に電気が発生して感情が生まれるんだけど、私の研究で分かったことがあって。怒りが起こるときの電気の周波数には一定のパターンがあるの」

「周波数ですか」

 蒼真の声は、驚きと興味を含んでいた。

「そう。神経回路で特定の周波数の電流が流れると、それに伴って電磁波が発生する。それが別の人の神経回路に影響を与えれば、一人が怒り出すことで、別の人も怒りを感じるようになる。そんな現象が起きるのよ」

「なるほど。別の人の神経回路がアンテナのような役割を果たすってことですね」

「そういうこと」

 さとみはワインを口に運んだ。その動作は静かで、どこか儀式のような気品があった。


「人間は集団で生きる動物だからね。他人の感情を敏感に察知する必要があったのよ。それで、脳から発せられる微弱な電磁波をキャッチできるように進化した、と私は考えているわ」

「なるほど」

 蒼真は感心した表情でビーフシチューを口に運ぶ。その味わいが、さとみの言葉の余韻とともに、静かに染み込んでいく。

「ということは、もしフレロビウムが人間の脳と同じ仕組みで結合されているなら、他人の怒りを電磁波として受け取ってエネルギーとして蓄えることができるかもしれませんね」


「そうね。可能性はあるかも」

 さとみは微笑みながら蒼真の意見に耳を傾ける。その笑みは、知的な対話の中で生まれる信頼と共感の証だった。その笑みを受け、褒められたような気分になった蒼真はワインの酔いも手伝ってさらに高揚していった。

「さとみさんは本当にすごいですね。あの研究がそこまで進んでいたなんて」


「蒼真君のほうが怪獣とフレロビウム、そして怒りの関係をここまで導き出しているんだから、私なんかよりずっとすごいと思うわ」

 その言葉に蒼真はさらに有頂天になる。彼の胸の奥で、研究者としての誇りと、さとみへの尊敬が静かに交差していた。

「ありがとうございます。来週もフレロビウムと怒りの関係について探究を続けたいと思います」

「頑張ってね」

 さとみは優しい笑顔を見せた。その笑顔に蒼真はますます天にも昇るような心地になっていた。

 夜は深まり、ワインの香りと知的な余韻が、部屋の空気を静かに満たしていた。


 ×   ×   ×


 土曜の深夜。科学班の実験室は冷却装置の低い唸りと蛍光灯の微かな軋み音だけが空間を満たしていた。窓の外は漆黒の闇に包まれ、建物の外壁に取り付けられた警告灯が一定の間隔で赤く点滅している。人の気配はなく、空気はひんやりと張り詰めていた。

 東野はひとり、モニターの前に座っていた。蒼真から依頼されていたデータ整理が、ようやく終わったところだった。画面には整然と並んだフォルダーとグラフ。だが、達成感はまるでなかった。むしろ胸の奥に溜まった怒りが、整理されたファイルの数だけ膨れ上がっていた。


「ったく、あいつ昨日、なにしてたんだ」

 小さく舌打ちをしながら、東野はそこにいないはずの日野に怒りをぶつけた。昨日、日野が「データ整理をやる」と言い出したので任せてみたが、今日来てみると案の定、何も進んでいなかった。未分類のファイルが散乱し、命名もバラバラ。東野は一つ一つ手作業で整理し直したのだ。

「あいつ、クビになればいいのに」

 じわじわと怒りが胸の内に広がっていく。本当にどうしようもない奴だ。そう思いながら席を立った瞬間、実験室の奥で何かが光っているように見えた。


「なんだ?」

 日野への怒りを抱えたまま、光の方へと足を向ける。床に反射する赤い光が、まるで脈打つように揺れていた。そこにはあの赤い球が煌々と赤い光を放っていた。机の上に置かれた球はまるで生き物のように震え、内部の模様が蠢いている。

「これは! 阿久津さんに報告しないと!」

 東野は息を呑み、慌てて実験室を飛び出そうとした。作戦室へ向かおうとしたそのとき、目の前に黒い影が立ちはだかる。

「日野!」

 東野は驚き、二、三歩後ずさりする。日野は実験室の入り口に立ち、薄暗い照明の中で顔の輪郭が不気味に浮かび上がっていた。


「やめろ。このことは秘密にしておけ」

 その言い方は命令というよりも、勝ち誇った囁きだった。

「なに? どうしてお前に指図されないといけないんだ」

 日野の言葉にさらに苛立ちを覚える東野。その瞬間、赤い球が呼応するかのように光を強めていった。壁に赤い影が揺れ、空気がわずかに震える。

「この玉の秘密は俺が暴く。お前には無理だ」

 日野はわざとゆっくりと、東野の顔を覗き込むように言った。


「なに!」

 東野は日野の胸ぐらを掴む。怒りが指先にまで伝わり、拳が震えていた。

「俺はお前が思っているより、ずっと優秀なんだ。お前にはこの赤い球の秘密を解くことはできない」

「ふざけるな! 仮に俺がダメでも、阿久津さんが解明してくれるさ」

「阿久津?」

 日野の口元に、不敵な笑みが浮かぶ。そして、わざとらしく肩をすくめてみせる。

「あいつなんてダメだ。しがない生物学者じゃないか。現場で使えない理屈ばっかりこねてるだけだろ。物理に精通している俺でなければ、この球の真相は分からない」


「なに、阿久津さんまで侮辱するのか!」

 東野の怒りが頂点に達した瞬間、彼の意識が徐々に朦朧としていく。まるで魂を吸い取られるように、赤い球に吸い寄せられていく感覚だった。視界が赤く染まり、耳鳴りが始まる。

「お前も、この赤い球の犠牲者になればいい」

 冷たく響く日野の声が東野の耳に刺さる。その言葉はまるで呪いのようだった。

「うっ、もう、ダメだ……」

 東野の膝が崩れ、床に倒れ込む。赤い光が彼の体を包み込み、まるで何かを吸収しているようだった。そのとき


「東野君! 大丈夫!」

 はっとして目を開けると、目の前には奈緒が立っていた。彼女は息を切らし、心配そうに東野の顔を覗き込んでいる。

「どうしたの、大丈夫?」

「ああ、奈緒…… 俺、どうしてたんだ?」

「こっちが聞きたいわよ。ここで倒れてたんだから」

「あっ」

 東野は急いで立ち上がる。頭がまだ少しふらついていたが、奈緒の声が意識を引き戻してくれる。


「日野は?」

「日野君? 見なかったわよ」

 振り返ると、赤い球は先ほどほどの輝きを失い、静かに佇んでいた。まるで何事もなかったかのように、ただそこにある。

「どうしたの?」


「どうやら、奈緒に助けられたみたいだ。下手すれば死んでいたかもしれない」

「えっ」

 奈緒の顔に驚きの色が浮かぶ。彼女は東野の腕をそっと支えながら、赤い球を見つめた。東野の胸の中に再び日野への怒りが湧き上がる。すると、それに呼応するように赤い球が再び光を強め始めた。そう、東野の目にはそう見えたのだった。

 赤い球は、怒りに反応している。それはもはや偶然ではなかった。


 ×   ×   ×


「日野、どういうことなんだ!」

 東野の怒声が作戦室に鋭く響き渡った。その瞬間、空気が一気に張り詰める。壁際のモニターに映る監視カメラの映像が無音で流れ続ける。

 中央のテーブルを囲むようにして立つ数人の隊員たち。吉野隊長は椅子に腰を下ろし、腕を組んだまま静かに東野を見つめていた。その隣ではアキと蒼真が立ち、腕を組んだまま日野を鋭く睨みつけている。

 東野のそばには奈緒が寄り添い、不安そうな表情で彼の背中を見守っていた。


「まぁ、落ち着け」

 吉野隊長が低く、しかし確かな声で東野をなだめる。その声には、東野は肩を上下させながら、日野を睨みつける。目は血走り、拳はわずかに震えていた。

「監視カメラに映ってたんだよ! 金曜の夜、実験室でお前が黒衣の男と話している姿が。俺を襲ったのも、その黒衣の男の指図か?」

「なんのことだ?」

 日野は椅子に浅く腰掛け無表情で答えた。その顔には焦りも罪悪感も見えない。むしろ面倒くさそうに眉をひそめるだけだった。口元にはわずかに皮肉めいた笑みが浮かんでいる。


「とぼけるな!」

 東野の声が再び跳ねるように室内に響く。奈緒が一歩後ろに下がり、蒼真がそっと東野の肩に手を置いた。

「俺は金曜の夜、データ整理をしていただけだ。それに、突然黒衣の男が現れたから、出て行けと言っただけだ」

 日野の声は淡々としていたが。その言葉の端々に、「俺は悪くない」「お前らが勝手に騒いでるだけだ」という態度が滲んでいる。

 蒼真は手を肩から離し、日野に向き直る。


「日野君、正直に話してくれないか? 黒衣の男はなんのために実験室に来たんだ?」

「知りません。ただ黙ってそこに立っていて、出て行けと言ったら消えたんです」

 日野は肩をすくめながら答えた。その仕草は、まるで「くだらないことを聞くな」と言いたげだった。

「ふむ……」

 蒼真が首を軽く横に振る。

 彼の目は冷静だったが、内心では何かが噛み合っていないことに気づいていた。


「まぁ、音声は監視カメラには残っていないと思っているかもしれないけど、黒衣の男の口が動いている映像があるんだ。黙っていたとは思えないけど?」

 日野は一瞬だけ目を泳がせたが、すぐに表情を戻す。そして、わざとらしく首を傾げてみせた。

「正直に言え!」

 東野が蒼真の手を振り払うようにして、日野に詰め寄る。椅子がわずかに軋み、奈緒が慌てて東野の背中に手を添える。


「そうでしたっけ? 覚えてません」

 日野の返答はあまりにも軽かった。その言い方は記憶喪失というよりも、面倒くさいから黙っておこうという投げやりな態度だった。蒼真はフッと息を吐き、目を伏せる。

「覚えていないなら仕方ないね。ただ一つだけ。東野君が気を失う直前、君が赤い球には秘密があると言ったらしいね。どんな秘密だい?」

「えっ、そんなこと言いましたっけ?」

 日野の声にはわずかな動揺が混じっていた。だがそれを隠すように、わざと無邪気な顔を作って肩をすくめる。


「どこまで白を切るんだ!」

 東野が日野に掴みかかろうとする。その瞬間、蒼真が素早く間に入り、両腕で東野を制した。息を荒げる東野の背中を奈緒が優しく撫でる。

「東野君、あまり怒ると、あの赤い球にエネルギーを吸い取られるよ」

 蒼真が笑顔で話しかける。

「えっ?」

 驚いた声を上げたのは東野ではなく日野だった。彼の目が思わず赤い球の映像に向けられる。


「あの赤い球には微量のフレロビウムが含まれているんだ。おそらく以前、人の怒りのエネルギーを使って怪獣が現れた仕組みと同じで、このフレロビウムが怒りのエネルギーを吸着していると思う。君が日野君に怒って気を失いそうになったのも、そのエネルギーを吸われた結果だろう」

 蒼真の説明に室内の空気が一瞬静まり返る。だれもがその可能性を否定できなかった。

「なるほど、そうだったのか……」

 東野は納得したように頷いた。拳をほどき、深く息を吐く。

「よかったわね、東野君。危うくエネルギーを吸い尽くされるところだったわ」

 奈緒が心配そうに東野の顔を覗き込む。彼は小さく笑みを返すが、目はまだ怒りの残滓を宿していた。


「日野、お前、そのことを知ってて俺を……」

 東野は怒りを堪えた声で言う。その声は静かだが鋭かった。

「俺は知らないよ。なんにも」

 日野は悪びれる様子もなく答えた。その言い方は、まるで「知ってたとしても、何が悪いの?」とでも言いたげだった。アキがわずかに眉をひそめる。蒼真は二人の顔を見比べながら、静かに口を開いた。

「まぁ、両方の意見は聞かせてもらった。この件についてはこれから隊長と相談して決める。隊長、それでよろしいですか?」

 吉野隊長は大きく頷いた。その動きはゆっくりと重く、それを見た東野と日野はどちらも納得のいかない表情を浮かべたまま会議は静かに解散となった。赤い球は脈打つように光っていた。


 ×   ×   ×


「なんだよ。もう、赤い球の秘密、分かってるんじゃないか!」

 日野の怒声が無人の実験室に鋭く響いた。その声には苛立ちだけでなく、どこか子供じみた癇癪のような響きが混じっていた。彼は机の脚を蹴りつけ、金属音が床に反響する。蛍光灯の光が冷たく照らす室内にはだれの気配もない。蒼真の指示で出入りが禁止されているこの場所に、日野は規制線を潜り抜けて侵入していた。

 中央の作業台には赤い球が静かに置かれている。その表面は滑らかで内部には脈打つような赤い光がゆらめいていた。まるで日野の怒りに呼応するかのように。


「この球、他になにかないのか?」

 苛立ちを募らせながら日野は球を睨みつける。蒼真が自分より先に何かを掴んでいたことが悔しくて仕方がない。知っていながら、自分にデータ整理を押し付けた、その屈辱が、彼の内側をじわじわと蝕んでいた。

「怒りがエネルギーだって? なら俺の怒りを吸収してみろよ!」

 日野は机を蹴り飛ばした。球は揺れ、赤い光が一段と強くなる。室内の空気が震え、壁に赤い影が踊る。


「そうだ、もっと怒れ!」

 日野は口元を歪め、まるで球を挑発するように吐き捨てた。その顔には怒りよりも快感に近いものが浮かんでいた。振り返ると、そこに黒衣の男が立っていた。実験室の奥、影の中から現れたその姿は、まるで闇そのものが形を取ったようだった。

「あんた、あんたもあんただ!」

 日野は男に詰め寄る。怒りと恐怖が混ざり合い、声が震える。

「あんたと話しているところを見られたせいで、俺の立場が悪くなったんだ!」

 言葉の端々には責任転嫁と被害者ぶった卑屈さが滲んでいた。日野の語気の強さに呼応するように赤い球はさらに光を増していく。机の上で脈打つように輝き、まるで何かを待っているようだった。


「そこまでだ!」

 別の扉が勢いよく開き、吉野隊長が銃を構えて飛び込んできた。その後ろにはアキと蒼真が続く。日野は驚き、腰を抜かして床に尻もちをつく。

 黒衣の男は薄笑いを浮かべたまま、動かない。

「さぁ、お前のたくらみを話してもらおうか」

 蒼真も銃を構え、男に狙いを定める。その目は冷静で、怒りを抑え込んだ鋭さがあった。

「たくらみ? そんなものはないさ。人が怒りを持つ限り、怪獣はどこにでも現れる。この怒りの力で怪獣はさらに強くなるんだ」

 黒衣の男はそう言いながら、赤い球に手を伸ばす。その瞬間、蒼真が体当たりし、男の手から球が零れ落ちる。アキが素早く身をかがめ、球を拾い上げた。


「その赤い光は人々を滅ぼす原動力だ。それを手にした者もやがて滅びる。阿久津蒼真、今の言葉を覚えておけ」

 男はそう言い残すと、蹲るように姿勢を低くした。蒼真が駆け寄ったときには、すでにその姿は消えていた。まるで空気に溶けるように。

「くそ、どこへ行ったんだ!」

 蒼真が地団駄を踏んだ瞬間、実験室全体が震えた。床が微かに揺れ、警報が鳴り響く。

「緊急指令、緊急指令。基地周辺に怪獣出現。MECは直ちに迎撃せよ。繰り返す。直ちに迎撃せよ」

 吉野隊長とアキは頷き合い、すぐに実験室を飛び出していく。日野は床に倒れたまま、恐怖で気絶していた。その姿は哀れというよりも、滑稽だった。蒼真はゆっくりと左手を挙げる。


 夜の闇を裂くように、巨大な怪獣メガゲートが姿を現した。大きな耳と目を持つ二本足の巨体が基地の建物に迫っている。その前に青い光の柱が立ち上がり、ネイビージャイアントが出現する。

 怒り狂うメガゲートが咆哮とともに地を蹴った。その巨体が空気を裂きながら突進する。地面が震え、周囲の建物の窓が微かに軋む。

 メガゲートの肩がネイビーの胸に激突し、鈍い衝撃音が響き渡る。地面が割れ、亀裂が走る。砂煙が爆発的に舞い上がり、視界が一瞬白く染まる。ネイビーは足を踏ん張り、滑りながらも怪獣の勢いを受け止めた。


「ぐっぅ!」

 踏みとどまったネイビーはメガゲートの腕を掴み、体をひねる。怪獣のバランスが崩れた瞬間、ネイビーは低く構え、足元を狙って一気にすくい上げる。メガゲートの巨体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。

 地響きが鳴り、粉塵が舞う。ネイビーはすかさず馬乗りになり、拳を振り上げる。その拳が怪獣の顔面に振り下ろされる。が、拳が跳ね返る。

 メガゲートの皮膚は異常なほど硬く、まるで金属の装甲のようだった。ネイビーの拳に鈍い痛みが走る。


「こいつ、さっきの赤い球のエネルギーでさらに強固になっているな!」

 メガゲートが反撃に転じる。ネイビーの腕を掴み、関節を軋ませながら力ずくで引き剥がす。次の瞬間、ネイビーの体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。背中が砕けそうな衝撃。

 続けざまに、メガゲートの足が振り下ろされ、ネイビーの腹部を蹴りつける。鈍い音とともに、ネイビーの体が転がる。怪獣は容赦なくネイビーを持ち上げ、再び遠くへ投げ飛ばす。コンクリートの壁に激突し、崩れ落ちるネイビー。全身を打ち付けられ、動けない。呼吸が浅く、視界が揺れる。


「くそ、このままではやられる!」

 ネイビーはふらふらと立ち上がる。膝が震え、腕は重く、力はほとんど残っていない。メガゲートが拳を振り下ろしてくる。ネイビーは反射的に身をひねり、かろうじて回避する。だが、限界はすぐそこまで迫っていた。

 そのとき、ネイビーの胸元から赤い光がじわりと滲み出す。それは血のように濃く、怒りのように熱かった。

「なんだ、これ気持ち悪い!」

 赤い光はネイビーの体を包み込み、次第に炎へと変わっていく。炎は荒々しく、獰猛にゆらめきながら全身を覆う。その熱は、怒りそのものだった。


「これは怒りだ。赤い球の怒りがネイビーを包んでいる。うう、気持ち悪い!」

 ネイビーの瞳が赤く染まり、体が震える。彼の体が炎に包まれた。その炎が彼の動きを加速させる。そのまま、ネイビーは雄叫びを上げ、メガゲートに向かって突進していく。

 その勢いは凄まじく、メガゲートの胸部を貫いた。怪獣の体が震え、内部から崩れ始める。赤い光が怪獣の体内を走り、やがて全身が静かに消えていく。ネイビーの炎も、ゆっくりと消えていった。肩で息をするネイビーの姿は、青い光の中へと静かに溶けていく。そして、夜は再び静寂を取り戻した。


 ×   ×   ×


「で、結局日野君はどこに行ったの?」

 科学班の実験室には静かな機械音とキーボードの打鍵音だけが響いていた。

 壁際のモニターには赤い球の分析データが流れ、中央の作業台では東野と奈緒が並んで座り、黙々とデータの整理を進めている。

 その様子をアキは少し離れた場所から眺めながら、ふと声を上げた。すぐ横には蒼真が手元の資料を見ながら佇んでいる。


「あの件でけん責処分を受けて、武器倉庫係に異動になりました」

 彼の声には、わずかな安堵が混ざっていた。

「そう。東野君にはいい人事ね。でも、よくけん責で済んだわね」

 アキが眉をひそめる。

「まぁ、直接的な被害を出していないし、黒衣の男にいいように扱われただけですからね。でも普通、ああいう場合は自ら辞めるものなんですけど、彼の場合は……」

 蒼真が静かに口を開いた。彼は資料の束を手にしながら、軽く首を振る。


「多分、人の感情を受け取る器官が人より劣っているんでしょうね」

「ふーん。そんな器官があるの?」

 アキが首を傾げる。

「さとみさんの説です」

 蒼真は淡々と答えるが、その声にはどこかさとみへの敬意が滲んでいた。

「で、その結果、武器倉庫係でもひと悶着あったみたいで。みんな怒ってるって聞きましたよ」

 近くい寄ってきた奈緒が静かに言葉を添える。


「まさに怒りを呼ぶ男ね」

 アキがぽつりと呟く。その言葉は、冗談のようでいて、どこか重かった。

「そうですね」

 蒼真は少し考え込む。彼が“怒りを呼ぶ男”だったからこそ、メガゲートを倒せた。あの赤い球が反応したのは日野の怒りだった。それが怪獣を呼び、そして怪獣を倒す力にもなった。何が正解だったのだろうか? その問いが、蒼真の胸を静かによぎる。

「まぁ、キャラクターは変えられないっていう蒼真君の説も正しそうだけど」

 アキが軽く肩をすくめる。その仕草は諦めと理解の混ざったものだった。蒼真は科学班のメンバーたちをゆっくりと見渡した。


「でも、鈴鹿さん、髪伸びましたよね」

「えっ」

 アキの目が丸くなる。

「まぁ、美容院いけないぐらい忙しいからね。でも蒼真君、珍しく私の変化に気付いてくれたのね」

 アキの肩まで伸びた紙をひらめかせながら赤面する。

「まぁ、なんか気になって。鈴鹿さんはキャラクタ、ちょっと変わりました?」


「そんなことないわよ」

 アキはさらに顔を赤らめる。

 だれもだれかを責めることなく、粛々と仕事をこなしている。資料をめくる音、タイピングのリズム、分析装置の静かな稼働音。それらが、今のこのチームの秩序を物語っていた。

「とにかく、リーダーとしてこのチームの平和は守れました」

 蒼真は笑顔でアキにそう答えた。

《予告》

岩川参謀が左遷された。防衛隊内で新型スカイタイガーをめぐる組織闘争の懸念が出る中、その魔の手がMECにも及ぶ。蒼真は尊敬する整備班吉村班長に相談するが。次回ネイビージャイアント、「強くなること、それは……」、お楽しみに。

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