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ネイビージャイアント  作者: 水里勝雪
44/65

第四十四話 円らな瞳

♪淡い光が照らす木々

 襲う奇怪な白い霧

 悲嘆の河が怒るとき

 敗れた夢が怒るとき

 自由を求める戦いに

 愛する誰かを守るため

 青い光を輝かせ

 ネイビー、ネイビー、ネイビー

 戦えネイビージャイアント

 業火が家を焼いていた。炎は獣のように唸りをあげ、屋根を突き破って夜空へと火柱を吐き出している。黒い空はその赤々とした光に染まり、まるで天そのものが炎に飲み込まれていくようだった。深夜のはずなのに、町は昼間のように明るい。火の粉が舞い、瓦礫が爆ぜる音が四方から響き渡り、炎は通りの隅々まで夜の闇を押しのけていた。


「カノン!」

 明子の叫びが炎の向こうへと飛んだ。彼女の体は防衛隊の職員二人に羽交い締めにされていたが、その目は燃え盛る家の奥を捉えて離さない。

「いやあぁ、カノン、カノンがあそこにいるの、だれか、だれか助けて!」

 声は必死だった。喉が裂けるほどの叫びも、炎の轟音にかき消されていく。爆ぜる木材の音、崩れ落ちる瓦の音、そして炎が空気を喰らう音が、彼女の声を容赦なく飲み込んだ。


「奥さん、だめです。火の勢いが強すぎる」

 隊員の声は冷静だったが、その腕には明子の必死の抵抗が伝わっていた。

「あの子を、あの子を助けないと。行かせて、あの家にカノンがいるの!」

 明子は涙で濡れた顔を上げ、ひとりの隊員の腕を振り払った。その瞬間、彼女の足は地面を蹴り、炎の中へと向かおうとした。

「ダメです!」

 もう一人の隊員が咄嗟に彼女の腰をつかみ、力いっぱい引き戻す。明子の足は地面を引きずられ、砂埃が舞った。


「奥さん、たかが犬じゃないですか。人間の命の方が大切です」

 その言葉は明子の心を鋭く裂いた。彼女の目は炎ではなく、その隊員を見た。怒りでもなく、憎しみでもなく、ただ深い絶望がそこにあった。

「いやあぁ!」

 その瞬間だった。家が悲鳴のような音を立てて崩れ落ちた。屋根が潰れ、柱が折れ、炎が一気に噴き上がる。

「いやあぁ……」

 明子はその場に崩れ落ちた。膝をつき、地面に手をついて、泣き崩れた。肩は震え、声は嗚咽に変わり、もう動こうとはしなかった。

 二人の防衛隊員はその姿を見て、互いに目を合わせた。「もうこの女は炎に突っ込むことはないだろう」と、どちらともなく思った。

 明子は座り込んだまま、泣き続けていた。炎の熱が肌を焼くように感じられても、彼女はそこから離れようとしない。ひとりの隊員が、そっと彼女の肩に手を置いた。


「今回の怪獣の攻撃で、お子さんを亡くした人もいるんです。あなたはただペットを失っただけです。心を強く持ってください。まもなく町役場の救援隊が来ます。避難所へ行ってください」

 その言葉は慰めではなく、現実の宣告だった。防衛隊の隊員はそれだけを言い残し、背を向けて去っていった。

 残された明子は立ち上がろうとしなかった。炎の残光が彼女の頬を照らし、涙の跡を浮かび上がらせる。彼女の中にはただ一つの思いしかなかった。自分が守るべき存在を守れなかったという痛み。それは炎よりも熱く、瓦礫よりも重く、彼女をその場に縛りつけていた。


 ×   ×   ×


 夜が明けた。空はまだ薄墨色に染まり、遠くの山際にかすかな朱が滲み始めている。防衛隊の現場本部では、仮設テントの下に設置された照明が白く光り、隊員たちが無言のまま慌ただしく動き回っていた。焼け焦げた瓦礫の匂いが風に乗って漂い、だれもが眠気よりも緊張と疲労を顔に刻んでいる。

 テントの中央にはMECの面々が集まっていた。折りたたみ式のテーブルの上にはポータブルディスプレイが置かれ、蒼真がその前に立っていた。画面には、昨夜この街に現れた四つ足の怪獣の映像が映し出されている。


「今回の怪獣も電子銃の効果がありませんでした」

 蒼真の声は静かだが、言葉の重みが空気を引き締める。彼は指先で怪獣の姿を示しながら説明を続けた。

「前回、僕が遭遇した怪獣コルテウスと同じです。電子銃で皮膚の崩壊は起こりませんでした」

 田所が椅子から身を乗り出し、画面に映る怪獣の映像を覗き込む。眉間に皺を寄せ、唇を噛みながら呟いた。

「ってことは、俺たちには手も足も出ないってことか?」

「いや、きっとそんなことは……」

 蒼真が言いかけたところで、アキが鋭く問いかける。


「なにかいい案でもあるの?」

「いや、まだ分析ができていなくて」

「はぁ、しっかりしてよ」

 アキの声には苛立ちが混じっていた。蒼真は肩をすぼめ、小さく「すみません」と答える。

 そのやり取りに、三浦がやや気まずそうに口をはさむ。

「鈴鹿隊員、まぁ、そんなにむきにならなくても」

「むきになってないわよ」

 アキが三浦を睨みつけると、三浦は少したじろぎ、視線を逸らした。


「まぁ、そう焦るな」

 吉野隊長が穏やかな声でアキを制した。場の空気が少し和らぎ、蒼真は救われたようにタブレットを操作し直す。画面には怪獣の皮膚の拡大映像が映し出された。

「前回同様、この怪獣の皮膚は今までの怪獣とは違い、熱を帯びています。これは僕の推測ですが、おそらく怪獣に人間の怒りのエネルギーが追加されたのではないかと考えます」

「怒りのエネルギー?」

 三上が首を傾げる。彼の声には懐疑と興味が混ざっていた。

「それって、去年現れたフレロビウム型の怪獣の特性を併せ持つってことか」

「ご明察」

 蒼真は画面を切り替え、怪獣コルテウスの映像を表示する。画面にはかつての戦闘の記録が映し出され、焦げた地面と倒れた建物が静かに語っていた。


「コルテウスの場合、東阪大学の林さんが持っていた怒りのエネルギーを吸収していました。僕の目の前で起こったことなので、間違いありません。怪獣がネイビーに倒されたあと、現場から彼の遺体が発見されています」

「昔と同じだな」

 三上が腕を組み、低く呟いた。

「この厚みを増した皮膚をどうやって砕くか……」

 蒼真はふっと息を吐いた。画面の怪獣の皮膚は、まるで溶岩のように赤く脈打っていた。

「でも、ネイビーは怪獣を木っ端みじんに吹っ飛ばしたんだろ」

 田所が少し明るい声で問いかける。希望を探すような響きだった。


「なら、なにかいい方法があるんじゃないか」

「ネイビーが赤い炎となって怪獣に突進するやつね」

 アキが希望に満ちた声で田所に賛同した。

 その言葉を聞いた蒼真の目がうつろになる。あれは怒りの炎。ネイビーの魂が燃え尽きるほどの怒りだった。怒りでなければ怒りは破壊できない、その事実が彼の胸に重くのしかかる。

 そのとき、蒼真の足元に何かがじゃれついてきた。ふと視線を落とすと、小さな白い仔犬がしっぽを振りながら彼の足にまとわりついていた。

「お前、どこから来たんだ」

 蒼真がしゃがみ込み、そっと仔犬を抱き上げる。柔らかな毛並みが手のひらに心地よく、仔犬は円らな瞳で彼を見上げた。


「あら、可愛い」

 アキが近づいてくる。彼女の表情には、先ほどまでの苛立ちが消え、柔らかな笑みが浮かんでいた。

「今回の怪獣災害の被害者のひとりね」

 仔犬は蒼真の腕から体を伸ばし、彼の口元をぺろりと舐める。

「うんん、くすぐったい」

 蒼真は少し嫌がるそぶりを見せるが、仔犬はやめようとしない。まるで彼の心の隙間を埋めようとしているかのようだった。


「蒼真君は優しいから、仔犬にも好かれるのね」

 一通り口元を舐め終えた仔犬は、蒼真の腕の中にすっぽりと納まり、そのまま目を閉じてすやすやと眠り始めた。

「疲れているのかなぁ」

 蒼真は仔犬を抱いたまま、再び画面に目を戻し、説明を続けた。だが、その腕の中のぬくもりが、彼の心に小さな灯をともしていた。


 ×   ×   ×


 灰色の空が焼け焦げた町を覆っていた。風が吹くたびに、瓦礫の隙間から細かな灰が舞い上がり、かつて人々が暮らしていた街並みを、まるで記憶のようにぼやかしていく。

 明子はその中に、ぽつんと立ち尽くしていた。足元には、崩れたブロック塀の破片。遠くには、黒く焼け焦げた電柱が傾いている。

 彼女の視線の先には、かつて自宅があった場所。先週まで、そこには温かな日常があった。旦那とカノンがソファでくつろぎ、テレビの音が部屋に響いていた。カノンは白いマルチーズ。ふわふわの毛並みと、くるくるした瞳。甘えん坊で、いつもだれかの膝の上に乗りたがるくせに、気まぐれにベッドの隅で丸くなって眠ることもあった。


 子供を望んでいた明子にとって、カノンはたったひとりの息子だった。大事な、大事な命。彼女の胸の奥にはあの小さな体のぬくもりが今も残っている。

 涙が溜まり、静かに頬を伝って落ちていく。明子はそのまま、声もなく立ち尽くしていた。

 近くでは若い夫婦がゆっくりと歩いていた。妻は泣き崩れ、肩を震わせながら前を見られずにいる。夫はその隣で彼女の背を支えるように寄り添っていた。二人の足取りは重く、まるで地面に引きずられるようだった。

 近所の奥さんが、そっと声をかける。


「大丈夫?」

 女は返事をしない。代わりに、男が軽く会釈をした。

「そうよね、赤ちゃん亡くしたんだもんね。なんて言っていいのか……」

 奥さんの言葉に、男が静かに答える。

「すみません。妻はとても人と話す気がしないので」

「そうよね、分かるわ。ごめんなさいね。気を確かにね」

 男は再び会釈する。女は変わらず、よろよろと歩きながら涙に暮れていた。その姿は明子の胸に深く突き刺さる。悲しみはだれにとっても等しく重い。

 そのとき、背後からそっと肩に手が置かれた。拓哉だった。彼の手は言葉よりも先に、明子の震える肩を包み込んだ。


「明子、もうあきらめよう。どんだけ泣いたって、カノンは帰ってこない」

 その言葉は、優しさと現実の残酷さを同時に含んでいた。

「それはそうだけど……」

 明子の目からさらに涙があふれた。声は震え、言葉は途切れながらも、彼女の心の奥底から湧き上がる後悔が溢れ出す。

「あのとき、私が家を離れていなければ…… カノンを家に置いて外に出なければ…… カノンは、カノンは……」

 明子は拓哉の胸に倒れ込むように顔を埋めた。彼のシャツに涙が染み込み、彼女の嗚咽が静かに響いた。

「しょうがないじゃないか。あの子は、そういう運命だったんだよ」

 その言葉に明子は顔を上げ、キッと拓哉を見返す。瞳には怒りと悲しみが混ざり合っていた。


「しょうがない? 運命? そんなの、そんなの……」

 声が震え、怒りが露わになる。

「違うわ。あの子を守れなかった私たち、私たちに罪があるのよ。あの子はなにも悪くない。運命でもない。すべて、すべて私たちのせい」

 拓哉は言葉を失った。慰めるつもりだったのに、かえって彼女を傷つけてしまった。そのことに気づいた瞬間、彼の表情が曇る。

「ごめん」

 それ以上、言葉は見つからなかった。ただ、謝るしかなかった。

 明子は顔を上げる。その目は涙で腫れ、赤くなっていた。


「謝るのは私かも…… だって、だってあなただって悲しいはずなのに。私を励まそうとして言った言葉なのに…… ごめんなさい」

 その言葉に、拓哉の頬にも大粒の涙がこぼれ落ちた。今まで妻を励まそうとしていた支えが外れたように、彼は嗚咽し始めた。

 二人は抱き合ったまま、焼け野原となった自分たちの街を前に、声をあげて泣き続けた。瓦礫の向こうに広がる空はどこまでも灰色で静かだった。けれどその静けさの中に、失われた命の重みと、残された者たちの痛みが、確かに息づいていた。


 ×   ×   ×


 焼け落ちた家々の中を蒼真とアキは静かに歩いていた。瓦礫の間を縫うように、ゆっくりとした足取りで進む二人の姿は、まるでこの場所に残された最後の静寂を守る者のようだった。空は鈍い灰色に染まり、焦げた木材の匂いが風に乗って漂っている。かつて人々が暮らしていたこの町は今や色も音も失い、ただ過去の残響だけがそこにあった。

 蒼真の腕には白い仔犬が抱かれていた。小さな体は彼の胸元に寄り添い、時折ぴくりと耳を動かす。その存在だけが、この荒廃した風景の中で、命のぬくもりを感じさせていた。


「いつも思うんですけど、怪獣被害を受けた人の心の傷はいかばかりかと」

 蒼真が周囲を見渡しながら言った。声には言葉以上の重みがあった。彼の目に映るのはただの瓦礫ではない。そこにはかつての暮らしの痕跡が確かに残っていた。

「そうね。私たちは怪獣を退治すればそれまでだけど、ここの人たちはこれから生活を再建しなくちゃいけない」

 アキの言葉は静かだったが、その奥には深い共感があった。彼女の視線もまた、焼けた家々の向こうにあったはずの人々の人生を探していた。


「そうですよね」

 蒼真は再び周囲を見回す。壊れた家々はまるで最初から何もなかったかのように広がっている。だが本当はここに人が住み、家族がいて何気ない日常があった。夕食の匂い、子供の笑い声、風呂上がりの団らん、それらすべてが怪獣によって一瞬で奪われた。

 蒼真自身も、一年前までは神谷研究所で藻の研究に没頭し、静かな人生を送るつもりだった。もしかすると美波と結婚し、子供が生まれ、穏やかな日々が続いていたかもしれない。だが現実は違った。怪獣が現れ、彼は戦いに身を投じ、MECに加わった。研究所は失われ、美波は病院で過ごす日々。こんな未来を、だれが想像できただろうか。


 人生とはそう言うものだと、簡単に言えるかもしれない。でも、得たものより失ったものの方があまりにも多すぎる。この先、自分がどうなるのか、それはここにいた人々と何ら変わりはない。

「お前らが怪獣を早く退治しなかったからこうなったんだ!」

 突然、二人の前に老人が立ちふさがった。白髪で七十を超えているだろうか。怒りに満ちた目で、蒼真とアキを睨みつけている。彼の手は震えていたが、その声には確かな怒気が込められていた。

「お前たちが早く来ないから、わしが小さい頃から住んでいたこの町がなくなった。返せ、俺の町を!」

 老人が蒼真につかみかかろうとした瞬間、周囲にいた二人の男性が彼を取り押さえた。彼らの顔にも、疲労と悲しみが刻まれていた。


「じいちゃん、落ち着け。この人たちになにを言っても変わらないよ。それより怪獣を追い返してくれたことに感謝しないと」

 老人は納得のいかない目で男たちを見たが、大人二人に羽交い締めにされ、観念したようだった。そのとき、彼の胸ポケットから赤いビー玉のようなものが地面に転がり落ちた。陽の光を受けて、かすかに輝いている。

「すみません、年寄りなんで許してやってください」

 一人の男が頭を下げる。蒼真は言葉を失っていたが、代わりにアキが前に出て答えた。


「いえ、おじさんの言うことも一理あります。我々も、いち早く怪獣撃退を心がけます」

 その言葉は正しく、しかし蒼真にはどこか定型的な返答に思えた。アキの声は冷静だったが、そこに感情の揺らぎは見えなかった。

 男たちは暴れる老人を羽交い締めにしたまま、蒼真たちとは逆の方向へ連れていった。老人の足元には、赤い玉がぽつんと残されていた。

 蒼真はそれを拾い上げる。手のひらに乗せると、それはまるで子供の宝物のように見えた。何かの記憶が、そこに宿っているような気がした。


「なにか気になるの?」

 アキが尋ねる。

「いえ、ちょっと」

 蒼真はその玉をポケットにしまった。何かが胸に引っかかっていたが、それが何なのかはまだ分からなかった。

 その後、二人は騒動を後にして、壊された町の奥へと進んでいく。風が吹き抜け、灰が舞い上がる。仔犬が小さくくしゃみをした。蒼真はその体をそっと抱き直し、歩みを止めなかった。

 この町に残されたものは瓦礫と記憶とそして怒りと悲しみ。だがその中に、守るべき命がある限り、彼らは歩き続けるしかなかった。


 焼け跡の町を蒼真とアキは並んで歩いていた。足元には砕けた瓦礫が散らばり、踏みしめるたびに乾いた音が響く。空は鈍色に曇り、風が吹くたびに灰が舞い上がって視界を霞ませた。かつて人々が暮らしていたこの場所は、今や静寂と喪失だけが支配している。

 蒼真の腕の中には白い仔犬が眠っていた。小さな体は彼の胸元に寄り添い、時折ぴくりと耳を動かす。そのぬくもりだけが、この荒廃した風景の中で、命の確かさを感じさせていた。


「鈴鹿さん、さっきの返事、心がなかったですよね」

 アキがふっと息を吐きながら言った。声は静かだったが、どこか遠くを見つめるような響きがあった。

「まぁ、怒っている人には逆らわない方が得策だからね」

 アキの返答は淡々としていた。だがその言葉の奥には、長年の経験と感情を押し殺す癖が滲んでいた。

「確かにそうなんですけど……」

 蒼真はうつむき、足元の瓦礫を見つめた。踏みしめた破片の一つが、かつてだれかの家の柱だったかもしれないと思うと、胸が重くなる。

「あのおじさんの言葉が気になるの?」

 アキが横目で蒼真を見た。


「いえ、どちらかというと、止めに入った男の人の方が」

「?」

「この人たちになにを言っても。って言ってましたよね」

「えゝ」

 アキは短く答える。蒼真は立ち止まり、空を見上げた。雲の隙間から、かすかに光が差し込んでいる。

「それって、僕たちに期待していないってことじゃないですか」

 アキが足を止めた。風が彼女の髪を揺らす。

「そうね。まぁ、事実だし」

 蒼真も歩みを止める。二人の間にしばし沈黙が流れた。


「アキさんは悔しくないんですか? まるで役立たずと言われてるみたいですよ」

「まぁ、それも事実ね」

 アキが軽く笑った。だがその笑みには、痛みとあきらめが混ざっていた。

「だって、私たちじゃ怪獣一匹倒せない。できることは、被害を最小限に食い止めること。でも、実際に被害にあった人から見れば、役立たずの何者でもないわ」

「アキさんは、それでもいいと?」

「いいわけがない」

 アキが蒼真をキッと睨みつけた。その目には揺るぎない意志が宿っていた。

「あれをご覧なさい」

 彼女が指差す方向には破壊された家の前で泣き崩れる女性がいた。肩を震わせ、声にならない嗚咽が空気を震わせている。


「さっき聞いたんだけど、あの人、三歳になる子供を今回の怪獣襲撃で亡くしたそうよ」

 女はただ、泣き続けていた。地面に手をつき、何度も何度も名前を呼んでいるようだった。

「私も大介が怪獣に殺されたら、ああなると思うの。もしそうなら、MECを恨んでも仕方がないと思う。なぜなら、私だってそうなるから」

 蒼真は何も言えず、アキを見返した。彼女の言葉は理屈ではなく、感情の奥底から出てきたものだった。

「だから、私たちは彼女たちの非難を甘んじて受けなければいけない。自分が全力を尽くしたとか、頑張ったなんて、まったく関係ない。それ以上の傷をあの人たちは受けたのだから」

 蒼真ははっと息を吐いた。胸の奥に、何かが静かに落ちていく感覚があった。


「深いですね」

「そうね。でも、私たちがやるべきことをやる。それしかない。例え非難されても。そうでないと、やることがブレる。そう思うの」

 アキの言葉はまるで自分自身に言い聞かせるようだった。だがその声には確かな覚悟があった。

 蒼真はアキを見つめながら言った。

「鈴鹿さん、すごいですね。尊敬しますよ」


「えっ」

 アキは少し顔を赤らめた。風が頬を撫で、彼女の表情を柔らかく照らす。

「そうでもないわよ。普通よ」

「そうですか。すごいです」

 蒼真は思う。アキの言葉は正しい。自分も、嘆きや悲しみに暮れている暇はない。一刻も早く怪獣を操る者たちを排除し、平和な世界を取り戻す。それだけを考えよう。そうすべきだ。

 ふと腕の中を見る。仔犬が小さなあくびをした。そして、大きな瞳で蒼真を見つめる。その瞬間、彼の心は落ち着き、安らぎに包まれた。何より、この小さな命を守りたい、そう強く思った。


 ×   ×   × 


 校庭はまるで戦後の野営地のようにテントで埋め尽くされていた。色とりどりの布地が風に揺れ、ところどころに貼られた手書きの案内板が避難者の流れを誘導している。人々は毛布を抱え、物資を運び、だれかを探し、だれかを待っていた。校舎の脇では大きなドラム缶の中で炎が燃え盛っている。火の粉が空へと舞い上がり、その周囲には厚着をした男たちが集まり、手をかざしていた。彼らの顔には疲労とあきらめが刻まれている。


 避難所となった小学校はかつて子供たちの笑い声が響いていた場所だった。今はその面影もなく、殺伐とした風景と、悲しみを抱えた人々の気配が重なり合っていた。

 明子は校庭の隅、鉄棒の横にある滑り台に腰掛けていた。冷たい金属が太ももに触れ、じわじわと体温を奪っていく。膝が寒い。いつもならカノンが膝に乗って甘えてくるのに、今はもう彼はいない。空は厚い雲に覆われ、陽の光は届かない。ただでさえ凍えるような空気の中、彼のいない寂しさが身も心も凍えさせていく。


「MECがもっと早く来てくれていればこんなことにはならなかったのにですね」

 その乾いた声に明子は身震いした。振り返ると、黒衣の中年男性が立っていた。顔の半分がフードに隠れていて、表情は読み取れない。

「いや、私もね、常々MECの体たらくに怒りを持っているんですよ」

「あなたは?」

 黒衣の男は明子のそばに腰を下ろす。滑り台の端に静かに体を預けるように座った。

「私は通りすがりの被害者です」

 男はポケットから赤いビー玉を取り出し、明子に手渡した。ビー玉は陽の光を受けていないのに、どこか内側から光っているように見えた。


「これはMECに怒りを持つ人に配っています。ある種の連帯を意味しています」

 明子はビー玉を見つめた。小さな球体の中に何かが渦巻いているような錯覚を覚える。するとどうだろう、今まで焦燥感で凍てついていた心の奥底から、炎のような感情が立ち上がってくる。それは怒りだった。

 そうだ。もしこの町に怪獣が現れなければ。MECがもっと早く来てくれていれば。いや、怪獣の進む方向が逆だったなら、カノンは死なずに済んだ。

「そうです。怒りなさい。怪獣を、MECを、そしてあなたの運命を」

 男の声は低く、耳元に直接響くようだった。明子の心がビー玉に吸い込まれそうになったそのとき。


「ワン、ワン!」

 甲高い鳴き声が空気を裂いた。ハッとして振り向くと、黒衣の男の姿はもうなかった。まるで最初から存在していなかったかのように、そこにはだれもいない。

 明子は立ち上がり、周囲を見回す。すると、見覚えのある制服姿の二人が歩いてくる。MECの隊員服。そのうちの一人の胸には、白いマルチーズが抱かれていた。

「カノン!」

 明子が駆け寄る。心臓が跳ねるように高鳴る。しかしすぐに、その仔犬がカノンではないことに気づく。毛並みは似ているが、顔つきが違う。体も少し小さい。


「もしかして、この子の飼い主さんですか?」

 蒼真が明子に近づく。優しい声だった。

「いえ、違いました。うちの子は成犬なので」

「そうですか」

 蒼真の腕の中で、仔犬が明子に向かって鼻をクンクンさせている。小さな鼻先が震え、彼女の匂いを探っている。

「おう、カン太じゃないか」

 近くにいたおじさんが蒼真に近づいてくる。顔に深い皺を刻んだ、年配の男性だった。


「おう、カン太、生きていたんか」

 おじさんは仔犬の頭を撫でる。カン太は目を細め、安心したようにしっぽを振った。

「ご存知なんですか?」

「ああ、うちの隣の家の子だよ」

「そうですか。で、飼い主さんは?」

 おじさんが一瞬、言葉に詰まる。目が伏せられ、口元が震えた。


「死んじまったよ」

「えっ」

「ウチの隣に住んでた老夫婦に飼われていたんだが、今回の怪獣の襲撃で二人とも押しつぶされた。だからてっきり、この子も死んだと思ってたんだよ」

「そうだったんですか」

 その話を聞いて、明子は胸が締めつけられる思いだった。自分は家の外にいたため助かった。でも、カノンは家の中にいて火災に巻き込まれた。この子も飼い主を残して自分だけ生き延びた。きっと後悔しているに違いない。


「私、その子、預かります」

 明子が蒼真に向かって叫ぶように言った。声は震えていたが、強い決意が込められていた。蒼真はその声の大きさに一瞬驚いたが、すぐに笑顔で明子に向き直る。

「ありがとうございます。この子を基地に連れて帰るわけにもいかなくって、どうしようかと思ってたんですよ」

 蒼真は明子にカン太を預ける。明子はカン太を抱きしめた。暖かなぬくもりが胸に伝わってくる。かすかに震えるカン太を、明子はぎゅっと抱きしめた。


「大丈夫、怖くないよ」

 明子はカン太の円らな瞳を見つめる。カン太もじっと見つめ返してくる。その瞳には言葉にできない感情が宿っていた。

 明子は自分が無意識に微笑んでいることに気づいていなかった。冷たい風が吹いても、彼女の胸の奥には確かに小さな灯がともっていた。


 ×   ×   × 


 防衛隊基地の地下にある科学班の研究室は無機質な壁に囲まれ、冷たい蛍光灯の光が白く床を照らしていた。壁際には分析装置や試薬棚が並び、中央の作業台には特殊な検査装置が鎮座している。その装置の上に置かれた赤い球体が、まるでそこにあるだけで空気を変えてしまうような存在感を放っていた。

 蒼真はその球体をじっと見つめていた。表面は滑らかで、光を吸い込むような深紅。だがただの装飾品ではない。彼の目にはそこに潜む何かが確かに映っていた。


「この玉は地球の物ではないですね」

 隣に立つアキが彼の言葉に眉を寄せる。

「フレロビウム?」

「いえ、赤いですがフレロビウムではありません。もっと一般的な物質です」

「一般的?」

 アキが首を傾げる。彼女の視線も赤い玉に吸い寄せられていた。

「ケイ素です」

「ガラス?」

 アキが驚きの表情で目を丸くする。蒼真は頷きながら、装置のモニターに表示された成分分析のグラフを指差した。


「そうです。ただ、複数の化合物が混ざっていて、これを地球上で人工的に作るのは不可能です。構造が複雑すぎる。地球の技術では再現できません」

 アキはしばらく沈黙したあと、ぽつりと呟いた。

「なんでこんなもの、あの老人が持ってたんだろう」

 蒼真は指先でディスプレイを操作しながら答える。

「詳細は不明ですが、おそらく宇宙人が渡したのではないかと」

「なんのために?」

 蒼真はデータ分析結果が映し出された手元のディスプレイに目を落とす。画面には玉の内部構造と微量成分の分布図が表示されていた。


「分かりません。ただ、フレロビウムのような硬度はなく、ガラスのようにもろく壊れやすい。ただし、この玉の内部から微量のフレロビウムが検出されています」

「フレロビウム! やっぱりなにかある気がする」

 アキの声に蒼真は静かに頷いた。彼の目は玉の奥にある何かを見据えていた。

「これをあの老人が持っていたということは……」

 蒼真は息をゆっくりと吐き、画面を切り替える。そこには過去の怪獣コルテウスの戦闘記録が映し出されていた。


「おそらく、怒りのエネルギーをこの中に閉じ込めるためです」

 アキが息を呑む。蒼真は続ける。

「前回、怪獣コルテウスが現れたとき、人間の怒りをフレロビウムが吸収し、それが怪獣のエネルギー源となりました。もしかすると、人の怒りをこの玉に格納し、怪獣の力として利用するつもりなのかもしれません」

「確かコルテウスには電子銃が効かなかった」

「そうです。フレロビウムの皮膚を持つ怪獣が、怒りを蓄えたフレロビウムを吸収することで、我々の攻撃をはるかに凌ぐ怪獣へと変貌するのです」

 アキは唇を噛み、蒼真を鋭く睨んだ。


「大変、何とかしないと」

「まずは、この玉を持っている人物を特定し、早急に回収することが最優先です」

「分かったわ」

 アキが研究室を出ようとしたその瞬間、基地内にけたたましい警告音が響き渡った。壁のスピーカーから機械的な女性の声が流れる。

『緊急指令、緊急指令。前回怪獣が出現した場所に、再び新たな怪獣が出現。MECは出撃準備。繰り返す、MECは出撃準備!』

 研究室の照明が赤く点滅し、警報ランプが回転を始める。蒼真とアキは互いに顔を見合わせた。言葉はなかったが、目がすべてを語っていた。


「遅かったか……」

 蒼真の声は低く、悔しさと焦りが滲んでいた。アキはすぐに踵を返し、走り出す。蒼真もその後を追った。赤い玉は装置の中で静かに光を放ち続けていた。

 それは怒りの記憶を宿す器。怪獣の力の源となるか、人類の破滅の鍵となるか、その答えは、まだだれにも分からなかった。


 ×   ×   × 


「早く、早く逃げてください!」

 避難所となった校舎のスピーカーから、切迫した声が校庭全体に響き渡った。金属的な音が混じるその警告は、まるで空気そのものを震わせるようだった。人々がテントから飛び出し、荷物を抱え、子供を引き寄せながら走り出す。だれもが顔を強張らせ、空を見上げていた。


 明子はカン太をしっかりと抱きしめ、校舎の裏手から外へ飛び出した。冷たい風が頬を打ち、遠くの空に赤い二本の角がゆらめいているのが見えた。雲を突き破るように、その角は不気味な光を放ち、まるで怒りそのものが形を持ったようだった。

 その光景に、明子の胸の奥で赤い炎が燃え上がる。


「怪獣が、また怪獣が……」

 声は震え、足元が揺れるような感覚に襲われる。カノンを殺した怪獣。今また、自分たちを襲おうとしている。憎しみが、喉元までせり上がってくる。

 周囲の人々も怪獣の姿を見て、目つきを鋭くしていた。だれもが怒りを覚えている。恐怖よりも、喪失への怒り。避難所全体が、赤い光に染まっていくような錯覚を覚える。

 明子はポケットの中で赤い球が光ったような気がした。カン太を抱きしめながら、その球を取り出す。掌の中で玉はかすかに震えていた。その光に、吸い込まれそうになる。


 怪獣が前足を大きく持ち上げ咆哮をあげた。空気が震え、地面が鳴る。

 すると避難所の人々から、赤い光が怪獣に向かって放たれる。怒りの感情が、玉を通して怪獣へと向かっていく。怪獣はその光を浴び、皮膚の光沢をさらに黒く輝かせながら、天に向かって吠えた。その声はまるで怒りを吸収し、増幅するかのようだった。

 空にはスカイタイガーが飛来し、怪獣への攻撃を開始する。ミサイルが放たれ、爆煙が怪獣の周囲を包む。しかし怪獣は微動だにしない。煙の中から、赤い角が再び姿を現す。


 明子の隣にいた人物の手元で赤い球が割れた。パリンという音とともに、そこから放たれた赤い光が怪獣に向かって飛び、怪獣はさらに凶暴化する。目が赤く染まり、爪が伸び、地面を引き裂くように吠えた。

「だめ、私も怪獣に飲み込まれる……」

 明子の持っていた玉にひびが入る。赤い光が漏れ始め、彼女の心もまた、怒りに飲み込まれそうになる。

「ワンワンワンワン!」

 そのとき、カン太が低く大きな声で吠えた。その声は明子の耳に鋭く届き、彼女ははっと我に返る。

「グルルルル……」

 カン太は怪獣に向かって、威嚇するような唸り声をあげていた。小さな体で、恐怖に立ち向かっている。


「そう、カン太、あなたも怪獣に飼い主を殺されたのよね」

 明子の手にある玉の色が赤から青へと変わる。怒りが、悲しみと共鳴し、別の力へと変わっていく。

 その光の中からネイビージャイアントが飛び出してきた。濃紺の巨体が空を裂くように降下し、両腕を広げて重力を受け止めながら地面へと突き刺さるように着地する。着地の衝撃で地面が陥没し、周囲に土煙が巻き上がる。避難所の人々はその姿に歓声と驚きの声をあげ、希望と恐怖が入り混じった空気が一気に沸騰した。

 ネイビーは赤い光をまとって凶暴化した怪獣レッドホーンの前に立ちはだかる。レッドホーンの双角が脈打ち、全身から赤黒い蒸気が立ち上がる。咆哮とともに、レッドホーンが地面を蹴って突進する。その速度は音を裂き、空気を震わせる。


 ネイビーは後方の避難所を背に両腕を広げて構えた。衝突の瞬間、地面が爆ぜるような音を立て、二体の巨体がぶつかり合う。ネイビーは全身でレッドホーンの突進を受け止めるが、怪獣の圧倒的な力に押され、足元の地面を削りながらじりじりと後退していく。足の裏が砕けたアスファルトを滑り、背中が避難所の外壁に迫る。

 そのとき、犬の鳴き声が、カン太が吠え続けている。甲高く、しかし力強い声が空気を裂く。

 ネイビーが一瞬だけ後ろを振り返り、二度、三度頷くと、怪獣の足をつかんだ。そしてレッドホーンの足を引っ張り、その体勢を崩させる。怪獣の巨体がひっくり返り、地面に叩きつけられた。地面が揺れ、砂煙が舞い上がり、避難所の人々が歓声をあげる。


 その瞬間、避難所から再び赤い光が放たれた。今度は怪獣に向かうのではなく、ネイビーに集まってくる。人々の怒りが、信頼へと変わり、祈りのようにネイビーへと託されていく。

 その光を受けて、ネイビーの体が徐々に赤みを帯びていく。濃紺の体から、赤いエネルギーが脈打ち始める。レッドホーンは起き上がり、ネイビーに向かって威嚇の咆哮をあげた。その声は空を裂き、雲を揺らす。

 ネイビーは再びレッドホーンを中腰で受け止め、赤い力を得たその腕で押し返す。筋肉が軋む音が響く。地面が割れ、周囲の建物が震える。


 レッドホーンは苦し紛れにネイビーの肩に噛みついた。鋭い牙が彼を貫く。

「ウッ……」

 ネイビーの呻きが響く。彼はレッドホーンの首をつかみ、何とか噛みつきを外そうとする。しかし怪獣はさらに強く、肩に深く食い込む。ネイビーが膝をつき、その勢いでレッドホーンが覆いかぶさる。巨体が重なり、地面が悲鳴をあげるように崩れた。

 苦しむネイビー、そのとき、さらなる赤い光が避難所からネイビーに飛んでくる。まるで「憎い怪獣を倒してくれ」という祈りが、ネイビーに届いたかのようだった。


「ワンワンワンワン!」

 犬の鳴き声が響く。カン太の声が、空気を切り裂くように届く。

 ネイビーは我に返り、全身に力を込める。そして足をレッドホーンの腹に押し当て、渾身の力でレッドホーンを巴投げで投げ飛ばした。怪獣の巨体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。地面が割れ、衝撃波が周囲に広がった。

 さらに赤い光がネイビーのもとに集まり、その力を得てネイビーの体が赤い炎に包まれる。炎は風に煽られ、まるで怒りそのものが形を持ったようにゆらめく。


 そのままネイビーはレッドホーンに向かって突進する。足元が爆ぜ、空気が裂ける。

「ギャオ!」

 レッドホーンの断末魔の叫びが響き渡る。ネイビーの拳が怪獣の腹を貫き、その体内のエネルギー核まで到達する。次の瞬間、レッドホーンは大爆発を起こし、赤い光が四方に飛び散る。爆煙の中から、彼の体から放たれた赤い光が避難所へと流れ込む。同時に、ネイビーの体からも赤い光が避難所へと還っていった。


 ネイビーは力尽きたように膝をつき、その体は徐々に濃紺へと戻っていく。炎が消え、光が収まり、静寂が訪れる。そして、静かに倒れ、そのまま消えていった。

 明子はカン太を抱きしめたまま、空を見上げた。雲の隙間から、わずかな陽の光が差し込んでいた。それは、希望の光だった。


 ×   ×   × 


「この子に助けられたのかな」

 蒼真は腕の中のカン太をそっと抱きしめた。小さな体は温かく、心臓の鼓動がかすかに伝わってくる。戦いの余波でまだ空気はざらついていたが、この仔犬の存在だけが、彼に静けさをもたらしていた。

 あの瞬間、怪獣が怒りを吸い上げ、避難所全体が赤い光に包まれたとき。もしカン太が吠えなければ、もし赤い光が自分に集まらなければ、あの怪獣は倒せなかったかもしれない。

 あの怪獣は人々の怒りを吸収していた。その力はすさまじく、ネイビーの攻撃すら跳ね返すほどだった。だが、カン太の一声が蒼真の心を引き戻し、光の流れを変えた。


「お前のおかげで命拾いしたよ」

 蒼真がそう言うと、カン太のしっぽが急に大きく振れた。その視線の先、明子がゆっくりと歩いてきていた。彼女の顔には安堵と優しさが混ざった微笑みが浮かんでいる。

「そうか、お前はやっぱりママが良いのか」

 蒼真はカン太を地面に下ろす。カン太は一瞬だけ蒼真を見上げると、次の瞬間には全力疾走で明子のもとへ駆けていった。小さな足が地面を蹴り、耳が風に揺れる。


「カン太、お兄ちゃんとお話してたの?」

 明子がしゃがみ込み、カン太を抱き上げる。その腕の中で、カン太は嬉しそうに明子の口元をぺろぺろと舐め続けていた。まるで「ただいま」と言っているかのように。

 蒼真がそっと近づくが、カン太は気にする様子もなく、明子を舐め続けていた。その姿に、蒼真は微笑む。

「この子、育ててくれますか?」

「勿論です」

 明子はカン太をぎゅっと抱きしめた。彼女の目には涙が浮かんでいたが、それは悲しみではなく、再びだれかを守ることができるという希望の涙だった。


「私たちも子供を失いました。この子も親を失いました。似た者同士、仲良くやっていきます」

 蒼真はカン太の頭を優しく撫でる。毛並みは柔らかく、ぬくもりが指先に残る。

「よかったな、良いママに出会えて」

 カン太は明子を舐めるのを止め、大きなあくびをした。その仕草はまるですべてが終わったことを理解しているかのようだった。

「そういえば、変な男の人からこんなもの預かったんですけど」

 明子がポケットから玉を取り出す。それはかつて赤く輝いていた玉だった。今は赤い色がすっかり消え、澄み切った透明になっている。光を受けて、淡く虹色に輝いていた。


「これは!」

 蒼真が手に取る。指先に冷たい感触が伝わるが、その奥には何かが眠っているような気配があった。

「なにか今回の怪獣に関係ある気がして。この玉が赤くなったとき、怪獣に自分の精気が吸い取られそうになったんです。でもこの子の声のおかげで正気に戻れました」

「そうだったんですね」

 蒼真はその玉をじっくりと眺めた。内部にはかすかに揺れる光の粒が見える。怒りが消え、静けさが戻った証のようだった。


「ありがとうございます。分析してみます」

 蒼真は再びカン太の頭を撫でる。カン太は目を細め、気持ちよさそうにしていた。

「そうか、お前はママを救ったんだね」

 カン太は再び、大きなあくびをした。空は少しずつ晴れ始め、雲の隙間から光が差し込んでいた。戦いの終わりと、新たな始まりを告げるように。

 明子はカン太を抱きながら、空を見上げた。蒼真もその隣で、静かに立ち尽くしていた。風が吹き抜け、玉の中の光が、ほんの少しだけ揺れた。

《予告》

赤いガラス玉の分析中、協調性に欠ける科学班の日野がトラブルを引き起こし同僚の東野との激しい衝突が起こっていた。そんな怒りをためた日野に黒衣の男が近づいて来る。次回ネイビージャイアント「怒りを呼ぶ男」お楽しみに。

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