第三十三話 消された過去
♪淡い光が照らす木々
襲う奇怪な白い霧
悲嘆の河が怒るとき
敗れた夢が怒るとき
自由を求める戦いに
愛する誰かを守るため
青い光を輝かせ
ネイビー、ネイビー、ネイビー
戦えネイビージャイアント
「ねぇ、さとみさん、見かけなかった?」
午後の陽が淡く射し込むリビングで、蒼真はソファの上に横たえた雑誌のページを無意識にめくっていた。防衛隊から戻ったばかり、疲れからか少し頭がボーっとしている最中だった。
そこへ美波の声がふいに降りてきた。彼女の眉の奥には曇り空のような翳りが見える。
「え? 昨日の朝に会って以来、見てないけど」
蒼真が顔を上げたとき、美波は不安げに室内を一望する。その気配に釣られるように、蒼真も雑誌を閉じ身を起こして言った。
「どうかしたの?」
「朝から、姿が見えないの。みんなで探してるんだけど、今も見つからないの」
その一言が空気の温度をほんの少しだけ冷やした。
「えっ」
胸にざわつくものを覚えながら、蒼真は息を呑む。
「どこか出かけたんじゃ……」
「昨日の夕方までは研究所で見かけた人がいたらしいの。でも、それ以降はだれも見てない。しかも、外出の気配もなかったって……」
「じゃあ、本当に、突然いなくなったって言うのか?」
「そう。まるで、消えたみたいに」
「神隠しなんていまどきじゃないな」
そう口にした蒼真は、自分の言葉にぞわりとした感触を覚える。神隠し、非科学的な響きがこの状況ではやけに現実味を帯びて感じられた。
「でも、いなくなったのは確かなの」
「だれかが訪ねてきたとか、周囲で怪しい動きがあったとか。なにか、そういう情報はなかったの?」
「うーん」
美波がそっと首を傾けた。そのしぐさは、小さな疑問のかけらを頭の中で転がしているかのようだった。
「そう言えば……」
「なに?」
「一昨日。三上さんから、さとみさんに電話がかかってきたらしいの」
「三上隊員?」
その名を聞いた瞬間、蒼真の心に冷たい重みが落ちた。最近の三上は明らかに様子がおかしい。作戦室に長らく姿を見せない不自然さ、特別任務”という名の不在。それらが、陰の糸でひとつに結びついていく。
「なにを話していたのか、聞いてる?」
「知らないわよ。盗み聞きなんて、しないもの」
美波は唇をとがらせ、少しだけ眉を寄せた。
「とにかく、手がかりを探そう。まずは三上隊員に話を聞いてみる」
「お願い」
美波はそう一言残し、廊下の向こうへ静かに去っていった。
残された空間に、重く沈むような静寂が広がる。胸の奥に広がる不安は、形にならない靄のように蒼真を包み込んでいた。三上隊員、さとみ、この手がかりの先に何があるのか。確かめなければ。蒼真はその思いを胸に、足早に部屋を飛び出していった。
× × ×
まぶたの奥にうっすらと明かりが差し込み、さとみはゆっくりと目を開いた。
天井は低く、空気には重みがあり、空間の隅には木の香りが沈んでいる。視線を巡らせると、色味を抑えたブラウンを基調に、重厚な調度が並ぶ。時の止まったようなアンティークの応接室。古風なランプがぼんやりと辺りを照らし、そこにあるすべてが、彼女の知る世界から遠く感じられた。
自分はこの部屋のソファで眠っていたらしい。思いがけない柔らかさに包まれ、夢と現実の境界を滑るような醒め方だった。
「お目覚めですか?」
低く、丁寧な声が鼓膜を撫でた。
隣のロッキングチェアに一人の男が腰掛けている。暗がりの中、輪郭だけがはっきりと浮かぶ。その気配にさとみの身体が反射的に緊張した。
「こんな手荒な真似をしてしまい、申し訳ありません」
男は静かに立ち上がると、礼儀正しく一礼した。その肩にかかる制服、見覚えがある。防衛隊のものだった。
「ここは、どこですか?」
さとみの声は落ち着いていた。戸惑いを奥に潜ませたまま、芯のある問いが放たれる。
「場所は、今はまだお教えできません」
男の声には抑制された感情がにじんでいた。
「あなた、防衛隊の方ですね」
「さすが、神山教授のご夫人。ご明察です。私は参謀の安田と申します」
名を名乗ると同時に、男はくるりと背を向けた。さとみが彼に鋭く質問をぶつける。
「このこと、蒼真くんや吉野隊長には……」
「いいえ。極秘事項ですので、彼らには知らせておりません」
その言葉に、空気がひときわ重たくなる。
さとみは静かにソファから立ち上がり、再び部屋を見渡した。息を呑むほど静まり返った空間。そのすべてが、彼女を沈黙の海に包み込もうとしているかのようだった。
「私をここに連れてきた目的は、なんですか?」
「地球を守るために、あなたの力をお借りしたいのです」
「地球を、守る?」
さとみの眉がわずかに動く。
「いま、地球はかつてない危機に直面しています。世界中の叡智を結集しなければなりません」
「それはMECチームの役割では?」
「彼らの任務は、怪獣から人類を守ることに限られています」
「では、それ以外の脅威が存在するとでも?」
「はい」
安田は机に置かれたファイルに手を伸ばし、それをさとみに差し出す。その表紙には、力強い筆致で「R計画」と記されていた。
「これは最高機密です。信頼のもとにお見せします。口外は一切ご遠慮いただきたい」
手にしたファイルをめくると、そこには“異星人によるミサイル攻撃”に関する戦慄すべき情報が詳細に記されていた。
「なるほど。公表すれば、世間はパニックに陥るでしょうね。だからこそ、MECチームにも知らせず、計画を進めている、そういうわけですね」
「さすが、理解が早い」
「でも…… なぜ私が?」
「あなたの生物物理学の知識がこの計画の鍵になるからです」
「ミサイルと、生物物理が?」
さとみの声がかすかに震え、瞳が大きく見開かれる。
「安田さん…… あの技術を兵器に応用するつもりですか?」
「ええ。地球を守るために」
「でも…… あれは、危険すぎます」
「承知の上です。しかし、今は非常時です」
さとみはゆっくりと首を横に振る。そのしぐさには静かだが確固たる拒絶がにじんでいた。
「あれには代償が伴います。制御できるものではありません」
「ご納得いただけないのであれば、やむを得ません」
安田は淡々とした口調のまま、机の横に置かれた黒い箱のボタンを押した。無音の扉が開くと、そこには屈強な四人の男たちが立っていた。
「神山夫人を、研究室へ」
命じられると同時に男たちはさとみの両腕を固め、逃げ道をふさぐように彼女を囲んだ。
「申し訳ありません。しばらく、こちらで過ごしていただきます」
安田は深々と頭を下げた。さとみは振り返る間もなく、無言のまま男たちに引かれ、部屋の外へ連れ出されていった。
そのとき、空気を切り裂くように警報が鳴り響く。
「緊急指令、緊急指令、山陰沖に怪獣出現。怪獣攻撃隊は、直ちに作戦室へ!」
× × ×
海から吹きつける風が、潮の匂いとともに街の上空を包み込んでいた。鉛色の空の下、山陰の静かな港町に突如としてその姿を現したのは、怪獣エリタトル。痩身の体は恐竜を思わせ、背から伸びた尻尾は、緊張した空気を切り裂くようにピンと張っていた。二足で地を踏みしめるその動きは、驚くほど俊敏で、鈍重な巨体からは想像もつかない軽やかさを備えていた。
『鈴鹿機、いつもの通り、胸の赤い石を狙え』
無線から響く吉野隊長の声が、空中を駆ける鋼の機体に届く。
「了解」
鈴鹿アキはスカイタイガーの操縦桿を握り直し、速度を上げる。機体の先端がエリタトルの胸へ照準を合わせるが、標的は踊るように揺れ動き、狙いは定まらない。
「三浦機、怪獣の動きを止めて!」
『了解!』
雲間を切り裂くように、三浦淳のスカイタイガーが後方から接近し、ミサイルを発射。地鳴りのような音とともに、炸裂する火線。エリタトルの動きが止まり、その金属質の瞳がゆっくりと背後を振り返った。
「今よ!」
アキが引き金を引く。鋼の弾が一直線に飛び出すが、目に見えぬバリアが立ちはだかり着弾を阻む。
「田所機、私のあとに胸の赤い石、狙える?」
『もちろん』
空の高みから田所の声が静かに届いた。三浦機が旋回し、再び後方から攻撃を仕掛ける。エリタトルはそれを威嚇するかのように喉奥から咆哮を挙げ、空気を震わせた。アキが即座に次のミサイルを発射。だが、またもバリアに阻まれる。
一瞬。わずかな、あいだが空間を裂いた。バリアが消えた、ほんの一瞬、そのタイミングを逃さず、田所がミサイルを放つ。疾走する銀の槍が、胸の赤い石へと吸い込まれるように直進する。今度はバリアの再展開が間にあわなかった。
衝撃とともに石が砕け、赤い光が四散した。
「ギャオーッ!」
エリタトルの体が軋むように崩れ落ち、巨大な手足が地をかきむしる。最後の叫びを残して、輪郭がゆっくりと空へ溶けていく。その姿はまるで、嵐の中に舞う幻のようだった。しばらくして静寂が戻った。エリタトルはその姿を完全に消し去っていた。
× × ×
作戦室のドアが静かに開き、疲労と熱気の余韻をまとって三浦が足を踏み入れた。追って田所、鈴鹿アキが入ってくる。作戦室にいた蒼真が彼らを向かえた。
「あっけなかったですね」
三浦が不思議そうな声を放つ。
「俺たちの連携がよかったからさ」
田所は椅子に腰を下ろしながら、明るい調子で笑った。その声がやけに広く響く。
「でも、確かに、ちょっとあっけなさすぎるわ。なにか裏があるんじゃないかしら」
アキは眉間に浅い皺を寄せ、モニタに映る戦果の記録に目を落とす。整然とした映像がむしろ不自然なほど冷静で彼女の胸をざらりと撫でていった。確かに、何かおかしい、アキの胸に引っかかりと不自然さとの整合の折り合いがつかないままモニタを眺めた。三人がそれぞれの席へ着いたとき、部屋の一隅にただ一人、沈黙の波に沈む姿があった。
蒼真。彼は何も聞こえないかのようにタブレットの画面に視線を落とし、音もなく指を動かしていた。
その姿を見たアキが、怪獣との闘いの違和感以上に心にざわめくものを覚えた。彼女がそっと蒼真のそばに歩み寄る。
「まだ、神山教授の奥さん、見つかってないの?」
アキが少し距離を詰めた。
「えゝ」
彼は視線を動かさず静かに応えた。
「奥さんだけじゃないんです。北海国際大学の多田教授、南西大学の矢名教授、西海大学の倉田教授……」
「どれも、一流の研究者ばかりね」
アキが画面をのぞき込む。スクロールされる名前と顔写真。どれも、確かな肩書きを持ち、ゆるぎない経歴を刻んでいた。
「でも、共通点はないんですよね。しかもさとみさんは今、研究職には就いていませんし……」
「今は、ってことは昔は研究してたってこと?」
蒼真が首を傾げる。そこに浮かぶのは、わずかに曇った記憶の影。
彼女が研究者だったという噂は、確かに聞いたことがある。でも、それ以上は知らない。なぜ知らないのか。知ろうとしなかったのか、だれも語らなかっただからなのか。
「確かに、研究者じゃないことを除けば、性別、年齢、専門分野、何一つ共通していないわけね。でももし、さとみさんが過去、一流の研究者だったとしたら?」
アキの言葉が、蒼真の中に沈殿していた何かをかき混ぜる。
彼は思い立ったようにタブレットを操作し、「神山さとみ」と検索をかけた。だが結果は該当なし。その表示が蒼真を落胆させた。その蒼真の姿を見てアキがほくそ笑んだ。
「出てこないのは当然よ。さとみさんの旧姓は?」
「旧姓?」
指が止まり、蒼真の頭が困惑する。結婚以前のさとみ。そう、当たり前かもしれないが、彼は彼女のことを何一つ知らなかった。
「聞いてみます」
蒼真は、机上の固定電話の受話器を取る。番号を押す音がやけに大きく聞こえた。
「あ、美波。蒼真だけど。うん、ちょっと聞きたいことがあるんだ。さとみさんの旧姓、知ってる? うん、うん。そうかぁ、ごめん、ありがとう」
短いやり取りのあと、彼は受話器を置き、唇をわずかにとがらせた。
「知らないってさ」
その様子を見ていたアキが、ふっと笑った。
「美波さん、ちょっと不機嫌そうだったわね」
「そうなんですよ。声のトーンもいつもと違って、心配してるはずなのに、どうしてなんですかね」
「相変わらずね」
アキは顎に手を当て、何かを見透かすような目で首を左右に振った。
「蒼真君は女心ってものを分かってないんだわ。あなたがさとみさんのことを心配すればするほど、美波さんは不安になるのよ」
「え、なんでですか?」
蒼真の目が素直に丸くなる。
「あなたの心が、別のだれかに傾いているんじゃないかって、そう感じちゃうのよ。理由なんてないの」
「そんなつもり、全然ないのに……」
「つもりがあってもなくても、女ってね、そういうものなの」
アキは軽く微笑みながら言った。蒼真はふっと息を吐いて、唇をへの字にしたまま黙り込んだ。
「離れるって、そんな気なんて。たださとみさんのこと心配してるだけなのに……」
言葉の先が霞んでいった。アキがほほ笑んだ。まだ彼には女心の地図は描けそうにない。彼に美波の気持ちが分かる、その意味をアキはふと考えた。この男に女心が分かる、そんな日が来る、そんな蒼真を想像できなかった。
× × ×
教授室の奥、午後の陽光がカーテン越しに淡く射し込む。静寂をまとったその部屋にかすかに革張りのソファが軋む音がした。壁に並ぶ書棚の背表紙たちは年輪のように鈍く光を帯び、その奥で時を止めていた。
「さとみと出会ったのは、もう十年ほど前になる」
低く柔らかな声が天井に漂い、古時計の音とともに空気を満たす。
この部屋に足を踏み入れるのは久しぶりだった。そんな想いが、蒼真の心をくすぐっていた。招き入れてくれたのは美波。彼女は今、蒼真の隣に座っている。対面のソファにはかすかな疲労の気配をまといながらも凛と座る神山教授がいた。
「彼女と初めて会ったのは、アメリカの生物物理学研究所だった」
「アメリカ?」
蒼真と美波が揃って声をあげる。その音が意外にも場の静けさに溶け、まるで記憶の扉を開ける鍵となったように、教授のまぶたがわずかに伏せられる。
「アメリカのグリーン教授に講演を頼まれてね。渡米した先の研究所で、彼女はすでに彼の研究室に所属していた。初めて会ったとき、確か、薄いコートを着て、分光計の前に立っていた」
教授は背もたれにゆっくりと身を預け、遠い過去をなぞるように語り始めた。
「グリーン教授は、彼女は傑出している、と評していたよ。最初は私もただの紹介だろうと思っていた。けれど彼女のほうから近づいてきた。あの瞳には、そう彼女の瞳には命の本質に触れたいという飽くなき好奇心が宿っていた」
一週間の滞在。その短い時間に、二人は幾晩も研究と思想を語り合ったという。生命とは何か、生物を規定する根源とはどこにあるのか、話の深度が増すたびに、彼女の表情は研ぎ澄まされていった、と教授は語った。
「なかでも、彼女が異様に関心を示した話題があった」
「なんの話題ですか?」
静かに息をのみながら、蒼真が口を開く。
「柏崎博士の論文のことだ」
「柏崎……」
その名が口にされた瞬間、蒼真の脳裏に過去に目にした一つの論文が浮かび上がる。炭素以外の元素で生命を構築するという前代未聞の理論。確かに神山教授がその名を口にしていた。そしてその博士が自分の父かもしれないという、あの忘れ難い疑念も。
「彼女はその論文をすでに読んでいたようだった。しかも、自身の研究はまさにそれと同じ方向性だった。炭素に代わる元素で生命を構築する。あの若さで、柏崎博士の理論を追っていたんだよ」
「え、さとみさんが、そんな研究を?」
蒼真は思わず声を落とした。
あの微笑みをたたえた物静かな女性がそんなきわどい生命の境界に挑んでいたとは信じがたいというより、想像の及ばぬ場所に彼女の過去があったことに戸惑いが募っていく。
「実際には、思うようにいかなかったようだよ。一度だけ、生物の一部を炭素以外の物質に置き換えた、という実験があったそうだ。マウスに移植された皮膚が約二時間、正常に機能したという報告だった」
「つまり、成功、ですよね?」
けれど神山教授はゆっくりと首を振った。その動きにはどこか寂しさすら宿っていた。
「論文の信ぴょう性が問われ、正式な発表は取り下げられた。彼女も、失敗だったと語ったようだ。結果、彼女は研究所に居場所をなくし、最終的に日本に戻ってくることになった。その結果、私が彼女との再会と言う形で迎えることになった」
「そして、先生の助手に……」
蒼真が静かに頷く。
「彼女はね、私よりもずっと聡明だった。だが研究の道をあっさりと離れた。その理由を私は深くは尋ねなかった。その気になれなかったからだ。しかしアメリカでの経験が、彼女の心に深い影を落としたことは、間違いないだろう」
部屋の空気がわずかに沈んだ。遠くから風に揺れる木々のざわめきだけが聞こえてくる。
「私は彼女を愛してしまったんだ。妻に先立たれ、空虚だった私の心を、彼女は静かに満たしてくれた。ならば、私も彼女の傷に寄り添いたい。そう思ったんだ」
言葉の最後は、決意というより祈りに近かった。
「先生はとても優しい方ですね」
今度は美波がそっと目を伏せてそう言った。
「蒼真君、さとみの失踪は彼女が研究者だったことが原因ではないか、と君は言っていたね」
「はい。さとみさん以外にも、著名な研究者が三名、同時に行方不明になっています。偶然とは思えません。誘拐の可能性が高いと考えています」
神山教授は言葉なく、深く、長く息を吐いた。その吐息は重く、記憶と予感のあいだに沈み込んでいった。神山教授室に静寂が降りていた。窓の外では曇天が垂れこめ、木々の葉を揺らす風の音だけがかすかに耳を打つ。ひときわ長いため息をつき、神山はふと肩を落とした。彼の瞳にはわずかに光が揺れていた。
「いったい、だれが、なんのために……」
その声は、思索というよりも祈りに近かった。力を失った響きが部屋に澱のように残る。
対面に座る蒼真は息を詰めてしばし黙った。背筋を伸ばしたまま、心の中で答えの見えない問いを繰り返していたが、やがて意を決したように声を発した。
「さとみさんが連れ去られた理由は、やはり彼女のアメリカでの研究と関係があるのかもしれません。そのときの論文、残ってはいませんか?」
希望とも、わずかな期待とも取れるその問いに、教授は一瞬だけ目を伏せてから首を振った。
「ない。すべて破棄されたよ。過去は消された」
「そうですか」
その言葉とともに蒼真の肩から力が抜けた。探し続けていた地図の最後の目印が、霧の中に消えてしまったようだった。
「ちなみに炭素の代替に用いられた元素、覚えていらっしゃいますか?」
教授の目が細くなる。
「プルトニウムだ」
言われた瞬間、蒼真の表情がこわばった。
「プルトニウム? あの、核兵器の原料になる……」
「そう。だからこそ、研究は危険視され、封じられた。あるいは封じるしかなかったのだ」
重く静かな言葉だった。それは科学者としての良心と、科学者としての現実とのせめぎ合いを知る者の声だった。生物の構成要素にプルトニウムを用いる。その想像すら、蒼真には理の外にあった。だがもしそれが事実であれば。もしそれが本当に彼女の成し遂げた技術だったのなら。さとみという存在はあまりにも遠く、そして危うい場所に触れていたことになる。
「さとみさんのご実家は、どちらだったんですか?」
それまで黙していた美波がふいに口を開いた。その声は表面張力すれすれに張り詰めた水面のように繊細で、鋭く静かだった。
「実は…… よく知らないんだ」
「えっ?」
蒼真と美波が同時に顔を上げ互いに目を見合わせた。教授は少し俯き、低く唸るような声で答えた。
「彼女は家族のことを一切語らなかった。結婚も籍を入れただけで、親戚にも会わせてくれない。本人の話では、両親は彼女が幼い頃に亡くなり、育ててくれた叔父もすでにこの世にいないと……」
そう言いながら、言葉の影が少しだけ苦さをにじませていた。深い孤独の中にあった一人の女性。それを知った今、蒼真の胸の奥で、言いようのない痛みが広がっていく。彼女は自分にとって、最も近くにいたはずの人間だった。なのに、なぜ、その孤独に気づいてあげれなかったのか。
「旧姓は……?」
問いは、掠れるような声で洩れた。
「北條。北條さとみ」
その響きに蒼真は言葉を失った。今初めて知った、彼女の本当の名前、けれどそのひとことが彼の胸に鈍い楔を打ち込む。
蒼真は何ひとつ知らなかった。名前も、過去も、想いの深層も。
そばにいたはずの人が、実は謎で満ちていたのだという現実。そのことに気づいた瞬間、蒼真は悟った。さとみという存在に触れるにはまだ幾重にも折りたたまれた真実の幕をはがさなければならないということを。そしてその幕の重さが、彼女の行方を探す手がかりをより深く、より遠くへと隠してしまっているということも。
捜すべきものは姿ではない。記憶の中の輪郭さえ曖昧な、彼女そのものなのだ。
蒼真の胸に今ようやくその認識が降りてきた。まるで霧に沈んだ地図の上に、ひとつだけ灯る遠い光のように。
× × ×
MEC科学班の実験室、その部屋の空気は冷えていた。まるで部屋そのものが黙して何かを語るのを待っているかのように、壁に掛けられた時計の針が規則正しく音を刻む。その音だけが響く静寂の中、試験管とビーカーが棚に整然と並び、午後の日差しがガラスに反射して淡い光の帯を描いていた。
蒼真はテーブルの上に置かれた資料をじっと見つめ、そこに記された一文をつぶやくように読み上げた。
「北條さとみ、青森県出身。地元の進学校を経て、国立大学進学のために上京。在学中にアメリカへ留学し、そのまま生物学研究所で研究を継続…… アメリカで生物物理学の博士号を取得、か」
その言葉の最後に、小さく息を吐く。手にした紙面は事実の羅列に過ぎないのに、そこには数十年の時間の重みが潜んでいた。向かいの椅子では鈴鹿アキが逆向きに腰掛け、背もたれに腕を預けて彼を静かに見つめていた。
「才女だとは聞いてたけど…… すごい経歴なんだな」
「おじけづいた?」
からかうような口調に、蒼真は顔を上げる。アキの唇の端がかすかに持ち上がっていた。わざと柔らかく、とげのない微笑。それでも彼の胸に、少しだけ波紋を立てるには十分だった。
「え?」
アキはいたずらっぽく目を細めた。彼女の旧友が、大学時代の北條さとみの同級生だった。その偶然の縁がこうして過去をたぐる糸口となった。
「友達の話だとね、大学時代のさとみさんはけっこう高慢なタイプだったみたい。周囲を見下してた、って。それだけ彼女が抜けてたってことね」
「今の優しいさとみさんからは想像できないな」
蒼真は上の空で天井を眺めた。
「外見も美しいから、男は群がったでしょうね。でも、ほとんど相手にされなかったそうよ」
「優秀な人しか、相手にしたくなかったんじゃないかな。奥さんのことだから」
「ふーん。じゃあ、蒼真くんはその基準を満たしたってわけ?」
唐突な問いに、蒼真の顔がぱっと赤く染まる。言葉に詰まり、アキの笑い声が柔らかく研究室にこだました。
「ぼ、僕なんて、そんな、相手になりませんよ」
「ふふ、まあそうね」
そう言いながら、アキはまた微笑み、蒼真は少し頬を膨らませる。二人のあいだに流れる空気はどこか懐かしいいたずらと優しさの入り交じった温度を帯びていた。
「ドクター森田が同時期にその研究所に入ったらしいのよ。だから、二人が付き合ってたのはその頃じゃないかな」
「でも、どうして別れたんだろう」
「そこまでは友達にも分からなかったわ。さとみさんって、周りにほとんど自分のこと話さなかったらしいから」
アキは小さく首を振る。
「家族は?」
「神山教授の話の通り、両親は幼い頃に亡くなったそう。でも家は裕福だったみたいで、子どものいなかった叔父夫婦が遺産ごと彼女を引き取ったらしい。けれど、その養父母もアメリカ留学中に事故で亡くなったらしいわ」
「つまり、やっぱり天涯孤独ってことか」
「そう。そこは、あなたと同じね」
またしても蒼真の頬が赤くなる。その赤みは、照れとも痛みともつかぬ温かさを宿していた。似た境遇、そう思うだけで、どこか彼女に近づけた気がした。
「ただ、ひとつだけ不思議な話があるのよ」
「え?」
アキの表情がわずかに陰を帯びた。さきほどまでの柔らかな空気が、すっと引き締まる。話の続きを蒼真はかすかに息を呑んで待っていた。アキは手帳を開き、その中に綴られた記述を静かに追っていた。ページをめくる音がまるで隠された記憶の帳を開くように響く。
「知人の話だけど、アメリカの研究所でさとみさんと一緒に働いていた関係者が、こう言ってたらしいの」
言葉の切れ目でアキの視線が上がる。その目は何かに触れてはいけないものを語るような慎重さを宿していた。
「彼女は、炭素に代わる生命物質を創ろうとしていたって、そんな噂があったらしいわ」
「それ、神山教授からも聞いています。確か、プルトニウムを用いた実験で、マウスの皮膚が二日間、生きていたとか」
蒼真がそう答えると、アキの口元にわずかにためらいが浮かんだ。
「でもね。その実験、実は“マウスの皮膚”じゃなかったっていう噂もあるの」
その声はささやきに近かった。研究室の天井に沈んでいた空気が、ふと震える。
「生物そのものをつくり出した、って」
「生物を創った!?」
椅子が軋み、蒼真の背中が反射的にのけぞる。その衝撃は理性を置き去りにするほど生々しかった。
「もちろん、あくまで噂よ。公式な記録も発表もない。失敗した、って話も実は嘘だったとか、危険すぎて情報が封じられた、という説があるの」
アキの言葉が実験室の静けさに沈みながら広がっていく。
「奥さんが、生命を創った……」
呆然とした声でつぶやく蒼真の頭には、明晰な理論の回路ではなく、原初の疑念と戸惑いが渦巻いていた。この分野で、生命を創る、という行為は倫理と理性の境界線を越える明確な禁忌。その一線を、彼女は越えていたのか。
「でも、それもすべて噂でしょう?」
「えゝ、そう。確証はないわ」
アキは再び手帳を開いて目を落としながら、ぽつりとつぶやいた。
「でもね、それ以来、彼女が変わった、そう言う人が多いの」
「変わった?」
「かつての高慢さが消えて、穏やかで、優しくなった。まるで別人みたいだったって」
「別人?」
その言葉の響きが、かすかに胸をざわつかせた。思い返せば、今のさとみに、傲慢の面影などかけらもない。何が彼女を変えたのか、その実験か、失敗か、あるいは創造か。
「その実験で、なにが起きたのか、結局、誰にも分からなかったらしいわ」
「そうですか」
アキの声が遠ざかる中、ふたりのあいだに置かれた静寂が、ただ、分からない、という事実の重さを物語っていた。
「でも今回の失踪事件と無関係とは思えないの」
「えゝ、僕もそう思います」
そう言いながら蒼真の胸の奥には、正体を持たない不安がじわりと広がっていった。だれが? 何のために? 犯人は地上の存在か、空の彼方からやってきた異なる知性か。
「阿久津さん、安田参謀がお会いしたいと」
室外から科学班の研究員が蒼真に語り掛ける。その言葉が実験室の空気にひびが入った。二人は思わずそちらを振り返る。廊下の向こう、静かに現れた人影、それが安田参謀だった。白の制服が蛍光灯に浮かび上がる。蒼真はすぐに立ち上がり、無意識のうちに背筋を伸ばす。
「あら、参謀が直々に実験室に? 珍しいわね」
アキが椅子に腰掛けたまま、首を傾げながら言う。その視線には読み取れぬ警戒が宿っていた。
安田が無作法にも蒼真の前に立ち挨拶もなく指示が飛んだ。
「阿久津君、急ですまないが、ネイビエクスニュームを渡してほしい」
「ネイビエクスニュームですか?」
一拍おいて返した蒼真の声には、戸惑いがにじんでいた。その横で安田は怯むことなく言葉を継ぐ。
「保管庫の番号は、君しか知らないと聞いている」
「はい、まあその通りですが」
安田が鋭い視線で蒼真を睨みつける。
「なら、早急に開錠してもらいたい」
「あの、それをどうされるおつもりで?」
「それは君の関与する話ではない。参謀本部の命令だ」
言葉の刃が一歩、こちらへ踏み込んできた。安田は足を一歩前に出し、空間を圧縮するように存在感を強める。
「僕はあの物質の管理責任者です。用途を確認する義務があります」
「命令に背くのか?」
「僕は防衛隊の職員ですが、同時に大学から派遣されている研究員です。すべてに無条件で従う立場ではありません」
安田の目が鋭くなり、その場の気圧がにわかに高まった。言葉の余白に、ひび割れるような緊張が生まれる。
「なにを言っているのかね。君は防衛隊の規律を……」
そのとき、鋭く空気を裂く警報が鳴り響いた。
「緊急指令、緊急指令。山陰地方に怪獣出現。MECは至急作戦室へ集合せよ」
空間の空気が一気に切り替わる。アキが素早く立ち上がり、蒼真の腕を取った。
「阿久津隊員、行くわよ」
「待て。ネイビエクスニュームの引き渡しが先だ」
「怪獣への初動が遅れれば被害が拡大します。現場判断の優先権は私たちにあるはずです」
「命令だ、金庫を開けろ!」
安田が前に立ちふさがる、が、その瞬間、背後から風を裂くように一人の隊員が飛び込んできた。
「なにをしてるんだ、二人とも! 早く作戦室へ!」
三上の姿だった。突然の乱入に安田が一歩あとずさる。その瞬間、アキと蒼真はその脇をすり抜けて、廊下へと駆け出す。
「三上、貴様!」
怒声を浴びながら、三上はわずかに振り返ると冷静に言い放つ。
「軍機違反でもなんでも構いません。その前に、怪獣攻撃作戦の妨害で、あなたを正式に告発しますよ」
言い捨てるようにして背を向けた彼の姿が、作戦室の灯りへと飲み込まれていった。そしてその場にはかすかに押し込められた焦燥と、黒く沈む安田の影だけが取り残されていた。
× × ×
深い山あいに獣の咆哮がこだました。岩肌を震わせ、木々の葉をざわめかせる。その声はまるでこの土地そのものが呻き声を挙げているかのようだった。怪獣エリタトルが空に向かい大きな鳴き声を挙げる。その谷間にこだまする轟音に応じるように、山頂の雲間を切り裂いて飛翔するスカイタイガーの影が見えた。
「くそっ、奴、まだ生きてたのか」
田所の声が無線越しに流れる。
「くそ、喰らえ!」
上空から放たれたスカイタイガーのミサイルは、まるで空の牙のように怪獣エリタトルの頭上を襲う。ミサイルは命中した。が、その巨体は微動だにせず、足音も重く前進を続けた。
「また三人で胸を狙いましょう」
アキの冷静な声が無線に走る。呼吸を合わせるように田所と三浦の声が重なる。
「了解」
田所機が急降下し、狙いを怪獣の胸部に定めた。ミサイルが唸りを上げて飛ぶが、胸元の赤い石の前に展開されたバリアがまるで目に見えない障壁となって衝撃を吸収する。
すぐさま鈴鹿機、そしてわずか数秒遅れて三浦機が続く。連なる火線、だが鈴鹿の弾も虚しくはじかれ、三浦の射線が赤い石に触れかけたその瞬間、さらなる内層の防壁が現れた。
「やったか?」
三浦の息の混じった声が一瞬、希望の光を含む、が、それもすぐにかき消された。
バリアは何層にも張り巡らされ時間差攻撃ではその防御を突破できない。
「くそっ、進化してやがる!」
その叫びと同時、エリタトルが両腕を振り上げ、天に向かって凶暴な咆哮を挙げた。そして次の瞬間、口腔の奥が灼熱の白光に染まり、濁流のような光線が空を斬る。その光が三浦機に直撃。機体が火花をまき散らし、操縦席から緊急脱出の叫びが走る。
「脱出します!」
だが間を置かず、第二波が放たれる。狙いは鈴鹿機、尾翼に直撃し機体が激しくバランスを崩した。
「キャッ!」
機体は空を裂き、まるで引力に引かれるように地表へと落下していく。その瞬間、空気が青く輝いた。
「ネイビー!」
青白い残光を引いて、天空を裂くように降下するネイビー、地面すれすれでバランスを失い墜落しかけていた鈴鹿機を彼はその巨大な両腕でふわりと抱きとめるように受け止めた。その動作には鋼の剛さと、風が湖面に触れるほどの静謐さとが同居していた。機体をそっと大地に横たえたネイビーは振り返る間もなく天を蹴るように跳躍し、一直線にエリタトルへ突進する。
地を割る足音に反応し、エリタトルが咆哮を上げて待ち構える。怪獣が右腕を振り上げ、ネイビーの腕を掴んだ瞬間、二つの巨体がぶつかり合い、地面が裂け岩が爆ぜた。そのままネイビーの巨体は空を切って投げ飛ばされ、大地に叩きつけられる。瞬く間に土煙が上がり、地面に深い窪みを刻んだ。
だが、すかさず立ち上がったネイビーがエリタトルに肉薄する。拳が交錯する。爪が弾ける。ネイビーの鋭い膝蹴りが腹部に食い込み、怪獣の巨体がよろける。しかし返す刃のように、エリタトルの尾がネイビーの脇腹を薙ぎ払い、生体どうしがぶつかる凄まじい音が山肌にこだました。
二体は互いの肩を掴み、体重ごと押し合う。腕と腕が食い込み、関節が軋む。エリタトルが頭突きを浴びせ、ネイビーが脳震盪を起こしたようにふらつく。それでも彼は怯まず、踏み込みざまにボディブローを連打。続けて膝でエリタトルの胸部を突き上げ、空中に浮かせる。
「ガアアアア!」
エリタトルの咆哮。宙で体勢を整えた怪獣が、反動でネイビーの背にのしかかるように降下。両者は地面を転げ回りながら斜面を滑り落ち、転がった先でネイビーが両足を滑り込ませてエリタトルの腰を挟み込む。そのまま腰を捻り、再び体勢を入れ替える主客転倒。
ネイビーが上に出る。鋼の拳が乱れ打ちのように振り下ろされる。エリタトルの顎、側頭部、額、音を伴って打ち込まれるそのたび、巨獣の抵抗は明らかに鈍っていった。山が震える。空気が唸る。そして、赤い石がわずかに脈動した。
ネイビーの視線がそこに定まる。胸部に埋め込まれた石が弱々しく点滅していた。その中央に手をかけ、全身の力を込めて引き剥がす。肉と金属の狭間を裂くような軋む音、ついに、赤い石が胸から引き抜かれた。
ネイビーが青い空にその赤い石を放り投げる。そして左手を構える。掌から放たれるのは、青い閃光。鋭く、美しく、断罪のように正確に閃光は赤い石を直撃、まばゆい閃光を四散させながら石が砕け散り、やがて粒子となり、空気中に滲み、そして塵となって消える。
わずかな風が吹き抜けた。エリタトルの身体は、静かに、ゆっくりと沈み込むように倒れ、やがて重力に身を委ねて崩れ落ちた。ネイビーの足元で、怪獣は静かに消滅していった。
× × ×
防衛隊本部の廊下は、夕暮れどきの静けさに包まれていた。窓から差し込む橙色の光が、金属の床に長い影を落とし、無機質な壁面にわずかな温もりを与えている。冷えた空気の中で、人の気配はまばらで、機械音も遠くからかすかに聞こえるだけだった。その空間の中、蒼真は早足に歩いていた。何かに急かされるように、何かを確かめるように。やがて廊下の先に、ひとつの背中が見えた。制服の背に刻まれた紋章が、黄昏の光に淡く浮かぶ。三上隊員だった。
「さっきはありがとうございました」
息を整える暇もなく、蒼真はその背に声を投げかけた。音が走って、空気を震わせる。三上は歩みを止めた。けれど、振り返らなかった。足先だけが静かに止まり、背筋は凛としたままだ。
「三上さん、なにか、なにか知ってるんでしょう? 今回の件、安田参謀の動きとか」
蒼真の声にわずかに沈んだ響きが混じる。だがその問いには応えず、三上は冷ややかな一言だけを残した。
「知っていても、教えられない」
その言葉は切り捨てるというより、封じるためのものだった。まるで、答えの奥に踏み込むこと自体が禁じられているかのように。微動だにしない背中が、それを物語っていた。
「僕たち、仲間じゃないですか」
蒼真の声が重ねられる。声の奥に、信頼と哀しみがにじんでいた。一歩、彼は踏み出した。その一歩は、問いかけではなく、つながりを確かめたいという叫びだった。
しかし、三上は静かに言った。
「俺は防衛隊の一員だ」
その言葉は鋼のように冷たく、境界を引いた。仲間という言葉と、組織の誓い。その狭間で、心を押し込めるような決意の響きがあった。
「でも……」
継ごうとした言葉はかき消された。三上が無言のまま歩き出したからだった。軍靴が床を打つ音が、廊下に反響する。距離が少しずつ開いていく。だが、数歩進んだそのとき、彼の足が再び止まった。沈黙が戻った廊下の中で、声が落ちてきた。背を向けたまま、三上が低く言った。
「ひとつだけ教えてやる。神山教授の奥さん、彼女は、この基地にいる。無事だよ。一応はな」
言葉の最後は風に紛れるように曖昧だった。振り返らずに放たれたその声は、どこか痛みを帯びていた。まるで、真実のすべてを語ることのできない者が、せめて救いの一滴だけを差し出すかのように。
右手を小さく上げて、三上は再び歩き出した。橙の光の中、長い影が静かに伸びていく。その背中は孤独そのものであった。
《予告》
美波は元カレであるさとると、街中で出会い再び付き合わないかと誘われる。そのことを健太から聞かされた蒼真の心はざわめく。そのさとるは、あるたくらみに加担しようとしていた。次回ネイビージャイアント「本当の気持ち」お楽しみに。




