第二十二話 夏の終わり
♪小さな生命の声を聞く
せまる不思議の黒い影
涙の海が怒るとき
枯れた大地が怒るとき
終わる果てなき戦いに
誰かの平和を守るため
青い光を輝かせ
ネイビー、ネイビー、ネイビー
戦えネイビージャイアント
「夏休みも終わるよな」
アキラは額ににじむ汗を拭い、隣にいる慎二に半分ほどコーラが残ったペットボトルを差し出した。
「おい、飲み過ぎだろう。俺にも残しておけよ」
蝉の声がミーン、ミーンからツクツクボウシへと移り変わり、季節は秋の気配を帯び始めている。しかし、太陽の熱は依然として変わらず、夏の名残を感じさせる。八月の終わりの昼下がり、住宅街は静まり返り、人影は見当たらない。連日の猛暑が人々を家の中に閉じ込めているのだろう。慎二は天を仰ぎ見た。絵に描いたような夏の青空に浮かぶ入道雲。しかし、高校生の二人の心は、その空のように晴れやかではない。夏休みの終わりが近づいているからだ。
「来週からまた授業が始まるのかぁ」
アキラがため息を吐いた。
「まぁしょうがないじゃん。俺たち学生なんだから」
「えー、なんでそんな優等生なこと言うんだよ。去年はお前も同なじようなこと言ってたじゃん」
「そうだっけ?」
慎二は残り少ないコーラを飲み干した。アキラが再び額の汗をぬぐいながら、
「慎二は宿題、終わったのかよ」
「もちろん、どこかのだれかさんとは違うからな」
「ちょうどいいや、今からお前んち行くから、宿題写させろよ」
「えー、自分でやれよ」
「そんなけち臭いこと言いなさんな、親友だろ」
「相変わらず都合の良いとこだけ親友になるな、お前」
真上に輝く太陽は、二人の足元に小さな影を落とすだけだった。アスファルトの照り返しが、その影をさらに薄くしているように見える。アキラは暑さに参っているのか、前かがみになって歩いている。その隣で慎二は、背筋を伸ばして真っすぐに歩いている。二人の心の様がその歩き方に表れているかのようだった。
「慎二、お前、夏休み終わるのに全然憂鬱そうじゃないな」
「そうか?」
「あゝ、なんか学校が始まるのが待ち遠しい、みたいな」
「そんなことはないよ」
慎二はそう言いながらも、口元に微笑みが浮かんだ。言葉とは裏腹に、アキラの言う通り、学校が始まるのを心待ちにしていたのだ。
二人はそんな会話を交わしながら住宅街を抜け、商店街の入り口に差し掛かった。そのとき、アキラがふと前方を指差した。
「あれ、あれは池田先生じゃないか?」
アキラの言葉に、慎二の肩がかすかに動いた。
「どこ?」
「ほら、あそこ」
アキラの指差す方向に慎二が目を向けると、そこには白いワンピースをまとった美しい女性が立っていた。慎二の心臓が高鳴る。女性はくるりと振り返り、手に持ったワンピースと同じ色の日傘でその姿を隠してしまった。
「なんだ? 誰かとしゃべってる?」
アキラの言葉に慎二の心臓はさらに速く鼓動し始める。彼は目を凝らした。確かに女性の日傘の奥に誰かいる。
「誰としゃべってんだろう」
ふと人影が動き、日傘の陰に隠れていた全貌が明らかになった。それは若々しい男性、白いシャツから伸びるたくましい腕が彼の男らしさを際立たせていた。その男性が慎二たちの方へ歩いてくる。池田先生はその場で振り返りその男性を目で追った。
「おいこっちに来るぞ」
慎二は無意識に身構えた。なぜそうしたのか自分でも分からないが、とにかく身構えたのだ。しかし、男はそんな慎二の様子には気づかず、二人の横を通り過ぎていく。ふと男が振り返る、それを見た池田先生が手を振った。
慎二の心がざわつく。池田先生は慎二たちに気づいておらず、男しか見えていないようだった。
男が池田先生に手を振り返し、再び歩き出した。池田先生はその後ろ姿を目で追い続け、男が見えなくなるまで視線を外さなかった。ようやく二人の教え子の存在に気づいた池田先生は、少し驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔で二人に近づいてきた。
慎二の心臓は再び早鐘を打ち始めた。
「あら、ふたりともいつからここにいたの」
「え、結構前からですよ」
アキラが頬を膨らませた。
「先生、あの男の人しか見てないから」
「あら、見てたの?」
「それも気づいてなかったんですか?」
アキラはあきれた表情で慎二を見つめた。しかし、慎二は何も言わない。いや、言葉が出なかった。
「先生、さっきの人、誰です?」
池田先生の口元に、かすかな微笑が浮かんだ。
「ナイショ」
池田先生が悪戯っぽい笑みを浮かべながら二人に話しかけると、慎二の心臓は最高潮に早鐘を打ち始めた。
「彼氏、彼氏なんでしょ」
アキラが食い下がる。
「だからナイショって言ってるでしょ」
「あ、図星だ。なぁ、慎二、お前もそう思うだろ」
「え、あゝ」
慎二は心ここにあらずといった返事したが、アキラはそんな彼の様子を気にせずはしゃいでいる。池田先生はそんなアキラをたしなめるように、小声で話を続けた。
「まぁ、見られたんで二人だけには教えてあげる。彼はね、私の婚約者」
その言葉を聞いた瞬間、慎二の心臓は早鐘を打つのをやめたかのように感じた。それほど彼は動揺していた。
「えー、婚約者!」
アキラが素っ頓狂な声をあげる。
「お願い、だからナイショね」
池田先生の笑顔を慎二は直視できない。手足がしびれ、呼吸が苦しい。
「来年の春に結婚するの」
池田先生の声がこころなしか弾んでいる。そのことが慎二の胸をさらに締め付ける。
「へー、おめでとうございます。ほら、慎二もなんか言えよ」
「お、おめでとうございます」
慎二はアキラに気取らないように話したつもりである、が、明らかに声が小さく詰まっている。
「ありがと」
池田先生が慎二にも微笑みかけた。慎二は目眩で倒れるかと思った。
「でも、くれぐれも内緒よ」
「もちろん」
アキラが元気よく答える。
「でも、来春だったら、僕らが三年生になったときには先生の苗字が変わる……」
その後もアキラと池田先生の話は続いていた。だが慎二の耳にはもう、蝉の鳴き声しか耳に入ってこなかった。
× × ×
小さな屋台が二つ三つ、並んでいた。夏の夜風に揺れる提灯が、柔らかな光を放っている。その前では、幾人かの研究生たちがビールを片手に楽しげにおしゃべりをしていた。香ばしいヤキソバの匂いが、食欲をそそる。神山研究所の広い庭は、まるで縁日のような賑わいを見せていた。
夏休みの終わりに毎年開かれる学期始まりの前夜祭。故郷から戻ってきた研究生たちは、実家の話や旅行の思い出を楽しげに語り合っていた。蒼真はその輪の外から、彼らの様子を静かに見つめていた。しかし、彼の視線は研究生たちではなく、輪の中心にいる浴衣姿のさとみに釘付けになっていた。
「蒼真君も、みんなの輪の中に入ったら?」
声のする方に顔を向けた。そこには清楚な白を基調とした浴衣姿の美波の姿があった。
「蒼真君、さっきからここで何見てるの?」
「えっ」
蒼真のドギマギする動きを見て美波が頬を膨らませる。
「さとみさん、眺めてたんでしょう」
「いや、その、そんなことないよ」
蒼真が庭の中央、さとみたちがいる方から目を反らす。
「まぁ、確かに、今日のさとみさんはきれいだし、浴衣姿、色っぽいし、見るなとは言わないけど」
美波は袖をつかみ、胸を張った。淡いピンクの牡丹柄が美しく映える浴衣が、彼女の姿を一層引き立てていた。
「ちょっとは私も見てよ」
美波はくるりと回って見せた。色鮮やかな帯と浴衣の後ろの柄が鮮明に映る。何よりも、珍しく髪をアップにしたことで、彼女のうなじが目に飛び込んできた。
「どう、きれい?」
「え、あゝ、き、きれいだよ、その浴衣」
蒼真がしどろもどろに話す。
「なによ、浴衣じゃなくって、私よ」
「え、あっ、ごめん」
美波の口が尖る。
「なによ、ちょっとは褒めなさいよ。こっちは今日のために気合入れてるのに」
「あゝ、でも確かに今日の美波は可愛いよ」
美波の顔に笑みが戻る。その表情にホッとしたのか蒼真が再び庭の中央、さとみのいる辺りに視線を向ける。
「もう!」
再び美波の口元が尖る。
「いい、さとみさんは神山先生の奥さんなの。あなたには手が届かないの」
「え、そんなの分かり切ったことじゃない」
「じゃぁ、なんでそんなに見つめてるの?」
「えっ」
蒼真もその言葉に首を傾げた。
「なんだろう、美しいものを見たいから? 違うな、なんだろう」
「好きだからでしょ」
「好き? 好きと言うかあこがれる、そんな感じかなぁ」
「それを好きって言うの」
「え、それって好きなの?」
蒼真の驚いた顔を見て美波はあきれた。
「もう、いいよ」
美波が蒼真から離れて庭の中央へ歩いて行く。
「何を怒ってるんだろう」
蒼真をおいていった美波に八尾が絡んでいく。
「八尾なら美波が何で怒ってるか分かるんだろうか?」
蒼真は再び庭の中央のさとみに目をやる。
「きれいだよな、さとみさん。これを好きって言うのか」
それにしても、どうして自分の視線はさとみに引き寄せられるのだろう。さとみはただのあこがれであり、手の届かない存在であるにもかかわらず。蒼真の心は、何かざわざわとした感情に掻き乱されていた。
× × ×
「はぁー」
慎二が大きく息を吐く。
「では次のページをめくって」
黒板には数字や記号が書かれている。その前で池田先生は教科書を手に、淡々と説明を続けていた。慎二は教科書を開くことなくため息をつきながら先生を見つめていた。授業の内容が頭に入るはずもなく、胸の中にはモヤモヤとした感覚が広がっていく。気にしないようにと自分に言い聞かせても、身体全体に広がるゾワゾワとした感覚は消えない。突然、素っ裸になって教室を飛び出したい衝動に駆られるのを必死に抑えていた。
時間だけが淡々と流れていく。その単調な流れを断ち切るように、六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「はい。今日はここまでね。来週からは順列と組み合わせの章に入ります。予習しておいてください」
池田先生が正面を向いた。
「起立、礼」
着席の声を待つことなく、生徒たちは一斉に教科書を鞄にしまい始めた。池田先生はその様子を咎めることもなく、ゆっくりと教室をあとにした。慎二はただ、その背中を見送ることしかできなかった。
「おい、慎二、帰ろうぜ」
隣の席からアキラが声を掛けた。しかし、慎二は返事をしない。彼の心はまだ、教室を出ていった池田先生の後ろ姿を追い続けていた。
「おい、聞こえてるのかよ」
「え、」
慎二がやっとアキラに気づく。
「あ、ごめん。聞こえてなかった」
「大丈夫か、お前」
「あゝ」
慎二は天を仰いだ。教室の天井は何の変哲もない、先ほどまで点いていた蛍光灯が白から灰色に変わっていた。
「すまん、今日はひとりにしてくれないか」
「なにがひとりだよ、なにかっこつけてんだ?」
「かっこなんてつけてないよ」
慎二がはぁと息を吐いた。
「お前、池田先生の婚約がショックで落ち込んでるのか?」
「そんなんじゃないよ」
慎二は強く否定したが、その言葉はどこかうそっぽく響いていた。
「まぁ、夏バテってことにしておいてやるよ」
アキラが鞄を肩に掛けた。
「じゃ、俺、先帰るわ」
アキラは慎二を少し気にしながら教室を出ていった。ふと周りを見渡すと、教室にはもう自分ひとりしか残っていない。みんな帰ってしまったようだ。
慎二は席を立ち、窓際へと歩み寄った。窓枠に肘をつき、校庭を眺める。帰宅する生徒たちと、部活動に励む生徒たちが入り混じっている。対角線上に見える校舎の窓、あそこは職員室だ。池田先生はもう戻ったのだろうか。そう考えると、慎二の胸は締め付けられるように苦しくなった。
「はぁー」
慎二は空を見上げた。夏の空はいつも通り青く輝いている。その青さと眩しさは、慎二の心とは対照的だった。
あのとき、あの商店街にいなければ、池田先生の婚約を知らずに新学期を迎えられたのに。もしそうなら、今こんなにも心がざわつくことはなかっただろう。あの日の自分を恨みたくなる。ああ、それにしても、どうして自分の胸はこんなにも苦しいのか。池田先生はただのあこがれであり、手の届かない存在なのに。単純に先生の幸せを願うべきではないのか。そう、そうなのだ。先生の婚約は自分にはどうすることもできない。ならば、先生の幸せを……
「はぁー」
そんな気分にはなれなかった。心のざわめきは収まる気配を見せなかった。
「はぁー」
慎二は再び天を仰いだ。青い空、白い雲、その白い雲に何か黒い点が見える。
「?」
その点は徐々に大きくなり、やがて巨大な影となって急降下してきた。
「セミ?」
巨大な影が校舎を包み込む。
「わっー」
慎二が叫んだ。大きな衝撃が教室を襲う。
セミ型の巨大生物が校舎全体に覆いかぶさった。校庭にいた生徒たちは一斉に校舎から離れ、校舎の中にいた生徒たちも何事かと校庭に飛び出してきて、その巨大なセミの存在に腰を抜かす者もあらわれた。
「落ち着け!」
校庭にいた男性教員が叫んだ。しかし、その声をかき消すように生徒たちは我先にと学校から離れていく。校舎にいた先生方も一斉に校庭へ駆け出し、生徒たちを避難させようと誘導し始めた、がその足取りはおぼつかない。
慎二はひとり教室で床にうずくまっていた。セミ型の巨大生物が校舎に降り立ったとき、その衝撃で窓ガラスが割れ、その破片で腕を切ってしまったのだ。
「痛ててて」
慎二の白い制服は真っ赤に染まっていた。それでも早く逃げなければならない。慎二は腕を押さえながら教室を出ようと立ち上がろうとした。
「痛い!」
右足に激痛が走る。見ると、太ももに窓ガラスの破片が刺さっている。
「う、動けない」
何とか太ももに刺さったガラス片を抜く。手は血だらけになり、太ももからも血がにじみ出てきた。
「くそ、血が止まらない」
そのとき、教室が軋み始めた。巨大生物の重みで校舎がひしゃげ、天井にもひびが入り出した。まず埃が降り、その後天井が剥がれ、さまざまなものが降ってきた。
「そうか、俺、死ぬんだな」
慎二は崩れていく天井を見上げた。崩れてくる天井が、まるでスローモーションのようにゆっくり落ちてくるように感じられる。
「どうせ死ぬなら、最後に池田先生に会いたかったな」
慎二は観念し、目を閉じた。そのとき、聞き覚えのある、いや、聞きたかった声が聞こえてきた。
「誰か、誰かいる!」
幻覚かと思ったがそれは確かに池田先生の声だ。ハッと我に返る慎二。
「先生! ここにいます」
教室の扉が開いた。
「慎二君!」
それは紛れもなく池田先生だった。
「慎二君、大丈夫?」
池田先生が慎二のところに。
「急いで、校舎が崩れる」
池田先生が慎二の状態を確認する。
「はやく、肩に捕まって」
池田先生は慎二を肩に担ごうとしたが、か弱い女性が男子高校生を担ぐには力が足りなかった。よろけて立ち上がることもままならない。
「先生、俺をおいて逃げてください。俺、歩けないんだ」
「なに言ってるの、ほら、がんばって」
池田先生にしがみつく慎二。こんな緊急事態なのに心地いい。何か力がみなぎってくる。
「がんばって!」
池田先生の声に足が動き出す。二人が教室の扉まで何とか進んだときであった。耳をつんざく大きな音が。
「ミーン、ミーン」
鼓膜が破れるほどの轟音が響き渡った。校舎の上でセミが鳴いているのだ。二人は耳を押さえ、その場に立ちすくんだ。
「ミーン、ミーン」
鳴き声が痛んだ校舎をさらに軋ませる。巨大生物の重みとその鳴き声が重なり、校舎は轟音と共に崩れ落ちた。
× × ×
「学校を襲ったセミ型怪獣、仮に名前をジーガーターとします」
蒼真が作戦室のモニタを示しながら説明を続ける。
「上空にいるスカイカイトからの情報によると、多量のフレロビウムを観測したとのことです。外部からの観察でしかないですが、羽のあたりの表面には地球では観測されたことのない物質が付着していたとのことです。なので恐らく地球外生命がフレロビウムで変質した形態と思われます」
蒼真は淡々と説明を続けた。彼の目の前には吉野隊長をはじめ、田所、三上、芦名のいつものメンバーがモニタを見ながら蒼真の話にうなずいていた。ひとり腕組みをしていた三上が、蒼真に問いかけた。
「で、攻撃はどうやって」
「なにが有効かについては、今調査中です」
芦名がモニタの前まで歩み出ると、ジーガーターの下にあるへしゃげた校舎を指差した。
「その前に、この校舎の中にいる人間を救出しないと、怪獣攻撃はそれからだ」
「人が残っているのか?」
田所が目を見開いた。芦名が再び校舎を指差し、
「学校からの報告だと、生徒がひとり、先生がひとり、連絡が取れていないそうだ」
「その二人が校舎にまだ取り残されていると」
「正確には分からないが、その可能性がある」
「チッ、逃げ遅れたってわけか」
三上が舌打ちした。攻撃できない歯がゆさが三上の口元に現れている。
「もし、人が残っているとすると、うかつに手出しできないな」
「だが、校舎の瓦礫の下敷きになってる可能性もあるぞ」
今度は田所がひしゃげた校舎を指差した。
「校舎がこんなに潰れていたら、助かっていないかもしれない」
蒼真が手元のタブレットを操作すると、壁の大型モニタの映像がジーガーターからその下の校舎に切り替わった。確かに田所の言う通り、校舎はかなり崩れている。助かっていない可能性は否定できなかった。
「まだ死亡が確認されたわけではないんだったら、生きている前提で作戦をたてるべきだ」
芦名の言葉は力強く、田所を圧倒する。
「僕も芦名さんの意見に賛成です」
蒼真が田所、三上、そして吉野隊長に意見をぶつける。
「科学班としては、まず、この怪獣を校舎から引き離すためにどうするかを検討します」
「そんなこと、できるのか?」
三上が冷淡に問う。
「この怪獣は見た目も行動もセミです。ならば、セミと想定すれば策はあるかと」
吉野隊長が大きくうなずいた。
「蒼真君の意見は分かった。是非その方向で進めてくれ。芦名、田所!」
「はい」
二人が直立不動になる。
「二人はこの校舎に近づき、生存者がいるかどうかを早急に確認してくれ」
「了解!」
「三上は蒼真君の作戦が完成次第すぐ出撃できるよう、スカイカイトで待機」
「了解!」
隊員たちは一斉に作戦室を飛び出していく。蒼真も足早に研究室へと向かった。
× × ×
「先生は、どうして先に逃げなかったの」
慎二が不思議そうに問いかけた。
暗闇の中、池田先生が持っていた携帯の明かりだけが、二人の置かれた状況をあからさまにしていた。校舎は崩れ落ち、壁も天井も跡形もなく破壊され、ほんのわずかな空間だけが彼らに与えられていた。わずかな鉄骨が彼らを押しつぶさず支えている。
幸か不幸か、息はできる。恐らく人は通れないが、空気の通る道だけは確保されているようだ。しかし、その空気の通り道も、彼らの上にいる怪獣が動けばあっという間にふさがるかもしれない。
彼らの周りは崩れたコンクリートで囲まれており、とても人の力で押しのけることはできない。池田先生と慎二は、ここで救助を待つしかなかった。
「生徒を残して逃げるわけにいかないでしょ」
池田先生が笑った。こんな近くで先生の笑顔を見るのは初めてだった。
「俺なんか、放っておいて逃げれば、死ぬことはなかったのに」
「なに言ってるの、まだ死ぬって決まったわけじゃないでしょう」
池田先生の表情が曇った。
「でもこの上には怪獣がまだ居座ってんだよ。恐らく救助もままならない」
慎二が大きなため息を吐く。
「大丈夫よ、きっと助けに来る」
池田先生の口が真一文字に結ばれ、大きくうなずく。それは、自分の言葉を信じたいという先生の思いであると慎二は悟った。
慎二の腕と足の怪我は、今のところ痛みが治まっていた。血が止まっているからだろうか、それともこの閉鎖された空間に閉じ込められた恐怖からなのか、それを確かめるすべを彼は持っていなかった。
「痛っ」
池田先生が小さな悲鳴をあげた。見ると、天井から落下したコンクリートが彼女の足を直撃している。そのか細い足からは、わずかながら血が流れていた。
「先生、大丈夫?」
「大丈夫よ、それより慎二君は?」
「俺は大丈夫」
お互いを励まし合うものの、二人とも動ける状態ではない。水も食料もないこの場所で、生き延びられる時間は限られている。慎二は絶望に襲われた。
「もし、もし救出してもらえないことがあったら、先生に申し訳ない」
「?」
「だって、先生、やっと結婚できるのに」
「やっとってなによ」
池田先生が笑った。
「大丈夫、きっと救出に来てくれるわよ」
「先生って楽観主義者なんだね」
慎二も笑った。心が少し暖かくなった。
「痛って」
慎二の足に激痛が走った。恐怖で痛みが一時的に治まっていたのだろう。少し心がほぐれると、足の痛みが再び彼を襲い始めた。
「大丈夫?」
顔をしかめる慎二を、池田先生がそっと抱きしめた。ハッとする慎二。その温もりが再び痛みを吹き飛ばした。
「先生、ありがとう」
しばらく慎二は動かなかった。いや、動けなかった。慎二の鼓動は早まり、暗闇の中で周りの景色が明るくなったように感じた。心地よい。この緊急事態に言うことではないが、このまま時が止まればいいのに。意地を張ろうとして彼女から離れようとしたが、体は裏腹に池田先生にもたれかかっていった。
「動かない方が良いわ。体力を消耗すれば助かるものも助からない。慎二君の怪我は重いんだから動いちゃダメ」
池田先生がぎゅっと力を込めて抱きしめると、慎二の顔は硬直し、息も次第に早くなっていった。
「はーい」
慎二はふざけた返事をした。自分の心が見透かされないように、正直になれない自分がいた。
しばらくして、先生が抱きしめるのをやめ、ゆっくりと崩れた壁にもたれかかった。恐らく足が痛むのだろう、慎二に分からないように顔をしかめていた。
「先生、大丈夫」
慎二の言葉に池田先生が笑って答える。
「大丈夫よ」
慎二は先生のために何とかしないと、と思う。しかし名案は浮かばなかった。
「先生はどうしてあの婚約者の人を結婚相手に選んだの?」
「どうしたの、藪から棒に」
池田先生が慎二の方に向き直った。
「いや、なんか話しないと、暗くなっちゃいそうだから」
慎二は精一杯の笑顔を作った。池田先生もそれに応えるように、慎二に微笑みかける。
「そうね」
池田先生が首を傾げ、少し今までとは違う微笑みを浮かべた。それは婚約者を思っているのだろう。慎二の胸が少し苦しくなった。
「大学時代の同級生でね」
婚約者について語る池田先生は、携帯のほの暗い光の中で、まるで紗が掛かったようにいつもより美しく見えた。いや、慎二にとっては、暗闇に浮かぶ池田先生の顔は妖しくさえ思えた。
「そのころは別に何も思ってなかったんだけど、ちょうど教師になったころ、そう、彼はある企業に就職してたんだけど、そのときにうまくいかないこととか嫌なことがあって、彼に愚痴を聞いてもらってたのよ」
「へー、先生にもそんな時期があったんだ」
「あるわよ、で、そんな感じで何年も友達でいたんだけど、でもちょうどそんなときにね」
池田先生が下を向いた。
「彼がアメリカに転勤になるって聞いたの。何だか分からないけど、ものすごく寂しい気持ちになって。そのとき気づいたの、この人と離れたくないって」
池田先生の表情がさらに柔らかくなる。慎二は暗闇に浮かぶ先生の姿に心がときめくと同時に、婚約者のことをそんなに愛していると感じることが寂しく胸を締め付けた。
「先生にとって大事な人なんだね」
「なに、生意気いってるの」
先生が再び満面の笑みを浮かべた。慎二は嫌な予感を抱きながらも、話を続けた。
「ってことは、先生、アメリカに?」
「うん」
池田先生が少し寂し気な表情を浮かべた。
「やっぱり、先生と言う職業にあこがれて、やっと仕事も慣れてきて、みんなとも一緒に頑張ってきたのに、彼と結婚すればアメリカに行かないといけない。みんなとお別れするのはすごくつらいんだけどね」
池田先生の表情が曇る。それはきっと本心、悩んだ末の答え。
「まだ、みんなには内緒ね」
「……」
慎二の胸は張り裂けそうだった。そう、もうすぐ池田先生は自分の目の前からいなくなる。虚しさが彼の心を埋め尽くしていく。いや、何かが抜け落ちていき、そこに大きな穴が空いたような気分だった。
「先生は本当にその人が好きなんだね」
「え、」
池田先生の顔が赤らんだように見えた。慎二も笑顔になる、心とは裏腹に。
「そうだとすると、なんとしてもここから出ないと。先生のアメリカ行きが不意になっちゃう」
嘘をついた。その嘘が体に罰を与える。
「痛っ」
「大丈夫?」
池田先生が再び慎二を抱きしめる。慎二はゆっくりと先生に体を預けた。心の穴が次第に埋まっていく。先生の息遣いが耳元で聞こえる。このままここで池田先生と共に死んでもいい。いや、先生を婚約者に取られるくらいなら、ここで死にたい。
少しずつ意識が遠のいていく。先生の甘い香りに包まれながら、このままでいたいと願いながら。
× × ×
『スカイカイト、ジーガーターの上空に到着しました』
三上の声が空を見上げる蒼真の耳に届く。
「三上さん、生存者の確認がまだです。しばらく待機お願いします」
『了解』
蒼真は高校の校庭から、ひしゃげた校舎を見つめた。本当にこの校舎に生存者がいるのだろうか。その視界に芦名の姿が入ってくる。その表情は苦悶に満ちていた。
「芦名さん、どうでした。生存者はいましたか」
「あゝ、校舎の二回から生体反応があった」
蒼真が校舎の二階に目をやる。そこはセミの腹の下部、かなり被害がひどい、あそこに人がいる。
「かなりひどい所に取り残されているようだ」
「でもよかった。生きているのであればなんとかして助け出しましょう」
芦名はゆっくりとうなずいた。
「そうだな。全力を尽くそう」
蒼真は手元の資料を開いた。そこには、昨夜徹夜して練り上げた作戦が詳細に記されていた。蒼真の作戦はこうだ。上空からジーガーターに向かってセミのメスが発するホルモンを噴射する。その匂いに導かれ、ジーガーターは空に飛び立つはずである。さらに、ホルモンを出し続けるスカイカイトをメスだと思い込み、そのあとを追う。そのままスカイカイトは海まで誘導し、そこで待ち受けていたスカイタイガー田所機が羽を狙って攻撃を行う。羽を失ったジーガーターは海に墜落し、そのまま溺死するという手筈である。
「なるほど、でもあの怪獣がどうしてオスだと」
「校舎を押しつぶした後、ミーン、ミーン、と鳴いたことからオスと判断しました。基本セミはオスしか鳴きません」
「ふむ」
芦名は校舎の上にいる怪獣に目を向けた。蒼真は、芦名がこの作戦に疑念を抱いているのではないかと心配になった。
「当然相手は宇宙怪獣です。地球のセミと同じかどうかは分かりません」
「確かに」
「でも、今はこれが最善だと僕は思っています」
芦名が校舎から蒼真の方に向き直る。
「そうだな。悲観的になってもしょうがない。ダメなときはまた別な手段を考えればいい」
芦名は時計に目をやった。怪獣が出現してから二十四時間が経過していた。水や食料が取れない状態で人が生存できる時間は一般的に七十四時間と言われている。あと二日、その時間内で二人を助けられるのか。
蒼真は自分の腕時計を見た。そこには青い光はない。しかし、いざとなればネイビーに変身してでも二人を助け出す。それが自分の使命なのだからだ。
『ホルモン噴霧準備完了』
三上の声が無線に響く。蒼真が無線に向かう。
「本部、生存者が確認できました」
『そうか、それはよかった』
吉野隊長の声が届く。
「隊長、作戦開始の指示、お願いします」
『こちら吉野、三上、田所、芦名、準備は良いか』
『準備良し』
三名の声が揃う。
『よし、作戦開始!』
その号令を受け、上空のスカイタイガーが霧状の物質をジーガーターの上に振りまいていく。
「反応してくれ!」
と蒼真は祈るように呟いた。息をのむ蒼真の目の前で、ジーガーターの羽がかすかに動いた。
「反応した」
蒼真の言葉が終わるや否やジーガーターの羽が広がる。また校舎が崩れ始めた。
「いかん」
芦名が校舎に向かって走り出す。
「芦名さん!」
蒼真は呼び止めようとしたが彼の動きを止めることはできなかった。蒼真がジーガーターに目を向ける。やがて羽の動きが慌ただしくなりジーガーターがそのまま上空に飛び上がった。さらに崩れていく校舎。
『スカイカイト、ジーガーターを誘導していきます』
ジーガーターがスカイカイトを追いかける。作戦通りである。
「よし」
蒼真は小さくガッツポーズをとった。その間に芦名は崩れた校舎の二階に駆け寄っていた。先に段取りをつけていた防衛隊救援部隊も芦名と共に駆けつける。
「まずは手作業でコンクリートを除去する。いいか、気を付けろ、建物はちょっとした衝撃で崩れるぞ」
芦名の指示で隊員たちは建物の瓦礫を除去し始めた。蒼真も遅れて校舎に到達する。
『スカイタイガー、攻撃を開始します』
田所の声が蒼真の耳に届いた。ここまでの作戦は予定通りだ。あとは羽を打ち落とせれば。
『ミサイル命中、いや、ダメです。羽が、羽が損傷しません』
『ミーン、ミーン』
蒼真は鼓膜が破れるかと思うほどの鋭い鳴き声を耳にした。
『ジーガーターの反撃を喰らいました。尾翼が破損、不時着します』
田所の悲痛な叫びに、さらに三上の声がかぶさる。
『ジーガーターが戻っていきます。この方向だと、もといた校舎に戻ります』
蒼真は校舎を見つめた。瓦礫の撤去作業はまだ進んでいない。とっさに腕時計を見る、そこには青い光が輝いていた。
海上を飛び続けるジーガーター。その上空にネイビージャイアントが姿を現した。彼はジーガーターにそのまま突進していく。上空で両者が激突し、ジーガーターは体勢を崩して海へ落ちそうになる、だが寸でのところで飛び上がった。
「ミーン、ミーン」
その衝撃的な音波でネイビーは体のバランスを崩し、耳を塞いだまま海に落下した。彼が落ちた上空をジーガーターが旋回する。
海上に浮かび上がったネイビーに向かってジーガーターが液体を噴霧した。ネイビーの周囲の海水が沸騰し始めた。恐らくそれは塩酸に近い液体なのだろう。
「ウォォ」
ネイビーの肌が焼損し、苦しみながら再び海の中へと沈んでいった。ジーガーターはネイビーが沈んだ場所の上空を再び旋回する。そのとき、遠く離れた場所からネイビーが上空へ飛び上がった。
「ヤァー」
ネイビーはジーガーターの背に飛び乗り、その重みでジーガーターは高度を下げていった。ジーガーターは羽を振るわせようとするが、ネイビーはその羽をつかみ羽ごと引きちぎる。音波も飛ぶこともできなくなったジーガーターは、そのまま海へ落下していく。海水に浸かったジーガーターは残った羽をバタつかせるが、再び空へ飛び立つことはできない。ネイビーだけが上空へ飛び立った。
上空からジーガーターの様子を伺うネイビー。海水と格闘するジーガーターの背中、羽と羽の間に赤い光が見えた。
「そこだ!」
ネイビーは左手を前に出した。青い光線が放たれその先には赤い光が。青い光が赤い光と融合する。ジーガーターが羽をバタつかせるのをやめた。しばらく海上に浮かんでいた巨体がゆっくりと海の中へ静かに沈んでいった。
× × ×
助けられたときの記憶は曖昧だ。闇が突然明るくなり、新鮮な空気が肺に入ってきた瞬間だけが鮮明に残っている。いや、もうひとつ、池田先生の甘い香りに包まれていたのに、その香りが急に消えていったこと。それは夢の世界から現実に引き戻された瞬間でもあった。その直後、慎二は深い眠りに落ちた。目が覚めたのは二日後の病院のベッドだった。
現実世界の病室は無味乾燥な白い壁に囲まれていた。あの真っ黒な瓦礫の中にいた世界が恋しい。この世界に戻ってくるくらいなら、あのまま死んでも良かった。
嫌な記憶はなかなか思い出せないものだが、時間が経てばうっすらと思い出してくる。助け出された後、救急車に乗せられる際に池田先生の泣き声が聞こえた。見ると彼女は婚約者の男性の胸に顔を埋めて泣いていた。ぼんやりとした記憶だが、池田先生はしっかりと男に抱きついていた。男もまた池田先生をしっかりと抱きしめていた。
自分の前では気丈に振る舞っていた先生は本当の姿ではなかったのだろう。瓦礫の中で、本当は不安で、怖くて、泣きたくて仕方がなかったのだ。その本当の姿を自分には見せてくれない。なぜなら先生と生徒だから。池田先生が本当の姿を見せるのは婚約者だけ。それは当たり前のことだ。しかしそのことで慎二の心は無性に締め付けられた。
「慎二、お前、池田先生と二十四時間一緒にいたんだろう、なにしてたんだよ」
アキラが興味本位で問いかけてくる。
慎二は容体が良くなり一か月後に学校に復帰していた。アキラとこの道を歩くのはあの池田先生と婚約者を初めて見かけた日以来だった。夏はまだ終わっていない。気温の高い日が続き昼間に温められたアスファルトの熱が下校時のこの時間になっても足元から伝わってくる。ただ太陽の位置は以前より低くなり夜が来るのが早くなった気がする。慎二は春までの期間が短くなっていることにできるだけ気づかないよう心掛けている。
「え、そりゃ、あれだよ」
「あれって?」
慎二は目を逸らしながら答えた。
「婚約者とのラブラブ話」
「え、本当か?」
アキラが不審そうに慎二の顔を覗き込む、慎二はさらに目を逸らした。
「まぁ、池田先生はきっと幸せになるよ。そんな気がした」
ふーん、と納得いかない表情のアキラだったが、
「まぁ、慎二がいいならそれでいいけど」
「なに、それ」
慎二の目がアキラに向く。
「だって、慎二は池田先生のこと好きなんだろ」
慎二は一瞬焦って足が止まった。
「そんなわけないだろう!」
「ふーん、まぁいいけど」
アキラがにんまりとした表情で慎二の先を歩き出した。しばらくアキラの背中を追っていた慎二は意を決して叫んだ。
「俺は池田先生が好きだ! でも先生には好きな人がいるんだ。俺は先生に幸せになってほしい。だから先生の結婚に万歳!」
慎二が大声を出すと、胸が爽快感で満たされる。振り返ったアキラがにこやかに笑う、その笑顔につられて慎二も笑った。
《予告》亡くなった小夜の思い出を胸に事故現場を訪れる芦名、そこで同じ事故で息子を失った女性佳乃と出会う。芦名の喪失感と佳乃の怒りが怪獣を谷に引き寄せてしまう。次回ネイビージャイアント「許しの風が吹く谷」お楽しみに




