こぼれ話:はじめての父子げんか
事件があったのは、太后ゾラさまご逝去から12年がたって、帝国から「帝国らしさ」というものがいよいよ薄れゆくさなかのことだった。
帝都フィレンは、万博にともなう好景気と直後の有価証券暴落、それから歩みの遅い再建期をへて、ますます建物と人口が増えていた。
わたしは小まわりの利かないアドラスブルク帝国を細分化し、コンパクトにすることで、エルディナント陛下の、そして帝冠を引き継いでいくことになる子供たちの負担を減らそうと考えていたけれど、現実には正反対に、アドラスブルクはさらに多くのものを背負わされようとしていた。
のちに帝国の破壊者となる東方の諸民族が、近年の経済成長で力をつけ、まずはその当時の支配者であったアルハディラ・ウルスからの独立を求めはじめていたのだ。
ウルスはそもそも中央集権体制ではない地方放任国家であり、辺境の独立運動に対して、ほとんど無関心に近い寛容をしめし、解決金の支払いさえすれば好きにしてかまわないという態度だった。
この「西方復帰」運動により、グリテア、ロダリア、フレーディア、セラデアの四ヶ国がアルハディラ・ウルスより離脱し、独立国家となるが、細い地峡と海によって周囲から隔てられているグリテアはともかく、周辺国と地つづきである三ヶ国には安全保障上の留意が必要だった。
強力なアルハディラ・ウルスの軍が撤収し軍事的空白地帯となる彼の地に、リュースの影響力がおよぶことをもっとも恐れたのは、現地の人々ではなく、地理的にリュースと近いプロジャやアドラスブルクですらなくて、ブライトノーツだった。
プラーナ方面との連絡線である近東・中東に不確定要素が生じることを、ブライトノーツは強く懸念したのである。
……まあ、そのあたりの事情を書いていくと、けっきょくこれまでと同じ長さの話がもう一本必要になってしまうのでこのくらいにしますが、ようするに、ブライトノーツはロダリアなど三ヶ国の身元引請人として、リュースではなくアドラスブルクに責任を求めてきたわけです。
ブライトノーツの方針に、メロヴィグ、エトヴィラ、プロジャといった西方圏主要国も同調し、アドラスブルクは「諸民族の統治者」「雑多諸族のクズ籠」という、意に沿わぬ役目をさらに押しつけられることになる。
それつまり、帝国と世界の安定のためには、皇統の継続をより確実にしなければならないということだったのだけれど……
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皇帝陛下と皇子のあいだをどうにかとりなしてくれ――と皇太子つき副官のレウナー大佐に頼まれて、わたしが執務の間のドアを開けたとき、ヨーゼフは部屋の中央で立ち尽くしていて、エルディナントさまのほうは目の前に息子がいないかのようにデスクで書類に向かっていた。
部屋は沈黙で覆われていたけれど、そうとうに激しい言葉の応酬があったのだということは、ただようピリピリとした空気から察することができた。
大臣の姿も官僚の姿もなく(その時点で、皇帝の執務室として異様である)ふたりが人払いをした上で、徹底的にやり合ったのはあきらかだ。
追い出されたレウナー大佐は、尋常のことではないと察してわたしのところへ駆け込んできたということだろう。ヨーゼフにはよい副官がついているようで、それはよかった。
エルディナントさまもヨーゼフも、開けるなと言っておいたであろう扉が開かれて険しい眼でこちらへ振り返ってきたが、戸口に立っているのがわたしだったので、気勢を削がれたていで表情をゆるめた。しかし、どちらも口は開かない。
「なにごとですか。事情、聞かせてもらえますよね?」
らちがあかないので、わたしから切り出す。
なんでもない、という言いわけはきかない。執務の間から余人を締め出して皇帝父子がふたりきりで議論していたなど、私的な話でなかったら国家分裂の危機だ。
「父上に、カトリーナのことを話したんだ」
さきに語を発したのはヨーゼフだった。
「……セシィ、きみは知っていたのか?」
つづいて、エルディナントさまも口を開かれた。やや不満げに。
わたしはとりあえず事実のみを答える。
「ヨーゼフが自分から話してくれたわけではありません。追求したら白状しただけです」
「私だけが知らないでいたというわけか。アドラスブルクを継ぐべき皇太子が、その資格を失う火遊びをしていたことに。……どうして話してくれなかったんだ、セシィ」
「訊かれないかぎり話さないでほしいと、ヨーゼフに頼まれたからです。自分から話すと。エル、あなたがもし、さきにわたしへ訊ねていたら、包み隠しはしませんでしたよ」
父と息子が対立したとき、母親は息子の肩を持つもの――というのが古今東西のつねらしいけれど、わたしはべつにどちらかに加担するつもりはなかった。なので、中立の立場として感情を差し挟まないように応じた。
……実際のところは、ヨーゼフの交際相手であるカトリーナ嬢の身辺を調査したさいに、わたしもけっこう好感を抱いていた。「火遊び」呼ばわりの陛下の物言いに、ちょっとこめかみがひくりとしたのは事実である。
「父親として息子を顧みていなかったのは私のほうだ、セシィはそう言いたいわけか。だが私とて、ヨーゼフがバルディウムから提案された縁談を断ったときに、とやかく口出しはしなかったよ。……しかしだ、バルディウム王家の姫を迎えず、舞台女優と結婚したいと皇太子が言い出したとき、『好きにすればいい』と答えてすむほど、わがアドラスブルク家は単純じゃないんだ」
エルディナントさまの口調は、科白の表面上ほど険しいわけではなかった。むしろ、言いわけがましいというか、すねたような響きがある。
たぶん、ヨーゼフは「愛する相手と結婚するのがそんなに悪いことか」とでも言ったのだろう。自身は望みどおりの結婚をしていた陛下は、その相手であるわたしまでやってきたことでバツが悪くなっているわけだ。
ここでのわたしの役目は、息子の恋路を応援して夫をやり込めることではない。旧い家法に縛られているアドラスブルクの血筋に生まれたことは、エルディナントさま自身が望んだ結果ではないのだから。
「エルディナントさま、わたしがヴァリアシュテルン公爵の娘ではなく、公女シャルロッテの侍女にすぎないどこかの伯爵家の娘だったら、あなたはわたしと結婚しようだなんて考えもしなかったということですか?」
「言いたいことはわかるよ、セシィ。もしきみがシャルロッテ嬢の妹ではなく侍女だったとして、私はきみのことをあきらめなどしなかっただろう」
アドラスブルク家法が定める「貴賤結婚」の「賤」の範囲は、異常なまでに広い。伯爵家出身であっても、アドラスブルク次期当主の相手としては相応しくないとされているのだ。
こんな家法がもはや時代にそぐっていないのは明白。貴族称号を廃する国はどんどん増えているのだから、何世代もしないうちに、数えるほどの王家と身内以外、条件を満たす結婚相手はいなくなってしまう。
近親婚によって断絶するか、継承不能によって消滅するか、いまのままではどのみちアドラスブルク家に未来はない。
「仮にわたしがシャルロッテの侍女であったとして、エル、あなたはどうしました? シャルロッテとは形だけの結婚をして、わたしは愛妾でしょうか?」
「きみに対しても、シャルロッテ嬢に対しても非礼なことだ。そんな愚かな選択はしないよ。由緒のある侯爵家にきみを養子として預かってもらって、あらためて結婚を申し入れただろう」
結婚30年めにして夫に幻滅しなくてすんで、ちょっとほっとした。
どうやらヨーゼフとの押し問答でも、「舞台女優ごとき、愛人でいいだろう。結婚はまともにしろ」と言ったわけではなさそう。
「では、カトリーナ嬢といずれかの大貴族家の養子縁組を取り持っていただけないのですか?」
「それでは遅いと言ったのはヨーゼフだよ」
「……あら、そうなの?」
わたしはヨーゼフのほうを見ることになった。説得すべき相手はどっちなのだろう?
母親に凝っと視線を据えられたヨーゼフは、ぼそりととんでもないことを口走った。
「……子供がいるんだ。彼女のお腹に」
「ヨーゼフ……それはきみが悪い」
どうしていましばらく我慢できなかったのか。たしかにカトリーナ嬢は魅力的な女性ではあるが。
エルが「火遊び」と言ったのもむべなるかな。
どうせ結婚するのだから、すこしくらい先走っても問題ないでしょう?というのが通用するのは、時代がいましばらく下ってからの話だ。
この時代の正式な結婚というのは、教会による祝福と承認を必然としてともなう。たとえ実の両親のあいだで授かった子であろうとも、結婚前に産まれてしまえば婚外子、非嫡出だ。愛人に産ませた庶子とあつかいは変わらない。
そしてカトリーナ嬢が上級貴族の令嬢として作法を身に着け、格式を認められるようになるには、どう急いでも一年はかかる。すでに妊娠しているというなら、子供は産まれてきてしまう。
あとから正式な結婚がついてきても、それでは家庭内にしこりが残る。間違いなく長子なのに、ふたりめ以降の子と壁ができてしまっては……。
「ヨーゼフ、これはおまえの軽率さが招いた事態だ。私はカトリーナ嬢のことをあきらめろと言っているわけではない。なにもかもすべてを、同時に手に入れることはできないというだけだ。選択するのはおまえ自身になる」
エルはアドラスブルク家長としての冷然とした態度で息子を突き放したが、わたしから口をはさめる状況ではなかった。
……まさか、結婚を待たずして致してしまっていたとは思わないし。ヨーゼフとカトリーナ嬢の交際自体は応援していたのに。
ヨーゼフはしばしこぶしを握って立ち尽くしてから、顔を上げて決然と叫んだ。
「すべて認めろと言う気はありません。僕はカトリーナと結婚するし、わが子に私生児の汚名を着せる気もない。継承権を返上し、皇太子を辞めます!」
「ヨーゼフ、アドラスブルク皇太子の名は、役場の係長とは違う。個人の意思で降りることができるものではない」
「……では、こういうのはどうです。僕はロミア聖教を棄て、改革派に帰依する。アドラスブルクを継承する資格がなくなるはずだ」
怒りで歯を食いしばる音が聞こえた。エルが、口をわななかせながら椅子を蹴り倒して立ち上がったので、彼がサーベルをつかむよりさきにわたしがヨーゼフの前へ出た。
「お待ちください! アドラスブルク家法の改定を提案します。……わたしの目から見ても、残念ながらヨーゼフに次期皇帝の資質はないようです。ですが、継承権辞退のためだけに棄教するなどという愚行は、冒す必要がないはず」
「代わりにヴェンツェルを立てるというのか? しかしヴェンツェルは、すでにベミエン・ハーツィア大公の称号を帯びている。ポリニカ独立が近年中に実現するならば、その王となる前提として。それを主導したのは、セシィ、きみじゃないか。ヴェンツェルがオストリヒテ皇帝とポリニカ王の二重冠を被ったとき、アジュールはアドラスブルクの治下から離脱を宣言するだろう」
皇帝としてのエルの政治的視野は広く、判断は的確だ。将来はプリグからベミエンとハーツィアを治めことができるようにと、ヴェンツェルに大公位を与えるよう陛下へ進言したのは、たしかにわたしだった。
ヨーゼフはつぎなる皇帝として申しぶんないと、信じていたから。
エルのいうとおり、ヨーゼフではなくヴェンツェルが次期皇帝となって、オストリヒテ=アジュールが、オストリヒテ=ベミエン=アジュール、あるいはオストリヒテ=ポリニカとなるとき、帝国の第三位以下に転落するアジュールはその地位に甘んじるよりも独立を選ぶだろう。
とはいえそれは、このさき一年二年の話ではない。まずはカトリーナ嬢とお腹の子が、自分に責任のないことで不当なあつかいを受けないようにしなければ。
陛下の指摘に、わたしも、ヨーゼフも、すぐに答えるべき言葉を見つけられずにいたところで。
「オストリヒテをわたくしが引き受ける、というのはどうでしょうか?」
わたしが開けたきりになっていた執務の間の戸口をくぐって、ゾラが入ってきた。
スムーズに話に入ってきたのも利の当然。廷臣たちはだれも近寄れなかっただろうけれど、親子三人の大声は廊下までよく聞こえていたはずだ。
「……ゾラ」
「弟のしあわせのためなら、わたくしは帝国を背負う覚悟がありますわ」
思わぬ申し出をしてきた長女に眉宇をひそめた父へ、娘のほうは不敵に笑って見せる。
「待ってください。僕は、姉上に負担を押しつけるつもりがあったわけじゃ……」
助け舟を出してくれた姉へ、感謝より心苦しさがさきに立ったヨーゼフだったが、
「早まったことをしたあなたに発言権はないのではなくて、ヨーゼフ? それに、わたくしが帝冠をいやいや被ろうとしているというのは、あなたの勝手な解釈でしょう。もちろん楽ではないにせよ、やりがいのある仕事だわ」
こう言われては、ぐうの音もなく黙るしかない。
「ゾラ、ほんとうにいいの?」
念のためにわたしが再度問い直すと、ゾラは同じ名の祖母を思い起こさせる、あでやかな表情を浮かべた。
「どこぞの王家か公爵家に嫁いで、ただ宮廷の奥で何年に一度か子供を産んでは、手なぐさみに演奏や刺繍をするだけの女にはなりたくないと思っていたところですから」
女帝メレナ・テレーゼと、“皇宮唯一の男性”太后ゾラ、そのどちらからも血を受け継いでいる娘には、わたしなんかよりよっぽど強力な覇気があるようだった。
なんかまだぜんぜん話終わってなくない? って思われるかもしれませんが、物語の終わりは歴史や世界の終焉というわけではない、というのがコンセプトのシリーズですので、このあたりで幕を引かせていただきます。
本編101話と途中の資料編1本に、この外伝1本、最後の最後までおつきあいいただきまして、本当にありがとうございました。
余談として、歴史面の資料読んでて作者が一番同情したのは鬼姑です。ていうか彼女のほうがはるかに主人公向きの境遇(本作中でも“太后ゾラ”の経歴や過去はほぼ変えてません)と性格してます。なので、本作の主人公セシーリアには、その逆境すらも利用する魂が強めにインストールされる結果となりました。
地球史のシシィことエリーザベトは、たしかに15歳で人生全部捻じ曲げられてしまって、本人なにも悪くないんだけど、そのあとは被害者しぐさするばかりであんま建設的なことしてないんですよね…。
クソデッキつかまされてその時点でゲームを投げた、スヌーピーさんなら激怒するやつです。配られたカードで勝負するしかないのさ。
……いや、オーストリア=ハンガリー成立に貢献したことは偉業だし、エリーザベトがいなければ、19世紀のうちにハプスブルク王朝は滅亡してたんですが。
ヒロインの性格以外もいろいろと地球の歴史とは違う流れにして、悲劇は回避しましたが、以前にリリースした20世紀相当の歴史部分のお話で、アドラスブルク帝国の崩壊は書いちゃってるんですよね。
まあ個人的には、世界大戦が一度限りで終わりさえすれば、地球人類の業は救いがたいところまでは達しなかっただろう(今現在も続いているアレやコレは全部WW2の鬼子ですからね)と思うので、この世界の歴史はこれでよかろうとするところです。
重ねてとなりますが、あとがきのラストまでもおつきあいしていただき、本当にありがとうございました。
ほぼ毎度となっておりますが、なろうにこんなめんどくせー話ぶち込む作者の読者不孝者っぷりをお許しください。




