85回目 小説家志望のおじさんは異世界へ渡った 前編:想いの在処 1:絶望、しかし彼は
プロの作家を目指して自分なりに必死に生きてきたつもりだった太郎。
彼に訪れたのは永遠に続くような絶望だった。
転がり落ちるように彼は住む場所すら失い、日々ただすり減っていく財布の中身だけが彼にとっての現実だった。
ネットカフェに宿泊しながらキーを打ち続ける。
ディスプレイに刻まれていく文字文字文字文字。
いつからキータイプして生まれる言葉が彼にとってただの文字になってしまったのか、太郎の頭にふとよぎる。
その瞬間文字がどろりと溶けだし、生き物のように蠢き始めた。
猛烈な頭痛と吐き気、眼球に血がうっ血し太郎は倒れ込む。
あまりの苦痛で彼は自分がここ数日出費を控えるために食事をとらなかった事を悔やみ、親から実家に帰って来るように言われたのを断ったことを悔やんだ。
そして最後に彼の脳裏によぎる項目、薄れゆく意識の中それでもその事にだけは悔やみたくないと意地を張る自分を自嘲し彼の意識は深い闇の底に沈んでいった。
再び目が覚めると彼はゆりかごの中にいた。
自分の手を見ると赤ん坊の手、足や体を見ることはできなかったがどうやら赤ん坊になってしまったようだった。
これは夢なんだろうか?
彼が不安になると体が勝手に泣き声を上げ始め、自分の声に不安になり涙も溢れてくる。
「おーよしよし、寂しかったのかい?ウィル」
ずっしりと重く響く優しい声が近づいてきてその声の主が太郎を覗き込む。
その顔は比喩ではなく動物の熊であり、全身が毛皮で覆われた人間が人間の服を着て自分に微笑みかけていた。
きっと夢だ。太郎はそう思いながら熊男に抱かれ、ゆっくり揺さぶられ時々背中を優しくたたかれる安堵感と、
彼の温もりの中で眠りについた。
年月は流れ、太郎はまださめない夢の世界にいた。
熊男のデミィと一緒にハイキングで訪れた近所の高台を気に入り、太郎はよくそこから景色を眺めている。
緑豊かな山々と草原の風景、その世界で暮らし始めて12年の歳月が流れ、太郎ことウィルは12歳になった。
デミィとウィルは見た目からわかる通り血のつながりはなく、幼い頃に捨てられていたウィルをデミィが拾い育てていたらしい。
デミィはウィルが大人になるまで隠しておこうと思っていたらしいのだが、見た目的に明らかに違うでしょうと話を切り出しのたのはウィルの方だった。
今思えば大人気も可愛げのない子供だ、中身が大人なのだから仕方ないのだが。
そんな彼に変わらず優しく接してくれるデミィの優しさに今は少し尊敬の念すら覚えるようになっていた。
本当はウィルがデミィに対して尊敬の念を抱く理由はもう一つある。
ウィルは家に帰り物音をさせないように扉を閉じ、静かにデミィの部屋へと向かう。
彼の部屋の扉を彼に気づかれないよう慎重に開けると、中ではデミィがその熊の巨体を窮屈そうに丸めながら机に向かってなにか書き物をしていた。
デミィが書いているのは小説だった。
ただ書いているのではなく彼には生活が自然と執筆に結びついていて、その在り方に対してウィルは理屈ではない尊敬の念を抱いていたのだった。
ウィルの今生きている世界には魔法もあり、ほかにも沢山の選択肢がある。
そんな中で彼は生き方として自然と物語を綴っていく。その姿がとても美しく思えた。
「やぁウィル、帰っていたんだね」
のぞき見をしているような体だったウィルに朗らかな笑顔で声をかけてくれるデミィの優しさがウィルはとても好きだ。
「今日はどんなお話を書いていたの?」
ウィルがそういうとデミィは顔を少し赤くして頭を掻く。
「まだ途中だけど読んでみるかい?」
「うん!」
ウィルは両手を広げたデミィの膝の上に飛び乗ると彼の差し出してくれた原稿用紙に食い入るように読み始める。
デミィが小説を書くのは元々は趣味のようなものだったが一作一作を小説として完成させていて、ある日彼の友人の新聞編集者ブロワがその作品を読んで気に入った事から、彼の元にブロワからの新聞で掲載する小説の依頼が入るようになった。
ブロワは人間でありもちろん彼の所属する出版社そして発行している新聞の対象も人間向けであったため、作者のデミィが獣人であることは隠された状態での掲載という形式だった。
ウィルの今いる世界には魔法があるが、それが存在する物理法則上の弊害のようなもので獣人やモンスターのような存在が時々人間から出生することがあり、モンスターの存在と獣人を一緒くたに差別し一般社会から隔離しようとする風潮が根強く存在していた。
ブロワは森の中でモンスターに襲われていたところをデミィによって救い出されて以来の友人で、ウィルにとっては悪友でもあった。もちろんその面についてはデミィには内緒だ。
ウィルには秘密があった。
ブロワから貰った一本の魔法の羽ペンである。
夢から夢へと渡る渡り鳥の風切り羽で作られているというそれは、宛名付きで物語を描けば相手にその夜の夢として見せることができるものだった。
ブロワは眉唾ものの怪しい土産物としてウィルがいつか自分でも父親のデミィのように小説が書きたくなるだろうとくれたのだが、その時期のウィルはまだ自分の前世での経験から自分で小説を書くことに対して抵抗があっり、デミィに対する憧れの気持ちが逆に彼とのコミュニケーションを阻害してしまい関係もどことなくギクシャクしてしまっているようなありさまだった。
ある日未だに過去の自分の事が鎖になっているのが苦しくて、助けてほしいと羽ペンで手紙にしたためてデミィの宛名を書いた。
もちろん出すつもりはなかった。
そうすることで何か解決するわけでもなかったけれど、ウィルは気晴らしにその手紙を書いて封筒に入れ、蝋で封をして自分の机の引き出しの奥にしまい込んだ。
その翌日朝起きてデミィに挨拶をすると、彼はウィルを強く抱きしめた。
戸惑いどうしたのかとデミィに尋ねると、彼はウィルがとてもつらい思いをして自分に助けを求める夢を見たといった。
そして彼の過去の話をウィルにし始めた。
デミィは昔兵士として戦争に行っていたという、隣国に攻められ戦火に焼かれる村々の話を聞いてみんなを守りたいという一心で彼は戦地へと向かった。
その経験が辛く苦しく、今でも毎晩夢にみてうなされるのだという。
夢の中のウィルの苦しむ姿にウィルまで自分のように苦しみながら生きているなんて悲しすぎると彼は思い、
ウィルを抱きしめずにはいられなくなったのだと。
ウィルはデミィの悪夢を消すために自信はなかったけれど一夜の夢の物語を綴って見ることにした。
はじめはその翌朝の彼の顔を見るのが怖くて、後悔していたが。
デミィが朝食中に嬉しそうな顔で夢の話をするのが嬉しくて胸の奥から湧き出してくる気持ちが止まらなくなってしまったウィルは、その日から毎日デミィが喜びそうな夢を描き始めるようになった。
終わらない夢の中の夢のような日々の中で、ウィルはデミィとのたしかな幸せを胸いっぱいに抱きしめ生きていくのだった。




