171回目 空の騎士 10:グラウンドゼロ
高い塔にかかったハシゴを二人は登っていた、空には暗雲が立ちこめ、その中を血管のように稲妻が貫いていく。騎士は部屋の窓に取り付くと少し横に退き、風に吹き飛ばされそうな少女を片手で抱えながら中へ導いた。
部屋の中は薄暗く、空気が氷のように冷たく妙に乾ききっている。騎士はハシゴを引き上げると真ん中で真っ二つに折り、投げ落とす。
少女は何も聞かずただ部屋の中を見て回っていた。
彼女はほこりだらけ本棚の中に一冊の本を見つけると、その背表紙にそっと手を触れる。少女の華奢な指がなぞると、そこに本の題名が描かれていた。
本の名前は「空の騎士」、少女はそれを手に取ると側にあった椅子に腰を下ろし懐かしげに眺める。
騎士は窓の外を慎重に見張っていた。森の中から最初は数人、それから多くの兵士とスレイヤーがゾロゾロと乗り込んでくるのが雷の閃光の中鮮やかに見えた。
彼はすっと身を引き、少し考えるように難しい顔をするとゆっくり少女の顔を見た。
相変わらず本をひらくでもなくただ見つめている彼女に、騎士はなるべく穏やかな口調で、これからこの城でおこる事について話した。
人間達と魔物の戦争だ。
おそらくこの城は近隣を含めただではすまないだろう、だからしばらくここに隠れているしかないと彼は言う。
少女はとくに様子を変えるわけでもなく、違和感を感じるほど穏やかな表情で彼を見つめ返すと冷静な声で騎士に告げる。
魔物は怖がっているだけ、この城を襲った魔物はそれだけ強大なのだと少女は言う。
それは今は城のどこかで眠っているが、これだけ人が入り込み城を荒らし回っていては目を覚ましてしまうという。
少女は自分はこの城の主の娘としてスレイヤーの魔物退治も何度か見てきたといい、そのどれよりも騎士の腕前は勝っていると呟く。
少女は騎士に外の人達を倒せないか聞いた。その声は黒く沈んで冷たい。
騎士は少女の顔を見ないまま首を横に振る。
彼らにも友人がいて家族がいて、それは自分たちのために勝手に奪って良い物ではないと彼は言った。
少女は騎士にでは魔物が彼らを殺すなら、彼は納得するのかと尋ねる。
騎士の動きが凍り付く。
彼はこの世の物とは思えない物を見たような言いようのない悲しみをたたえた目をして、双眸を強くまぶたで押さえつけた。
警報機の振動が……次第に大きくなっていく。
少女は冷たく笑うとゆっくりと立ち上がり、首が壊れてしまったかのように頭を傾けながら鉄格子の先の人々を見る。
そこにはどこか嬉々として城を破壊し、まるで祭りの催し物の牛でも追うかのような雰囲気で荒っぽく獲物を探す兵士達がいた。
スレイヤー達は彼らを先導する者、後方で指示を出す者でわかれている。
楽しそう・・・と少女がその口をひしゃげながら笑顔を作った瞬間、騎士の警報機がポシェットの中で急激に暴れ回り破裂し、ぞわっと彼女の服の下から黒い闇が堰を切ったようにあふれ出した。
それは鱗と肉の擦れ合うおぞましい音を立てながら広がる、群れをなした黒い蛇だった。
騎士が身構えると蛇の群れは彼を避けるようにして広がっていく、中に数匹彼を見るとあざ笑うように引き裂くような鳴き声を上げていく。
どろりと、まるで液体のようにその黒い洪水が窓から外へあふれ出すと聖痕を持たない一般兵達の叫び声があがり始めた。
騎士は少女の姿をただただ信じられない顔で見つめると、大切な者を奪われるような悲しそうな表情で叫ぶ。
少女は興奮のあまり顔を紅潮させながら、その笑みを止めない。
彼女は彼を一瞥もしないまま次第に姿を魔物のそれに変化させていく。
木イチゴのようにかわいらしい赤だった唇は、死者の血のようなどす黒い赤に染まり、風にたなびくブロンドの髪は鱗を纏った何十匹もの蠢く蛇になる。
そして彼女のガラスのように美しかった輪郭は、おぞましい狂気の色を孕んで消えていった。
騎士はそれでも彼女に近づこうと蛇の中に足を踏み入れる。
もつれながらもつれながら彼は少女の元へ手を伸ばし、彼女の名を呼び這ってでも進んでいく。
少女の顔に一瞬ほのかに不安がよぎったように見えた。
騎士は蛇の渦に飲まれながら彼女を呼ぶ、少女はただ立ちつくしながら首を振っていた。
彼の姿が黒い蛇の中に消え、その手も飲み込まれた瞬間少女の中で何かが割れたような音がした。
まるで彼女の中に一本だけあった芯が、ガラスのように砕けてしまったようで少女は自分が今息をしているのか、心臓が動いてるかもわからないほど頭の中が真っ白になった。
次の瞬間後ろから暖かい温もりが彼女を包み込んだ。
「・・・捕まえた」
騎士の声が耳元で聞こえる。
少女は今まで閉じていた瞳を開く、その瞳は目の前のものを石に変えながらでもその眼はとても美しいエメラルドの輝きをたたえていた。
「もう、大丈夫だ」
騎士はその場には不釣り合いな、化け物にたいするにはあまりにも似合いな優しい声でそう呟く。
「きっと俺はずっとこうしたかったんだ、最初からこうするべきだった。それを今やるんだ、君はただ受け入れてくれればいい」
稲妻の光がまるで凍てついたようなその場所に刹那、光を放つ。
彼は一本の銀の鍵を手にしていた。
「俺のわがままだ、君じゃなきゃだめなんだ」
騎士の右手が眩しく光を放つと、ガントレットがはずれ聖痕が剥き出しになる。
少女はそれをみて荘厳なその輝きに息をのんだ。
それと同時に次第に彼女のなかの黒い渦のようななにかが凍った夜露が暖かな日の光で霧になるように、静かに蒸発していくのを感じていた。
「もう大丈夫」
騎士は繰り返し彼女に囁く。
それは誰に対しての言葉なのか、彼自身もわからなかった。
「今気づいたんだ、俺はずっと間違ってた。俺がずっと望んでいた物、それはスレイヤーの肩書きでも
なにかに属する安心感でも金や名誉なんかでもない」
少女の優しい匂いが風に乗ってくる。
騎士はそれだけで満足だった。
「俺にはそんなものに置き換えちゃいけない、大人になるたび増えていく雑念でかき消えてしまう、そんなかすかで小さな……でも何よりも大切なものがあったんだ」
少女のかすかな温もりを感じる。
彼はそれだけで十分だった。
「君は嘘が下手だな」と彼は言った。
彼は「ありがとう」と呟く。
少女はそんな言葉は求めていなかった。
どんな言葉も結局は綺麗事だ。
それを求めるために行動する者、そしてそれを言えば全てが与えられると思っている者。
それを否定することなんてできない、でも彼女が求める物をそれらの人間に押しつけられるくらいなら少女はいっそ素直に狂ってしまった方が良いとさえ思っていた。
多くの命を奪ったそれだけの事実が、彼女の全てを壊してしまった。
それはもう理性でどうのこうのできる問題でも、ましてや言葉でなど埋め合わせのきかない傷痕だった。
彼女にとってただ自分が消えてしまうことが、彼に葬られることだけが自分にできる償いで、唯一残された救いだと思っていた。
でもきっと今彼のしようとしていることを受け入れてしまったら、きっと死ぬことに逃げられなくなる。出口のない地獄にたたき落とされることになる。
それは怖いことだ、誰かを殺すことよりも殺されるよりも怖いことだ。
でもなによりも怖いのは自分をここまで強く暖かく包んでくれるこの手を、わずかながらでも幸せだと思えた一時をくれた彼を失うこと。
それは彼女の体を切り刻まれすり潰されるよりも恐ろしいことだった。
少女はもがく。
彼の手をひっかき噛みつき、両手の爪が剥がれてもその腕を引きはがそうとした。
それは彼への甘えなのかも知れない、押しつけなのかも知れない。
だけど少女はどうしても彼に生きて欲しかった。
自分のせいで死ぬなんて絶対に嫌だった。
その想いはいつしか小さな体から溢れるほど大きくなり、嗚咽となってこぼれだした。
少女は瞳にいっぱいためた涙を堪えきれず泣き出す。
彼女はその時着飾らない心で、素直に、子供らしく泣いていた。
全ての嘘が溶けて彼女の目から流れ落ちていく。
嫌だ・・・嫌だッ!!と少女は叫んだ。
そしてそっと騎士の腕をにぎると喉が割れるほど絶叫する。
だが苦痛を伴うはずのその優しい温もりはけして彼女を見捨てない。
それどころか強さを増して少女の体を抱きしめていた。
騎士の体が右手から離れた場所から黒く変色していく、少女の取り戻す純潔と引き替えに彼の体を汚れが蝕んでいく。
少女はただ無力だった、ただただ嗚咽を漏らして泣き続けるしかない自分の非力が悲しかった。
でも騎士はそんな彼女の頬を優しく撫で、悪夢を見た幼い子供に親のするそれのように、そっとキスをする。
秘密の隠れ家は暖かい光に包まれ
蛇も騎士も少女もなにもかもとかすように
全てが白く染まっていった。




