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海老怪談  作者: 海老
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しろうねり

創作です

 妖怪の話というのは割と聞くのだが、どれもこれも動物の見間違いである。

 水棲生物や粘菌の見間違いは特に多く、こうして妖怪の伝承は生まれたのだなと感じ入ることはあるものの、怪談として成立するものは少ない。


 昨年、吉岡氏から聞いた話だ。


 吉岡氏は大阪の中心地にほど近い場所に住んでいる。

 一族は昔からここに住んでおり、地主という立場であった。

 特に働かずとも家賃収入が入るという羨ましいご身分だ。

 吉岡氏は独身の姉と二人で地元に住み続けている。

 二十年ほど前は大家として様々な物件を管理していたが、不況に伴い自らで管理するのはごく限られた物件だけにしている。

 回収の難しいテナントは管理会社に任せて、付き合いの古い店子の物件だけを相手にしていた。

 吉岡氏は自転車で物件を周り、気が向けばサイクリングに切り替えるといった気ままな毎日を送っていた。


 その吉岡氏から伺った、祖父の代から続く曰く付き物件の話である。


 大阪の中心地にほど近いゴミゴミとしたに賑やかな街に、そのマンションはあった。

 築40年。

 マンションと言えば聞こえはいいが、古びた70年代の風情を残すレトロ物件だ。住人たちも古びていて、昔から大きく変わらない家賃を支払い続けている。


 吉岡氏の記憶では、そこに住む妖怪を初めて見たのは小学校五年生の時だ。


 祖父に連れられてやって来た。

 夏の日だったと記憶している。近くの寺の祭りの日だ。

 露店で色々と買ってもらった後に、その物件に来た。当時はまだ新築で、今風の洒落たマンションとなっていた。

 夕暮れ時である。


「建ててはみたけど、ほんまにええんか分からんなあ。ボン、あそこはちゃんと見たらなあかんとこや」


 祖父はマンションの屋上を指さした。


 給水塔の天辺に、旗が風に揺られていると思った。

 しかし、よく見てみると、それは荒く切られた細長い布のようである。分厚くてざらざらしてそうな生地であると、遠目に思ったそうだ。


「びぃぃぃえぇぇぇぇぇ」


 旗のよう、布のようなものは風に揺られながら、鳴いていた。

 泣き声にも聞こえる。子供のものではなく、大人が泣き叫んでいるような。


「あれなぁ、昔からおるんや。この辺りには子供ら入るな言われてたやろ。あれに巻かれたらえらいことなるんや。せやから、使いもせえへん倉庫にしとったけど、遊ばせとくのもなんやしなあ。あんなこともあったし」


 小学一年生のころ、友達のヨッちゃんがこの辺りで事故死した。

 祖父は詳しくは語らなかったが、そのことだと思った。


「倉庫やと低かったんやろな。マンションにして、あんだけ高くしたら、そうそう捕まらんやろしな。屋上は鍵かけて開けんようにするし。これでええ気がするわ」


 はためく白い何かの声は、地上からでも聞こえてくるというのに、辺りの誰もそれに気づいていないようだった。

 祖父と自分にしか見えてないのだな、と幼い吉岡氏はそう感じた。実際、それは間違いなかったのだろう。

 傍から見れば、自慢のマンションを孫に見せている祖父だ。何もおかしいことはない。


「よう分からんけど、あれは昔からおるんや。坊さんも神さんのとこも知らん分からんいうし、どないもならんねや。高くしたから、いける思うねんけどなあ」


 楽しい祭りの思い出の中に、奇妙な染みとしてそれは残った。


 吉岡氏は高校生のころに両親を亡くしている。

 地主としての事業は、財産を狙う親戚を蹴散らした七歳年上の姉が引き継いだ。

 姉には今でも頭が上がらないと、苦笑いして吉岡氏は言う。


 まだ若い時分のことだ。大学で芸術をやろうとしていた吉岡氏は、姉に反対されて家出をしたことがある。

 とはいえ、高校生で育ちも良い吉岡氏は、単身どこかへ消えたり無頼の道へ進むということはできなかった。

 泊めてくれる友人もいたが連日となると難しく、あのマンションへ行ったそうだ。

 屋上のところには物置があるのを知っていたし、南京錠のダイヤル番号も知っていたからだ。

 ここで夜明かししようとマンションの屋上に出る。

 悪ぶって吸っていた煙草に火を点けて、月に向かって煙を吐き出す。気分だけは青春映画であった。

 ふと、動くものが目に入った。

 あの日、祖父と共に見た白い旗だか布が、給水塔の天辺で風も無いのに揺られていた。

 近くで見ると、記憶の中のそれよりも実物は大きかった。畳八畳分はありそうだ。

 荒く裁断された巨大な布が踊っている。白かった布が洗いざらしにされて黄色く変色したような色合いだった。


「ひぃぃぃえぇぇぇきぃぃぃぃ」


 悲鳴のようでもあるし笑い声のようでもある。そして、嗚咽おえつのようでもあった。

 懐かしい祖父の記憶。

 怖いとは思わなかった。

 もっとよく見てやろうと近づいて、それが何か分かった。

 真っ白な動物だった。

 イタチかキツネのようなものだが、平面上の薄っぺらい身体をしており、巨大すぎるせいで旗のように見えていた。

 前足らしき部分で給水塔にしがみついて、狂ったように体をばたつかせている。


 驚きで、くわえていた煙草を落とした。


 動物の姿も異様だったが、その動物にたくさんのやせ細ったミニチュアサイズの人間のようなものがしがみついている。

 見覚えのあるものだ。

 それは寺などに飾られた絵で見たことのある餓鬼である。

 動物の身体に無数の餓鬼がしがみついていた。


 動物の鳴き声と、餓鬼の発する悲鳴とも笑い声ともしれないもの。それらが混じり合ったものが、あの声であったようだ。


 吉岡氏はあまりも異常なことに固まってしまっていた。

 ぴくりとも身体が動かない。そして、あれに気づかれたらいけないとも理解していた。

 動けないのに、異様な情景から目を離すこともできない。

 そうしていたのは短い間だったように思う。

 誰かに手を引かれて振り向くと、見覚えのある子どもがいた。

 真新しいランドセルを背負ったヨッちゃんだ。

 身体が動くようになって、一目散に逃げた。



 それから家に帰りついて、高熱を出して寝込んだ。

 枕元で餓鬼が走り回る悪夢を見て大変だったという。

 恢復かいふくした後、大学進学は諦めて家業を手伝うと姉に言うことになった。それが正しいことだと思えたからだ。


「あの時、一番怖かったん、ヨッちゃんやったな。助けてくれたんかも知れんけど、どうなんやろ。なんや、ヨッちゃんの手の感触、なんやろなあ。人やないって分かったわ。上手いこと言えんねんけど、違うってすぐ分かる厭な感触なんや」


 それからも、その妖怪の姿を遠くから見ることはあった。

 近づくことはなかったし、屋上の施錠だけは厳重に行った。


 時は過ぎて昭和から平成へ。そして、令和の今がある。

 もう、そのマンションは無い。

 今はもっと高い建物になっている。


「時代の流れやなあ。もう私らのもんやないねん。譲る時に申し伝えてあるけど、心配はないやろなあ。そのころにはほとんど姿を見ることも無かってんよ。もう、おらんようなったとんちゃうかなあ」


 吉岡氏は少し寂しそうに、そう話を締めくくった。


 妖怪も年月と共に消えていくものなのかもしれない。

 逆に、京都では江戸のころに見られた幽霊、というよりも妖怪のようなものが今も見られている場所がある。全く色あせず、当時からの姿のまま、それは今も目撃されている。


 妖怪の話だけは、筆者もよく分からないままだ。


 吉岡氏も、妖怪のことはそこまで恐れてはいないようだった。しかし、ヨッちゃんの幽霊らしきものについては、最低限の情報以外は露骨に口を噤んだままである。

 筆者はそこが気になっているのだが、吉岡氏からは聞き出せずにいる。これ以上食い下がると、絶縁されるかもしれない。

 まともな方法では口を割らないだろう。いつか、泥酔させて聞き出そうと思っている。

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― 新着の感想 ―
[良い点] これはまた、いい感じに厭な感じ…… [一言] 助けてくれた相手が怖いなんて哀しいなあ。 と思ったけど。 ほんまにただの「事故死」なんかな、なんや後ろめたいことあるから詳しく語りたくないのと…
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