第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その九百十六
―――声さえも切り裂くような、疾風の残酷さだよ。
加速したミアの速さに、すべてが置き去りにされる。
帝国兵は一瞬で懐に入られて、剣でミアを斬ろうとする。
しかし、その斬撃が通り過ぎた場所にいたのはミアの影に過ぎなかった……。
―――空振りしたというよりも、空振りを強いられたんだ。
ミアは武術の達人ではあるものの、腕力だけなら目の前の男にも負ける。
だから工夫を使う必要があるんだ、ミアの技巧は常に幾重の力学で編まれている。
囮であり誘いであり実際の攻撃であり守備でもあり、精神的であり物理的な戦術だ……。
―――ヒトの『動き』を分析するために必要なのは、四つの要素でね。
『質量/重いか軽いか』、『時間/短いか長いか』。
『空間/内向きか外とつながっているか』、『流れ/文脈』。
古来、確立されている動きの分析の方法だよ……。
―――どんな武術のコーチでも知っているだろうし、知らなくても実践している。
それだけ普遍的であり、けっきょくはこれらの四つの要素に分類されるんだ。
ミアはそれら四つの要素を、すべての動作で同時に使いこなしている。
軽い動きを見せた、跳躍の軽やかさから敵はミアのサイズを見失っている……。
―――同時に軽さから重い動きにも変わった、急に止まることで動きが読めなくなる。
ミアの動きは常に細かく変わるけれど、右に動いた時間は短くて。
左に動いた時間は長かったから、予想を立てにくくなる。
力をため込むために全身の関節を閉めて、小さくなった次の瞬間は逆をやった……。
―――全身の筋肉と関節を解放して、飛び跳ねていたのさ。
『流れ/文脈』は、ゼファーと他の猟兵たちの襲撃と連携しつつ。
単騎で仕掛けているような、矛盾性も持っている。
ミアはキュレネイとゼファーに合図も送っているよ、目立てとね……。
―――それだけで敵はすでに意識の何割かを、持ち去られているんだ。
ミアだけに集中すべきなのか、ミア以外にも集中しなくてはならないのか。
四要素の順逆、つまりは八種類の使い方の魔法を動きに重ね合わせている。
だからこそ、それをやられると達人だってついていけないのさ……。
―――古典的で誰でも知っている、実にありふれた『動き』の法則性。
それをミアは巧みに折り重ねて、敵と自分と周囲のすべてに振りまいた。
敵はミアに無限の可能性を見せられる、どう動くのか見当もつかないわけじゃない。
あまりにも多くの可能性を見せつけられているから、圧倒されるのさ……。
―――斬撃は無慈悲なまでに、しかし慈悲深く痛苦の時間を刹那に短縮した。
敵兵の首はナイフにかき切られて、ミアの好戦的な笑顔を見ながら絶命する。
飛び去ったミアの影のとなりで、血を噴きながら死者へと落ちる。
膝から崩れ落ちていく敵は、すぐさま意識を失った……。
―――考え方はさまざまあるけれど、死に行く瞬間はどうあるべきだろうか。
それぞれの思想と価値観の領域には、もちろん踏み込むような無作法はしたくない。
でもね、ただの戦士が戦場で感じ取る率直な一般論として。
長く苦しむよりは、きっとマシなんだよ……。
―――刹那の苦しみのなかで、究極の武はあまりにも優しく見えた。
血の雨自体は壮絶なもので、周囲に集まる帝国兵どもを射殺す猟兵の技巧は残酷だけど。
少なくとも、ミアのナイフはここで起きているあらゆる殺りくのなかで。
いちばん安らかなものだったというのは、おそらく確かなのさ……。
―――『巨狼』に噛み殺されて壁に投げつけられる者が、潰れる音がした。
ノヴァークは理解が追いつかない、猟兵の力がどれだけのものか。
『プレイレス』での戦闘で、遠くから見ていたはずなのに。
近くで体験している今は、あまりにも恐ろしいものだったようだ……。
―――しょうがないよ、大陸最強の猟兵である。
逃げようとした、それは正しいけれど。
我々を相手にするときは、まったくもって成功の見込みなどない。
『パンジャール猟兵団』と戦うのなら、あきらめなくちゃならないことは多い……。
「た、助けて―――」
「イエス。逃げなければ、脚も腕も切り落とさないでいてやるであります」
「な、なんだと……っ」
「選ぶであります。クソ詐欺師野郎には、同情すべき理由もない」
―――殺さなければ、別にどうでもいいからね。
腕や脚が二つか三つなくなったとしても、口があれば話せるのだから。
キュレネイ・ザトーは信頼を裏切る者が、心から嫌いだ。
『番犬』、裏切り者を殺す役目を自らに背負った乙女の瞳は氷より冷たい……。
―――ノヴァークは理解した、無表情のルビー色の瞳の温度をね。
だから、彼らしく正しく行動した。
武器を捨てて、その場に伏せた。
降伏の姿勢をして、生きることを望んでくれたのさ……。




