第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その八百九十六
―――大学を引き上げたふたりは、学生街の宿屋に泊まった。
傷の手当は完璧ではあるが、失った体力はそれなりに深刻だ。
それに、シドニア・ジャンパーには帝国軍人としての任務もある。
レフォード大学の財務状況を調査し、報告する必要があった……。
―――第九師団のグラム・シェア将軍にね、自分を左遷した人物であったとしても。
命じられれば従うしかなかったし、財務調査そのものは好きだった。
『プレイレス』の市民や都市国家政府が、大学半島にどれだけ投資しているか。
それは調べるべき行いであり、グラム・シェアは彼女の実力そのものは信じている……。
「私を左遷したというのに。頼るのだから。なかなかに食えないお方だよ」
「じゃあ、マトモなほうの仕事に行ってくるんだね?けが人のオレを置き去りにして」
「学生たちもリンチで君を殺そうとはしないだろう。狙うとすれば、私の方だろうが」
「そうはさせるか。オレが少尉のために、犠牲になるよ」
「可愛らしい態度だな。だが、そうはならないよ。ここの連中は、甘ったるい」
「……ああ。そうかもね。学生と、教師ってカンジだ。殺し屋の目をしているヤツは、あまりにも少ないよ。このままでは、脅威にはならないんじゃないかな?」
「万単位の戦力が構築されている事実。それを見逃せるほど、軍人というものは愚かでもないんだよ」
「ああ、そうかもね。そう言われれば、反論の仕方が見つけられなくなっちまうよ」
―――留守番が決定し、ノヴァークはシドニア・ジャンパーを見送った後。
借りた部屋の隅にあるイスに座った、彼にはこのころ仕事があったんだ。
競馬新聞に使うための、架空のレースのデザインだ。
あまり高度な仕事ではないけれど、慎重さは要求される……。
「ありえそうなレースと、ありえそうな結果を。『エサとしてのうまみのある勝率』のデザインをして、それが勝った試合も偽装する。嘘ばかりだな。覚えておくべき点が、どんどん増えちまう。少尉は、『いつか破綻するギャンブル』とは言っていたけれど。兵士たちは、このギャンブルに夢中だ。横流しをして得た資金の、ロンダリングにも使っている。悪い連中ばかりだ。だから、戦争に強いのだろうかね」
―――数学を習っておくと、詐欺師になったとき便利ではあった。
それでも歪みは消せない、痕跡と証拠が蓄積していく。
架空の情報を巨大なサイズで運用するのは、とてつもなく難しいってことだよ。
犯罪者らしく合理性のなかに、自分たちらしい『個性』も混ぜてしまう……。
―――そうさ、『7』の勝利がやたらと多くなっていくんだ。
まあ、常人には目につかないレベルに抑え切れているのは大したものだけれど。
愛しいシドニア・ジャンパーのために、彼女が好む数字を多用する。
可愛げはあるね、命懸けで戦う兵士に対して行う詐欺という点を除けば……。
―――犯罪者らしく、被害者意識をたっぷりに。
口笛吹きつつ詐欺のための、偽競馬新聞を書いていく。
大学半島の宿らしく、筆記に適した作業机がちいさな部屋にもついていた。
不本意な使われ方だろうが、その机は執筆作業との相性がいい……。
―――疲れにくい背もたれと、速記に適した硬さを持つ机。
カリカリカリと記述の音が、心地よい音となって部屋に響いていく。
いい仕事っぷりだった、少年は腹の痛みさえ忘れつつあった。
何せ麻薬の一種を、奥歯のあいだで噛んでいるからだ……。
―――シドニア・ジャンパーが、部屋から出ていく寸前にくれたものさ。
煙草なら吸ったことが彼にもあったが、奥歯で噛むタイプの麻薬は初めてか。
麻酔の仲間とも言えなくはないから、これはある側面では慈悲深かった。
歯茎にしびれが広がっていき、ノヴァークは痛みからの解放を味わう……。
「破滅するって、分かっていても。手を出しちまうバカな連中の気持ちが、かなり分かるよ。手足を失っちまった兵士たちは、こいつがどうしても必要なんだろうな。苦しいのも、痛いのも。嫌だけど。大ケガを負ってしまえば、その痛みから逃げたくなる。しかも、ついでに、心地いいならなおのことか。麻薬のビジネスも、やるべきだね、少尉は。いや、もう、やってるのか。オレには詳細を教えてくれなさそうだ。オレを、ガキ扱いしてるんだから」
―――独り言が増えてしまうのも、この種の麻薬の影響なのかもしれない。
ノヴァークは孤独だが必要な作業に、没頭していく。
がんばれば報われる気がしていたのかもしれないし、破滅を楽しんでいたのかも。
麻薬を噛みながら史上最大級の詐欺の片棒を担ぐなんて、不良少年冥利に尽きた……。
「一日、一日。オレは大人物に近づいているような実感がある。犯罪者ではあるが、それだけに、何からも自由でいられる気がするよ。ああ、シドニア・ジャンパー少尉。さっさと、帰って来てくれたら嬉しいね。麻薬を奥歯でいじめているおかげで、集中力がすごいんだ。もうすぐ、あんたのための仕事を、追えちまうぜ」
―――さみしがるノヴァークの声は、おそらく彼女には届かなかった。
あるいは届いていても無視を決め込まれた、ノヴァークは釣られ済みの魚で。
詐欺師の傾向に外れなく、シドニア・ジャンパー少は釣った魚にエサなど与えない。
苛烈な会計将校のひとりとして、無数の倉庫と無数の財務帳簿と対峙していく……。
―――大学の職員たちの反応は、おおむね良好と言うべきか。
亜人種の職員たちの警戒心は強く、それは至極当然ではあった。
会計将校が不正を『宣言』すれば、真実も虚構も関係なくなる。
帝国兵がやってきて、倉庫の中身をすべて奪い去るかもしれない……。
「従順であることだ。それを君らが弁えてくれるのなら、問題ないだろう。速やかに仕事をすまそうじゃないか、お互いのために」




