第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その八百九十五
―――新たな『道具』に堕ちた、あるいは価値が上がったのか。
ノヴァークにとっては、どっちでも良かったのだろう。
巨人族のチーフが戻って来ると、彼は大きな戸惑いと後悔を背負った。
多くのものを裏切ってしまったような気持ちに、なってしまったからだよ……。
―――教育者としての彼は、学問に対して情熱的であり紳士的だった。
多くの学生を善き方向に導くため、あるいは学問そのものを極めるため。
その種の努力を惜しんだことは、ほとんどなかったのだ。
あまりにも多忙なときは、もちろん除いてね……。
―――今この瞬間だって多忙であり、脅迫めいた状況そのものにあったけれど。
あの生意気な若者を救えなかったことを、彼自身の罪に思い始めている。
魔女にそそのかされる若者、その種の伝承に彼は詳しいのさ。
あらゆる地域の文化史に、魔女と交わり滅びの軌道に乗ってしまう伝説がある……。
―――女性に魔性を見つけられるのは、間違いなく男にとって幸福だからかも。
酒の肴に語り合い、酒場のホールの暖炉の前で歌われるには最適な物語だ。
教訓と冒険と悲劇と、ほとんど例外なく淫らな交わりの香りまでついてるからね。
原始的な静寂をたたえた雪深い夜には、魔女と若い男の破滅の歌が酒に合う……。
―――北方の魔女たちの伝承を想いながら、チーフは少年の未来を悲嘆した。
祭祀呪術の容器にされて、長く生きられるものだろうか。
ノヴァークが考えているよりは、ずっと深刻な現実が待っているだろう。
それだというのに、魔女にそそのかされた彼は笑顔で誇らしそうに……。
―――死を植え付けられたようなものである、その横腹を見せるのさ。
脂肪のついていない若い腹は、熟練の戦士ほど鍛えられていないのに。
美しさがあったけれど、獣のようなタトゥーを彫られた今は。
チーフにはとても汚らわしく見えて、無知な笑顔は罪悪感を煽るのだ……。
「どうだい、オッサン。カッコいいだろ。一人前の戦士ってカンジになれる」
「愚かな、ことだ。呪いになど……しかも、古く、強烈な呪術を研究する男の呪いを、その身に宿すなどと。さっさと、解き放つべきだ。軍人よ、君だって女性だろう?」
「女性だ。そして、会計将校である。私にとって、『軍の資産』を補強することは使命なのだよ」
「その少年のことを、『軍の資産』などと呼ぶべきではない。あまりにも、不謹慎だよ」
「チーフ。考え過ぎるな。彼の意志でもあるのだよ。この任務に、身を捧げるのは。人ってね、そうだろう?誰しも、誰かの役に立ちたいと願う」
「未熟な少年の心に、つけ込んでいるだけだ。君は、とても邪悪だよ。私が知っている、古き魔女たちの伝承に、同じ質を見つけられる」
「失礼だぜ、オッサン。オレの意志にとっても、少尉の使命感にとっても。少尉は会計将校なんだ。『損得勘定の魔女』であって、然るべきなんだよ」
「そんな認識は、早急に改めるべきだ。軍人だって規律は大切だ。まして、予算を扱うのなら。規律の無い予算の管理者なんて、腐敗の温床になる。そもそも……若者の命を、顧みない行為なんて、軍人としてもヒトとしても間違っている。いいかい、少年よ。君は、間違った道を進もうとしているのだ」
―――必死な願いが届くほどの距離に、心と心がいるとは限らない。
このときも、もちろんそうだったのさ。
それでも教育者らしく、告げておくべきだとチーフは考えていただけ。
底なしの堕落に進む、正しい軌道から外れてしまった若者を星の数ほど見てきても……。
「いつか、私の言葉を思い出してくれることを望む」
「そんな日は、来ないね。オレの父親にでも、なったつもりかよ」
「教育者の性というものだ。助言をしておくぞ、君は破滅の道にある」
「だから、何だって言うんだ?」
「自分の命や、人生そのものの価値を、ちいさく見積もるな」
「価値がないさ。価値がないから、それが欲しくてオレみたいな若いヤツらはあがくんだよ。どんな痛みにも耐えて、どんな末路だって喜んで……」
「刹那的な選択は、自暴自棄そのものだぞ」
「うるせえよ。ああ、ほんと。マジメなオトナってのは、役に立たないアドバイスばかりをしてきやがるぜ」
「『悪ガキらしい悪ガキだ。祭祀呪術にまつわるようなものを、腹に抱えているっていうのに。しかし、気持ちも分かるぞ。それがどこまで凶悪なシロモノなのか、お前は分かっちゃいない。恐ろしいものが何なのかさえ分からんという若さは、行動力の源でもある。夏まで生きていた。この日から。それで、十分な奇跡じゃある……問題は、ちゃんと今でもお前はそれの容器のままなのか。それだと、こっちとしては楽になるんだがな』」
「そろそろ失礼するよ、チーフ殿。そちらの助言、私は記憶しておこう」
「若者の命を、それに……少年の感情をもてあそぶな。大人だろう、君は」
「学生たちを相手にしている仕事なら、よく見聞きするものじゃないか?若者をたぶらかす、良くない大人たちの存在を」
「自分で、言うな」
―――嫌悪と軽蔑の表情を向けられたとしても、この女狐が傷つくはずもない。
誇りにさえ、思っているようなのだからたちが悪い。
あらゆる悪女は、どうしてこうも耐久性が高いのか。
むしろ悪評や軽蔑や警戒を、シドニア・ジャンパーのように愉しんでいる……。
―――ゾッとするような、悪女の笑顔に。
賢者は破滅を見て、恋に溺れる若者は幻惑された期待を抱く。
運命に裏切られても、後悔するなよという説教の声が。
恋する耳に届くなんて、あり得なかったんだよ……。
「では、これで。学長殿にも……もちろん。クロウ・ガートにも告げないように。私はどれだけの人数だって、報復のためには殺すよ。未来の予防のために。分かっているだろう?私の妨害をするような態度を見逃してやるのは、今このときが最後だ」




