第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その八百七十
―――『彼』は成長していたんだろう、詐欺師としてね。
生き方はさまざまあるものだけど、裕福な商人の家に生まれた少年でも。
それなりの教育を受けていたとしても、歪んだ成長をする者もいた。
『アドバイス』、いや『逆流』の呪術がにじむように『彼』の記憶を暴く……。
「常に、嘘をつくのだぞ。お前の母親について、お前の『血』について、誰にも知られてはならない。それは、お前のためにならないんだ」
「うん。分かっているよ、父さん…………」
「なんだ、その目は?」
「なんでも、ない…………」
―――誰もが強くはなれなかった、誰もが英雄にも反骨心の塊にもなれない。
『彼』も典型的な、ごくありふれた凡庸な人物だったようだ。
まあ、生活水準だけはやたらと高かったけれどね。
読む本にも困らず、食べる物にも困らなかった……。
―――それだけで、とてつもなく恵まれている立場ではあるさ。
文句を言える立場じゃない、『彼』は周りに守られて豊かな暮らしを享受した。
しかしね、それこそが『彼』のアイデンティティを裂きもしている。
分裂しそうな状態だったのさ、常日頃からね……。
―――『彼』は両親から愛されている、そして心配されてもいた。
『彼』の出自がバレてしまうことは、この家族を崩壊させることだ。
ハーフ・エルフでありながら、ハーフ・エルフでないと振る舞うこと。
常に自分がふたりいるような感覚を、多感な子供時代から過ごしていた……。
―――ソルジェの記憶にも、そんな苦労をしたハーフ・エルフは何人かいる。
帝国軍人の貴族の息子にもいれば、ビビアナ・ジーだってそうだった。
そんな日々が苦しいものであろうことは、ソルジェにも理解できる。
祖国を滅ぼされ、一族を皆殺しにされた男だって他人を同情できるのさ……。
―――どちらが苦しい人生だったのかを、論ずる意味はないんだ。
痛みは固有感覚だから、相手の苦しみなんて本当の理解は不可能だよ。
痛みは学び、教訓とするしかないものさ。
想像がつきはするだろう、同じような痛みならばほんの少しぐらい……。
―――『彼』は孤独だった、ストラウス家の四男坊と似てはいる。
祖国の人々を虐殺され、国境線から生き延びた者は数人だけ。
それほどの苦しみと比べると、大したことはないかもしれない?
そうじゃないのさ、ヒトには自分の苦しみだけが絶対だからね……。
―――広い空の下にある大陸のすべて、どこにも自分を知っている者がいない。
あるいはガルーナでの日々を語り合える相手が、まったくいないんだ。
祖国の人々を殺され尽くす痛みなんて味わうと、まあ鈍感にだってなるかもね。
それでもソルジェは同情していた、なかなかの成長なんじゃないかな……。
―――あるいは、心の傷が癒えて鈍感になってしまうほどの絶望が癒えつつあるのか。
本人にだって、分かりはしないものだよ。
痛みに強いタイプの心があって、ソルジェだとかプレイガストはそうだろう。
世界を支配する大国の皇帝を殺そうなんて、常人は考えたりしないから……。
―――尽きぬ怒りは、純粋な傷跡が教えてくれる教訓に裏打ちされているのかも。
無数の戦場で敵を殺し続けた英雄も、残酷な拷問と虜囚の苦痛に耐えた男も。
どちらの心も、当然ながら傷まみれじゃあった。
ソルジェは少なからず、同情してやれている……。
「マリウス。あなたは、幸せになるのよ」
「分かっているよ、母さん」
―――魔力が強い者は、どちらなのかと言えば。
人間族の父親よりも、エルフの母親の方というのは真実でね。
その結果、呪術の負担は彼女が多く受け持った。
ゆっくりと呪術に蝕まれ、彼女もかなり弱っている……。
―――幸い、死んではいないのさ。
ただの幸運に恵まれた結果であり、他のケースより何が良かったわけではない。
まだ死んではいない、だが弱りつつある。
それもまた自分のせいだと信じ込むことは、『彼』には辛かった……。
―――『マリウス』と呼ばれる声に、弱々しさを見つけるたびに。
『彼』はとてつもなく苦しくて、演じるだけの自分の日常が苦しかった。
ビビアナ・ジーに比べると、その日々は心理的な負担だったのかも。
ビビアナの保護者は、『人買いのリーダー』で恐れられていたからね……。
―――ただの商人である『彼』の父親は、メダルド・ジーほど強くはない。
メダルドは異常なケースだ、比較してやるのはフェアじゃないだろう。
ほとんど生まれ持っての力に守られている者もいれば、そうでない者もいた。
『彼』の日々は、いずれにしても引き裂かれ続けていく……。
―――帝国軍の侵略に対して、故郷はあまりにも弱かった。
父親がそうしろと言ったように、故郷の市民軍を応援したけれど。
物資の提供に、兵士養成訓練に参加したりもしたのに。
いともたやすく、あっさりと十大師団でもない雑兵の群れに敗北した……。
―――うなだれて未来に怯える両親と、帝国に媚びる周りの人々。
大人たちの弱さは、『彼』にどれだけの苦痛を与えてしまったのか。
戦争の傷跡というのは、政治的な価値観にも及ぶものさ。
敗北者には負け犬の心理構造を与え、それは永遠のものとなる……。
―――ソルジェやプレイガストになれるのは、多くはないのさ。
周囲に失望した『彼』は、少年らしくグレたというわけだね。
単独でもいつか復讐を成し遂げてやる、なんて異常な強さは選ばなかった。
竜騎士でもなければ呪術師でも数学者でもなく、ただの子供だったからか……。
―――あるいは、これも生まれついた性格の違いかもしれない。
『彼』が選んだのは、自分たちへの嫌悪感だ。
困ったことに、それでいて帝国軍ももちろん大嫌いだったりする。
『彼』の心は、よりどころを求めながらも反抗期を深めていく……。
―――シドニア・ジャンパーが、『彼』の人生に入り込んだのは。
金持ち学生である『彼』が、彼女主催の競馬で大勝した日の夜だ。
帝国兵の前で見せびらかすような態度をしたのが、運の尽きだった。
兵士に囲まれて、殴られたのさ……。
―――殺されそうになったとき、それを助けてくれた。
シドニア・ジャンパーは、『彼』の命の恩人だ。
だから、従ったわけじゃない。
彼女にすべてを、一瞬のうちに見抜かれたからさ……。




