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 殿下はまだ完全に回復していない時にもベッドの上でたくさんお仕事をしていらっしゃったのに、回復したとたん、怪我をなさる前のように……ううん、それ以上に働いておられる。そのお姿を見て、私はひやひやしていた。……だけど、心配なのは殿下だけではなくて。


「アイリス様、なにをお考えですか。」


 最近アイリス様は、よくこうしてぼうっとどこか遠くを見つめられることが多くなった。


「あぁ…、カーネラ。」


 アイリス様の笑顔が、どこか弱々しい。


「何でもないの。大丈夫。」


「……そうですか?」


「うん、本当よ。グレン様が居て下さるから、大丈夫。」


 そう言って笑ったアイリス様がはかなげで、私はなにも言えなかった。こうなったらきっと、アイリス様を笑顔にできるのは私ではなくて。

 タイミングよく、コンコンとドアをノックする音がした。


「済まない、アイリス。少し遅くなった。」


「あ…、グレン様。」


 ほら、とても。


「いいえ、全然大丈夫です。」


 とても嬉しそうな表情をなさるの。


 なにが起こっているのかは分からない。なにも無ければ良いと思っているけど、なんだかよくないことが起こっているような気はしている。だから、なにがあってもどうか、お二人がいつも、笑顔でいられますようにと、私はそう願わずにはいられなかった。


 今日は、アイリス様と殿下が一緒にお庭にお花を見に行くことになっていた。

 けれど、アイリス様が鳥の話をしたら、何故か殿下は足を止めてしまって、結局ギルバートさんと一緒にもう一度陛下の元へ。……鳥になにか思うところがあったのかしら? なんにせよ、深刻な顔をされた殿下をお止めするわけにもいかず、アイリス様と一緒に先にお庭に向かうことになった。


 いつも通り、庭師のラングリーさんに挨拶をした後、今日は一緒に花を見てまわった。


 ラングリーさんはお孫さんに呼ばれて行ってしまわれたので、アイリス様と二人で、お庭を見てまわりながら殿下をお待ちすることになった。


「あ! あそこまだ見てなかったよね? 行きましょう!」


 しばらくゆっくりと歩いていたけれど、アイリス様はそう言って駆け出した。


「あ、アイリス様! そちらはこの後殿下とご覧になる予定の……」


 私が声をおかけした時には、アイリス様は既に花壇の前にいた。そのまま、立ちすくんでしまったアイリス様。殿下と見るはずだった花を先に見てしまってショックだったのかしら、と思ったけれど、聞こえてきた声に、そうではないと気付いた。


「…………う、そ……」


 固まり、青ざめた表情になったアイリス様。


「アイリス様、一体どうなさいました…?」


 どうなさったのか心配になって行ってみたはいいものの、私まで立ちすくむことになってしまった。



「……黒い、アイリス……」



 そこに咲いているのは、黒いアイリス。

 嘘だ、と思った。確かに、陛下はアイリス様のことを好いていたように見えなかった。でも、それでも、実の娘なのに。お嫁に行く娘に、全てを否定する、黒い色をしたアイリスの花の球根を持たせるなんて。


 でもきっと、私以上にアイリス様は動揺しているはず。


「お父様は…――」


 アイリス様の言葉を聞いて、なにか言わなければと思ったけれど、言葉が出てこなかった。何と言っていいのか、わからなくて。

 震えているアイリス様の手を見て、私は唇を噛んだ。



「生まれてこなければよかったのに。……とでも言いたげじゃな。」



 突然聞こえた声と共に現れたのは、扇を広げて口元を隠し、妖艶な笑みを浮かべたアルメリア様だった。

 謹慎中だと聞いていたのに、どうして。そう思っても、一介の侍女である私が、アルメリア様にそんなことを聞けるはずもなくて、なにもできなかった。


 殿下が現れて安心したのもつかの間。殿下が黒いアイリスの花を美しいと認めたことで、アイリス様は倒れてしまわれた。


* * *


 結局、なにもできなかった……。


 殿下には、誰かに庭へ行ってラングリーさんたちにアイリス様は大事ないと伝えさせるよう言われたけれど、私は自分で庭に行った。動いていないと、落ち着かなくて。

 それから、アイリス様が運ばれた医務室の前まで戻ってきたは良いけれど、私はドアノブに手をかけようとして、できなかった。


 黒いアイリスを見たアイリス様に、何て声をかければ良いか分からなかった。アルメリア様の言葉にショックを受けておられるアイリス様に、なにもできなかった。アイリス様を、お守りできなかった。


 そんな、自責の念が湧いてきて……


「カーネラさん。」


 名前を呼ばれて、思わずビクッと肩を揺らしてしまった。後ろから現れたのは、本や書類を持ったギルバートさんだった。私が固まっていると、ギルバートさんもしばらくなにもおっしゃらなかった。……けれど、不意に、ギルバートさんは表情を和らげられた。


「お願いを、聞いていただいても良いですか?」


「……お願い、ですか?」


「はい。申し訳ないんですけど、両手が塞がっているので、代わりにドアを開けてほしいんです。……お願いできますか?」


 ギルバートさんの持っている本や書類の量は、それほど多くない。きっと、頑張れば自分でドアを開けられるはずだ。……それなのに、私に頼むということは。


「はい、分かりました。」


 中に入りづらい私の、背中を押してくださっているんだわ。押し付けがましくもなく、自然に。


「……ありがとうございます。」


 ドアを開けながらお礼を言ったけれど、ギルバートさんは首を傾げて、微笑んだだけだった。でも、一緒に行こうと言って下さっているような気がして、私は勇気を出して、ギルバートさんに続いて中に入った。



「カーネラ。」


「は、はい。」


 殿下はギルバートさんから書類を受け取ったので、そのまま仕事をなさるのだと思っていた。だから、紅茶でも用意しようかと思っていたところに声をかけられたので、とても驚いてしまった。


「その……あの花は……」


 殿下が気にしていらっしゃることがなんとなく察せられて、私はこくりと頷いて、口を開いた。


「はい、フィジーライルの国王陛下からお預かりしたもので間違いありません。」


「黒い花は、見たことがないんだが。」


「……陛下は、亡き王妃様の影響で、お花がとてもお好きでしたから……品種改良にも、携わっておられたと思います。」


「では、わざと黒いアイリスの花を持たせたということか…?」


「そう……なるかと。」


 しばらく、沈黙が続いた後。殿下は目を閉じて、ふーっと息を吐かれた。


「分かった、ありがとう。」


 私は、いいえと首を振った。


「俺はこのまま、アイリスが目を覚ますまでここにいるつもりだ。お前も居てくれていいし、他に仕事があるなら下がっても構わない。」


「はい、かしこまりました。」


 私は頭を下げて、部屋を後にした。私は私のできることをやって、アイリス様が目を覚まされるのを待とうと思って。それに、隣に殿下がいて下さるのだから、アイリス様はきっと大丈夫。

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