三章 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
※※※
あぐりが帰ってすぐ、あたしは屋敷を飛び出した。
後ろから乳母が大あわてて着いてくる。
「姫様、そんなに走らないでくださいませ」
「後からゆっくりきて大丈夫よ!」
乳母に叫ぶように答えて、あたしは一条の方角に駆けていく。
目指すのは、元興お兄様の住む、手向山家のお屋敷。
二条にあるうちの屋敷とは、ほんの少しの距離なのに、心臓が爆発しそうなほど、遠くに感じる。
つらなる屋敷を覆う板塀が続き、牛車ではなく馬の足跡が、道の土に残っている。
ああ、板塀から梅の枝が突き出している。白梅が二輪、咲いている。手向山のお屋敷だ。瞬間、元興お兄様の高い背が見えた。
「元興お兄様ーーーっ」
大声でお兄様を呼び、大きく手を振るあたしに気づいて、お兄様は驚いたようにこちらを見た。従者に何か言って、お兄様もこちらに駆けてくる。
狩衣姿ってことは、御所の外でお仕事だったのかな。ああ、お兄様、足が速いな。
ちょっと的外れなことを考えていると、お兄様が目の前に立ち止まった。
「どうした、白乃」
息を切らしているあたしに対し、お兄様は息一つ乱していない、あたしはあわてて、明るい笑顔を作って言った。
「今、うちにお汁粉があるのよ。元興お兄様も食べに来ない?」
元興お兄様は、追いつくのをあきらめて、背後からゆっくり来る乳母と、あたしの呼吸が定まらず上下する肩を見て、言った。
「馳走になろう」
元興お兄様の表情は、いつも通りの無表情で、あたしはすごくホッとした。
「それじゃレッツゴー」
空元気で、あたしは家まで歩き出す。お兄様は無言で着いてきた。
※※※
自室の火鉢はまだ片付けられてなくて、乳母は「まったく、いきなり走り出すなんて、火の始末ぐらいさせていただかなくては」と、軽くお小言を言って去って行った。
お兄様とあたしは、火鉢をはさんで向かい合う。
「で」
いきなりお兄様が切り出した。
「あ、お汁粉はねっ。待ってて、お姉様が今、運んできてくれるそうよっ」
あたしが急いで答えると、お兄様はぶっきらぼうに質問し直した。
「何があった」
「……っ」
あたしは何も言えなくなる。何を言っても、自分が何もかも全部だめだから。
膝に手を置いて、袿をぎゅっとにぎり、ぶるぶる震えながらあたしは黙る。黙るしか、できない。
ふいに、お兄様が動いた。
お兄様の広い狩衣の袖が、ふわっとあたしの顔を隠す。
「言えるようになったら、言え。どんな内容でも、必ず聞く」
「必ず? 絶対?」
何度も問い返すと、元興お兄様はしっかりと、言葉を返した。
「必ずだ。お前の話なら、どんな話でも必ず聞く」
くちびるをぎゅっとつむって、泣くのをこらえているのを、お兄様の袖がかくしてくれて、よかった。
「あのね……」
あたしがくちびるを開いた瞬間、お姉様の声が几帳の外からした。
「元興様、白乃、お汁粉を持ってきたわよ」
元興お兄様が音もなく、あたしから離れる。お姉様は品良く、お汁粉をおぼんに二つのせて、部屋に入ってきた。
「寒い中よくいらっしゃいました」
お盆を床に置くと、お姉様はいつもと違って丁寧な仕草で、元興お兄様にお辞儀をした。
「元興様、長々とお世話になりました」
元興お兄様は、めずらしく驚きを顔に出した。お姉様はお辞儀をしたまま続ける。
「この度、斎宮の巫女に任ぜられました。富勢の地にて手向山家の繁栄と、元興様の武運長久を、生涯お祈りいたします」
そしてお姉様は顔を上げると、口元を袖でおおってコロコロ笑った。
「元興様の驚いた顔、ひさしぶりに見たわ」
元興お兄様は驚いた顔のまま、固い口調でお姉様に言った。
「おめでとう」
京で誰もが恋をするお姉様と、あたしが誰より恋をしているお兄様は、とてもお似合いに見えた。
「琴子お姉様、お汁粉食べていったら?」
「まあ、どういう風の吹き回し?」
琴子お姉様が肩をすくめるのに、あたしは口早におどけてみせる。
「積もる話もあるでしょうから、お汁粉と部屋、ゆずってあげる。感謝してよね」
琴子お姉様は、安心したような息を吐いた。
「ありがとう、白乃」
昔話を始めた二人を置いて、自室の几帳から外に出て、あたしも思わず息を吐いた。
あたしも、安心したから。
お姉様の部屋に向かう。途中、お母様から新しい筆と、和紙を一枚もらう。
「まさかとは思いますが、恋和歌なんか書くんじゃありませんよ」
「もちろん」
お母様の注意にはもちろん書かないと答えたけれど。
お姉様の部屋に入った私は、紙を床に、置き、『小倉百人』を頭の中で開いた。
大きく深呼吸をする。
全部話そう。全部終わったら、元興お兄様に全部話そう。
あたしは、茂伸お兄様にも、鈴子にも、自分の思いを伝えきったのではなく、思いが届かないわけが他にあるって理由で、思いを伝えきるのをやめてほしくない。
そうなんだって、自分に言い聞かせる。
和紙をじっと見つめ、筆を手に取る。
墨の香りが、立ちこめ始める。
空中に文字を書く。
『あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の』
書いた文字が鳥の姿に変わる。
頭が黒く、腹は白く、羽は灰色で長い尾になっている山鳥だ。
山鳥は優雅に、板張りの屋根近くまで舞い上がる、
下の句を筆先から、空中に書く。
『ながながし夜を ひとりかも寝む』
筆先から夜の暗闇がほとばしる。
和歌の意味は、ひとりぼっちの夜は長い。あなたに会いたい。
筆をすっと空中に引いたとき、筆から生み出した夜に、満月が現れた。
和歌に描かれていない情景まで、現せたのは初めてだ。
あわてて術者たる歌人の名を書く。
『柿本人麻呂』
現せた夜が、床の和紙に収束され、最後に鳥がピィと鳴いて、和紙に飛び込んでいった。
できた。さっそくあぐりに渡しに行こう。
破壊魔陰陽師元興お兄様、話はちゃんと聞くタイプの男でした。さて、白乃は話せるのか……?
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