二章 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ
恋和歌が原因のけんかじゃなかったら、もっと早くに仲直りしてるはずなんだ。
自分から言い出しにくくても、元興お兄様にお願いしてさ。
『琴子、白乃があやまってるぞ。許してやれ』
って言ってもらって。そしたら冷たいお姉様も、あっさり許してくれるんだ。
でも、今回はちがうから。
お姉様と顔を合わせると、むくれっつらがやめられない。
だって、真剣な恋なんだよ?
真剣に相手が恋してるのに、むげにあつかっていいはずない。
今回は絶対、お姉様が悪いんだ。
「白乃、白乃」
いつの間にか隣に来たあぐりが、ちょ、ちょとあたしの袖を引いた。
「何、あぐり?」
「茂伸お兄様は、琴子様がお屋敷にいてくださって、安心なさってると思うわ」
「え……どういう……あ!」
あぐりの言葉の意味に思い当たって、あたしは大声を上げた。
「今日、渡されるの!?」
あたしの大声に、あぐりがこくんとうなずく。
茂伸お兄様、琴子お姉様に今日、恋和歌を渡されるんだ。
「そっかそっかー! じゃ、今日、お姉様は留守番でよかった! 逆によかったってヤツじゃん!」
「白乃、声が大きいわよ」
鈴子が半目で注意してくるので、あたしはあわてて手で口をふさぐ。
自分の手のひらにおおわれた、口角がつり上がるのが止まらない。今度こそ、お姉様は恋和歌を受け取られるはずだ。
「ったく、ほんっと恋和歌以外全部がさつなんだから。琴子様の爪の垢でも――」
言いかけた鈴子の言葉が切れる。あたしとあぐりも、声も出せずに棒立ちになる。
鈴子の真横。梅の枝の上に。
鬼がいた。
※※※
鬼を見るのは初めてだ。でも、確かに鬼だと感じた。
大人の腕一本ていどの背丈に、ぎょろぎょろと黄色い目玉と、黄色い角が頭に生えている。平たい岩のような、いびつにでこぼこした頭だ。
首から下は裸で、水を飲み過ぎたように、いびつに腹がふくれていた。
手足はむき出しで、小刀のように大きくするどい爪が生えている。
鬼はにたっと口を開いた。口にも、小刀のような歯が、じゃらじゃらとたくさん生えていた。
「鈴子ッ」
とっさに、あたしは走り、鬼が手を伸ばす前に、鈴子の体を突き飛ばした。
「白乃……」
抱きつく形になった鈴子の体が、恐怖でガタガタ震えている。震えているのはあたしも同じだ。どっちが震えてるのか、わからなくなってる。
「白乃……」
鈴子が真っ青な顔で。あたしを呼んだ。名前以上を口に出すことができず、鈴子はただ、小袿の袖を見せる。
袖を見たあたしも真っ青になった。小袿の袖に染め抜かれた鼓が、真っ二つになっていたのだ。鼓の半分が、鬼の鋭い爪で布ごと切り落とされていた。
まるで、鼓が首を落とされた罪人のように見えて、あたしの背筋がチリけだった。
「きゃあああああッ」
やっとあぐりの悲鳴が響き渡った。鬼はまたさっきの梅の木の枝に戻っている。
またあの爪が襲ってきたら――。
あたしはなんとか逃げようと、鈴子を抱き起こそうとした。
「白乃、ダメッ」
鈴子がとっさに、体を反転させ、逆にあたしに覆い被さる。
「鈴子、なんで!」
逃げなくちゃ、と言う前に、あたしは鈴子の行動を理解した。
鬼の黄色いぎょろぎょろした目と、あたしの目が合ったからだ。
いつの間に切られたかわからない袖。あんな速さで追いかけられたら、鬼からは絶対逃げ切れない。
何より、鬼の目が言っている。
『にがさない』
でも、このままじゃ、鈴子があたしの盾になったままじゃ――。
鬼が飛びかかってくる。鈴子の首から上が切って落とされた。あたしは思わず目をつぶった。
でも、浴びるはずの血しぶきはふってこなかった。
かわりに、低い声が降りてきた。
深緋色の狩衣で、烏帽子は巻纓冠。そして右手に、太刀【鏡花】
元興お兄様の背中が、目の前にあった。
元興お兄様は、もう一度低い声で聞いた。
「大丈夫か」
「だい、じょう、ぶ」
あたしが元興お兄様にようよう答えると、元興お兄様は
「そうか」
と短く答えた。次の瞬間、梅の木が倒れた。
元興お兄様太刀【鏡花】を抜き、梅の木を横薙ぎに斬り払ったのだ、と一拍おいてわかった。
【鏡花】は太刀の中でも野太刀と呼ばれる実戦用の太刀で、大ぶりな刀身は、お兄様の足ほどの長さがある。
名前の通り、鏡のようにうつくしい刃に、血の花が咲いた。
お兄様は、梅の木を斬ろうとしたのではない。
梅の木ごと、鬼を両断しようとしたのだ。
鬼の血が、刃に咲いた。
しかし、鬼の動きは素早く、鬼の腕一本を斬り落としただけで、お兄様は鬼の追撃に移った。
咆吼。
聞こえた咆吼は、鬼の声かと思った。
ちがう、お兄様の咆吼だった。
お兄様は獣のように吠え、頭上に【鏡花】をふりかぶって、鬼を頭から両断しようとした。
お兄様、怒ってる。
空気がお兄様の殺気に震え、肌を刺すように痛い。
鬼がまた素早く逃げようとする、お兄様が吠える。
一閃!
大きく振りかぶった鏡花を横薙ぎに斬り払い、お兄様は、辺り一帯の梅の木を、弧を描く形ですべて切り倒した。
梅の木から梅の木へ、飛び移って逃れようとする鬼は、お兄様の一閃で首を真っ二つにされ、頭がコロコロと木の根元を転がった。
「きゃああああッ」
おもちゃのように転がった首を見て、鈴子とあぐりがまた悲鳴を上げた。
鬼の牙の間から、だらりと舌がたれている。
一度悲鳴を上げた後は。あたしたちは無言だった。
無言のうちに、鬼の骸に、青白い炎がともり、骸を焼き尽くしていく。
「おい」
お兄様が、くるりと振りかえって声をかける。
空気を震わせるような殺気は消え、お兄様の無表情には、やさしい心配の感情があった。
「けがはないか」
「へひッ」
怯えた鈴子がよくわからない返事をして、あぐりと言えば返事もできないので、あたしがお兄様の質問をやりなおす。
「あたしはぜんぜんけが一つないけど、鈴子とあぐりはけがしてない?」
二人はぶんぶん首を横に振る。
「けががなくてよかった。ごめんね、あたしがさそっちゃったせいで」
「し、白乃のせいじゃ……」
あたしの謝罪に、あぐりがあわてて否定を入れてくれる。
「おい」
お兄様がいきなりあたしの手をつかんだ。
「え、あ、な、何」
あたしの一気に体温が上昇し、ぼふっと顔が赤くなるのを感じる。
お兄様は平静な態度であたしの手を掴んだまま、袖を単までがばっとめくる。
「してるじゃないか、けが」
あたしの腕には、転がったときにすりむいた傷があった。たいしたことないから、隠そうとしたのに、ソッコーバレた。
怒ったように言うお兄様は、それでもあたしの腕をやさしく持って、腰に下げた革袋から、はまぐりの容器を取り出した。
お兄様の、さっきまですさまじく太刀を振り回していた腕が、あたしの腕を握ってるーーー!
固くて大きい手なわけだわ、あんな、あんな戦いをするんだから。
「しみるぞ」
無骨に警告して、片手で器用にはまぐりを開けたお兄様は、中に入っている塗り薬をあたしのすり傷に塗った。
「いだだだだだだッ」
思わず悲鳴を上げてしまう。ほんっとにしみるよこの薬!
でも、お兄様に手当てしてもらえて……。なんか、さっきまでのすっごく怖かった気持ちまで、じんじんしみる薬が治しちゃったみたい。
今はなんだか、ふわふわぽわぽわ、あったかい気持ちになってる。
お兄様はあたしの手をぱっと、放すと、鈴子に向き直って告げた。
「気をつけろ。鬼が近づく」
「えっ? は、はいっ」
鈴子が、めずらしくオロオロと返事をする。お兄様はうなずき、私たちに背を向けて去ろうとする。
「待って! お兄様!」
あたしの言葉に、お兄様が振り返る。
「なんだ」
聞いてから、お兄様は、「ああ」と独り合点した。
「壊した梅園の件は、陰陽寮が後始末をする。お前たちが気にすることはない。ほとんど俺が壊したのだからな」
「それは実際お兄様が壊したから……。じゃなくてっ」
あたしは、いぶかしげに「じゃあなんだ」ときいてくるお兄様に、頭を大きく下げた。
「助けてくださってありがとうございました、元興お兄様っ」
ブンッと音を立てんばかりに下げたあたしの頭に、元興お兄様はぽんと手を置いた。
「気をつけて帰れよ」
「はいっ」
安心とお兄様を好きな気持ちが一気にあふれて、あたしは思わずガッツポーズをする。
「そこの二人もだ。気をつけろ」
鈴子と白乃にも、お兄様は注意すると、タンッとお兄様は軽く跳ねた。
瞬間、お兄様の姿が消える。
目をこらすと、遠くまで一瞬で飛び跳ね、走り去っていくお兄様の残像が見える。
「え、あ、えーっ」
お兄様の身体能力に、びっくりして黄色い声を上げてしまった。
元興お兄様が戦っているところを実際に見たのは初めてだけど。
思い返せばなんて迫力! たくましさ! 強さ! かっこよさ!
「絶対に元興お兄様と結婚するー!」
黄色い声を上げ続けるあたしの背後で、あぐりがこそこそと鈴子に話しかける。
「助けてくださったのはありがたいけど、元興様って、すごくこわい方ね……。戦い方が、なんか……迫力というか……危ないっていうか……」
鈴子もこそこそあぐりに返す。
「元興様だけはないと思ったわ。こわすぎるもん。献花梅園をこんなに壊さないわよ、普通」
あぐりは同意が返ってきて、ホッとした仕草をし、本当に聞きたかったことを鈴子に問うた。
「ねえ鈴子、鬼に狙われるような心当たり、あるの?」
「心当たり? なんで?」
「だって、元興様、鈴子だけに言ったわ。「鬼が近づく」って」
鈴子は「んー」と口元に手を当てて考えたが。
「ないわね……。っていうか、鬼なんて今日、初めて見たし」
首を振って否定し、笑って見せた。
「まあ、心当たりがないんだから、気にしようにも気にできないわね」
その笑顔があまりにぎこちないので、あたしは鈴子に走り寄って、彼女の両手をにぎった。
「一人で思い詰めないでよ! さっきも盾になんかなってくれちゃってさ!」
あたしの言葉に、鈴子はぷっと吹き出す。
「先にかばったのはあんたでしょ。自分を棚に上げちゃってさ」
「それもそうだけど、今はいいじゃん」
「よくないわよ」
クスクスと笑い合ったあたしたちは、お互いに両手を握り合って言った。
「ありがとう」
遠くからやっと、騒ぎを聞きつけたお父様とお母様が供と走ってきた。
「どうしたというのだ、この惨状は! 野党でもここまでは荒さんぞ!」
「ヒグマでも出たのですか!? けがはない!?」
「旦那様、お方様、こいつぁ竜巻ってヤツですぜ! 昔噂に聞きやした!」
命の恩人がひっどい言われよう……。
大男のチャンバラアクションはよいものです。鬼の襲来に物理で対抗する陰陽師が、ヒロインの相手役でした。(白乃以外全員引いてるのは笑うとこです)
本日より毎日20時ごろ更新に変更となります。よろしくお願いいたします。また、ブクマ評価なども重ねてお願い申し上げます。




