一章 『小倉百人』なら誰にも負けない
あぐりと鈴子が帰った後、自室に戻ったあたしは御簾をすべて下ろす。
木造の床と壁に包まれた部屋の空気は、一瞬ひんやりと冷たくなり、あたしは大きく息を吸って吐いた。
床に、漉かれたばかりの紙が一枚置く。
箱から筆を一本取り出す。恋和歌に使用する筆は、一度も墨にひたしてはならない。
真っ白な筆を右手に持ち、頭の中で和歌書を紐解く。
名手と呼ばれる人たちは、『古今』『新古今』『万葉』むずかしいと評判の『金槐』『赤光』まで、自在に使いこなすけれど。
あたしが使える恋和歌は、入門書の『小倉百人』だけだ。
和歌書の中でも、術として使いやすい歌を、百首集めた入門書だけ。
でも。
「『小倉百人』なら誰にも負けない」
頭の中でひらいた『小倉百人』のうち、茂伸様にふさわしい一首を考える。
お姉様が思いを受け入れてくれなくて、それでもお姉様に思いを伝えたい人。
なら、この和歌がふさわしいはず。
あたしは手にした真っ白い筆を、空中にすべらせ、字を描く。
室内に、墨の香りが立ちこめる。
『ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ』
筆に雫がひとりでにたまり、ぽたぽたと透明な水が流れ出す。水は筆先からあふれて止まらない。あたしはさっと筆先を空中に走らせる。
『末の松山』
そう書いた筆先からあふれた水が、御簾に向かって輝き、御簾の前に松林が浮かび上がる。
青々とした松は、しずくを受けてきらきらと光る。
『波こさじとは』
結びの言葉を空中に描くと、松林が大きく上に盛り上がり、山の上にあったとわかる。山の下には波高い海。墨の香りが潮の香りに変わる。海の波は、大きく跳ね上がる。
それでも波は山に届かず。部屋の中に浮かんだ景色は霧となり、墨色の文字となって床に置かれた紙に封じ込められた。
『清原元輔』
最後に、和歌を作った術者たる歌人の名を空中に描くと、紙はひとりでに動いてたたまれる。
恋和歌の完成だ。
受け取った人が紙を開けば、今のと同じ風景が現れる。
恋心をこめたまぼろしを送る術、これこそ恋和歌。
書いた者の思いが強ければ強いほど、まぼろしは大きくうつくしくなる。
と、いうのは通説で、男しか信じてなかったりする。
うーん、そこはほら、体重と同じっていうか。
男が美人だと思う女の体重が、現実にはガリガリすぎてきれいでもなんでもない体重って、女なら知ってるけど言わないじゃん?
美人が本当の体重を男に言うかっていうと、それも言わないじゃん?
おんなじおんなじ。
実際には恋和歌を誰から受け取ったか。どんな内容の和歌を選んだか。そっちの方が女には重要。
でも、受け取ったときに相手をいいなって思ったら、恋和歌が大きくうつくしかったって伝えるわけよ。
だって恋和歌を送られた段階で、相手が自分を好きなのはわかってるんだから、じゃあ、強い思いを受け取ったって答えるでしょ。
強い思いに応えますって、すっごく強火の返しになるもん。なんだかんだで女の子って、恋のためなら手段を選ばないものよ。
本当のところは、恋和歌の上手い下手は、純粋に技術の問題なのよね。
和歌書から、状況に的確な和歌を選抜して、的確であればあるほど、大きなまぼろしが作れて。
まぼろしをなるだけ大きくできたら、後はどういうまぼろしにするかっていう、センスと見せ方の技術がすべて。
もし、未来に物語とか景色を映像として、自由自在に映せる板ができたら、どういう風に映像でひとの心を捕らえるかっていう、恋和歌と同じ技術が必要とされるんじゃないかな。
まあとにかく、恋和歌の善し悪しは全部技術技巧なのよ。
だから、あたしは代書をするの。恋和歌が下手ってだけで、恋心を過小評価されちゃたまんないでしょ。
代書するのはたいてい型破りな女の子の恋和歌で、茂伸様みたいに男の人から頼まれるのはめずらしいんだけどね。
代書って女の子の秘密だからさ。よっぽど心を許した男の人を、助けてあげたいと思わなきゃ、教えてあげたりしないもん。
教えられても、男の人ってみんな、思いの強さが恋和歌の上手さって信じてるから、ホントになすすべナシにならなきゃ頼まないし。
教えたあぐりって、お兄さん思いだよね。恋に悩んでる茂伸様が、見てらんなくなっちゃったんだろうな。
したためた恋和歌を手に部屋を出て、パタパタと走り、お姉様の部屋に急ぐ。
几帳で仕切られたお姉様の空間に、声を張り上げて呼ぶ。
「お姉様っ!」
「どうしたの白乃」
琴子お姉様の落ち着いた声が、几帳の向こうからした。
「ちょっといい!?」
「いいけれど。少し落ち着きなさい」
落ち着いた声で落ち着きなさいってたしなめられたけど、これでも落ち着いてる方よ! 落ち着いてる証拠に走るのを小走りにして、几帳の向こうに飛びこんでいく。
「お姉様っ! 柳茂伸様から恋和歌が届いてるわよっ!」
あたしの声に、琴子お姉様はゆっくりと顔をあげ、漢詩の本に乾かした紅葉の葉をはさんでしおりにした。
縹色の袿に落ちた黒髪が、神話に聞く織り姫を思わせる、京で一番の美女とうたわれるお姉様。
お姉様の濃い黒の瞳が、あたしの手にある恋和歌を見やる。
「そう」
短く答えて、お姉様はとんでもない依頼に続けた。
「あなたからの恋和歌は受け取りませんって伝えておいて」
「そりゃないよお姉様!」
思わず大声になってしまう。
「どうせあなたの代書でしょう? なら、返事もあなたが代わってくれればいいんじゃなくて?」
代書であることを見抜かれたのに、あたしは一瞬詰まる。でも、でも、代書だからって軽んじるなら、ちがう。
琴子お姉様の涼しい顔に、あたしはまくし立てていく。
「男の人は自分の思いが強ければ強いほど、恋和歌は大きくうつくしくなるって信じてるの。なのに代書を頼んでくるって、せっぱつまってるんだよ!? お姉様に恋い焦がれてわらにもすがるって気持ちで、あたしに代書を頼んでるの! 相手の気持ちになってみてよ!」
「そうね」
お姉様は、声のトーンを一切上げずに質問してきた。
「使った和歌は何?」
「それは……読めばわかるでしょ」
「読むかどうかは和歌で決めるわ」
そんな……、和歌を選んだのはあたしだ。和歌だけで読む読まないを決めるのは、あたしのセンス次第で、茂伸様の思いの強さを推し量るってことになる。
それは、なんか。
「決める根拠がずれてるよ、お姉様」
お姉様は動じない。
「決める権限は私にあるのよ、白乃」
私はしぶしぶ、使った和歌を詠み上げる。
「ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ 末の松山 波こさじとは」
「白乃」
琴子お姉様は檜扇を文机から拾って、口元を隠し、言った。
「読む理由がなくなったわ」
「なんでよ! 茂伸様の気持ちは――」
「白乃」
お姉様は冷たい口調で告げる。
「その和歌は、固く誓いで結び合った相手に対して、誓いを反故にされた恨み言の歌よ」
「だから、書庫でまたお会いする約束をした、茂伸様の気持ちをこめた恋和歌にしたのよ」
「白乃」
琴子お姉様の口調が、冷え切ったものに変わった。怒ってる。あたしは思わずびくりとする。
「あなたは何も、わかってない」
「お姉様……」
言い返そうとするが、言葉が出てこない。お姉様だってわかってないじゃない、とか。恋和歌を読もうとすらしないんだから、相手の気持ちなんてわかりっこないじゃない、とか。
言い返したい、のに。なんで、急に、ちゃんと言えなくなっちゃうの?
「おい、菓子ないか」
「ひえっ」
ふいに頭上から声がして、あたしは思わずすっころびかけた。
「元興お兄様!」
いつの間にか気配もなく背後に立って、大好きな大好きな元興お兄様が、あたしを見下ろしていたのだ。
屋根に頭をぶつけると言われる、長身の元興お兄様は、あたしの後ろに立つと頭が胸にくる。
青龍門である陰陽寮の内、唯一の武人たる太刀衆でも、飛び抜けた刀の腕前で、体をすっごく鍛えているから、見下ろされるとお兄様の陰に入ってしまう。
顔立ちも引き締まっているものだから、よく朱雀門の所属と間違われてる。
陰陽寮の中でも、鬼と直接戦う太刀衆。お兄様は、青龍門唯一の武人集団に所属しているのだ。深緋色の狩衣で、烏帽子は青龍門でありながら、朱雀門と同じく、動きやすいよう後ろを巻き上げた巻纓冠。
そして腰には太刀衆の名の通り、太刀【鏡花】を下げている。飾らないしつらえの【鏡花】は、見るからに実用のための太刀だ。
そんな見るからにたくましくてかっこいい人なのに、元興お兄様は甘い物に目がなくて、ちょくちょく我が家にお菓子を食べにくるのだ。
「元興様、またお菓子をたかりにいらしたのですか」
お姉様っ、言い方!
「おう。お方様に聞いたら、白乃がある分全部持ってった、とおっしゃったんでな。たかりにきたんだが、姉妹げんか中か」
元興お兄様に、はしたないところを見られちゃったわ……。
ショックを受けるあたしの頭に、元興お兄様はぽんと手を置き、琴子お姉様に向かって言う。
「白乃はまだ子どもだ。あまり本気になるな」
元興お兄様、かばってくださるのはうれしいのだけど……。
「あたしは子どもじゃありません」
同い年の子には、もう縁談だってきてるのよ。それをいつまでも子どもあつかいして、今だってふくらませたあたしのほっぺを無遠慮につついて。
「子どもだ。子どもなんだから大人に菓子をくれ」
と言った。
あたしはむくれながら
「あたしの部屋にあります」
と答える。
「ん。取りに行く」
え、元興お兄様と部屋で二人っきり!?
一転してドキドキ嬉しくなっちゃった心臓をかくして、あたしはお兄様を自室に先導した。
「こちらです」
と、言っても、お兄様にとっては案内なんていらない、子どものころから慣れしたしんだ屋敷なんだけど……。
つんとした態度で、自分の部屋に取り澄まして残ったお姉様に、心の中であっかんべをして、元興お兄様を自分の部屋に連れて行く。
御菓子司の我が家は、御菓子や材料を保管したり、菓子職人が試作するための厨があるため、中級貴族にしては広い屋敷だ。
琴子お姉様の部屋は東の端。あたしの部屋は西の端にあるため、ちょっとだけ離れている。
自室に戻ると、恋和歌に使った筆が出しっぱなしにしてあって、あたしはあわててお兄様に見られないよう片付けた。
「恋和歌か」
見られないわけがなかったけど。お兄様はいつも通り表情に出さずに問う。
「ち、ちがうの! あたしが送るヤツじゃなくて!」
お兄様は納得したように腕を組んだ。
「けんかの原因はそれか。琴子への恋和歌を代書したわけだ」
「ちがうわ!」
あたしは反射的に、お兄様に大声を上げた。
恋和歌の代書風景、平安風ファンタジーしてます。モノノ怪やスタジオSARUの平家物語、犬王などを参考にしました。
毎週月・水・金曜日更新。次回は7月30日です。 ブクマ・評価などありがとうございます。今回もよろしくお願いいたします!




