六章 「普通」になれない
元興お兄様の手が、お姉様からの文に触れ、あたしの手もまだ、おなじようにお姉様からの文に触れている間に、あたしはお兄様に告げた。
「琴子お姉様からの恋和歌よ」
元興お兄様は、黙って受け取った。
あたしの心臓が、砕け散るのを待って、ドクドクドクドク、爆発寸前みたいに高鳴った。
ドクドクドクドク。
ドクドクドクドク。
「恋和歌じゃないわよ、それ」
破裂寸前の実に、ぷすっと穴を開けるように、琴子お姉様の声がかかった。
「え」
砕け散る寸前だったあたしは、「え」と言ったきり固まった。
元興お兄様が、さっと琴子お姉様の文を取り、開く。
「青龍門の書庫から貸し出し希望の、漢詩の書及び研究書一覧表、だな」
元興お兄様が、内容を声に出して読んだときの、あたしの気持ちわかる!?
今すぐ床に穴掘って、永遠に隠れ住んでいたいと思ったわ、マジで。
だって、だって、お姉様と一緒に恋和歌を渡したら、本気を出し切った上で砕け散れる。
その時のあたしは、きっときれいだって。
願って念じて、本気になって、本気で恋和歌をやりきったのよ!?
本気で……、朝から晩まで、一瞬も途切れることなく、恋和歌のことを考えて、試作して、考えて、試作して、ずーと、とことんくり返して、やりきった、のは、全部。
「楽しかったか?」
元興お兄様の問いに、あたしはコクンとうなずいた。
「楽しかった」
朝から晩まで悩みまくって、恋和歌以外のことを考える余裕もなくて、七転八倒する日々は、本気になるのは、楽しかった。
「元興お兄様、あたし、もっと、恋和歌をやりたい」
恋和歌は恋する相手に送るものだ。
相手がいなければ、恋和歌はやれない。
でも、あたし、こんなに楽しいこと、やめたくないよ。続けたいよ。
お兄様の気持ちがわかったよ。
お姉様の気持ちもわかったよ。
特別な人たちの気持ちがわかった。
楽しいからやめられないだけなんだ。
なんにも特別じゃないあたしだけど、楽しいのがわかっちゃったら、もう、もっとやりたくってたまんないよ。
「やりたいか。なら、俺に送れ」
お兄様が告げた一言に、あたしは目を見開いた。
お兄様は、強くなるのに夢中になり続けた手を、あたしの頭にポンと置いた。
「え……?」
あたしはポカンと、間抜けな声を上げた。
元興お兄様は、あたしの頭に手を置いたまま言った。
「お前は恋和歌を作り続けて、俺に送れ」
元興お兄様の口角がわずかに上がって、顔がすごく赤くなっている。
あたしの顔は、もう、りんごより真っ赤になっちゃってる。
「なんで、お兄様、あたしの恋和歌じゃ、あたしを好きにならなかったって」
一所懸命に問いただすと、元興お兄様は一瞬視線をそらし、そして、軽く息を吸って、言った。
「恋和歌では好きにならなかった。お前を、ずっと前から好きだったからだ」
え、ええええええええええええ!?
心の中で叫んだけど、実際のあたしは、言葉を出せずに口をパクパクさせただけ。
「春日野様が、俺を琴子の婿に、と言ったのを覚えているか?」
あたしはまだ言葉も出ず、ただただうなずく。
「あのとき、琴子が迷惑そうに、冗談だとわかっててきとうに流していたにも関わらず、お前は、必死になって叫んでくれた」
『ダメ! お兄様はあたしと結婚するの!
お父様、お姉様、元興お兄様をあたしにちょうだい!
そうじゃなきゃ絶対いや! 元興お兄様じゃなきゃいや!
元興お兄様と一生一緒にいるの! お兄様はもう帰っちゃダメーーーッ!』
そう。あの五歳の夜。あたしは泣いて駄々をこねて、元興お兄様を無理矢理うちの屋敷に、一晩泊めさせたんだった。
「俺はお前が、『お兄様』と呼んでくれるだけで、充分すぎると思っていたのに」
あたしは、驚いて聞き返す。
「お兄様は、お兄様よ? それがなんで」
あたしは途中で言葉を切った、うっすらと、お兄様の抱えていた気持ちに気づいたから。
「手向山の家では、俺は家族としてあつかわれなかった。家に住んでいる異物だったんだ。
俺はずっと、家族がほしかった。
春日野家の人たちはやさしい。だが、春日野家の人たちも、本当はよその人間だと、俺はよく知っていた。
母が生きている間に、ずっとずっと言い聞かせられたからだ。
『春日野のお家に対するご恩は、生涯忘れてはなりませんよ。春日野のお家のご温情がなければ、我々は野垂れ死ぬしかない身だったのですよ』
母の教えはまっとうだと思う。
だが、俺は、春日野の家の一員には、絶対なれないとずっと思い知っていたんだ。
それなのに、赤子のお前は、俺を「お兄様」と呼んでくれた。
家族になれないとはわかっていても、お前が「お兄様」と呼んでくれるたびに、家族になれた気分になれた。
充分だと思っていた。
だが、お前は、俺と結婚すると言ってくれた。
俺に夢ができてしまった。
いつか、春日野の家の婿になる夢が。
お前はたった五歳だった。だから、最初は、春日野の家族になりたいだけだったんだ。
どうせ大きくなれば、お前は忘れてしまうと、夢をあきらめるよう言い聞かせた。
それなのに、お前は九年の間、ずっと俺を好きでいてくれた。
俺を「お兄様」と呼び続けてくれた」
初めて、お兄様が長く話してくれた。でも、あたしは、反論せずにいられなかった。
「それは、普通のことよ」
小さいころから仲良しの、年上の男の人を「お兄様」と呼ぶのも、その人が「特別」な人ならずっと好きでいるのも、ぜんぜん普通の、平凡な、つまんないこと。
「俺は普通にできないんだ!」
お兄様が、唐突に大きな声を出した。
すぐに、しまった、と口を押さえ、あたしの頭から右手をどけて、ちょっと逡巡して、両手をあたしの肩に置いた。
「強くなるのは楽しい。でも、俺は、強くなる以外に何もできない。「普通」に笑ったり、「普通」に世間話をしたり、「普通」に周囲に溶け込めない。
どこにいても「普通」じゃなく「異物」で、それでも、どうしても、強くなり続けるのをやめられない」
あたしに話し続けるお兄様の声が、どんどん小さくなっていく。
「お前が、恋和歌で、よくない方向に行っているかもしれないと思っていた。
だが、「普通」でいるためには、必要なことをしているだけかもしれないとも、思った。
お前はちゃんと「普通」でいられるから、「普通」にできない俺には判断ができなかった。
「普通」、でいるために必要なことをやめろと言って、ちゃんと「普通」にできないと、お前に嫌われたくなかった。
家族になりたかっただけなのに、いつの間にか、好きになってしまったんだ。
お前が九年も俺を好きでいてくれたから、いつの間にか、家族じゃなく恋人になりたくなってしまった。
それで、結局、俺は、お前がよくない方向に向かってるとわかったら、命を賭してお前を守ると決めて、つまり、逃げた」
お兄様は、あたしと目を合わせて、それから、あたしの後ろのお姉様に目を合わせて、肩に手を置いたまま、頭を下げた。
「すまん。俺がもっと早く、白乃を止めていれば、危険な目に遭わせはしなかった」
あたしの胸が、ズキズキと痛みと愛しさを同時に訴えた。
あたしはお兄様の手を取った。
「あやまらないで、お兄様。全部あたしのせいなの。ごめんなさい、お兄様、お姉様。
それに、怖かったのはあたしも同じ。お兄様に嫌われるのが、あたしもずっと怖かったわ」
手に取ったお兄様の手を、あたしは自分の頬に寄せた。
「「普通」になんかならないで。「特別」なお兄様が大好きよ。強くなるため、高みを目指し続けるお兄様は、キラキラし光ってとてもきれい。
あたしは普通の人間だけど、特別なお兄様が楽しそうだから、本気になってみようと思ったの。
本気になるって、楽しいね。
あたしもがんばり続けたい。
お兄様のおかげで、つまんない人間じゃなくなったの。
送るよ、恋和歌。あたし、一生お兄様に、恋和歌を送り続けるよ」
あたしは、お兄様の手を握ったまま、お姉様を振り返ってあやまった。
「お姉様、ずっとずっとごめんなさい。あたし、お姉様に、迷惑ばっかりかけたわね」
琴子お姉様は、ふうっとため息を吐いた。
「本当に迷惑だったけど、どうせ私は斎宮の巫女になるのだし。餞別代わりに許してあげるわ」
京で一番の美人は、ため息を吐き終わるとちょっと笑った。
あたしは、今ならお姉様は教えてくれるかもって、聞いてみた。
「お姉様、なんで送られた恋和歌を、一通たりとも読まなかったの? あたしの代書じゃないのもあったでしょ」
琴子お姉様は、え? わざわざ聞く? みたいな顔をした。
「めんどうくさかったから」
「えええええええええええええ!?」
今度こそ、あたしは特大の大声を出した。
だってだって、そんなんある!? めんどうくさかったからって、ある!? 恋だよ!? 恋愛だよ!? 愛されてるんだよ!?
「あのね、白乃、恋和歌を読んでしまったら、返事を書かなくちゃいけないのよ」
「当たり前だよ!?」
「返事を書いたら、なんでフったんだって恨み言を言われたり、まだ好きなんですがってしつこく恋和歌を送られたり、周囲に傲慢女って悪口言ってまわられたりするのよ」
「それは……あるね」
うっすらと、また、あたしのカンが働き始めた。
「お姉様って、愛される喜びとか、もしかしたら恋人ができるかもってときめきより、フったときのめんどうくささが勝るの?」
「ちがうわ」
お姉様は、きっぱりとあたしの言葉を否定した。
「誰かに恋心を抱かれても、喜びやときめきなんてまったく感じない」
続いて断言した。
「興味がないことには、私の関心はゼロになるから」
あたしは鬼との戦闘で、めちゃめちゃになった室内に、女性の部屋に必ずあるものがないのに気づき、おそるおそるお姉様に聞いた。
「お姉様が興味ないのって、恋愛に、だよね?」
そうよ、と答えてほしい願いを、あっさりとお姉様は打ち砕いた。
「漢詩以外、森羅万象の九分九厘に興味がないわね」
「あ……ああああ……。やっぱり……」
京で一番の美女と謳われ、京中の男が恋をすると噂される、憧れの的たる特別な彼女の室内には、鏡がおかれていなかった。
なんで今まで気づかなかったのってみんなビックリするわよね?
お姉様が誰かに鏡を借りているのを、一度も見たことなかったからよ。
だから、自分で持ってるんだろうって思いこんじゃってたのよ。
だってだってまさか、京で一番の美女がよ?
誰もに褒めそやされる顔の持ち主がよ?
自分の顔に興味がないから、鏡を見ないなんて信じられる?
信じるしかないのよ。現実よ。リアルよ。
自分の顔にすら興味がないのに、恋愛なんて細かい人間関係に興味関心なんか、持つわけない。
「琴子を見ていると、余計に白乃に惹かれる……」
お兄様もお兄様で、マジで会話能力ゼロだし!
「私だって、白乃が元興様みたいな社会不適合者に早く飽きますようにって、九年祈り続けたのだからね!」
言い返すお姉様と、言い返す言葉が思いつけないでいるお兄様を見て、しみじみとあたしは理解した。
特別な人同士って、惹かれるどころか相性最悪じゃん……。
お兄様がかなり長く考えて、やっとお姉様に言い返す。
「お前は『小倉百人』を一首すら、恋和歌を作れなかった。俺は一首だけできた」
憧れの琴子お姉様は、恋和歌の基礎もできない。鈴子が聞いたらどう思うかな。
「って待って、お兄様一首作ったの!? それってあたし宛て!? まだある!? ちょうだい!」
「特別」って思われている人間って、「普通」にできない社会不適合者だったりするんです(しみじみ)。明日は最終回です。20時ごろ更新。ラストのブクマ、評価応援よろしくお願いします! いつもありがとうございます。




