五章 手向山元興という男
元興お兄様とお姉様は乳兄弟で、お姉様の乳母が元興お兄様のお母様だと、聞いたことはある。
でも、あたしが生まれてすぐに、元興お兄様のお母様は亡くなっていて。あたしの乳母は別の乳母だ。
なぜ、元興お兄様のお母様が、乳母としてうちに仕えていたのか。手向山家は、うちと身分は変わらないにも関わらず。
くわしい事情は、知らない。
「元興様はね、手向山様が平民の女性に生ませた子どもなのよ」
お姉様が、あたしの顔を見ながら、語り出した。
「平民!?」
平民との間に子どもをもうけるなんて、貴族社会最大のタブーだ。
あたしが知らないわけだ。きっとあたしだけではなく、周囲のほとんどの人が知らない。
とんでもないスキャンダルだ。
「ええ。でも、手向山家には男の子がいなかったから、北の方様が産んだ設定で通そうとしたの」
「そんなの……」
元興お兄様のお母様も、正妻の北の方様も、両方、気持ちをないがしろにされている。
「ええ。北の方様はひどくお怒りになって、子どもも母親も殺してやるって、まあ、すさまじい荒れ方をなさったそうよ。
それで、ほとぼりが冷めるまで、元興様とお母様は、乳母としてうちに仕えることになったの。お父様が預かったに近いわね」
なんとなく、想像がつく。お人好しのお父様には、母子をほうっておけなかったのだろう。
「それで、元興様とお母様は、あなたが赤ん坊のころまで、うちで暮らしてらしたのね。でも、お母様はあなたが産まれてすぐ、病でみまかられたの」
「それで、お兄様は」
「手向山家の家に長男として引き取られた――。でも、元興様が引き取られた後で、北の方様に男の子がお生まれになって」
その人の話なら、聞いた。
あたしと同い年の男性で、ちょっと奇妙に思っていた。
なんで弟様は、元興お兄様みたいに、我が家に遊びにいらっしゃらないのかなって。
なんでかわかった。
弟様は、手向山家の「ほんとうの長男」として、我が家とは縁を持ちたくなかったんだ。
「元興様は、手向山のお家に居場所がなくて、うちの屋敷に入りびたっていたのよ」
そんなこと、元興お兄様は、あたしに一言も教えてくれなかった。
わかってるよ。子どもには話せない秘密だもん。
わかってる、けど、さ。
琴子お姉様は、知ってたんだよね。
「私たち、兄妹みたいに育ったでしょ。ほら、うんと小さい頃に、お父様が元興様におっしゃったの、覚えてる? ほら、お月見の夜よ。お父様が月見酒に酔っ払ってしまった日」
『大人になったら、琴子の婿になるといい』
あたしは、小さい声でうなずいた。
「覚えてるよ」
琴子お姉様は、開いていた漢詩の本をまた開き、間から、紙を取り出した。
真っ白い和紙は封がされていて、文の形を取っている。
「白乃、元興様に、お使いをたのまれてくれない? あたしから直接、あなた以外を使いにやるには……ちょっと、この前のあれが……」
琴子お姉様は、白い文をあたしに手渡してきた。気まずそうに、目をそらしながら。
きっと、この文は、恋和歌だ。
元興お兄様に、琴子お姉様は、別れる前に思いを伝えるんだ。
だって、琴子お姉様と元興お兄様は、ずっと一緒に生きてきたんだもの。
だいじょうぶだよ、恋和歌を渡したって、お姉様はすぐに斎宮の巫女になるんだから。
だいじょうぶだよ、別れるさだめの二人の恋なら、仲立ちしたって。
だいじょうぶだよ、あたしの恋をあきらめなくても、だいじょうぶ。
「うん。わかったよ、お姉様」
※※※
両親や使用人の目を盗んで、あたしは屋敷を抜け出した。
手向山家のお屋敷はすぐ近くだ。正午になる前に家に帰れる。
代々朱雀門の役職についている手向山家は、屋敷の造りもどこかいかめしい。
門からすぐに見えるのは、花や木でなく、弓や太刀の鍛錬場所だ。
弓の稽古に使う的や、刀の稽古に使う巻き藁のための台が、あちこちにしつらえてある。
鍛錬場所に、元興お兄様はいた。
上半身の着物を脱いで、木刀で素振りをしている。
お兄様の裸の上半身は、筋肉で盛り上がっていた。
両腕も胸も筋肉で隆起し、腹部の隆起は六つあった。
胸が隆起した結果、腰がくびれていた。
鍛え抜かれた武人の体。
深い溝のようになったお兄様のおへそに、汗がたまって、落ちた。
お兄様の足下の土は、お兄様自身が流した汗で、じっとりと濡れていた。
肉体そのものを、一振りの刃のように鍛え上げたお兄様は。
きれいだった。
「白乃か」
「ひゃっひゃいっ!」
いきなりお兄様に声をかけられて、びっくりして、しゃっくりみたいな返事をしてしまった。
お兄様は木刀を右手に持って、右手を脱力してだらりとたらしている。
唐突にお兄様の、汗のにおいを感じた。心臓が高鳴った。
「お兄様」
お兄様のおへそを見ながら、あたしは、ぽつりと聞いた。
「そんなにがんばらなくちゃいけなくて、つらくはない?」
「がんばらなくちゃいけなくて?」
お兄様は怪訝そうに、あたしの言葉をオウム返しする。
代々朱雀門のお役目たる、手向山家。
体を鍛え、強くなることは、当然のように求められるだろう。
でも、強くなることを求められるのに、元興お兄様は、手向山家の一員と認められない。
がんばっても、がんばっても、いくらがんばらされたところで、認められることは決してない。
誰にも認められない努力なんて、つらいに決まって――。
「つらくはないな」
あたしの思考が、お兄様によって吹っ切られた。
お兄様は太刀を握り慣れた太い指をあごにあて、もう一度言った。
「つらくはない」
あたしのキョトンとした顔を見て、お兄様は一瞬いぶかしげな顔をした後、しばらく考え、それから説明を始めた。
「俺にとって強くなるということは、山登りと同じだ」
「山登り?」
あたしが聞き返すのに、お兄様はうなずき、続ける。
「頂上がない山の、頂上を目指し続けての山登りだ」
頂上がないのに、頂上を目指し続ける?
そんなのつらいだけじゃない、とは、あたしには言えなかった。
お兄様の瞳が、キラキラと輝いていたから。
「ずっと頂上を目指して登り続けられるのは、楽しいだろう」
元興お兄様は、心から話していた。
誰かに認められるとか、強くなったための何かを得るとか、お兄様には興味がないんだ。
ただ、強くなることそのものが、楽しいんだ。
どうして忘れちゃってたんだろう。
あたし、そんなお兄様だから、好きになったんだった。
高みを目指しつつけるお兄様の姿は、キラキラして、きれいで、純粋な楽しさだけがあったから。
楽しそうなお兄様がまぶしくて、だからあたしも、何かに本気になってみたくて、本気で高みを目指す楽しさを感じたくて、だから、恋和歌を始めたんだった。
それなのに、いつの間にか、周りに認められることばかり求めるようになって。
高みを、上を見るのをやめて、基礎しかやってないくせに、誰にも負けない、なんていい気になって。
つまんない人間になっちゃった。
「白乃、何の用だったんだ?」
お兄様が、思い出したようにあたしに問う。
北風が、お兄様の言葉と一緒に、あたしの心にはりついたベトベトを洗った。
「お兄様に、お礼を言いに来ただけです」
元興お兄様は、ああ、と思い出したように言う。
「別にたいしたことじゃない」
あたしはきっぱりと否定する。
「たいしたことだよ」
そして、深く頭を下げた。
「助けてくれてありがとうございました」
顔を上げたあたしは、くるりとお兄様に背を向けた。
「またね、お兄様」
琴子お姉様の恋和歌は、まだあたしの袂にかくしてある。
あたしも恋和歌を作ろう。
あたし自身の、恋和歌を作ろう。
琴子お姉様の恋和歌と一緒に、あたし自身の恋和歌を、元興お兄様にわたそう。
わたして、きれいに砕け散ろう。
琴子お姉様と元興お兄様は、似たもの同士だ。
二人とも、好きなことを、高みを目指し続ける人だ。
同じ輝きをもった、特別な人たちだ。
あたしはつまんない人間だ。高みを目指し続ける人にあこがれて、同じように特別になりたかっただけの、つまんない人間。
特別な人たちは、他人から特別と思われてるかどうかなんて、興味がないのにも気づかなかった人間。
そんなつまんない人間と、特別な似たものが、同時に恋心を伝えたら、特別な似たものを選ぶに決まってる。
それがいいの。
あたしは初めて、言い訳をしないで、本気でやりたいの。
本気でやって、その上で砕け散る瞬間のあたしだけは、きっと、キラキラきれいだから。
元興お兄様の出生の秘密。そして、鍛えることが手段でなく目的たること。(楽しいからな♪)
さあ、春日野白乃も本気になりました! 応援お願いします!
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