五章 お姉様の激怒と幸せと
お兄様に屋敷に送ってもらったあたしは、びっくりして尻もちををついた。
使用人や、お菓子よりあたしに甘い両親を押しのけて、いつもすました琴子お姉様が、裸足で飛び出してきたからである。
「バカッ! どこで何やってたのよ!?」
お姉様に、息せき切って大声で叱りつけられて、ようやくあたしは、心からお姉様に
「ごめんなさい」
と言えたのだった。
あたしの「ごめんなさい」を聞いたお姉様は、一瞬ぎゅっとくちびるをかんだ。
泣くまいとこらえたのだ。
そして、矢継ぎ早に、夕暮れの玄関口で、あたしに向かってまくし立てた。
「みんなに心配かけて! どれだけ心配したと思ってるの! この先この家には、アンタしか娘はいなくなるのよ!」
そして大声で叫んだ。
「富勢からじゃ、あなたになんにもしてあげられないのよ!」
門で怒鳴り続けるお姉様を、お父様もお母様も止めなかった。
あたしたちに必要な怒鳴り声だと、二人はしっかりわかっていたのだ。
あたしはお姉様に向かって、もう一度頭を下げた。
「心配かけてごめんなさい。恋和歌のこともごめんなさい」
「今は恋和歌なんてどうだっていいッ!」
お姉様の大声が、再び響いた。
「何やってたの、衣はボロボロだし、髪は焦げてるし、足は血だらけだし、どうしちゃったのよ……。危ない真似をしたんでしょ……」
お姉様の声のトーンが、少し和らぎ、訴えるようにあたしに何があったか問い詰める。
答えていいだろうか。鈴子があたしたちを殺そうとしたなんて、鈴子が悪く思われるに決まってる。
あたしはお兄様をそっと振り返った。お兄様はあたし意をくんでうなずき、お姉様の前に立った。
「すまん。俺の仕事に巻き込んだ」
バチーンッ。
お兄様が頭を下げた瞬間、お姉様の平手打ちがお兄様に飛んだ。
これにはあたしも、さすがの両親や使用人も、ぎょっとしてお姉様を止めにかかった。
「お姉様、ちがうの。あたしが元興お兄様の、えっと、お仕事の場に無理矢理居座っただけなの!」
お姉様の袿の裾を引いて、必死に訴えるあたしに、元興お兄様の頬を張り飛ばした姿勢のままのお姉様は、低い声で言う。
「だまりなさい、白乃。コイツには体に教えこんでやるしかないわ」
めずらしく元興お兄様もぎょっとして、ぶたれた左頬をおさえている。しかし、お姉様を止める様子はない。
お兄様、罪をすべて引き受けるつもりだわ!
あわてたあたしは、必死にお姉様の袿にすがりついた。
「待ってお姉様、ぶつならあたしをぶって」
お姉様の反対側の袿をつかみ、お父様もお姉様をなだめる。
「白乃をなぐるなんてやりすぎだぞ。なぐるならこの父をなぐれ」
琴子お姉様は、あたしとお父様を引き剥がそうと、大声を出す。
「放しなさい! このウドの大木が、あたしの大事な妹を、よくもあぶない目にあわせたわね!」
「お姉様、ごめんなさい、悪いのはあたしなの!」
事情が話せないばっかりに、お姉様の怒りが鎮まらない。元興お兄様は何も言わないで、お姉様にまたひっぱたかれるのを待っている。
どうしよう! と、お姉様にすがりつき続けるあたしたちの前、琴子お姉様と元興お兄様の間に、スッと音もなくお母様が割って入った。
「元興殿。戦いにはお勝ちになりましたか」
あたしたちにはお母様の背中しか見えないが、元興お兄様の顔が、スーッと青くなっていく。
「はい。白乃の助けによって、勝ちました」
「ならば結構。おつとめご苦労様でした」
「はい……」
え、お兄様、敬語がひきつってるんだけど。まさか、お母様に怯えてるの?
いや、あたしたちも三人とも、お母様の静かなお言葉に、静まりかえってるんだけど。
「しかし、荒事はあくまでも、あなたのお役目にございます。ゆめゆめお忘れございませんよう」
「はい。この度は大事な姫様を危険な目にあわせ、たいへん申し訳ありませんでした」
大事な姫様!? お兄様の口から初めてのワードが出たよ!?
「お上からたまわったお役目ですから、いろいろご報告することもございましょう。今から向かわれれば、今日中にご報告がお済みになりますかと」
「はい……できます……」
お兄様の顔が、ドンドン青くなっていく。お母様の口調は、冷え冷えと静かなままで、周囲に吹雪が吹き荒れているような錯覚を覚える。
「大事なお役目でございますから、わたくしどもには教えられぬこともございましょう。ご報告の際に、あますことなく、つまびらかに、何があったかを、ご報告なさってくださいませ。では、長々とお引き留めして申し訳ございません。ご武運長久を祈ります」
お母様から、最後の凍てつくようなセリフが発せられ、ゆっくりと一礼をする。
お兄様は一瞬で頭を下げて、
「こちらこそ申し訳ありません。今すぐ陰陽寮に戻ります」
とあせった口調で言って、一瞬で消えた。
走って陰陽寮に向かったんだな、と、お兄様の全力ダッシュを体験したあたしはわかった。
お母様はくるりとこちらに向き直り、告げる。
「あなたたち、いつまでも玄関先でさわいでは、ご近所にみっともないですよ。さっさと夕餉をいただきましょう」
あたしたち三人は固まったまま、使用人も一緒に、お母様にそろって。
「はい……」
と返事をする。
お母様は続けてあたしにだけ告げた。
「白乃、夕餉の後でお話があります」
あたしも真っ青に青ざめながら、お母様に力なく
「はい……」
と答えた。
春日野雪乃。
若いころはお姉様そっくりの、細身クールビューティーで。
しかし、お母様が若くて痩せていたころの二つ名は、京の雪女であった――。
※※※
「琴子お姉様、入ってもいい?」
朝餉の後、お姉様の部屋に向かい、几帳越しに声をかける。
「いいわよ」
お姉様の、昨日のブチギレはどこにいったと言いたくなるような、落ち着いた返事にホッとして、あたしは几帳を上げて部屋に入った。
お姉様の部屋は、漢詩の書と紙でいっぱいで、京一番の美女の部屋にはとても見えない。青龍門の学者の部屋みたいだ。
お姉様はあたしに背を向けたまま、漢詩の本をじっと読んでいた。
いつも涼しげなお姉様の目元は、漢詩を読んでいるときはキラキラ輝いている。
あたしはその背に向かって、もう一度謝った。
「ごめんなさい、恋和歌の代書なんてして、困らせて」
お姉様の袿が衣擦れの音を立て、彼女はあたしの方を向いて座り直した。
「いえ、私もちょっと、言い方がきつかったわよね」
姉妹は、どちらともなく、ふ、とくちびるをゆるめた。
「だいじょうぶ? すごいクマだけど。目の下に墨を塗ったみたいよ」
「お母様が一晩中、寝ずのお説教だったの」
「うふふ、ふくわらいみたい」
「お姉様、言いすぎ!」
徹夜のだるさを、仲直りできた安心感が洗い流していく。あたしはまだ笑っている、お姉様の手元の漢詩をのぞきこんだ。
「お姉様は富勢で漢詩を極めるおつもりなの?」
女は学者にはなれない。しかし、斎宮の巫女は、女が富勢の神宮において、学問に専念できる唯一の道だ。
お姉様は、キラキラした目のまま答えた。
「学ぶことは、極めるなんてできないの」
「できない?」
望みが叶わない話をしているのに、お姉様の目はいっそう輝く。
「そう。学べば学ぶほど、わからないことが増えていくのよ。だから、一生かかっても、極めるなんてできないわ。だから、一生学び続けるの」
「そうなんだ」
「そうよ」
「お姉様、幸せそうだね」
「幸せよ。たぶん、私は京で一番幸せな女」
自分を京で一番幸せだと言い切るお姉様は、京で一番の美女と他者に言われている姿より、何倍もきれいで。
あたしは、うらやましかった。
「……幸せだから。ちょっと落ち着いて考えたら、やりすぎたような気もするのよね」
お姉様がいつもと違って、ちょっと気まずそうな口調で言うので、あたしはすぐにピンときた。
「元興お兄様をひっぱたいたこと?」
「ええ……」
すごいブチギレ方だったもんな……。お兄様、あたしをかばってくれたのに。
あたしをかばったせいで。
「元興様がうちに一緒に住んでいたころのこと、覚えてる?」
ふいにお姉様が切り出した話に、あたしは首を横に振る。
「覚えてないよ。生まれたばっかりのころだもん」
琴子お姉様も妹がかなりかわいい。妹の想い人たる元興お兄様にビンタするぐらいかわいい。そして漢詩オタクなので、結婚より漢詩に生きます(ウッキウキ)でした。
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