偽父娘と義兄妹
闘神は黒髪を長く、細かく三つ編みにし、滝のように背中に流していた。
黒い瞳を縁取る陰りのある目元は俯き加減で、王都の城ですれ違う人々と視線を交わす事もなく、速足で歩く姿は声をかけられる事を拒否しているかのようだ。
冷たい大理石の広い廊下は、窓から射しこむ厳しい夏の光を冷まし、室内をひんやりと保っていた。闘神は目的の部屋の前まで来ると、今までの無表情を保てなくなり、眉根をひそめてその場でしばらく立ち尽くした。
時間をかけて胸の内を漏らさないための仮面を付け直すと、合図もなしに部屋に滑り込んだ。
闘神にはそれが許されていた。いついかなる時でも、会いたい時に会っていい。なんの遠慮も必要なく、2人を隔てるものなど何もありはしない。それが最初からの約束だった。
室内は廊下よりもさらに季節を感じない程過ごしやすい温度に保たれている。居住性に優れた室内に最も大切な人がいる事に、わずかに安堵を感じる。
闘神はその人と国民の為だけに生きる。
異世界からある日突然呼ばれた闘神は最初こそ戸惑ったが、その生き方の虜となった。
誰かを護る事は無上の喜びを闘神に与える。元の世界にいた頃は自分が何者であるか、それさえも曖昧で、何が最上で、何が間違いか、常に自問自答のくり返しの日々を送っていた。それがこちらに来て、己の為すべき事を知らされてからは、憑きものが落ちたように、それらの迷いに近い心の葛藤から解放された。
決して己を捨てたわけではないが、己よりも大事なものがある幸せな日々。
それを与えてくれた人は、先ぶれもなしに訪れた闘神に気付くと、いつものように笑顔を向けてくれた。
この世界に呼ばれたその日と変わらぬ、見ただけで胸の暖かくなる、人柄がにじむような笑顔だ。
闘神は、取り繕ったものでない自然な笑顔で、それに応える事ができた。それを後ろめたく思う気持ちが、心にシミのように黒い点を増やしていく事になるのだが、それに慣れてきた闘神は、心の一部がそのために壊れても最早それを苦痛と感じぬようになっていた。
あなたを護る。
それさえできれば、何もいらない。
例え、それをあなたが望まなくても。
イェシカの港町メンバレスは海からの風を受けて、暑いながらも過ごしやすかったが、海風独特の潮っぽさが、イェシカの闘神を無暗にわくわくさせていた。
「綺麗な海だー!泳ぎたいなーっ!でも、港ってビーチはないんだよね」
そう言いつつも、透明度の高い海を見ると、飛び込みたい気持ちが茉莉の背をバンバン叩いた。
「お気持ちはわかりますが、隠密行動中です。どうか我慢なさってください」
茉莉の隣に立つ中年の男は慌てたように、今にも言葉通り海に飛び込んでしまいそうな自国の闘神に頼み込んだ。
「あい、わかってますって!遊びじゃないんです。我慢します。」
自分の3倍は生きてきたであろう人に対して、ポンポンと気安く肩を叩いて茉莉は応えた。
茉莉は現在このメンバレスで、憲兵隊の数人と共にブロムクヴィスト一族の男と、この港で商売をしていた男についての情報を集めていた。
闘神がこういった細々とした仕事をする事自体前例がなく、憲兵隊では当初茉莉の加勢に遠慮以上に困惑も感じていたが、イェシカ国内の宅配アルバイトをしていた茉莉は、とにかく情報の伝達に時間がかかる事を熟知しており、今回の騒動で後手後手に回っているのは、それも大きな原因のひとつではないかと思っていた。
茉莉としても、闘神の仕事は大きいものであればある程効果があり、小さな問題では、その力をもってすれば、解決も早いかもしれないが、全体として見たとき、為し得る事が少ないと、これまでの闘神教育でよく解ってはいる。
しかし、今回はこの小さな事にこそ、やがて姿を現す大きな問題を解決する鍵が隠されているに違いないと女王共々考えた結果、本末転倒ではあるが、憲兵隊の護衛と情報伝達係をかって出たのだ。
そんな訳で、茉莉は最も危険と考えられるメンバレスの調査に現在同行している。
国民の間で、けっこう噂になっている『マリ様は妖精とセットでよく国内を視察に現れる』というほぼ事実を逆手にとって『妖精とセットでなければ闘神とばれないんじゃね?』的な理由で、今回知識の泉・灯明妖精リリーちゃんは泣く泣くお留守番だ。
地味な旅人とその娘に扮した憲兵隊員と茉莉は、行方不明になった商人と時間差はあるものの、不審な失踪をとげた男がいるとの情報を得て、その男の住んでいた部屋に出向いていた。
「この部屋の大家は、元々ギーという情報屋については快く思っていなかったらしいのですが、あまりに突然失踪したので、まだ他の店子を置かずにそのままにしているそうです」
「そう…ずいぶん散らかっているけど、あわてて旅支度をしたにしては年季の入った汚れっぷりよね?」
積み重なる生活の跡があるので、一朝一夕でこの散らかり具合になったとは思えないし、誰かに荒らされたようにも見えない。
「ギーと最後に話したと思われる人物が、失踪した商人の兄で、ギーの失踪をこの部屋の大家に知らせたのもその男なのですが、本人は手堅い商売を営んでおり、何も疑わしい所がなく、ギーとの接触も、弟の悪い噂をそのギーから聞いたのが気になってとの事らしいので、現在手詰まりの状態です」
「ふーん。その悪い噂って何だったの?」
「誰かが、弟の…行方不明の商人の事を調べ回っていると言ったそうです」
実際その頃、憲兵隊員がその商人について情報を収集していたので、それをギーが察知したのであれば、ただ真実の情報を流しただけで、誰にも何も言わないまま失踪する理由がわからない。
「不審すぎるよね?商人の人の失踪と無関係なわけないって言うか」
「ええ。それに手練ならば、なんらかの証拠を消したい時は、こんな風に不自然に消しません。
我々の追っている相手は、緻密なのに、時々大胆すぎる。わざとこちらに追わせているようにも思えます。なのでこの部屋にまだ何か私達を誘うものが残されているかもしれません」
「……この部屋の家探しって、このゴミっていうか、生活雑貨っていうかをひとつ一つ調べるの?」
「私たちは、遠い故郷から失踪の知らせを聞いて駆けつけたギーの身内という事になっていますので、ここの荷物の目ぼしい物を一旦全部持ち帰って、後は専門家が人海戦術で解析します」
そう言いながら、書付などを見つけては纏めはじめた隊員は、申し訳なさそうに続けて茉莉に頼んできた。
「そこで、マリ様に、ここの荷物を夜になったらこっそり王城の憲兵隊まで届けて頂きたいのですが、よ、よろしいでしょうか?」
なにしろ国の宝、やんごとなき最終兵器の闘神に、使いっぱを頼むので、最後の方は語気が大変弱々しくなってしまった。
「あいさ!まかせて!でも、秘密にしたいなら、ここの片付けも夜にやった方がよくない?」
戸口を閉めているとはいえ、部屋に人が入っているのはカーテンもない窓から丸見えだ。
「部屋の片付けに身内が来たという事実は、もしまだこの辺りに失踪に関わった何者かがいた場合、あえて知らせたいんです……そのために大家にも話はつけてありますしね」
「おおお!情報合戦か~私は苦手なので憲兵隊員さんにおまかせします」
「はい。闘神様のお手を借りる訳ですから、今度という今度こそ、相手方に後れを取るつもりはありません」
「うん!クリスティーナも私も、憲兵隊の皆の仕事を信じてる。
今回私が参加してるのは単なる助手なので、使い方は任せちゃうから、有効にばんばん使ってね」
「は、はいっ!」
闘神の言葉に鯱張って応えた憲兵隊員は、その後、本当に片付けの雑用まで始めた茉莉に恐縮しつつ、さすがの手際で仕事をこなしていった。
夢中で作業を進めていた2人だったが、護衛も兼ねている茉莉は、ほどなくして戸口に人が来た気配に気付いた。
「お父さん、誰か来たみたいよ」
声を大きくしてわざと隊員に喚起する。戸口を指差し人数を知らせる為に二本指を立てて顔の前で見せる。
茉莉の声は戸口で聞き耳を立てていれば、聞こえる程度の大きさだったが、人の気配は去らない。それどころか、ノックまでしてきた。
「ああ、誰かな?ギー伯父さんの知り合いかもしれない。お前ちょっと出ておくれ」
そう言いながら、隊員が戸の影になる場所に音もなく身を寄せたのを合図に、「はあーい」と明るく応えて、茉莉は戸口を開いた。
茉莉が多少緊張して出迎えた相手は、件の商人、ヨーンの兄のサムエルと、若い女性だった。
醸し出す雰囲気で一般人と分かった茉莉と憲兵隊員は先程からの芝居を続行する事になった。
「あのう、もしかしてギー伯父さんのお知り合いですか?」
見るからに異国の少女だが、流暢にイェシカ語を話す上に、知った名前を口にされた事で、違和感を押し流された2人は素直に茉莉に向って頷いてみせた。
「ああ、私はこの港で商売をしてましてね、オズボーン商会のサムエルっていう者なんだが、ここの大家さんにギーさんの身内の人が来てるって聞いてね、
私の弟も行方不明になっましてね、ギーさんと何か関係あるかも知れないと思ってるんですよ。
この娘はその弟の嫁でして、一緒に話を聞くと言って聞かないので連れて来たんです」
それだけ必死なのか、小娘の茉莉にも丁寧に話しかけてくる。
「ええっ?じゃあ弟さんと伯父さんは一緒に行方不明になったんですか?」
相変わらず茉莉の演技はあまり上手ではないが、素人が相手なのでなんとかごまかせているようだ。
憲兵隊員は戸口の陰から不自然にならないように顔を出して茉莉をフォローした。
「おいおい、ジャスミン戸口じゃなんだから、入っていただきなさい。
すみません、娘の気がきかなくて、私ら片付けに来ただけなもんで、お茶も出せませんが、日向で話しするよりはましでしょう。どうぞ、どうぞ」
ジャスミンは茉莉のコードネームだ。もちろん本人がノリノリで命名した。
義兄妹2人は室内に入ると、ざっとこれまでギーと商人失踪のあらましを話してくれた。
憲兵隊の集めた情報と何ら変わった所はなかったが、先方から直接話を聞かせてくれるのだから、願ったりかなったりだ。
「弟はギーさんの半月後にいなくなったんだが、そんな訳で気になってねえ」
「ほう、そうなんですか。私とギーはいとこ同士なんですが、ギーが故郷を出てからは疎遠になってましてねえ、今回も風の便りに何もかも放り出して消えちまったって聞きまして、親族代表で娘と2人後始末に来たわけでして……すみませんねえ、何もお役に立てなくて」
「そうですか……お忙しい所お邪魔してすみませんでした。
何かギーさんからそちらに連絡ありましたら、是非私共にもお知らせください」
納得しつつも意気消沈気味のサムエルが通信代にとそれなりの金を憲兵隊員に握らせて立ち去ろうとしたその時、弟の嫁が初めて口をきいた。
「あの、ギーさんはファーナムへ行っているのかも知れません。
夫もファーナムで行方不明になりましたし、
私達、ファーナムで人を頼んで夫を探してもらってますので、もしもギーさんの情報も入りましたら、お知らせしますので、お住まいを伺ってもよろしいですか?」
それまで一言も口をきかなかったので、大人しい人なのかなと思っていた茉莉は、はきはきした物言いに驚いた。
「はあ、それはありがとうございます。でしたらこれはお返ししておきましょう」
憲兵隊員は実在しているギーの親類の名前と住まいを紙に書き記し手渡すと、握らされた金をサムエルに返そうとした。
「いいんですよ、ここまでの旅費もばかにならなかったでしょう、
こちらに来ていただかなければ、こうやってお話もできませんでしたもの。
これはその足しにしてもらうという事で、そのままお持ちください」
義兄サムエルの金だが、嫁は憲兵隊員の手を止めて返却をやんわり拒否した。
第一印象よりも、ずっとしっかりした女性のようだ。よく見てみれば表情も弱々しい所がなく、むしろこれが商談で、仕事の話をしているかのような私情を感じさせないものだ。
2人の義兄妹が去った後、憲兵隊員は押し戻された金を見ながらつぶやいた。
「あの奥さん、まだまだ新婚で、つい最近長男が生まれたばかりだそうです」
「えっ?それにしては……冷静?」
「まあ、商人の嫁ですから、しっかりしてるのかもしれないですけど、こちらの住まいまで聞くとはね」
茉莉にもなんとなく憲兵隊員の言わんとする所はわかる。
「これは仕事が増えたかもしれませんね」
そう言うと彼は片付け仕事に戻っていった。
茉莉はなんとなく、商人の若妻に対する予想が外れて欲しいなと思った。
ただの夫婦ではない。子供まで生した間柄だ。夫の安否を気遣う心が偽のものだとしたら、それどころかその失踪に関わっているとしたら、遣りきれないではないか。
夜半、月のない星影に紛れて、茉莉は王都テューネまで目ぼしい荷物を運んだ。だが、残念な事にその中から重要な情報は発見される事はないのだが、そのかわり、翌日、取って返したメンバレスで意外な人から情報を得る事になる。
女王の部屋で本日の報告に余念のない茉莉は、まだその事を思いもしないのだった。




